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2010年 大河ドラマ 『龍馬伝』コミュの● 坂本 龍馬

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1835(天保6)〜1867(慶応3) 享年33歳

 【土佐藩】 【海援隊隊長】

幕末の動乱が生んだ 言わずと知れた幕末最大の英雄。
『薩長同盟』も『大政奉還』も龍馬の働きが大きくモノをいった。

知力 ★★★★
剣力 ★★★★★
財力 ★★★★
大志 ★★★★★
魅力 ★★★★★


 【評価のポイント】

薩長同盟をまとめ、大政奉還への道筋をつくる。


 【思想・考え】

身分制度を失くし、平等で平和な世の中を誰よりも望んだ、
『歴史上一の平和主義者』。

その為の、倒幕という大目標の為には、その手段にはこだわらない。
攘夷の無理を悟って、西欧文明や最新兵器の導入にも最も積極的だった。

「日本を今一度 洗濯致し申し候」

28歳の時、郷里の姉に送った手紙に記された一説どおり、
古い日本を綺麗に洗濯し、新しい世の中を作った。




 【日本史のなかでも人気No.1】

坂本龍馬は司馬遼太郎の小説『龍馬がゆく』がヒットして以来、
幕末最大の英雄に祭り上げられた。
キャラは違えど織田信長などとともに、
日本人には最も人気のある歴史上の人物である。

坂本龍馬は高知(土佐)城下にある商家・才谷屋の次男坊として生まれる。
商家ではあるが身分は下級武士の『郷士』。
土佐では上級武士の『上士』と下級武士の『郷士』に別れ、
郷士は上士に厳しく虐げられてきた。
龍馬の実家は商家で儲かっていた為、
並の上士よりもよっぽど裕福だった。

龍馬も他の郷士の子らとともに兵学や剣術を習った。
子供の頃は泣き虫でイジめられっ子だったが、
ぐんぐん成長して体力がついてくると剣もメキメキ上達。
ついには小栗流の目録を取得する剣士として、
郷士仲間から一目おかれる存在に。
やがて、江戸の千葉定吉道場で修行して『北辰一刀流』の免許皆伝を得た。
身長6尺(約172センチ)、
当時としてはケタ外れの大男が上段から振り下ろす剣は迫力満点。
その強さは一目も二目もおかれ、
武市半平太とともに郷士たちのスター的存在となる。

武市が結成した『土佐勤皇党』にも加盟したが・・・
龍馬は武市のように尊皇攘夷思想を盲信することはなかった。
むしろ、西欧の最新技術や先進的な政治システムに興味がそそられる。
もともと商家の生まれである龍馬は、
武士のように教条に凝り固まることなく、
優れたモノの価値を正当に評価できる柔軟な発想をもっていた。
そんな、龍馬だけにやがて尊皇攘夷の限界を知り、
脱藩して武市らの行動とは一線を画すようになる。

尊皇攘夷派が標的として狙う幕臣・勝海舟に心酔して弟子入りし、
神戸海軍操練所の設立に尽力する勝の手足と働いた。
この頃から、剣の限界も悟って、
「銃の前では剣なんぞ役にたたん」と、
護身用に高杉晋作にもらった拳銃を持ち歩くようになった。




【薩長同盟をまとめた明治維新最大の功労者】

勝海舟が海軍奉行並を解任され、
龍馬も操練所での職を失ったが、
勝の下で働くうちに福井藩主・松平春嶽をはじめ,
様々な実力者との人脈もでき、
また、艦船の操縦や運用などについても知識を得た。
これが後の雄飛を助けることになる。

龍馬は土佐脱藩者や海軍操練所の仲間を集めて、
長崎の亀山で『亀山社中』(日本初の株式会社)を創設。
交易の仲介を行う日本で初めての商社であり、
後に『海援隊』と名を変えて海運業務などにも手を広げた。

この海援隊は利潤を追求する商社であるとともに、
倒幕を目指す秘密組織でもあった。
京都に潜伏する同士の中岡慎太郎と連絡をとりながら、
倒幕軍の主力となるべき薩摩藩と長州藩の軍事同盟を画策した。

そして、龍馬の尽力により京において西郷隆盛と桂小五郎の会見が実現。
薩長の秘密同盟が締結されると、
薩摩藩はその盟約に従って長崎の外国人商人から、
最新の銃や大砲などの兵器を購入して長州藩へ供与、
その見返りとして長州藩内で余剰となっている米が薩摩藩に送られた。

また、武器の購入、薩摩と長州の間での移送業務などは,
全て龍馬の海援隊が受注している。
ちゃっかり商売のほうも利潤をあげるあたり、
商才のほうもなかなかである。

この頃から、龍馬の名は佐幕派、
討幕派の双方で知られた存在となる。
とくに政治紛争の京では、指名手配犯として幕史に追われたり、
暗殺者の標的となることもしばしば。
伏見の寺田屋で襲撃された時は、後に妻となるお龍の機転で、
からくも逃走に成功したが指に重症を負ってしまう。




【古い日本の大掃除を終えて龍馬は凶刃に散る!】

やがて倒幕の波に乗り遅れた土佐藩も、
薩長同盟によしみを通じるため龍馬との提携を欲してくる。
龍馬の脱藩の罪を許し、海援隊にも資金援助を申し出てきた。
ここに龍馬は土佐藩という後ろ盾を得ることができた。
政治活動をするには一介の浪人よりは、
やはり土佐藩士であるほうがなにかと有利だ。

土佐藩と龍馬の海援隊との連絡役は,
土佐藩家老・後藤象二郎が担当したが、
龍馬はこの後藤に京へ向かう船中で、『船中八策』を提案した。
これは、『大政奉還』による穏便な政権の委譲と、
その後に徳川家や薩長などの雄藩が、
力を合わせ日本を統一する方針や、
新政府の創案などが盛り込まれている。
後藤はこれを土佐藩主・山内容堂に提出し、
土佐藩の進言として将軍・徳川慶喜を説得して、
見事に『大政奉還』を実現させた。

このように武力を使わずに、
後藤象二郎から土佐藩主を通じて、将軍を説得し、
平和のうちに政治の実権を明治維新政府にひきわたせた
この『大政奉還』のようなことは、
世界の歴史にも例がない偉業である。

しかし、その直後・・・ 
龍馬は潜伏中だった京の醤油商・近江屋で盟友の中岡慎太郎と面談中に、
乱入してきた暗殺者数名の凶刃に倒れる・・・・
龍馬が目指した平和のうちに政権移譲を行うという方策は、
龍馬の死後、薩長勢力のさらなる拡大を目論む者たちの陰謀によって反故とされ、
鳥羽伏見の役が勃発して旧幕府軍と新政府軍は全面戦争に突入する。

龍馬を暗殺したのは、この戦争を望む薩長の勢力だったとも、
また、『大政奉還』に恨みを抱く新選組や京都見回組などの、
旧幕府組織だったとも言われるが、
多くから命を狙われる立場だっただけに、その真相は現在も謎である。

つまり龍馬は、誰よりもみんなの平等と平和を強く望んでいたのに、
みんなから命を狙われる立場となった。
時代とは皮肉なもので、世の中とは理不尽かつ残酷なものである。

人を愛し、平和を愛し、自由と平等な世の中を目指した龍馬。
筆まめで家族や仲間への温かい心配りを大切にした龍馬。
いつも大きな夢を持ち続けた龍馬。



「我がなすること 我のみぞ知る」


他人にどう思われようが信念を貫き通した男の生き様を、
この龍馬の遺した言葉が表している。

龍馬に辞世の句は残されていないが、この一節に、
彼の人生が凝縮されている感がある・・・・

コメント(2)

かなり神格化された竜馬像ですね。

歴史上唯一の平和主義者は言いすぎでしょう。

世界史にはガンジーがいますし、

日本史においても、福岡孝悌は最後まで平和的維新を唱えてました。

あと突っ込みどころが多いです。

 elricさん >

コメントありがとうございますわーい(嬉しい顔)

そうですか、すいません・・・

私の中では、坂本龍馬こそ最高の人物と、そう勝手に思っていますので、
あくまで私の主観がかなり入っていますたらーっ(汗)

その点はあやります・・・


あと、他にもまだまだ勉強不足な点については、
否めませんが、その旨、ご理解およびご了承願います。あせあせ(飛び散る汗)

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