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瞑想.ヨガ.精神世界『宇宙学校』コミュの●「自分の真実は自分のうちがわにしかない」について(3)

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では、先ず、みっちさんの自己観察の自己総括的なブログをご紹介しますね。
 
次は、そのブログの内容です。
 ↓
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『価値観』

2012-06-20 02:08:00NEW !
テーマ:ブログ

前々々回の記事『闘うという意味』のコメントによって、私の中に思考の化学反応が起こる

私が自分と向き合うことをなぜ敢えてブログという公開の場でしてきたかというと、最近ではまさしくこのコメント効果が期待できるからだ

問題について自分の頭の中だけでいくら試行錯誤しながら考えたって、グルグル(@_@)堂々巡りになるだけだ
自分が持ってる価値観によってしか物事を見ることがどうしてもできない

それでもMottoさんのコメントにあったようにthink out loud効果で、記事に書くことで、私の頭の中だけにあった思考が目に見えるようになる分、少しは客観的に考えられるようになるだけマシだった
でも、ただそれだけではまだ自分だけの考えに過ぎない

ここにコメントというものが入って初めて、他者の目から見た感覚が味わえる〜他者の考えを文章に乗せてコメントされることで、一つ一つの物事に対する自分と他人の価値観の違いを垣間見ることができる

どれが合ってるとか間違ってるとかじゃない、単に価値観の違いなのだ

その違いがそれぞれの視点となって、私の記事のどの部分に反応してくるのか予測不可能なので、新鮮だったりする

自分だと、予測がついてしまう〜何かが起きれば無意識にその反応が…その反応をどうにかしようと無意識に価値観が対応する〜それでいつもと同じ結果なら、今度はこうしてみようかと、持ってる札を駆使して解決を試みる
それこそ試行錯誤の末にドツボにはまって打つ手なしなんてことがざらにある

ブログが単なる日記と違うのは、そうやってドツボにはまってでも自分の思考を頭の中から出してさらしてると、他者の反応が返ってくること
〜コメント欄からリアルなご縁が深まっていくのが今は当たり前に起きていて、会って話した時のことがよみがえってウキウキしたり、いつかリアルなご対面を想像してワクワクしたりもする

上野さんはいつもコメント欄にではなくわざわざメッセージでコメントをくれる〜表にあまり出てこないから気づいてる人は少ないだろうけど、多分、一番コンタクトの頻度が高いのは上野さんだ
いつもご配慮、痛み入りますm(__)m

前々々回の記事での気づきはクリシュナさんの自己観察によって、垣間見れたことによる〜私を小3まで暴力で支配したガキ大将への反撃とクリシュナさん自身の反撃…エネルギー的に一緒だと感じた〜私は小3から不条理なことには屈しない精神を持っていたんだ

それなのに、彼女の不条理な態度に、ある意味、屈する立場を敢えて取っているのはなぜ

ガキ大将の場合と彼女の場合の違いは何なの

…出てきたのは『相手に対する感情』だった

ガキ大将のことは大嫌いだった〜暴力で支配するなんて最低だと思っていた…彼女も似たようなものだ…なのに、彼女を大嫌いとは思えない〜その部分は嫌だけど、あとは許容範囲なのだ…良いところもちゃんとあるのだ

元上司の時もそうだ〜否定しきれないものがあるのだ…全否定できないものに私は振り回される…違うな…

少しだけニュアンスを捉えられたのは…クリシュナさんの『自分のステキなところもステキでないところも全部受け入れて』という言葉や、
クリシュナさんなら誤った小さなプライドや嫉妬心、依存心、相手のそれらをぶち壊しても構わないというスタンスで強く相手に伝えるという毅然とした態度は、まさしく『自立』のスタンスで、
それを支えるのはたとえ一時的に縁が切れても縁や出会いの機会は何度もあるので、長〜いスタンスや大局的な視点で相手が成長して下さればいいと考えて、その分のエネルギーをもっとステキなことに振り向けた方がいいという価値観…私にも少しはあるこの価値観…
ないのは自分に対する『愛』であり、相手に対する『愛』だと気づく〜未だ手放せてない『良い』『悪い』の狭間で揺れる習慣〜それは『良い』『悪い』で分けようとする葛藤…そして『私さえ我慢すれば…』という習慣…

いつまで自分を『我慢』させるの

それはあまりに自分に『愛』がない…だから『我慢』という二文字で簡単に自分を黙らせて切り捨てるなんてことができる

他人にも『愛』がない…だから他人も切り捨てる〜この人は『嫌いだから』要らない…と嫌いな人には思ってるんだよね

まわりに愛されない他人が『可哀想』…だから我慢してでも側にいる…どうやらこれが共依存の正体だ

私は愛されてない人たちを理解して愛そうとしてきていた〜私が私を愛してなかったから愛してあげたかった…『私を』
理解してあげたかった…『私を』

私は彼女たちに自分を重ねていた

私に愛されない私が可哀想〜だからまわりの人から愛されない彼女たちが可哀想

理解しようと、愛そうとするのに、決まって彼女たちは私を振り回した…『私が』私を振り回してただけだ〜ちゃんと私を見てよ
私に我慢なんかさせないでよ
これでも嫌いにならない?
受け入れてくれる?

彼女たちは『私』…鏡だ

『私さえ我慢すれば…』そんな価値観を持ち始めたのはいつ

…元カレを受け入れた時からだ…
事実を知った時、絶対別れると思った…でも別れられなかった…それでも好きだという感情が理性を抑え込んだ〜自ら闇に堕ちた瞬間から私は私を赦せなくなった…苦しいのは自分のせい、それが嫌なら別れたらいいだけのこと、呪文のように言い聞かせた

元カノも私も可哀想、二人の狭間で苦悩する元カレも可哀想…元カノの嫌がらせ…同じ立場なのになぜ私に向かってくるかな
怒り…でも元カノも私も本当は愛されてないから可哀想…彼女に怒れない私…私さえ我慢すれば…続く同時進行…気が狂いそうだった

元カノが彼を切り捨て当てつけ婚をしてくれてホッとした…でも当てつけ婚で幸せになるわけがないと想像してしまった…彼女は私の想像通り、離婚して、想像通り、彼を逆恨みし、彼を貶める、あることないことの噂を振り撒いて不幸の花道まっしぐら…彼女が幸せにならなきゃ私たちは幸せにはなれない…想像通り、創造した私は彼と幸せになれるとは思えなかったから、なろうともしなかったよね

ただ、そんな彼と20年近く共依存していただけ…我慢に慣れた〜いつしか我慢は価値観となって潜在意識に刷り込まれて行った〜同時に自己否定も始まった
『愛される』という麻薬に冒されていた〜その実、常に失う不安と闘いながら自分を切り捨てても麻薬が欲しかった

大好きだった元カレ…でも多分神様はこれ以上私に自己否定させたくなかったんだな〜私に自己否定がどれだけ悪いかをわからせる現実をどんどん見せてくれた…その結果、私は過去の過ちと決別するべく、ここ1年ほどで正しい選択をできるようになってきた

自分を否定せずに生きる選択を

物事に『良い』『悪い』をつけてるのは私たち…神様にとっては『良い』も『悪い』もない〜ただ『それ』があるだけだ『その経験』を用意しただけだ神様にとったら『私たちがどんな自分も肯定して受け入れて愛すること』だけが正しい それだけが望みだ

クリシュナさんのコメントからそんなことを気づかせていただいた

上野さんのメッセージに私たちの現実は、監督も主演女優も自分で、脇役に他の方々に登場いただいている『自作自演の映画』だという喩えがあり、
いまいちわかるようでわからなかったのだけれど、今になってやっとわかった気がする

私たちが想像して=映画のシナリオが出来上がり、脇役の悪役の面々が主役の私を困らせる…もし、私が毅然とした態度で悪役の面々にお引き取り願ったら、悪役の面々は二度と登場できないシナリオだ〜再び登場する時は良い役になって帰って来るという祈りに似た想像が現実を創造する〜なんせ監督も私なので、監督の指示通りにしなければやり直しだ

よって出来上がりの映画はいつも七転び八起きのように、困難から何かを必ず掴むサクセスストーリーとなる

その映画の中で思い切り悩んでいい

悩む自分を責めなくていい

『良い』『悪い』で分類しなくていい

『良い』『悪い』の意味がいつかわかっていけばいい

私たちは生きてる限り、現在進行形だ

生きてる間にいろんなことを経験して、味わっていけばいい

『ステキな自分もステキでない自分も全部大好きだよって抱きしめてあげる』by クリシュナ

ステキな彼女もステキでない彼女もあっていい〜ステキでない彼女に不快を感じる自分もあっていい

その反応が私たちが知らないうちに縛られている隠れた価値観を教えてくれる〜そこから自由になることを神様が用意してくれているだけ

それに気づいてもいい、気づかなくてもいい

神様はいつも私たちの味方で優しいから
何度でも気づくまで教え続けてくれる

『〜ねばならない』なんて一切ない

そう思うからって自分を責めなくてもいい
責めてもいい〜最後には神様が絶対教えてくれる〜『責めなくてもいいですよ』

そんなスタンスで、ステキなものにフォーカスできたらもっとステキなことが起きてくる〜ステキなものはステキなものしか呼ばないし、何をステキと思うかは自由だ:*:・( ̄∀ ̄)・:*:

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※『ステキな自分もステキでない自分も全部大好きだよって抱きしめてあげる』by クリシュナ
 
というのは正確ではなくて、
 
わたしにそのことを教えてくださったのは、十数年前にわたしがインターネットを始めたときの最初のメール友達、マリヤさんの転生身さんのお一人が、
当時、「慈悲」は理解できていましたが「愛」についていまいち理解できていなかったわたしに、『愛』について自らの姿勢を示すことを通して教えてくださったときの言葉の1つです。


※次に、上野さんの映画監督の例で、「脳科学のERMの考え方」を上野さんが詳しく解説なさっているので、それをご紹介しますね。
 ↓
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1. ありがとうございます!

渾身の記事、ありがとうございます!

コトがコトなだけに、表で言うのも、と憚られてたんですが、ご本人がこうまで語っていらっしゃるんですから、こちらでお伝えしますね。

ほんとにすばらしいですね。
ほんっとに感動しました。

ちなみに、僕を含め周りの方のコメントも、ぜーんぶみっちさん自身の考え、だと思います。
それが、それぞれの鏡として映し出してくれてるのだ、と。

で、

映画のたとえ、わかりづらくてすみません。

もう十分お分かりになっていらっしゃると思いますが、自分自身中途半端だったので、この場を借りて書かせて下さい。

まず、この現実世界が映画のスクリーンの中の出来事である、と思って下さい。

主演は自分です。

さまざまな問題に直面しながら、いろいろ経験していきます。

そして、映画ですから、この映画を創っている人、というのがいるわけですが、それも自分(のハイヤーセルフ)だということです。

自分が映画監督です。

で、監督としての立場の自分は、これを創りたかったから創ったわけです。

この映画を通して、観たい、知りたい、気づきたい何かがあったから、この映画を創ったわけです。

その「気づきたい何か」は、主演の立場の自分では、気づくことはできません。

主演の立場の自分は、ひたすら演じるだけです。

なので、現実から何かを気づきたいのであれば、監督としての立場から、現実世界を観ましょう、ということなのです。

そうすることで、何でこんな体験をしているのか、という「体験の意味」をひも解くヒントが得られる、と思います。

(1回ではおさまりきらなかったですので、分割します。)


2. ありがとうございます、2(先程の続きです)

まわりくどくなりましたが、みっちさんの場合で言うと、自己否定や自己嫌悪、罪悪感などを知らず知らずのうちに持っていて、
「それらの感情や価値観って、本当に必要なの、持ち続けている意味はあるの?」
ということを検証したくって、この映画を創った、という風に思います。

お母様をはじめ、いろーーーーんな人に自分を否定させるようなシチュエーションを創り、それを検証したかったようです。

これがIRMを極める5つの法則の1番目「すべての現実を創造している自覚を持つ」ということです。

映画監督の立場で観る、ということです。

その立場で観ないと、現実に翻弄されるだけなのです。
翻弄されながら自己観察しても「あいつがやったから」という「やったやられた」の世界にしかならないのです。

で、監督としての自分が、「ああそうかもうわかった。やっぱりこの価値観は必要ないんだ」と思ったら、もうその映画を創る(観る)必要はなくなるわけです。
だってわかりたいことが分かったんですから。
それをわかるためにその映画を創ってたんですから。

そうしたら、次の映画を創ろう、ってなるわけですよね。

それが「オーダー」ということです。

楽しいのをオーダーすれば(創れば)いわけです。

その楽しいのを創るのも、演じるのも、観るのも
自分、ということです。

ーーー

(また入りきりませんでした。次で完了すると思います。)


3. ありがとうございます、3(完了です)

そのまた続きです。すみません。

ーーー

と、こういうことが言いたかったわけです。


偉そうに言ってますけど、上野もまだまだ勉強中です。
本当に、ただただ毎日翻弄されていた人生から、幸田先生からセッションを受けたり、いろいろ教えて頂くことで、こういう風なことが言えるようになりました。
今でも毎日勉強です。


で、

ここまで書いてきたことは、本当は、コメントで(表で)出すべきものではないと思っています。

でも、そのこと自体が、「表と裏はあって当然」
という自分の価値観なのかなと思い、あえてコメントで書かせて頂きました。
(TPOはもちろん大事なことですが。)


不快なところも多々あったのではと思います。
だとしたら申し訳ありませんでした。

いろいろなことが、みっちさんの望む方向にシフトしていきますよう、心よりお祈り申し上げます。

長々お読みくださいまして、、
本当にありがとうございました!!


より高みへ♪ 上野 聡一朗 2012-06-20 08:52:09

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※上野さんの説明と、最初に取り上げたYoShi@左脳系スピリチュアリストさんの解説は、同じ内容を別の切り口で説明なさっているのがわかりますね。

そして、上野さんが、ブログの読者のために、あえて今回はIRMの手法と考え方を、コメント欄で書いてくださった親切に、感謝!ですね。


そして、次は、わたしがこれらの上野さんのコメントも含めた、みっちさんへのコメントを書かせていただいたものです。
 ↓
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4. こんにちは (^-^*)/☆

みっちさんのブログで取り上げられている問題は、
多くの方が抱えていらっしゃる問題であり、
アドバイスなさっている方たち(わたしも含めて)も直面したことがある問題ですよね。
 
だから、その問題に対して、みっちさんが自己観察して解明しながら解決して行かれる詳細なプロセスはみなさんのご参考になるのですよね。
 
●今回の上野さんのコメントは、詳しくて解りやすいですね。
 
それと同じ意味の解説が、

●YoShi@左脳系スピリチュアリストさんの

http://ameblo.jp/0329yoshi/entry-11160071982.html

ですね。
 
●それを魂の構造と仕組みとして体系的に構造的に示したのが、「宇宙学校」向ヶ丘教室での「ヨガの宇宙観」です。
 
その内容をわたしの例として当てはめたのが、「自分の真実は自分の内側にしかない」という『闘うという意味』でのわたしのコメントですね。
 
表現仕方や説明の仕方には違いはあっても、
「自分の真実はすべて自分の中にある」
「自分の外側には真実はなく、自分の中にあるものを照らし出すものや参考意見などである」ということを言っていますよね。
 
(続きます)

5. (続きです)

ところで、
別に「悩む」のも「後悔する」のも、
してはいけない、ということはありません。
 
気が済むまで、悩んだり、後悔しても、いいわけです。それも、経験の仕方の1つなのですから。
 
ただ、
◆悩む・・・・目の前の出来事を切っ掛けとして自分と格闘しているときに心に湧き上がる感情。

◆後悔する・・・・過去の出来事を切っ掛けとして自分と格闘しているときの心に湧き上がる感情。
 
こういうクラ〜イ感情に囚われている間は、

「理知」(判断・決定器官)は正しい判断や優れたアイディアを生み出せる状態とは程遠い状態にあります。
 
だから、さっさとムダな自分との格闘は卒業したほうが、人生がステキで楽しくなるわけです。


あと、自分の自我意識(小我)だけで生きるのもべつに構いませんが、

自分がほんとうは神の子であり、
すっごく親切で全知全能で最も頼りになる神様がいつもそばにいらっしゃることを想い出して、神の国に戻ってくるのを神様は望んでいらっしゃるのです。

神様といっしょに話したり相談したりしながら、この現象世界を常に神様と共にワクワクしながら生きていけるようになったら、
◆この現象界での経験がよりステキになるだけでなく、
◆この現象界から卒業して、神々の世界に次元上昇することになります。
 
ながーくこの世界に留まって体験するのもいいのですが、
◆もっと高次元波動の楽しい世界で体験したり、
◆気が向いたらこの世界にも降りてきて違う体験も楽しんでみる、
といった
体験する世界の幅が多様に広がったほうが、より豊で楽しいですよね。
 
「この世界では、神のように思ったことが直ちに実現する、というわけではない」、
というのも、この世界の観念に囚われた考え方です。
 
現に、「ヒマラヤ聖者の生活探究」にも書かれているように、ヒマラヤ聖者さんたちやイエスさんたちは、それを実際に達成なさり、それを達成できる方法を教えてくださっています。

なぜなら、神様に不可能なことはありませんから、
神の子であるわたしたちにも、論理的にも不可能はないはずだからですよね。

ありがとうございます。
  みんなが神の子:神の子クリシュナ☆(*^-^*)☆
 

みんなが神の子:神の子クリシュナ☆ 2012-06-20 17:39:19

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