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物置きコミュの日本軍は命がけで沖縄県民を守った!

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日本軍は命がけで沖縄県民を守った!
http://www2.gol.com/users/goyu/08kiji/megumi.htm


 日本軍は命がけで沖縄県民を守った!

 「集団自決」教科書検定問題の背景

  フリージャーナリスト 惠 隆龍之介

  【史】 平成20年1月号 より



在沖縄米軍による反日・侮日教育


 皆様、こんばんは!先ほどは沖縄戦で戦死された英霊に対し黙祷を捧げてくださいましてありがとうございました。

 私の伯母は、ひめゆり部隊で戦死いたしました。戦死公報を見ますと「昭和二十年六月、沖縄本島島尻付近において戦死」ということだけで、最期の場所は未だに分かっておりません。一方母は疎開する途中、例の「対馬丸」に乗っており、九死に一生を得ました。しかし、私は国家を決して恨んでおりません。

 私は少年時代、沖縄で学校教育を受けました。沖縄を統治していた米軍政府の中に米陸軍第八心理作戦部隊というのがあり、とんでもない教育をしておりました。どういった教育かと言いますと、反日・侮日教育です。小学校時代に教わった内容には二つの柱がありました。一つは、戦前、沖縄県民は差別されていた。その帰結が沖縄戦における惨劇であるというものです。もう一つは、日本軍は沖縄住民を保護するという視点がなかったというものでした。そういうことを教室や地元マスメディアから絶えず言われていました。

一方、私は物心ついた時には、もう母に連れられて亡き伯母の供養のために沖縄本島の南部地域を何箇所か定期的に回つておりましたから、非常に複雑な思いで少年時代を過ごしました。



日本軍は県民保護につとめた


 ところが私は、中学から九州の学校に遊学し、そして防衛大学校に進んで行くうちに、隠されていた史実を発見しました。帝国陸海軍も、旧内務省も、沖縄県民の保護のために、ありとあらゆることをいたしました。それをこれからご紹介します。

 その前に、平成九年頃、橋本元総理が沖縄問題がこじれた時にかなりの補助金をばらまきまして、「対馬丸記念館」というのを那覇市内に建設いたしました。そこに行きますと、ああ何と沖縄県民は悲劇を強いられたか、と思えるわけでありますが、これから申し上げる数字はそれを吹き飛ばすようなものであります。

 内務省は昭和十九年七月七日に、沖縄県に対して疎開勧告を出しました。これは、非戦闘員、即ち女子及び六十歳以上十六歳未満の老幼男女約十万人を、県外と沖縄本島の北部の山岳地帯に疎開させるという計画でした。その結果、十万人を遥かに上回る十六万人が疎開し、命が救われました。

それに要した船舶はのべ百八十七隻。撃沈された船舶は「対馬丸」以下六隻、犠牲者は約三千人見当です。

 ところが、地元メディアや教職員会は疎開の話を「対馬丸」沈没による学童七百三十八人の遭難にのみ集約するのです。従って、沖縄へ修学旅行に来る青少年はこの記念館を見学すると、「日本は沖縄に何と多くの犠牲を強いたのだろう、しかも学童にまで」と解釈し、同情するわけです。

 しかし、米軍上陸までに国は必死になつて県民の疎開活動を実施しました。



戦闘艦に乗せて住民を助ける


 次に、米軍上陸前後の住民保護について申し上げます。私がお話ししているのは全部証言や公刊資料に基づいております。

 疎開は昭和十九年の八月から開始され、昭和二十年の三月上旬で打ち切られたのですが、それからがまた大変でした。帝国海軍は、内規として戦闘艦に一般住民は乗せてはいけないことになつていました。ところが、沖縄戦が始まるギリギリまで、海軍の艦艇が港に横付けして、一般の婦女子を乗せて高速で九州に向かったという史実があります。これは救助された人達が証言しています。

一つ紹介します。私が懇意にしております真書志(まきし)文子さんという七十九歳の老婆がおられます。この方の話を聞きますと、父母を疎開させるために那覇港に見送りに来たら、水兵がたくさん艦から降りて来て、「艦長命令です! 全員乗ってください。まもなく米軍は上陸します」ということで、そこにいた人力車の車夫から労働者まで、片っ端から三隻の艦艇に乗せられたそうです。そして、那覇港を出ると高速で「『の』の字運動」を繰り返しながら熊本の三角港に入り、その結果、この一家は全員助かりました。

 このように帝国陸海軍は、米軍が上陸する沖縄戟の直前まで、住民の疎開に死力を尽くしていたのです。

 そして、米軍が上陸して来た。米軍は本島中部に上陸して南下し、帝国陸軍も本島南部で決戦をするつもりでした。沖縄本島が分断されたので、もう本島北部山岳地帯への疎開も不可能になりました。この時どうしたか。沖縄の新聞や朝日新聞は、軍は住民を保護しなかったと言いますが、救助された老婆が証言しています。

 どういうことかと言いますと、沖縄県の首里・那覇は人口密集地でした。本来なら警察が避難誘導すべきなのですが、警察官は逃げていないものですから、憲兵が各家を一軒一軒回って避難誘導したんです。そのことを富名腰(ふなこし)ツルさんというお婆ちゃんが今から十年前に証言しています。「自分の家で死ぬのが本望です」と言ったら憲兵に叱責されたと言うんです。「死に急ぐな!生きることを考えなさい」と言って説諭され避難壕に誘導された。その憲兵は避難住民に兵糧まで配給し、「勝利の日にまた会いましょう」と言って敬礼をして、そしてまた戟場に戻って行って戦死されたそうです。私は以上の史実を、本来なら教科書に載せるべきだと思います。

 「沖縄人は差別された」というくだらんことを言う者がおりますが、疎開して九州に行った沖縄の子供たちはどうしていたかと言いますと、皇后陛下からビスケットとか饅頭を下賜され、わざわざ皇后陛下が詠まれたお歌までいただいていたのです。



沖縄県平和祈念資料館展示の嘘


 それで、次がもっと問題であります。沖縄戦がいよいよ激化しますと、避難住民が次々と戦闘用の壕に流入してきました。私は伯母の最期を知りたくて、ひめゆり部隊女子学徒の証言集を時々読んでいますが、米軍は壕の前で、投降勧告に応じなければすかさずガス弾を投入し、火炎放射器で攻撃して来たのです。

 このひめゆり部隊を引率している陸軍の将校や下士官たちが、「あなた方は生きて沖縄のために尽くしなさい」と言いました。すると、女子学徒は何と言ったと思いますか。「死ぬ時まで一緒と言いながら、ここに至って投降せよと言うんですか」と喰ってかかっているのです。こういった証言がいくつも残っています。

 そこで、帝国陸軍の将校や下士官たちは抜刀して「ここまで言っても分からぬのか、たたっ斬るぞ」と言って、壕の外に追い出して投降させているのです。そういうふうにして救助されて、今日、生きている当時の女子学徒が多数いるのです。

 ところが、沖縄の糸満市に沖縄県平和祈念資料館というのがあり、戦闘中における壕の中の生活を蝋人形で再現したとして、母子に対して着剣した兵士が威嚇しているシーンがあります。

 修学旅行で全国から来る青少年の数は沖縄県が一番多いんですが、この青少年たちは平和祈念資料館でこういったシーンを見せられて帰って行く。頭の中には、もう左翼のウイルスが打ち込まれて行くのであります。こんな人形は撤去すべきなんです。

 ここでひめゆり学徒の証言、他の方々の証言を総合しますと、ああいった極限状態で、「みなさん、早く投降してください」と言われてそれに従ったら、同じ沖縄県民からも恨まれるという状況だったのです。

それで、着剣して強制的に壕から出して助けたという例が多々あったのです。本島南部でも、自決しようとした住民を着剣して威嚇して投降させています。ひめゆり学徒の証言や、当事者能力を持っておられた方々の証言を読んだり聞いたりしています

と、その中に軍から「自決せよ」とか「死ね」とか言われた話はどこにも、一言も出てこないんです。

 では、いったい何を根拠に日本軍を非難しているのかと言いますと、「疎開というのは下心があってやったのだ。次の戦闘力を保存し、戦争に動員するための手段であった」という曲解です。私は沖縄県民として恥ずかしい。これは戦前からあつた沖縄県民の欠点であり、日本本土に対する被害者意識、ひがみと言うべきものです。それが見事に左翼に利用されている。



立派だった日本軍将兵


 では、一般兵士はどう戦ったのかと言いますと、これも実際にあつた話です。昭和五十九年五月十六日の毎日新聞に掲載された記事ですが、アメリカのシカゴに住んでいる米・陸軍の軍曹だったイラン・ポニックさんという人が、こういうことを言っています。

 「沖縄本島南部で、両足を銃弾で打ち抜かれて倒れている沖縄の少年がいたので、助け上げて救命していた。すると、日本兵が至近距離まで近づいてきて、狙撃されかかった。ところが、その日本兵は、米兵が少年を介抱しているとわかって銃口を下げた。ポニックさんが『サンキュー』といったら、その日本兵も頭を下げて去っていった」というのです。だから、是非、この日本兵に会って御礼が言いたい、という趣旨の記事でした。

 その日本兵とは千葉県にお住まいの石橋明元上等兵で、昭和五十九年当時はご存命です。いかにお二人の証言が一致するか、ちょっと紹介させてもらいます。

 石橋さんは当時二十七歳で、球(たま)部隊独立機関銃第一八八〇九隊に属していました。残存部隊に合流するため沖縄県の長南端に向かう途中で、県人避難民四十五名と米兵を発見したそうです。米兵が背を屈めて日本人の子供に触れていたので、虐待しているのではと思い、後方から近づいて米兵の正面に立ち、撃とうとした。その時、実弾が五発入っていたと言いますから、確実に撃てたのです。ところが、米兵が子供を介抱していることを発見したので、殺す必要はないと思ったそうです。

 これは昭和二十年六月二十日のことでした。沖縄戦が終結したのは六月二十三日ですので、最後の戦いだったんです。殺す必要はないと銃口を下に向け、その場を立ち去ったそうですが、その次がまた偉いんです。近くには避難民とそれを監視していた米兵たちがいた。発砲すれば住民も犠牲になるからということもあって発砲を控えたということであります。

 ですから、上は大田實海軍中将から、下はこういう兵士に至るまで、日本の国威と沖縄の将来のため真剣に戦ったのです。皆様、それをぜひ理解してほしいのです。

 残念ながら、自衛隊でさえも最近はこういった歴史教育をしきれなくなつている。今回の検定意見撤回を求めた県民大会には制服自衛官までもが参加していました。

 実は私は今日、「新しい歴史教科書をつくる会」が行った記者会見に同席し、沖縄戦のネガティブなところだけ教科書に掲載するのではなく、今お話しした内容のことも掲載してくれと要請いたしました。



疎開で十六万人の命が助かった


ここでもう一度、要点を四点確認申し上げます。

 第一は、疎開計画に基づいて、延べ百八十七隻の船舶と車輌をもって十六万人の命が助かったという点です。ちなみに、沖縄戟における非戦闘員の犠牲は三万六千九百五十六人で、この方々の多くは県の避難勧告に従わなかったからこうなつたのであります。はつきり言わしてもらいます。

 第二に、憲兵による避難誘導の話です。この憲兵の方は最後まで住民の避難誘導につとめ、戦死されました。

 第三に、大田海軍中将が最期の電文「沖縄県民斯ク戦ヘリ、後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」を打電しました。沖縄が昭和四十七年に返還された時、当時の佐藤総理は「沖縄県民の労苦に報いることであれば、国費をいくら投入してもよい」と述べ、その結果、平成十二年までに約十兆五千億円が投下されました。隣の奄美大島は戦前より人口が.減っていますが、沖縄県はこの結果、ブクブク太って戦前の人口の二倍を突破し、現在百三十人万人に達しています。

 第四に、最近、共通一次試験にも出題されましたが、「沖縄にある米軍基地は、在日米軍基地の七五%が集中している」という話です。しかし、これは大変なデマゴギーで、実は沖縄にある在日米軍基地は全国の二三・五%しかありません。七五%と言いますのは「米軍専用施設」の中だけの比率であり、岩国、三沢、佐世保、横須賀等の広大な施設、これら米軍・自衛隊共有施設は分母に含まれていないのです。ところが、こういったデマが全国民の頭の中にまで組み込まれてしまい、「沖縄の負担に鑑みると意見を言えない」という国会議員の先生方もいっばいいらつしやるのです。

 先ほど申し上げましたように、沖縄県は対馬丸記念館を建てたり、平和祈念資料館の蝋人形をつぐつたり、反日施策を実施している。一方、政府は沖縄県民におもねって金をドンドン投下しています。この悪循環の下に、県内の児童と本土から来た青少年がこのような施設を見て、「ああ、日本軍はけしからんな」と当然思わせられ、左翼のウイルスを頭に残置させられるのです。ですから、厳しい意見や反論も沖縄県民にどんどん言ってください。不要な哀れみをする必要ありません。

 私はまともな沖縄県民として、勇気を持ってこれからも行動して行きたいと思っております。

 (本稿は、平成19年11月13日に行われた講演の抄録です。)

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