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物置きコミュの良く知らなかった美智子さまのことで感動したので記録しておこう。

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https://www.tv-asahi.co.jp/hst2018/feature/detail.php?news_id=106&y_m=19-04
2019年4月30日
天皇陛下“象徴”めぐる模索
天皇陛下は、国民との触れ合いを通して象徴のあり方を模索してこられた。被災地では、ネクタイを外し、膝をついてお話をされる。このなさりようには美智子さまの存在も大きく、これが国民に寄り添う“象徴”の新しい姿となった。ただ、ここに至るまでには、様々な困難があった。

陛下が初めて床に膝をついて被災者と向き合われたのは、1986年、伊豆大島の三原山が噴火した時。当時、皇太子だった陛下は、東京都内の体育館に身を寄せた被災者の話を最初は立ったまま聞かれていた。ところが、跪いた美智子さまの様子をご覧になったからか、その後、陛下も膝をついて話をされていた。1991年に起きた雲仙普賢岳の時には、陛下の服装に変化があった。この時はまず両陛下が発災直後に被災地に行った前例がなかったため、宮内庁内に衝撃が走った。当時、宮内庁職員だった山下晋司さんは「両陛下が行かれると聞いた時には驚きましたね。なぜ、天皇皇后が現地に行かれるんだと。天皇というのは皇居の中でどんと構えてですね。心配するというか祈るというか、そういうものだというふうに思っていましたから」と話す。しかし、両陛下は噴火が収まらないなか、現地を訪問された。長崎に到着された時は、公務の時の服装であるダブルのスーツだったが、仮設住宅を訪れた時はワイシャツ姿に変わっていた。元侍従次長の手塚英臣さん(85)はその変化の瞬間を目撃していた。「陛下が『周りの人はどんな服装でいるのか』というようなことを聞かれて『皆さんラフな格好をしている』と申し上げたら『上着とネクタイは取って行こう』とおっしゃいまして、私もびっくりするくらいのお姿だった」という。陛下が公務でワイシャツ姿になられるのは初めてだったという。“国民に寄り添う”という、こうした姿勢は多くの人に驚きを与えた。この被災地訪問のスタイルがこのまま定着すると思われていた。ところが、雲仙普賢岳の2年後、1993年、北海道の奥尻島が地震と津波で大きな被害を受けた時はワイシャツ姿ではなく昔に戻ったかのようにネクタイにスーツ姿で被災地を訪問された。当時、宮内庁内には、両陛下の国民への接し方を快く思わない空気があったという。山下さんは「宮内庁内には天皇皇后というのは、そんな親しく話をしていいのかというような不満や批判が出てくる。どういう形であれ、外に漏れていくのは当然だろうなと思う」と話す。
https://www.tv-asahi.co.jp/hst2018/feature/detail.php?news_id=106&y_m=19-04&str_num=1
確かにこの年は春先から、被災地訪問を含めた“新しい皇室”を批判する週刊誌の記事が出始めていた。批判の矢面に立たされていたのは美智子さまだった。それは同時に、陛下の新しい“象徴”像への批判でもあった。名指しで批判された美智子さまは記者団からの質問に文書で『どのような批判も、自分を省みるよすがとして耳を傾けねばと思います。しかし、事実でない報道には、大きな悲しみと戸惑いを覚えます。批判の許されない社会であってはなりませんが、事実に基づかない批判が、繰り返し許される社会であって欲しくはありません』と回答された。これが美智子さまにとって、精一杯の反論だった。 文書が公開された同じ日、美智子さまが突然、倒れられ、声が出なくなった。原因は強いストレス。奥尻島で陛下がワイシャツ姿ではなく、昔に戻ったかようなスーツ姿で被災者を励まされていたのは、皇室批判が吹き荒れたこの年、1993年だった。山下さんは「昭和天皇がおやりになっていた様々なご活動がイコール天皇のあるべき姿だと、私も含めて凝り固まっていた。だからそこと違うと、それは天皇の姿ではない、そこまで天皇がやるべきではないとなり、威厳がないとかという評価につながっていく」と語る。 そして、この2年後、阪神・淡路大震災が起きた。両陛下は現地をご訪問。この時ヘリから降りてこられた陛下の服装は、セーターにジャンパーという出で立ちだった。ワイシャツ姿で初めて被災者を励まされた4年前と同じスタイルに戻っていた。一時、声が出なくなった美智子さまは、これまで以上に積極的に被災者の中に入って行かれていた。被災者の一人は「『頑張って行きましょうね』と声をかけていただきました」と話す。避難所の外では、大勢の被災者が両陛下待ち構えていた。この時、陛下が模索してこられた新たな象徴のあり方を、国民もまた受け入れたのかも知れない。阪神・淡路大震災以降、陛下がネクタイ姿で被災直後の現地を訪問されることはなかった。天皇陛下は在位30年記念式典で「象徴としての天皇像を模索する道は果てしなく遠く、これから先、私を継いでいく人たちが、次の時代、さらに次の時代と象徴のあるべき姿を求め、先立つこの時代の象徴像を補い続けていってくれることを願っています」と述べられている。

◆ひざをつき、目線を合わせる。 被災地をめぐる天皇陛下が追求した「象徴としてのつとめ」とは
https://www.huffingtonpost.jp/2019/01/09/syoutyo-tennou_a_23638852/
1月17日、未曾有の災害が阪神淡路を襲う。なぜ天皇、皇后両陛下は被災地へ向かったのか。
ハフポスト日本版編集部
南阿蘇中学校の体育館に避難している住民に声を掛けられる天皇陛下=2016年5月、熊本県南阿蘇村
時事通信社

平成最後の「歌会始の儀」に、天皇陛下が詠んだ歌は「ひまわり」だった。

「贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に」

宮内庁によると、阪神淡路大震災から10年が経った2005年、追悼式典に訪れた際に、遺族代表の少女から天皇陛下に「はるかのひまわり」の種が渡された。震災で犠牲になった当時小学6年生だった加藤はるかさんの自宅跡地に咲いたひまわりの種だった。

種は、御所の庭に蒔かれた。両陛下は翌年以降も咲いたひまわりから種を採り、育ててきたという。御製は、そのひまわりの成長をつづったものだった。

国民と同じ目線に立ち、被災地をまわってきた天皇、皇后両陛下。時にはひざをつき、目を合わせて話をした。

なぜ被災地へ向かうのか。そこには人間として生まれ、国民の「象徴としての姿」を探し続けた両陛下の思いが込められている。

阪神大震災を機に変わっていった世論
1995年1月17日午前5時46分。兵庫県の淡路島北端付近を震源とするマグニチュード7.3の大規模直下型地震が、西日本を襲った。

消防庁や兵庫県によると、死者6434人、負傷者4万3792人。住宅への被害は63万9686棟にのぼる。

天皇、皇后両陛下は、震災から2週間後の1月31日、被害の激しかった神戸市や淡路島を訪れた。

当初、両陛下が乗る御料車と随員が乗るバス1台を用意する予定だった。しかし、被災状況や被災者感情を鑑みた県からの打診で、両陛下は随員とともにバスで移動することになった。

バスに乗った皇后美智子さまは、窓越しに両手のこぶしを握り「がんばって」と手話を示し、バスの周りに集まった被災者を励ました。

この日の神戸の最低気温はマイナス1.8度。底冷えする体育館は、避難した人たちでごった返している。

当時のニュース映像には、不安な表情の避難者に、両陛下はひざをついて語りかけ、背中をさすり、1人ひとりの話を聞く姿が映っている。

阪神大震災の被災地、淡路島を訪れ被災者に声を掛けられる天皇陛下=1995年1月31日
時事通信社
阪神大震災の被災地、淡路島を訪れ被災者に声を掛けられる天皇陛下=1995年1月31日
天皇陛下は、このとき背広ではなく黒のズボンとタートルネック、その上に深緑色のジャンパーを着ていた。着の身着のままの避難者に対し、スーツ姿での訪問よりも一層距離感が近くなったように感じる。

阪神淡路大震災以前の1993年の北海道南西沖地震による被災地への訪問や、皇太子時代の訪問では、ワイシャツ姿やスーツにネクタイを締めた姿が一般的だった。

北海道南西沖地震で奥尻島を訪問した天皇、皇后両陛下=1993年7月27日
時事通信社
北海道南西沖地震で奥尻島を訪問した天皇、皇后両陛下=1993年7月27日
天皇陛下が腰を折り、ひざをついて話すスタイルは、平成が始まったころまでは風当たりが強かった。

1993年の奥尻島訪問では、ひざをつく両陛下の映像が放送されると、町役場に批判の電話が相次いだ。昭和天皇の時代には、ありえなかったことだからだ。

阪神淡路大震災では、評論家の江藤淳氏が文藝春秋1995年3月号で次のように苦言を呈した。

「何もひざまずく必要はない。被災者と同じ目線である必要もない。現行憲法上も特別な地位に立っておられる方々であってみれば、立ったままで構わない。馬上であろうと車上であろうと良いのです」

昭和を過ごし、「現人神」として崇められていた戦前の昭和天皇を知る、一部の保守層の意見を反映したものだった。

今上天皇は皇太子時代の1986年、三原山の噴火で東京都千代田区の体育館に避難していた伊豆大島の住民を訪問したとき、声を掛けても立ち上がれない避難者たちの姿を目にして、自ら腰を落として話を始めた。

ご結婚間もない1960年代前半、訪れた児童施設などでは美智子さまがかがみこんだり、ひざをついて話す姿が印象的だった。そうした美智子さまの考えを取り入れ、ご夫妻で訪問のスタイルを作り上げていったとみられる。

三原山の噴火で、避難した伊豆大島の島民に励ましの言葉を掛けられる皇太子ご夫妻=1986年11月29日、東京都千代田区の区立総合体育館
時事通信社
三原山の噴火で、避難した伊豆大島の島民に励ましの言葉を掛けられる皇太子ご夫妻=1986年11月29日、東京都千代田区の区立総合体育館
平成の世になり、阪神淡路大震災の被災地訪問以降、批判は少なくなっていき、そのスタイルはだんだんと国民に受け入れられていくようになった。

東日本大震災、被災地を自らの足でまわった
2011年3月11日に発生した東日本大震災では、両陛下が「避難所として那須御用邸を提供したい」と意向を伝えたが、暖房設備がないことなどから宿泊は難しかった。そのため、御用邸の温泉の提供となり、温泉に入る人たちのために入浴用タオル約3400枚が用意された。タオルの費用は、両陛下からの寄付だった。

この時、天皇陛下は77歳。高齢であり、被災地の惨憺たる状況の中で慰問していくのは相当の労力を要する。一人ひとりの話を聞き、受け止めるだけでも疲れはたまる。

福島県などから都内の体育館などに避難していた被災者を見舞った際に、石原慎太郎都知事(当時)から被災地には名代を差し向けてはいかがか、と提案された。だが「東北へは、私が行きます」と陛下は断ったという。

両陛下はその後、千葉県や茨城県、そして宮城県、岩手県をまわった。

宮城県南三陸町の避難所で、被災者に声を掛けられる天皇陛下=2011年4月27日、同町の歌津中学校
時事通信社
宮城県南三陸町の避難所で、被災者に声を掛けられる天皇陛下=2011年4月27日、同町の歌津中学校
2011年5月11日には、震災後初めて福島第1原発事故があった福島県を見舞った。翌年以降も、東北被災3県を10回以上訪れている。

復興公営住宅北好間団地の入居者らと懇談される天皇、皇后両陛下=2018年6月9日、福島県いわき市[代表撮影]
時事通信社
復興公営住宅北好間団地の入居者らと懇談される天皇、皇后両陛下=2018年6月9日、福島県いわき市[代表撮影]
象徴とは何か
「即位以来、私は国事行為を行うと共に、日本国憲法下で象徴と位置づけられた天皇の望ましい在り方を、日々模索しつつ過ごして来ました」

天皇陛下は2016年8月8日、退位へのお気持ちを示した。「天皇」の務めとはなにか。陛下は「何よりもまず国民の安寧と幸せを祈ること」と表現した。

そして、象徴としての思いを次のように伝えた。

天皇が象徴であると共に、国民統合の象徴としての役割を果たすためには、天皇が国民に、天皇という象徴の立場への理解を求めると共に、天皇もまた、自らのありように深く心し、国民に対する理解を深め、常に国民と共にある自覚を自らの内に育てる必要を感じて来ました。

こうした意味において、日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切なものと感じて来ました。

皇太子の時代も含め、これまで私が皇后と共におこなって来たほぼ全国に及ぶ旅は、国内のどこにおいても、その地域を愛し、その共同体を地道に支える市井の人々のあることを私に認識させ、私がこの認識をもって、天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした。

国民の悲しみに向き合い、喜びを分かち合い、同じ目線で過ごす。

超越した存在として国民の上に立つのではなく、一人の人間として国民に寄り添う存在として、天皇、皇后両陛下は全国をめぐった。時には災害だけではなく、公害の被害者や、ハンセン病療養所で隔離された人生を送ってきた元患者の人々の声にも耳を傾けた。

国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」を訪れ、入所者に声を掛けられる天皇、皇后両陛下=2013年10月、熊本県合志市
時事通信社
国立ハンセン病療養所「菊池恵楓園」を訪れ、入所者に声を掛けられる天皇、皇后両陛下=2013年10月、熊本県合志市
災害、人災、そして戦争。唯一の地上戦となった沖縄の地では、1975年、皇太子時代の初訪問で火炎瓶を投げ込まれたこともあった。だがその後も、両陛下は沖縄への訪問を続け、その回数は11回に及ぶ。

皇太子時代、ご夫妻で初めての沖縄訪問。ひめゆりの塔に参拝された両陛下はこの直後、過激派から火炎瓶を投げつけられた=1975年5月、沖縄県糸満市
時事通信社
皇太子時代、ご夫妻で初めての沖縄訪問。ひめゆりの塔に参拝された両陛下はこの直後、過激派から火炎瓶を投げつけられた=1975年5月、沖縄県糸満市
天皇陛下が生きてきた時代の中で、日本各地に刻まれた傷跡の地を訪ねることで、その痛みを和らげていく。それが国民統合として、天皇陛下が探求した「象徴」としての姿なのかもしれない。

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