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清澄さんコミュのロミオとシンデレラより その3

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「二人共、今はもう此処には居ないんですけど」
「え?」
 空気が変わる。
 思わず声を上げた古賀坂を見つめて、燈夏は白いティーカップを手に取ると、
「一番上の姉は病気でした。真ん中の姉は……火事で」、
「それって、どっ、どういう……」
「二人目の時にはもう毒も残ってなかったんです」
 まさに。
 毒でも打たれたような気になって。
「あ、あの? えっと」
 古賀坂は組んだ指先を強張らせた。持てる知識と経験を総動員しても燈夏の発言に手向けできる台詞を導き出せない。海鳴《うみなり》にも似た重いうねりが横隔膜から吹き上げて鼓膜を叩き、重力への抵抗を失った頭は自然と俯くように垂れさがり、極限まで張り詰めた緊張は容赦なく鼓動を押しつぶした。
 沈黙の中で、黄昏時とはまるで思えない日溜りがテーブルの上、揺れる。
 千尋《ちひろ》の底から望む水面《みなも》にも似ていた。
「……ごめんなさい。つまらない嘘でしたね」
 余韻を照れ笑いで塗り替えて、燈夏はそっとカップを傾けた。喉の曲線がわずかに上下するのを合図に、古賀坂はどうにか口を開く。喉は焼けついたかのように熱かった。
「いえっ! どっ……どきどきしました」
「でしたら尚更謝らなくてはいけませんね。本当にごめんなさい。今日は二人共、用事があったみたいなので」
「は、ははっ、そうですよね」
 拙《つたな》い相槌を返す一方で、しかし回り始めた毒は古賀坂に傍観者の視点を与えていた。
 もちろん、虚言《きょげん》の類に含まれる言葉だろうとは最初から気付いていた。
 絶句したのは――そこに、ではないのだ。しかし思考の海へと潜ろうとするその間に、燈夏はカップを空にして古賀坂を見つめていた。もう一度、緩慢に顎を引くと、
「わたしも、よく皆から注意されるんです。あなたの話には嘘や誇張が多すぎる、って」
「嘘って、先程のような?」
 控えめな問い掛けに、燈夏は「ええ」と、まるで悪気もなさそうに首肯し、
「道徳も遠慮も必要としない、そもそもの意さえ失った嘘です。悪い癖だと思うんですけど……なかなか止められなくって。ですから、友達も少ないんですよ」
 舌禍《ぜっか》が招いた孤独なら、古賀坂にもよく覚えがある。それこそ、痛い程に。
 だが、その口調と自身の生活とを重ねるようと試みても、失敗ばかりが繰り返された。冷静になれば、まるで似通っていないのだから当然なのだろう。燈夏の口の端からも、それは明らかだった。
 恐らく彼女の悪癖は――他者の価値観によって形成された、本人からすれば認めざる『悪』――なのではないか。
 でなければ、笑顔で不遇は語れない筈である。少なくとも古賀坂には到底真似出来ない。
「……だったら、嘘を吐かなければ良いんじゃないですか?」
 呂律《ろれつ》に神経を配りながら、古賀坂は常識をそらんじてみるが、
「正しい意見ですね」
 同意する彼女に、しかし表情の変化は見られなかった。燈夏は両指をテーブルの上で絡め合わせると、面白がるように目尻を弛ませて、
「ところで古賀坂さん。嘘って……一体何だと思いますか?」
 古賀坂は唸り、
「一言で言えば、事実じゃない事柄でしょう」
「でしたら、なぜ古賀坂さんは彼の絵を?」
 すかさず語尾を跳ね上げながら、燈夏は軽く視線を巡らせた。
 彼が誰を指し示しているかは、確認するまでもない。
 ミレイだ。
「……それと今の質問と、関係性はあるんですか?」
 気付いただけで、もう。古賀坂の声は低くなっていた。
「あると思います。古賀坂さんならお分かりでしょう? あの『オフィーリア』は、決してシェークスピアのオフィーリアじゃありません。例えミレイが題材に用いたとしても、水面に浮かぶ彼女はリジー。エリザベス・シダル以外の何者でもない筈です」
 古賀坂は思わず眉根を寄せ、初めてこの見目美しい少女を本心から訝った。繊細な琴線《きんせん》を荒々しく爪弾かれたのだ。これまでの警戒とは質の違う虞《おそれ》が滑る氷のように背筋から首元の熱を奪い、可憐な外見さえも今は余計に腹立たしくなった。
 確かに『オフィーリア』のモデルは、ラファエル前派と親交の深かったエリザベス・シダルであって、ハムレットに愛を注いだオフィーリアではないが――
 彼女の理屈は子供の駄々に等しい。
 神聖な世界を冒涜《ぼうとく》する、愚者の軽口だ。
 身を乗り出しくなるのを我慢して、しかし喉にだけは力を注ぎつつ古賀坂は咳を払う。
「ちょっと待って下さい。そんな事を言ったら、全ての絵画が嘘の産物になってしまいますよ」
「そうです。ベラスケスの大胆巧みな筆致《ひっち》も、アングルの描いた精緻で艶《あで》やかな肖像画も、写実描写の頂点とされるカラヴァッジョの『果物籠』でさえ、わたしには全て、等しく嘘に見えます。当然ですよね? キャンパスの上の出来事ですから」
「あなたは彼等を馬鹿に――」
「馬鹿になんてしていません。だって、わたしは嘘が大好きなんですから」
 沸点にまで達した怒りにも、燈夏は優美な笑みを貫いていた。好意の言葉に虚を突かれ、古賀坂は反論を挟む機を見失ってしまう。
「嘘といえば、大概の人がすぐに悪意を連想しますよね? 誰かを騙す為の嘘や、自分を飾る為の嘘。でも、事実と相反する事柄を嘘の本質とみなすなら、結局その悪意は偏見でしかないと思うんです」
 淀みない口調で、燈夏は古賀坂をじっと見つめ、
「例えば、もしもあの『オフィーリア』がミレイの作品ではなかったとしたら、古賀坂さんはミレイから興味を失いますか?」
 鈴のような問い掛けは、逡巡《しゅんじゅん》と苦々しさを滲ませつつも、古賀坂を重々しい首肯へと導いた。
 古典美術には贋作《がんさく》への疑心が常に付き纏う。
 真贋の境界は賽《さい》の目のように変わり、時に観衆の慧眼《けいがん》を試すもの。論拠となり得る記録が文献や絵具の状況でしかない限り、それらを結び付けるのはやはり人間の恣意《しい》でしかなく、過去の芸術に絶対を求める行為は、それこそ愚の骨頂に他ならないのだ。
 悔やむべきは、燈夏に胸の靄《もや》をぶつけられなかった事だろう。
 報いたくとも、古賀坂にはその一矢を見つける事さえ出来なかった。
「……わたしにとって、嘘は自由奔放であり、そして欠片も価値のない存在なんです。だから、好きなんです」
 一息を入れて語る燈夏の表情は、目が離せなくなるくらいに陶然《とうぜん》としていた。
 もはや、古賀坂が発せられる言葉は数少ない。
「でも……綴さんの嘘で、嫌な思いをする人が居るかも知れないんですよ」
「沢山居ましたよ。皆、わたしを嫌い、離れていきました」
 やはり燈夏は平然と言い、気付けば、古賀坂はその言葉を口にしていた。
「……淋しく、ないんですか?」
 燈夏はさらり、と首を傾け、
「古賀坂さんに嫌われるのは、淋しいですね」
「その嘘には、わ、笑えませんよ」
 自然と眉根を寄せ、古賀坂は息を絞る。
 だが、燈夏は「嘘じゃありませんよ」と、古賀坂の手に白い指先を這わせて、続けた。
「どうですか? もうすぐ閉館になりますので、この後……お食事でも。わたしの言葉が、嘘かどうか、古賀坂さんに判断して欲しいのです」
 手の甲に宿った熱に、古賀坂は身を震わせ――ふいに思い上がった。
 どうして彼女は、『オフィーリア』が好きなのだろうか、と。
 もしもあの切欠さえも、古賀坂を手繰り寄せる為の嘘だったとしたら――




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