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清澄さんコミュのジュゴンの見える丘より 後編

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ttp://www.youtube.com/watch?v=wNKg-qjv5_I&feature=related






 眠りに落ちていたティヌの耳に喧騒《けんそう》が届く。
 驚声に、怒声に、誰かの泣き声だろうか。
「……何?」
 腫れた目許を擦りながらティヌは呟き、まずは砂浜の感触を知った。
 どうやら、泣き疲れてしまったらしい。べっとりした感触の上着には、鼻先をひりつかせる嫌な臭いがこびり付いている。腰元の顔料さえ解かずにいたせいで――零れたのだろう。白砂のベッドはあたかも花園の如き極彩色で装飾されていた。
「……いけない」
 服に付いた砂を払いつつ、ティヌは立ち上がった。当然ながら、水面から儒艮は姿を消していた。しかしティヌの視線はすでに聴覚を辿るように流れている。
 覚醒と共に、喧騒は鮮明に聞こえて来ていた。
 捉えたのは、走る人影。
「四人だっ! どうやらデュマーフ達らしいっ!」
 聞き取ったその名に、思わずティヌは瞼を見開いた。
「デュマーフ?」
 チュラクン達と共に、戦いに向かった若者の一人だ。あわててティヌは首を巡らせ、声が聞こえた方角に目を凝らした。
 おそらく声を荒げた者だろう、風巻《しまき》のように砂埃を絡ませながら、後ろを追従する仲間達に向け大きく片手をはためかせている。
 駆け出していたのは、彼等だけではなかった。遠くの島からも人々は流線を描き、誰もが皆、一つの浜へと向かっているように見えた。
「……帰って来たの?」
 声が出るよりも早く、ティヌの両足は走り出していた。道を選ぶ余裕すらなく、淡く霞んだ喧騒の中心へと最短距離で。両の瞳を釘付けた、三つ隣の浜へと。
 琥珀を生む森をティヌは疾走する。ひねこびたエプナの松が行く手を阻む。突き出た枝葉が肌を掠める。今は擦り傷さえ、その足を止めるに至らない。一人、また一人と。心臓の悲鳴も構わずに、掛ける仲間達を追い抜いていく。
 抜き去った背後で自分を呼び止める声が聞こえても、ティヌが振り返るはずなどない。ましてや踵を返すはずがない。
 デュマーフの帰還が真実ならば、確かめることは一つしかないのだ。もう止まらなかった。
 森を突き抜ければ、耳に頼らずとも開けた視界が問い掛けの答えを映し出す。答えを知ったティヌは、呼吸をも止めた。他の一切を犠牲にして、全ての活力を両足に注いだ。
 浜辺に集まった十数人の大人達に囲まれたるは、壊れかけの舟が一艘《そう》。
 お伽噺じゃない。
 若者達が、帰って来たのだ。
「――チュラクンッ!!」
 叫ぶように、ティヌは両手を広げる。
「ティヌッ!?」
 しかし喧騒の中から返って来たのは、母親の驚声だった。駆け寄るティヌの姿に気付いてか、まるで行く手を遮るように諸手を前に突き出した。
「駄目よティヌッ! 家に入ってなさいっ!」
 その言葉を今のティヌが理解出来る訳もなく、
「嫌だっ! チュラクンはっ!? 帰って来たのは誰なのっ!?」
 決して速度を落とさずに、母親の脇を擦り抜けていく。一
 舟を取り囲む大人達を縫うように身を屈め、ティヌは船の元へと滑り込み――
 船縁にこびり付いた血の痕を見た。
「……え?」
 そう呟いたのは誰だったか。呆けたようにティヌは周囲を見やった後で、それが他でもなく自分自身が発したものだと気づいた。舟を取り囲んだ大人達は皆、押し黙るように口を噤んでいたのだ。
 帰還した舟は、若者達を乗せたあの帆船とは程遠い小ささの、どう見繕っても四、五人位しか運べなそうな代物だった。細長い胴、継ぎ接ぎの板材には至る所に皹が入り、荷物どころか櫂は一つとて見当たらない。島で生まれ育った者ならば、絶対にこの舟で大陸を目指したりはしないだろう。何よりも目を奪って離さなかったのは、舟底に溜まった夥《おびただ》しい血溜まりだった。
 渦を巻くように飛び交う小蝿。
 口元を覆いたくなる錆の臭。
 泥に塗れたような紅。
 デュマーフの姿など、何処にもない。
「…………どういう、事?」
 誰に尋ねれば良いかも分からず、ティヌは声を上げた。しかし誰も口を開きはしない。開けなかったのだろうか、開きたくなかったのだろうか、それさえも読み取れなかった。
 それでもティヌは船縁の血へ手を伸ばそうとして、
「ティヌっ! 触っちゃ駄目っ!」
 叱責と共に、背中から母親に押さえつけられる。抵抗もせずに、ティヌはかくん、と頭だけを垂れた。忘れていた筈の呼吸が、血の酸味によって促される。錆の臭いに嘲笑われているような気さえした。波の音などは、それこそあからさまに鳴り喚く。
 何がそんなに可笑《おか》しいのだろうか。崩れるようにティヌは膝を付き、定まらない瞳を釘打つように背後へと向けた。
「……お母さん……デュマーフ、は?」
 数瞬だけ、母親は眉根を寄せるが、しかしティヌは顔を背けなかった。求めていたのは表情ではなく、言葉だけだった。
 深い息を吐き、母親はティヌから手を放すと、
「死んでいたわ。此処に辿り着いた時は、もう」
 そう言って、ティヌの髪を撫でる。先程までの握力がまるで嘘のような、それは慰めにも似た手付きだった。
 撥ねのけたくとも、しかしティヌの身体は動かない。
「……どうして」
「斬られた傷が、残っていたの。恐らく、亡くなったのはずっと前だろうって、長老達は言っているわ」
「……帰って来たのは、デュマーフだけなの?」
「四人よ。デュマーフとガルシャ、デュデュンと……アバンダ」
「皆も、もう……?」
 その問い掛けに対しては、母親は何も言わなかった。沈黙が導いた答えが、ティヌの瞼に潤ませていく。腰に括った皮袋達が、壷を纏った鉄鎖《てっさ》のように重みを増す。込み上げる嗚咽が吐息を苛め、瞼を閉じずとも、目に写る全てが夜の色に呑まれていく。
 ――お伽噺であれ。
 ティヌは、そう信じた。
「皆の葬は、夕刻に行われるわ。デュマーフ達の為に……ティヌも、いっしょに行きましょ?」
 闇を払ったのは、母親の声だった。いつの間にか、ティヌの小さな身体は抱きすくめられていた。温かい腕に包まれ、涙は勢いを増し――疑念は確かな輪郭を帯びた。
「じゃあ……誰が皆を運んだの?」
 囁くように、ティヌは言う。母親の強張りは肩越しに感じた。
「それは――」
「チュラクンは何処? 皆を運んで来たのは……チュラクンなんでしょ?」
 返事も望まず、ティヌは母親を突き飛ばして立ち上がった。人々のどよめきにも耳を止めず、がむしゃらに首を振り回して、
「……何で、何でっ!!」
 叫びと共に、ティヌは駆け出した。
 葬場から立ち昇る、一筋の煙へと。
 お伽噺であろうがなかろうが、それはあまりに残酷な絵だった。



 妄執《もうしゅう》は枷《かせ》となり、幼き少女の足取りを奪う。何度も窪みに爪先を取られ、何度もティヌは砂地に跪いた。しかし瞼すら拭わず立ち上がり、すぐさま腿を捻り上げる。
 膝頭から飛び散る赤い飛沫も気にならない。森の枝葉も目に入らなければ、波の声とて聞こえない。疾うに呼吸はままならない。悲鳴にも似た風鳴りが、自身の喉から洩れている事さえ気付かない。
「チュラクンッ……チュラクンッ!!」
 只、絶えぬ呼び掛けだけが、ティヌの鼓膜を震わせている。
 ――母親が行く手を遮ったことが、そもそも疑わしかった。
 船縁の血はまだ鈍く輝いていたのだ。触れればきっと、滴る程に。
 長老達の話を信じずとも、あれがデュマーフ達の亡骸から流れたものではない。理由など二の次で、胸の裡《うち》を覆う靄に鼓動を締め付けられるがまま、ティヌはそう感じていた。
 何故彼等は皆、口を噤《つぐ》んだのか。その事実と葬場から昇る煙とを、どうやったら安穏に結論付けられると言うのか。
 鬩《せめ》ぎ合う困惑が、鮮明になる葬場の光景によってさらに激しく暴れ出す。
 なだらな白砂の上に点々と染まる灰燼《かいじん》。枯木で組み上げられた、簡素な篝《かがり》。炎々たる加護なき焔。
 それは葬とは絶対に呼べぬ、ほんの僅かな人数。悔しげに口の端を結んだティヌの父親と、今まで見た記憶もない祖父の厳然なる横顔。
 そして二人の足元に横たわる一人の――
「ッ!! チュラクゥゥゥンッ!!!!」
 ティヌの唇からも、未だかつて発した事のない類の声が放たれていた。破れた腰の袋から鮮やかな色彩を振り撒きながら、少女は最後の一巻きと化す。それは多分、怒りだった。他に当てるべき名をティヌは知らなかった。
 獣にも近しい前傾姿勢で、チュラクンの前に立ちはだかった父親にティヌは飛び掛かり、
「ティヌッ!? お前どうし――」
「何をっ!! 何をしてるのよぉおおっ!!」
 その声を塞ぐように、父親の両肩に爪を立てた。しかし動揺を浮かべつつも、父親の力も強かった。抑え込まれぬようにティヌは乱暴に爪を振り翳す。怒りは益々迸っていく。
「どいてっ!! そこに居るのはチュラクンなんでしょっ!?」
「落ち着けティヌッ! チュラクンはもう……」
「何よっ!? 何が『もう』なのよっ!!」
 吠え返しながらティヌは横たわる青年に目を向けた。頭上から胸元までに布が被されているが、僅かにその身体は上下している。
 ――生きて。
「生きているじゃないっ!! 何で炎を焚いているのよぉっ!!」
「やめんか!! ティヌッ!!」
 祖父の言葉さえ今のティヌには許せない。
「うるさいっ!! これがっ! これが戦士に対する仕打ちなのっ!? チュラクンはこの島を守る為に――」
「黙れ!!」
 継句は、拳によって奪われた。砂地に叩きつけられたティヌは、しかし呻吟《しんぎん》の最中でも眼光を走らせた。両手は砂を抉り掴み、赤く血走った双眸から止め処なく涙が溢れて来る。
 父親もまた、ティヌの炯眼《けいがん》を受け止めている。口の端は、既に歪んでいた。
「……チュラクンが、この島が誇る戦士だからこそ、私達はこうして炎を焚いている。解ったか、ティヌ」
「そんなのっ! 解る訳――」
「解らぬなら、チュラクンを見れば良い」
 重苦しい呟きは、傍らの祖父が放ったものだった。ティヌは無垢なる睥睨《へいげい》を父親にぶつけたまま、胸の裡に広がる波紋を必死に抑えつけた。
「チュラクンを見るんだ、ティヌ。私達が何の為に、何をしようとしているか……自分の目で確かめれば良い」
 祖父の言葉からは、掬い取れる感情が一つも見当たらない。ティヌにとっては、それがあまりにも恐ろしかった。
「でも……チュラクンはまだ……」
 祈るように呟きながら、ティヌは四つん這いになって横たわる青年――愛しきチュラクン――の元へと近づいた。覆う藍色の紗布には、幾つもの禍々《まがまが》しい濁点が染み出している。捻転《ねんてん》するようにはみ出た両の腕は、古木のように細い。
 そんな筈はない。
 チュラクンの腕は、こんなに細くない。
 微かに繰り返される呻き声が、ティヌの前進を躊躇《ちゅうちょ》させる。指先から伝う震えが、すぐさま全身へと伝播《でんぱ》していく。あれだけ待ち焦がれていた筈の、再会なのに。
「……チュラクン? わたしよ、ティヌよ……」
 勇気を振り絞るように、ティヌはそっと耳元で囁いた。しかし呼び返す言葉は聞き取れない。返事と思しき、呻き声しか。
 ティヌまでもが、言語を失いそうになってしまう。
「帰って……帰って来たんだよ……チュラクン……」
 うわ言めいた泣き声が、思考を擦り抜けてティヌの唇から音色となる。脆弱に動くその掌へ、ティヌは自身の指先を繋ぎ合わせ、静かに紗布を捲り上げた。
 湿った布地の向こうに、チュラクンの面影はもう何処にもなかった。
 しかし、ティヌは目を背けはしなかった。
 虚ろにだが、確かに。窪んだ眼窩がティヌを見つめていたのだ。呻き声は、腐り落ちた唇からではなく、両頬に穿たれた洞から聞こえていた。
 ――それは見紛う事なく、愛しき人。
 だからこそ、ティヌは無理矢理に笑顔を浮かべた。
「……おかえり、チュラクン」
 淀む事なく言えたその一言を、ティヌは生涯忘れないだろう。
 後はもう、泣き崩れるしか術は残っていなかったのだから。
 鱗のように硬くなったその首筋に頬を擦りつけるようにして、ティヌは二年前の自分に戻った。チュラクンの胸元に甘えて、泣いてばかりの――自分に。
「チュラクンの病は……枯死病だ。あれは人にも感染すると聞く。大陸の蔓延も、人間の手によるものらしい」
 背後から、祖父がぼそりと語り掛けた。
「大陸なら兎も角……この島ではもう手の施しようがない。ティヌ、私達に出来る事は、もう……」
「だったら、わたしは最後までチュラクンの傍に居たいよ……」
 ティヌは言って、鼻をしゃくった。指先を繋ぎ合わせたまま、祖父を見つめる。
「チュラクンがもう助からないなら、せめて……お願い、最後の時まで一緒に居させて」
「それは駄目だ、ティヌ」
 言葉を継いだのは、父親だった。すぐさまティヌは両目を険しくして、
「どうして駄目なの? チュラクンはデュマーフ達を運んで、帰って来てくれたんだよ」
「枯死病をこの島に宿す訳にはいかない。チュラクンは此処で焼く。長老達からも承諾を既に得ている」
「それがどうしたって言うのっ!? わたし達の家族じゃないっ!? チュラクンは、この島を守る為に戦いに出たのよっ!! この島を守ってくれたんだよっ!!」
「そうだ。だから私達もこの島を守るんだ」
 そう言って、父親は首肯する。刹那にティヌの肌は粟立った。
「琥珀がそこまで大事――」
「馬鹿を言うなっ!! お前は何処まで愚かなんだっ!!」
 叫びと叫びが混じり合い、結果、ティヌは僅かに口を噤んでしまった。父親の声音もまた、悲しみを孕んでいたことに気づいた。
「この島は森の営みによって成り立っているんだぞ!! 琥珀だけじゃない! 家も舟も漁具も、全て森が齎す恵みだ! お前はチュラクン一人を生かす為に、この島の全ての命を脅威に晒せと言うのか!?」
「……でもっ! チュラクンはっ!!」
「解っている!! チュラクンは戦いの終わりを私達に教えてくれた誇るべき戦士だ! その英雄を……島を殺す患禍に…………ティヌ、お前はそうしたいのか?」
 吐き出すような声は、最後には弱々しい問い掛けへと変わっていた。
 答えを迫られたティヌは何も言えない。どちらも選べる訳がない。どちらの選択にも、悲しみは免れない。
 沈黙を、揺蕩う波が爪弾く。
 光を宿さぬチュラクンの虹彩をじっと見つめて、ティヌは瞼を拭い続けた。
「……大陸に行けば、チュラクンは助かるの?」
「もしかしたらの、話だ。ティヌ」
「命を賭して故郷へと帰って来た者を、再び海へと追い返すのか?」
 祖父は言い、父親は歯を剥き出しにする。きっとそれは先程のティヌと同じような表情だった。深い落胆と、怒り。
 ティヌは失念していた。
 チュラクンの果たした使命を。チュラクンが選んだ意思を。チュラクンが望んだ、場所を。
 正しい筈など、ないのだ。
「……チュラクンの最後を看取りたいのなら、好きにするが良い。但し、この島からは出て行って貰うぞ、ティヌ。この島を守る為だ、解るな」
 そう言って、父親はティヌから背を向けると、積み上げた薪を再び炎を放り始める。祖父もまた、ティヌを見つめるだけで、何の所作も示さなかった。
「……嫌だ……嫌だ、嫌だ……そんなの嫌だよ……」
 チュラクンの指を握ったまま、ティヌは呟くことしか出来ない。
「帰って……帰って来たんだよ……やっと帰って来たのに…………嫌だよ……」
「嫌なら家へ入っていろ。それともチュラクンを連れて海へ出るか? チュラクンがこの島の為に命を賭したなら、私も命を賭してこの島を守ろう。娘とて、容赦はしないぞ」
 背中越しに響く父親の言葉は、ティヌの願いを只の我が儘としか見なしてくれぬものだった。間違ってはいないと、ティヌも何処かで理解している。理解を拒んでも、その両足が動かなくなっている事こそが、何よりの証明だった。
 この場からも立ち去れず、チュラクンの傍からも離れられない。
 つまり、決断は為されていたのだ。
 選択の時は、疾うに過ぎ去っていた。
 炎はその輪郭を広げ、ティヌの頬から涙を吸い上げていく。チュラクンの手は、もう握り返す事さえ出来なくなっている。それでも呼吸だけは確かに続いていた。
「ティヌ、これを」
 耳打ちするように、肩越しに祖父が手を指し伸ばした。皺だらけの掌に乗せられていたのは、樹根色の丸薬だった。怯えたように、ティヌは息を呑む。
 それが何を意味するか、聞くまでもなかった。
「……眠らせてあげよう。私達の英雄を」
 そう言って、祖父はティヌに丸薬を握らせる。
「ティヌが望まぬなら、私がチュラクンに呑ませる……決めなさい」
 口を開けたまま、ティヌは瞠目の瞳を祖父へと押し付けた。すぐさま首を横に振るが、優しく取り上げようとする祖父の手付きも、ティヌは許しはしなかった。奪われぬように胸の内に抱え、そのままチュラクンの首筋に顔を埋める。
 樹皮よりも硬い愛しき身体は、しかし温かかった。
 ティヌは瞼を閉じて、耳を打つその鼓動を鼓膜にじっと宿す。
 そのまま、指先に力を込めた。
 夜の色。
 体温。
「……チュラクン」
 ティヌは顔を上げると、もう一度、その名を呼んだ。
 チュラクンの口が、微かに動く。
 ――紡いだのは――
「わたし……」
 ティヌは呟いて、その口に唇を重ねた。
 波音は、脆弱な嚥下《えんげ》の音と共に。
 
 チュラクンの亡骸は、一筋の煙となり、夜明けの雨を齎した。


 
 凪いだ合間を謳うように、儒艮が波間から顔を覗かせる。
「……あ」
 すぐさまティヌは筆を取り替えて、足元に並べた皮袋の一つに指先を忍ばせた。摘み上げた白磁の色は、ほんの一握りの色彩だった。
 空の木皿に振り撒くと、ティヌは水面を見据えたまま手早く筆を躍らせる。捻転する粉末と水滴は練り合うように膨らんでいき、出来上がった顔料は混ぜ合わせる必要もなく、儒艮の肌を聯想《れんそう》させた。筆先に乗せた雫を羊皮紙へと滑らせ、
「……動かないでね」
 あやすような声音で、ティヌは海へと微笑んでみた。
 チュラクンの葬を終えて、今日で八日目になる。
 枯死病を患った者への接触から、この葬場へと隔離されて、もう八日目だ。明日か明後日には、再び家へと迎えられるのだろう。今のところ、ティヌ達に感染の兆しは見られない。今日も、母親は泣き顔と笑顔の繰り返しで忙しかった。
 父親も祖父も、同じ処置で別の島に置かれているとティヌは聞いている。
 皆、覚悟の上だったのだ。
 覚悟が足りなかったのは――
「……チュラクン」
 堪えきれず、ティヌはその名を呼んだ。筆を握る左手も、羊皮紙を押さえる右手も落ち着かない。しかしどちらも決して離したりはしない。
 儒艮とて、動かない。まるでティヌを見つめているかのように。
 故に、ティヌは言葉を紡いだ。
 ――死にたくない、と。
「チュラクンは、言ってた……チュラクンは、そう言ってたんだ……」
 声なきその声を、しかしティヌは自分の胸にだけ預けた。父親にも祖父にも、誰にも明かしたりはしなかったし、明かすこともないだろう。
 チュラクンの望みを断ち切ったことが、島を守る為に科せられた咎だと言うならば。
 その罪は、自分一人で守りたかった。
 戦いは、ひとまずの終焉を告げた。ティヌは母親からそう聞いた。
 何人かの若者は、傷付きながらもこの島へと帰還を果たし、琥珀の交易などは相変わらず続いていくらしい。書き溜めた拙《つたな》い絵は、纏めて母親が持って行ってしまい、代わりに沢山の顔料がティヌの仮宿である葬場に齎された。寝屋の感触を除けば、何一つとして変化のない生活かも知れない。
 確かにそれは、お伽噺だった。
 かつて幼子だったティヌが、何度も首を傾げた、謎掛けのような結末。
「……チュラクンは、この島を守ってくれた」
 そしてティヌもまた、この島を守った。
 そのどちらに正しさを求めるのか――正しくなかったのは、只、それだけのこと。
 ティヌは再び、筆を握り締めた。
 手にした羊皮紙には、波と戯れる儒艮を見つめながら――
 浜辺に寄り添う二人の背中が描かれている。
 





コメント(1)

ひとまず誤解のないように
○琥珀は樹脂の化石みたいなもんです。これに登場する「琥珀」は正確には人工的に作られた紛い物です。信じると恥をかきます、ごめんなさい。色々そこら辺も考えてはいましたが、余計な話なので省きました。舞台に登場する森が松なのもその為です。まぁどうでもいい話。

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