ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

 ひとりごとコミュの2005-10-25

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
話をする前に、ベンヤミンの 複製技術時代の芸術 を読んでおいて良かった。あの本を読んで、メディアの発達と大衆化、
そして時代背景としての近代資本主義化が背景として重要だと感じた。
あの時代には、写真やそれに伴う映画、またラジオや無線通信、2つの大きな戦争など、
世の中を発展させる大きな契機を見ることが出来る。
メディアはつまり媒体として、その価値はメディアそれ自体にあるのではなく、その伝える情報に価値がある。
グーテンベルグ以降、情報を伝えるための媒体の手段は様々に発展してきた(グーテンベルグのつくった聖書には、
それ自体で価値があると思うが)。大切なのは、メディアの媒体が何かと言うことではなく、それに乗せて伝わる情報である。
またメディアは情報を流布させるために存在するという必然性に基づけば、大衆に伝われば伝わるとどそのメディアの持つ意味は重要になる(最近のテレビとか)。
芸術の価値を、そのものである一回性とかオリジナルであるということに置くとするならば、メディアを通じで情報として伝わる芸術には価値はない。
しかし、メディアを通じて大衆を啓蒙し、これから来るべき未来の姿を予感させるために芸術を世界に浸透させるのであれば、
それはとても価値のある行為だと思う(私は芸術とは、人並みはずれた感性を持つ人が、彼の感じたある未来の姿を見せるためにあると考えている)。
メディアと大衆と資本主義が結びつくとどうなるか、そこには、大衆からお金をいかに芸術と言うハイな部分(もしくは芸術いう名前の免罪符)より導くか、
という構図が見て取れる(まぬけな人たちは、お金を使えば芸術を手中に収めることが出来ると思っており、
だから地方の田舎の市町村に行けばいくほどなんとか美術館とかトリエンナーレとかやりたがるんだよ)。
最近の村上隆(ヴィトンの柄は何時まで続くの?)、オタク系のアーティスト、安藤忠雄(あの双子の家を見たときにはマジ失望した、誰か同じかたちの建売住宅との意味の違いを教えてくれよ)は、
消費に乗ったすごく短期的な視点でしか活動していない(お金は大事なのは言うまでもないが)という印象をすごく与える。
私は、中原中也の小学校のときに詠んだ短歌 芸術を遊び事だと思つてるその心こそあわれなりけれ という言葉が好きだ。

コメント(2)

酔っ払って書いた文書を冷静に読んでみると(と言ってもやはり酔っ払っているのだが)
私の考えは、芸術という何か崇高なイデアがあり、それを前提とした上でその周りをぐるぐる回っている気がする。

ある時代まで、芸術は崇高であったはずだ。
だが現代、芸術は崇高であると言えるだろうか?
もしそうでないとしたら、私の今までの考えは一笑に伏されるわけである。
私の考えは、ノスタルジーを追っているだけなのであるから。

ここで言えることは、全ての意味は、時代と共に変わる、ということである。

時代とか社会、文化が、そうである、と認めたものが真なのであり、
芸術家は、世の中に新しいものを真である、と認めさせるために存在していると考えたらどうか。
そこには、次の時代へどう持っていくか、という回転力が働く。
つまり、そいつを先頭に世界が回り始める。
真なるもの、が時代と共に変化してゆくのならば、
イデア論は正しくないのであろうか?
若しくは、変化すら超越した場所に存在しているのだろうか?

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

 ひとりごと 更新情報

 ひとりごとのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。