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物置きコミュの沖縄県民の間違った歴史観(人頭税編)?

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http://blogs.yahoo.co.jp/itokazukeiko/46945956.html

沖縄県民は皆もの凄く歪曲された歴史観をもっている。
基本的な考え方は、「自分達は悪くない悪いのは薩摩であり日本であり米国である。薩摩、日本、米国に侵略されるまで琉球は平和で豊かなところであった。」というものである。
この思考の代表的な例に「人頭税」というものがある。
まず、人頭税というものがどういうものなのか解説する。
人頭税とは15歳から50歳までの男女一人一人に、田畑の面積とは関係なく頭割りに税を課す。それが、宮古・八重山では1637年に制度化されていた。
老いも若きも体が弱い人にも均等に課す悪税、悲痛な税制であったといわれる。
また与那国には、トゥング田やクブラバリなど、人頭税のための人減らしをした悲惨な歴史の場所が今も残っている。
薩摩藩が外様であるにも関わらず強力だったのは、多分に琉球人からしぼりとった税のおかげだっただろう。
その取り立てはすさまじいものだったらしく、人頭税が払えない離島の家族は自分の子供を殺したと言う。
薩摩からの重税を払うため、琉球政府はさらなる弱者である離島の島民に「人頭税」という特殊な税をかけた。

これが今の沖縄で通説となっている人頭税論である。
沖縄の人は老いも若きも男も女もみんな人頭税のことを薩摩の圧政搾取によるものだと信じている。
人頭税=薩摩であり、薩摩が来る前までは琉球王国は豊かであり沖縄世を欲しいがままにしていたらしい。
これら人頭税が過酷だったとする今までの通説はまったく間違ったものである。

まず第1に、生活水準の低さの原因をただちに収奪=租税水準の高さと決め付けていることである。
琉球王国時代の先島の生活水準が低かったことは疑いの無い事実だ。
しかしその低さを、収奪=過酷な課税のせいにすることは他の要因を一切無視し、すべて悪い所を他に(薩摩に)押し付けているだけである。
たとえ過酷な課税がないとしても生活水準は高くならなかったであろう。
このことに関して言いえば、「五公五民」とか「二公八民」とかとういう表現があるが、「五公五民」の方が「二公八民」より過酷かといえば
一概にそうとはいえない。
過酷さはこのような割合では分からないものである。
10の生産がある中で5(5割)を収奪されても手元には5が残る。
5の生産しかない中では、わずか1(2割)を収奪されても手元に残るのは4である。
当時の八重山に関しては後者のイメージで考えることがまず重要である。

第2に、確かに慶長以後の琉球王府の士族は八重山諸島に目をつけていた。
即ち薩摩に対する自分のおいめを軽くせんが為に、財源を八重山に求めようとしたのである。
この時期の琉球王府の八重山開拓が着々歩を進めていたことは下に書く。
八重山の人口増減表を一瞥したらよくわかる。

1607年(慶長12年)  5500人
1651年(慶安 4年)  5200人
1684年(貞享 1年)  5316人
1737年(元文 2年) 19351人
1753年(宝暦 3年) 26285人
1771年(明和 8年) 27242人(明和の大海嘯)
1775年(安永 4年) 18119人(疫病と飢饉の同時発生)
1786年(天明 6年) 16075人
1803年(享和 3年) 15858人(風疹の大流行)
1818年(文政 1年) 14091人
1834年(天保 5年) 14591人(風疹の大流行)
1844年(弘化 1年) 12758人
1851年(嘉永 4年) 13383人(風疹の大流行)
1854年(安政 1年) 11216人

不精密な統計ではあるが、これで大体の人口の推移が分かると思う薩摩の琉球入りの頃には八重山の人口は五千五百人しかなかった。
それから7、80年間は大した増減も無かったが元文年間に一躍して一万九千三百五十二人となり明和年間には二万七千二百四十二人に達している。
今の沖縄の人は、琉球王府は薩摩の搾取される分を八重山の住民に重税を掛ける事により補おうとしたと単純に考えているだろうが、事実はまったく異なるものである。
琉球王府は八重山地方の開拓をもって税収を伸ばそうとしたのである。
そして、琉球王府のこの大計画は明和8年の大海嘯(大津波)により悉く水泡に帰している。
大海嘯(大津波)島の半分を洗い、住民九千四百人余人、その他牛馬船舶などをさらっていったという。
その後も、安永の疫病と飢饉の同時発生、その後の享和(1803)天保(1834)、嘉永(1851)に風疹疫病が大流行して八重山地方の生活は悲惨を極めたのである。
それにさらに人頭税はかかる、役人は貪るときているからたまらない。
その負担を軽くするせんために方々で流産や赤子殺しが行われた。
琉球王府はこういった事態を鑑み令を発し厳しく流産や、赤子殺しを取り締まっている。

人頭税は「悪平等」であるとして非難されているが、実態はそうではない。
そこには沢山の免除者がおり、実状をみて割り当てられている。
「50歳以上のもの」「15歳未満のもの」「多子者」「産子者」「老人介護人」「病人」などが人頭税の免除の対象となった。
それでも、流産、赤子殺しが止められないだけ、八重山の自然と疫病の猛威の方が強かったということである。
人頭税は「悪平」ではない。実態はそうではない。
そこには沢山の免除者がおり、実状をみて割り当てているのだから。
それでも、流産、赤子殺しが止められないだけ、八重山の自然と疫病の猛威の方が強かったということである。

第3に、人頭税を過酷だとすることによって、論理的にはその廃止後の税制を賛美することになっているが、人頭税が過酷であったのならばそれが廃された後の八重山地方は、直ちに、急激に生活水準が向上したはずであるが、事実はそうなっていない。
1902年に八重山地域の人頭税が廃止され、新しく生まれた制度で租税は金納となったが、その後も基本的に同一水準の課税は続けられたのであり「豊かな世」が到来したわけではない。

第4に、八重山地域だけに人頭税があり、それが過酷だったという論は沖縄本島地域の租税制度も「人頭税的」であることを無視している。
沖縄本島地域そこでは過酷でなかったかのように論じているが、しかし封建社会で過酷でない租税制度というものはなかなか無いものである。
ここで初心に戻るがそもそも琉球王府の税制とはどういったものだったのだろうか。
琉球王国では「地割制(じわりせい)」とういう独自の統治システムを行っていた。
農民の土地私有を禁止、集落単位で課税し、しかも2、3年または10年ごとにその耕地を集落単位で交替させた(地割替え)。
住民は地割替えの時以外は各集落間の往来さえ禁止されたばかりか、集落内で目立つ行動をとる者へは「フィートゥイミジトゥイサン」という罰が下された。要するに村八分であり、野垂れ死にに追いやるのであった。
本土では江戸時代、すでに農民にある程度の自由が認められており、識学率も高く、農書なども広く、農民に愛読されていた。
そして米より収益性の高い、味噌などの商品作物の生産、あるいは出稼ぎ、商売、日雇いなども活発化し、農民の賃金収入は確実に増加していた。
ところが琉球王国では当時人口の9割を占めた農民はこれと対照的に地割替えが行われる1両年は施肥さえも怠ったという、まさに農奴(農業奴隷)であった。
地割制とは、毛沢東やポルポト派が試しみた原始共産主義そのものである。
そこには貨幣制度も無く、集団生活で粗末な衣服以外はすべて共有のものだった。
この地割制は、農民の生産意欲を阻喪(そそう)させ、農民を疲弊させるだけのまさしく悪法そのものである。
結局は、その家族の状況により地割しあてがわれた土地に課税したのだから、名称は変われど結局は人頭税そのものである。
沖縄本島地域の租税制度も「人頭税」とほぼ同様の内容であった。

そして第5に、人頭税は琉球王府から八重山の在番(頭)から、そして在番(頭)から各村への課税基準のことで、こうして課税されたものが先島内部でどのように百姓に割り当てられたかについては別問題である。
重要なことは、租税負担の責任は、個別の百姓が負うのではなく、間切りや村が負っているということである。
課せられた租税を地方役人が責任を持って地域の人々を指揮して租税品を調達して王府に貢納するのである。
人頭税は「王府→在番(頭)→間切(村)」の課税形態であり、けして百姓一人(人頭)に課した租税方法ではないのである。
地方役人が百姓に対して、どのように課税したかについては関知していないのである。

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