白樺派から民藝までコミュの最後の白樺派

毎年、この季節になると思い出すことがある。
いまから31年前の大学4年生の冬休みのこと。ぼくは当時内定していた出版社の社長の命令で、作家の里見弴(さとみ　とん)の家に大掃除に出かけた。里見先生といえば、当時、90歳を過ぎた白樺派の大文豪だった。最後の鎌倉文士といわれ、鎌倉駅からほど近い閑静な住宅街のたいへん趣のあるお宅にお住まいだった。部屋には梅原龍三郎や有島生馬(里見先生の実兄)といった錚錚たる画家の絵が飾られ、ぼくは一点一点取り外しながら、額縁の裏などを掃除した。何十点もの絵が飾られているのだが、里見先生はすべての位置を覚えており、かけ間違えたりすると「君、それは違うよ」といわれ、かなり恐縮した。
なかでも驚いたのは、里見先生は学習院から東大、白樺派という経歴なのでどんなやんごとない言葉を使うのかと思っていたら、江戸っ子のべらんめえ調だったのである。しかも「志賀の野郎(作家の志賀直哉のこと)がなんとかしやがってよ」といった、かなりぞんざいな口調だった。背も五尺足らずの極めて小さな人で、蹴飛ばしたら骨が折れてしまいそうな感じだった。
書庫には和書がずらりとあった。タイトルは思い出せないが、明治・大正時代の小説の貴重な初版本がずいぶんとあったと思う。

昼過ぎに出かけて夕方には掃除が終わり、それから忘年会になった。なにせ里見先生の実の兄貴は有島武郎、師匠が泉鏡花、親友が志賀直哉や芥川龍之介という文学史上に輝く作家ばかりで、話を聴いていて自分が文学史の一場面に立ち会っているような気がした。有島武郎情死の下りになると「自殺はいけない」といわれ、この老文豪がおいおいと泣くのである。吉原や花柳界の話なども随分と聞いたような気がする。たしか関東大震災のときは、里見先生は赤坂の待合にいたとか。
里見邸では酒は最初の乾杯のときだけお酌して、あとは自分のペースで飲むように手酌というのが流儀だった。ぼくはいい気になって相当に飲んだ。何を話したのか覚えていないが、若造なりに相当に背伸びをしていたのだろう、里見先生から「君はなかなか学があるね」といわれ、恐縮したことだけは記憶にある。しかも何か宴会芸をやってウケたような気がする。23歳の青二才が90過ぎの老文豪に向かって、ずいぶんと生意気なことをしたといまでも赤面ものである。そして、ぼくは里見邸の便所で吐いてしまった。お手伝いの女性から「みんな最初に来た人はやるのよね」といわれた。
その前の晩から自分は文学史上の大作家に会うのだと妙に高揚していたことを思い出す。

里見邸の大掃除・忘年会にはその後も先生が亡くなるまでの3年間は毎年、通った。その間もちょくちょくお使いなどで里見邸には出入りして、先生はぼくのことを覚えてくれた。
いまでもぼくの年で、里見弴と一献やったなんていう人はほとんどいないと思う。ぼくは幸いなことに若い頃から錚錚たる文学者に接することができた。作家の永井龍男さん、中里恒子さん、詩人の田村隆一さん、北村太郎さん、歌人の山崎方代さんなどの鎌倉文士たちと酒席を共にし、謦咳に接することができたのは本当に貴重な経験だった。最後の鎌倉文士にかろうじて間に合った。
鎌倉にはその後も江藤淳さん、井上ひさしさんなどが住まわれ、いまも藤沢周さん、柳美里さんなどの作家が住み、ぼくとも親交がある。文士という言葉は死語になってしまったけど、いまも鎌倉には作家が多いのである。

里見弴先生のご子息も健在で、ぼくとも昵懇の関係。山内静夫さんとおっしゃり、小津安二郎の名画のプロデューサーだった人である。「晩春」で松竹の宣伝に携わってから、「早春」以降、「秋日和」、遺作となった「秋刀魚の味」まで数々の小津映画のプロデューサーとなった伝説上の人物。いまや小津組で健在の人は4人となってしまった。山内さんは鎌倉の名士で、ぼくともときどき一献付き合ってくださり、お宅にもちょくちょくお邪魔する。ちなみに小津の「秋日和」、「彼岸花」は里見先生の原作である。有島家は映画と縁が深く、山内さんの従兄弟で、有島武郎の長男である森雅之は名優として知られた人である。黒澤明の「羅生門」や「悪い奴ほどよく眠る」、溝口健二の「雨月物語」、成瀬巳喜男の「浮雲」など数々の名画の主役を務めた。
山内さんはぼくが席亭を務めている鎌倉はなし会の共催者である、鎌倉市文化振興財団の前の理事長で、鎌倉文学館の前館長でもあった。山内さんがぼくに「一緒に落語会をやろうよ」とすすめてくださったのである。
山内さんも小津さんも里見先生も大変な落語好きなのであった。
いま、山内さんは87歳、親子二代にわたる付き合いができて、幸せである。