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三笑亭夢丸コミュの三笑亭夢丸師匠のお弔い

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昨日は三笑亭夢丸師匠のお弔いに行って来た。夢丸師匠はぼくの公私共に渡る大恩人である。ぼくと夢丸師匠の関係はなかなか普通の人には説明しがたいのだが、故人の供養のためになるべく夢丸師匠との交流を紹介したい。弔いには顔なじみの多くの芸人仲間がやって来た。夢丸師匠は落語芸術協会(通称・芸協)の大幹部だった。かつては「ルックルックこんにちは」というワイドショー番組のレポーターを29年間も務め、NHKの「連想ゲーム」のレギュラーだったり、「11PM」に出たり、テレビに出まくっていた時期があるので、ある程度の年齢の人なら顔は知っているだろう。後年は一切のタレント活動をやめて、落語に専念した。そもそも13年前に鎌倉はなし会を立ち上げるときも、散々、夢丸師匠に相談に乗ってもらった。師匠は芸協で地域寄席を振興する担当者でもあった。鎌倉はなし会という名前も、夢丸師匠が付けてくれたのである。
第1回目の鎌倉はなし会は材木座の光明寺というお寺の書院で演った。平成14年のことである。

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第1回目にしては大成功だった。客は100人ちょっと。夢丸師匠はネタ帳をプレゼントしてくれて、いまだにそれを使っている。ただ座布団に座るというのがきついという人が多かったので、第2回目からは鎌倉市生涯学習センターというホールで演った。落語会は「何かサブテーマを設けたほうがいいんですよ」という夢丸師匠のアドバイスで、「古典落語 新作落語味くらべ」とか「鳴り物と落語の粋な関係」とか「三遊亭圓朝の人情噺を聴く」とか、いろんなテーマを設けたものである。歌春師匠と夢丸師匠が誰かもう一人噺家を連れて来て、二人会というスタイルだった。芸協は落語協会に比べると地味な噺家が多い。いつも集客に苦労した。キャパは286人だったが、200人集めるというのが精一杯だった。ぼくは芸協贔屓だったのでそれでもよかった。それが何年か続いた。しかし、ぼくは口にこそ出していわなかったが、芸協縛りというのを負担に感じていた面もあった。
夢丸師匠はそんなぼくの心を敏感にくみ取って、ある会の打ち上げの後鎌倉駅まで帰る道すがら、「秋山さん、もう我々の役目は終わりました。これからはどうぞお好きなようにやって下さい」といってくれた。夢丸師匠は実によく心配りの行き届いた方なのである。ぼくはその一言でどれだけ救われたかわからない。やっと芸協縛りから解放されたと思った。伸び伸びと顔付けができるようになった。
ぼくはそれから柳家喬太郎さんや柳家三三さん、立川志らくさんといった人気の噺家を呼べるようになり、チケットはあっという間に完売するようになった。やがて、お客さんから「いつもチケットが取れない」といわれ、鎌倉芸術館小ホールに場所を移した。芸術館はキャパ600人である。落語会にしては規模が大きい。芸術館に移ってから一番最初に呼んだのが、春風亭昇太さんで、あっという間に完売した。興行なのでいつも完売するとは限らないが、ある程度はお客さんが付いてくれる。これまでいろんな芸人を呼んできたが、鎌倉芸術館に移ってからは600人呼べる噺家はそうはいないので、メンバーが固定化している。いつしか、夢丸師匠の名付けた鎌倉はなし会は芸人にもお客さんにも認知度が高まるようになった。著名人のお客さんも付いてくださるようになった。
13年間もやっていると、いろんなことがあった。途中、落語ブーム(ぼくはあれは落語家ブームで、落語ブームではなかったと思っている)もあって、追い風にもなった。桃月庵白酒さんに最初、出演依頼を打診したときに「あの伝統ある鎌倉はなし会に呼んでいただけるなんて光栄です」といわれ、恐縮したことがある。社交辞令もあるだろうが、ぼくはうれしかった。いまや喬太郎さんも三三さんも志らくさんも白酒さんも米團治さんも一朝師匠も一之輔さんも紙切りの正楽師匠も、みんな鎌倉はなし会のことを大切にしてくれるようになった。ついには噺家の頂点である柳家小三治師匠にまで出てもらえるようになった。13年前、光明寺ではじめたときのことを思えば、隔世の感がある。なにせいまや、鎌倉はなし会でググレば、100万件はヒットするようになったのである。これも夢丸師匠のおかげである。

拙著「寄席の人たち」(集英社)を書いたときも、構想段階から夢丸師匠に相談に乗ってもらっていた。台東区根岸の師匠のお宅に通って、よく話をしていた。ぼくは師匠と寄席の話や芸談をするのが大好きだった。師匠はぼくに多くの示唆を与えてくれ、漫才のあした順子・ひろしさんなど多くの芸人を紹介してくれた。あの本の構成は師匠と二人でやったようなものである。ぼくは感謝の意味も込めて、「寄席の人たち」で夢丸師匠にトリを取ってもらい、半生を書いた。幸い、「寄席の人たち」が大衆文学研究賞を受賞したとき、授賞式会場の東京會舘に夢丸師匠がお祝いに駆けつけてくれた。「夢丸新江戸噺」といって、師匠がポケットマネーをはたいて、江戸時代を舞台にした落語の台本を募集し、それを独占することなく、後世に残そうという活動をしていた。この仕事は落語界のために貢献していたことなので、もっと評価されてもいい。
実はぼくは古今亭志ん朝師匠の評伝を書こうとした時期があって、その相談相手も夢丸師匠だった。それはいろんなことがあって、結局は叶わぬ夢だったのだが。夢丸師匠の師匠である三笑亭夢楽師匠と志ん朝師匠がポン友だった関係で、協会を越えて夢丸師匠も志ん朝師匠と親しかったのである。よく新宿末廣亭の楽屋に遊びにいくと、夢丸師匠は楽屋口からぼくを末廣亭に連れて行って、ただで見させてくれた。いつもまるでこちらの心を読んでいるかのような立ち居振る舞いをする人だった。夢丸師匠は常にぼくのことを応援してくれていた。末廣亭の真裏にある、その名もズバリ「楽屋」という喫茶店に初めてぼくを連れて行ってくれたのも確か夢丸師匠だった。その店は一般人より末廣亭に出ている芸人の溜まり場になっている喫茶店である。「楽屋」のママも末廣亭の関係者だったという極めて特殊な喫茶店である。ぼくはそこでもさまざまな芸人を取材した。まったく末廣亭はぼくにとっては学校だった。ただの客だけでは味わえない、実にいろんなことを学ばせてもらった。末廣亭の先代の席亭の北村さんがテケツ(チケット売場)にいると、よくぼくのことを「仕事できたんだろ」とみんなに聞こえるような声で言って、ただで入れてくれたものである。もう一時期は末廣亭の楽屋に入り浸るようになっていた。先代の桂文治師匠と楽屋で火鉢にあたりながら、話に耽ったことなどいまとなっては懐かしい思い出である。夢丸師匠の最後の高座を聴いたのも末廣亭である。
夢丸師匠の弟子である、三笑亭朝夢さんの真打ち昇進披露パーティが来月、浅草のホテルであって、そこで久しぶりに夢丸師匠に会えるなと思っていた矢先の訃報だった。朝夢さんから聞いた話では夢丸師匠もぼくがパーティに出ることを喜んでくれていて、「秋山さんにはお世話になった」といってくれていたそうである。この数年はがんを患い、最近は高座にも立てない状況だった。今年の正月に夢丸師匠からもらった年賀状にはそんな近況が書いてあった。夢丸師匠、お疲れ様でした。安らかにお眠り下さい。鎌倉はなし会と「寄席の人たち」に出てもらった芸人で、最初に亡くなった方になってしまった。夢丸師匠とはいろんな思い出がありすぎて、お弔いは万感胸に迫るものがあった。あれほど人の心の機微がわかる人もそうはいない。そういえば、ぼくの親父が亡くなったときも夢丸師匠は実に心のこもった温かな手紙を書いてくれたことがあったっけ。ぼくは夢丸師匠のチャキチャキの江戸弁が好きだった。ぼくがいまあるのも夢丸師匠のおかげです。

コメント(2)

アッキーさん

遅ればせながら、師匠のお弔いのご投稿ありがとうございます。
確かに師匠は心配りの行き届いたお方でしたよね。
自分は師匠とはつながりはありませんでしたが、かつてこんなことがありました・・・。

私事ながらかつて師匠が広く一般から公募した落語台本コンペに一度応募したことがあり、箸にも棒にも引っかからないど素人な代物ですが、師匠ご本人から落選の連絡を電話で頂き恐縮した思い出があります。律儀なお人柄に感銘いたしました。

合掌です。

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