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ザ・フォーク・クルセダーズコミュのフォークルの歴史

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ブレイク後のフォークルの軌跡は、誰もがご存知でしょう。
ここでは、『イムジン河』発売中止までの、アマチュアからプロへと転身していくフォークルの歴史を書いてみたいと思います。
なお、以下の記述の大部分は、2002年フォークル新結成の際に立ち上げられた公式ウェブサイトの掲示板に、私が「史料編纂室長」のハンドルネームで書き込んだ内容と重複することをお断りしておきます。



1965年8月、龍谷大学1年生だった加藤和彦氏が、「メンズ・クラブ」9月号の読者欄に、「フォーク・コーラスを作ろう。当方バンジョーと12弦ギター有。フォークの好きな方連絡待つ」と告知を出しました。
京都府立医科大学1年生だった北山修氏は、妹の自転車に乗って、加藤氏の自宅を訪れました。
北山氏は、加藤氏の部屋の本棚に並ぶ国内外のフォーク関係の文献の充実ぶりに圧倒されます。
加藤氏の呼びかけに応じ、10数名の男女が連絡をとってきましたが、結局、北山修、平沼義男(山城高校3年生)、芦田雅喜、井村幹夫(いずれも浪人生)というメンバーで、アマチュアのバンド「ザ・フォーク・クルセイダーズ」がスタートしました。

フォークルの初舞台は、65年9月1日、京都西陣カトリック教会での「プリティ・コンサート」でした。
その後、フォークルは京都府立医大の「医大祭」等、学園祭のステージに登場しますが、結成からわずか2か月後、芦田、井村の両氏が、受験勉強のため脱退しました。
メンバーは一時、加藤(12弦ギター、バンジョー)、北山(ベース)、平沼(ギター)の3人となりましたが、翌66年春、芦田氏が大阪外語大学に入学し、復帰しました。フォークル、アマチュア時代の全盛期が始まります。
そして5月。京都の学生フォーク団体「A.F.L」の第1回コンサートが、シルク・ホールで開催されます。
「A.F.L」の中心的存在だったのが、フォークルと、そして端田宣彦氏の率いる同志社大学のドゥーディー・ランブラーズでした。

1966年12月9日、フォークルは、TBS「ヤング720」でテレビに初出演しました(オンエアは12月19日)。
当時のフォークルのテーマは、「世界の民謡を歌うこと」でした。
その流れの中で、彼らは「イムジン河」と出会うことになるのです。

「イムジン河」をフォークルに紹介したのは、北山修氏の高校時代からの友人であり、フォークルのブレーンだった松山猛氏でした。

松山氏が中学生の頃、彼の住んでいた京都では、日本人と朝鮮人の子供たちの間で、喧嘩が絶えませんでした。時あたかも、朝鮮戦争終結から数年後の頃です。
不毛な争いを終わりにしたいと願った松山少年は、朝鮮人の子供たちとサッカーの試合をして、交流を深めようと計画します。そしてある日、小学校時代の友人が通う朝鮮中高級学校を訪ねていきます。
サッカーの試合を申し込みに訪れたその朝鮮中学校で、松山少年は校舎のどこかから流れてきた美しい女性コーラスの音色に心を奪われます。それが「イムジン河」でした。

それから少したって、加茂川べりでトランペットの練習をしていた松山少年は、やはりサックスの練習をしにきていた顔見知りの在日朝鮮人の少年から、「イムジン河」の歌詞を教わります。
松山少年がその時教わったのは、「イムジン河」の一番の原詞とその日本語訳だけでした。メロディーは、楽譜を入手したわけではなく、松山氏の記憶の中に残っていたのです。

それから5年。京都でフォーク・クルセダーズが誕生し、関西を中心にブレイクし始めます。加藤氏、北山氏と親交の深かった松山氏は、この歌を歌ったら、と「イムジン河」を紹介します。

松山氏の記憶の中に眠っていた「イムジン河」のメロディーを加藤氏が採譜し、一番しかなかった歌詞に松山氏がオリジナルの二番と三番を作詞し、フォークルの「イムジン河」が完成します。

しかしその後、この歌に悲劇が待っていようとは、その当時、誰一人知る由もありませんでした。

67年4月17日、フォークルは渋谷公会堂の「シング・アウト東京」で初めて「イムジン河」を演奏しました。
その頃、芦田雅喜氏が渡欧のため脱退し、フォークルは再び、加藤、北山、平沼の3人となりました。
医大生の北山氏はすでに3年生になっており、解剖学実習など医学部の授業が始まっていました。北山氏は「音楽より医学の方がおもしろいな」と思いました。
また、平沼氏も将来の進路が決まっていました。
いつしかメンバーは、「解散」を意識するようになります。
そして、「どうせ解散するなら、自主制作アルバムを作ろう」と決心します。
レコードの制作費をかせぐため、その夏フォークルは、さまざまなステージに立ちました。

67年8月17日から、大阪のアートボーン・スタジオで、アルバムのレコーディングが始まりました。
全12曲のレコーディングは、9月5日の「帰ってきたヨッパライ」をもって終了します。
アルバムのタイトルは、「ハレンチ」に決定。ユニークなジャケット(02年8月21日に発売されたCD「ハレンチ」のジャケットは、オリジナル・バージョンのレプリカ)のデザインを手がけたのは、デザイナーを志していた松山猛氏でした。
「ハレンチ」には、松山氏が少年時代に在日朝鮮人の友人から教えてもらった歌、「イムジン河」も収録されていました。
後に大ヒットする「帰ってきたヨッパライ」は、このアルバムのために作られた唯一のオリジナル曲です。
300枚プレスされた「ハレンチ」は、10月15日に完成し、北山氏の自宅に搬入されました。
そして10月25日、大阪サンケイ・ホールの「第1回フォーク・キャンプ・コンサート」での演奏を最後に、第1次フォークルは解散したのです。

解散を記念して製作されたアルバム「ハレンチ」は、まったくといっていいほど売れませんでした。
父親から20万円借金していた北山氏は、ラジオでレコードをかけてもらうことを思いつきます。
その結果、近畿放送の「レッツ・ゴー・ミュージック」で「イムジン河」がとりあげられ、「今月の歌」として1カ月間オンエアされました。
11月8日、ラジオ関西の「電話リクエスト」で「帰ってきたヨッパライ」がオンエアされると、大反響になります。「関西でお経みたいな歌が流行っている」という噂は、たちまち東京にも伝わりました。
ついにフォークルに、メジャー・デビューのチャンスが訪れます。
大手5社のオファーのなかから、フォークルが東芝音楽工業(現・東芝EMI)を選んだ理由は、「年内にレコードを発売できる会社」という条件をクリアしたのが、唯一東芝だったからです。
すでに家業を継ぐことを決心していた平沼氏は参加せず、ドゥー・ディー・ランブラーズの端田宣彦氏が新しく加入することになりました。
こうして、第2次フォークルは、加藤、北山、端田というメンバーで再結成し、プロ・デビューしました。

67年12月25日、「帰ってきたヨッパライC/Wソーラン節」が発売されます。
「帰ってきたヨッパライ」は大ヒットしました。300枚しか作らなかったレコードに入っていた歌が、なんと最終的に280万枚売れたのです。
フォークルはブレイクし、68年の初めからテレビにも登場します。
68年1月のある日、京都府立医大の3年生だった北山氏は、学生部長から呼び出され、一年間の休学を勧告されました。学生が芸能活動を行っていることが、教授会で問題になっていたのです。
北山氏にとってフォークルは、他の学生のクラブ活動と同じ、あくまでも余暇の楽しみでした。
(学校か芸能界かどちらか一つにしろと教授はおっしゃる。どちらも必要だ)北山氏は悩みます。
結局、フォークルの活動がますます超多忙になったため、北山氏は一年間の休学を余儀なくされました。
最終的には医師になることを決心していた北山氏の立場を、加藤氏も端田氏も理解していたはずです。
だからこそ、第2次フォークルは、一年間という期間限定のグループだったのでしょう。

68年2月19日、ヒルトン・ホテルで、「帰ってきたヨッパライ」200万枚突破記念パーティが開催されました。この席上で、2日後の2月21日、第二弾シングルとして、「イムジン河」がリリースされると発表されました。その時、一人の記者から、「この歌の発売に関して、朝鮮総連からクレームがきているのではないか」という穏やかな質問がありました。事態は一転、大騒動になります。実は、「イムジン河」発売予定日の約一週間前、朝鮮総連から東芝音楽工業に、抗議がありました。すなわち、この歌は北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)に作曲者と作詞者がいるので、これらを明記するよう要求されたのです。さらに総連は、原詞と離れた日本語の歌詞も認めないと主張しました。しかし、当時ディレクターだった高嶋弘之氏は、それでも発売に問題はないと考えていました。北朝鮮が、著作権保護に関わる国際協定・条約に加盟していなかったからです。

東芝音楽工業は、原曲の作詞者と作曲者をレコードに明記し、松山氏の「日本語訳」、加藤氏の「補作曲」をクレジットする方針を示しましたが、総連は納得せず、この曲を「朝鮮民主主義人民共和国」の曲と明記するよう、要求しました。しかし、当時わが国では、かの国の国名として「北朝鮮」を使用し、朝鮮総連が正式国名と主張する「朝鮮民主主義人民共和国」は採用されていませんでした。そのような状況下で、一企業がそれを使用することは、認められないことだったのです。当時、親会社の東芝は、既に韓国に進出していました。「イムジン河」が発売されれば、韓国で東芝製品の不買運動が起きるかもしれず、ひいては日韓の国交にも悪影響が生じるかもしれない、と当時の東芝の関係者は考えたのでしょう。結局、発売予定日の前日、東芝音楽工業は、「イムジン河」の発売中止を決定します。

北山氏の87年の著書「ビートルズ」(講談社現代新書)のなかに、「イムジン河」発売中止事件について言及された記述があるので、引用します。

「三八度線によって分断された民族の悲劇を「イムジン河水清くとうとうと流る」と歌ったこの唄は、すでに深夜放送を通じて大ヒットしていた。友人からこれを教えられて「朝鮮民謡」と理解していた我々は、しかし原作者が北朝鮮にいたことから、朝鮮総連の抗議を受けることになった。「北」からの抗議理由の一つは、本来「北は南よりも住みよいところ」という意味の歌詞を、「北の大地から南の空へ水鳥自由にむらがり飛びかうよ」と歌って、より自由な意味に変えてしまったという点にあった。そして今度は「南」からも抗議を受け、さらに「盗作」呼ばわりもされて、レコードは二月二十一日の発売直前に回収されてしまった(注:朝鮮総連の実際の要求は、朝鮮民主主義人民共和国の原作者名を明記すること、というものであったらしく、我々のレコードの発売は決して不可能だったわけではないと思う)。」

コメント(7)

1994年4月29日放送「驚きももの木20世紀」
〜 「イムジン河」伝説(ザ・フォーク・クルセダーズ)〜

フォークルの歴史を実在の人物の証言と再現フィルムで
制作したこの番組に、当時、大いに感激しました。

その一部がYouTubeにアップされてました。
http://www.youtube.com/watch?v=TZtImTveVe4

一部、実際のイムジン河が映りますが、
これを見て、ぜひ行きたいと思い、
10年後の2004年5月18日、夢が実現しました。
少し本題からずれますが、以前に森山良子さんが「私が北山くんを初めて見たのは、高田恭子ちゃんと加藤くんとでPPMをやっているとき」と話されていました。一回だけなのかよくわかりませんが、そういうこともあったみたいです。フォークルのレパートリーには「ヘライデ」がありました、平沼さんに音源の有無を確認しましたが、無いとのことでした。
そうなんですよ。
森山良子さんのような生き証人の話が必要なのです。
今後高齢化が進むと、こういう証言を聞くのが、
ますます困難になってきますよね。

フォークルやシューベルツは全国各地でコンサートしていて、
きっと録音テープがどこかに眠っていると思います。

1967年10月2日に放送開始した「歌え!MBSヤングタウン」、
この第1回のゲストがフォークルで、
「ひょっこりひょうたん島」、「コキリコの唄」、
「雨を降らせないで」、「イムジン河」等を歌ったとのこと、
きっと録音がテープが残っているはずです。

聞きたいものです。
私は、一時期高田恭子さんが加藤さんと付き合っていて云々という、週刊誌的ゴシップを聞いたことありますが…それで大塚孝彦さんとのレコードにも、加藤さんがギターで参加してたのかな?まあそれも「みんな夢の中」のこと。

「イムジン河」発売中止、放送禁止?については、いろんな事情が絡まってるみたいですね。イムジン河が正しのかリムジンガンが正しいのかとか、歌詞の内容とか。確かに「リムジンガン」の歌詞は、「水鳥悲しく南の岸で鳴き 荒れた畑に虚しく風が立つ」一方で、「幸せの花咲く祖国の北の歌…」と北を礼賛するような内容です。
ただ1つ言えるのは、「放送禁止」ではなく、事なかれ主義的な「自粛」に過ぎなかったこと。だからフォークル解散直前の頃、「ヤング720」で生で放送されるということもありました。森達也氏が自分の映画で言ってるように、放送禁止にしている(そう思い込んでいる)のは、実は私たち自身なんですね。

私も20年以上前から韓国一人旅に何回かいきながら、初めてイムジン河を見たのは7年ぐらい前でした。そのうちイムジン河ツアーやりませんか指でOKコリア語、少しできます。
>>[4]が MEN`S CLUBのMEGA-PHONEで募集した

「フォーク・コーラスを作ろう。当方、バンジョーと12絃ギター有。
 フォークの好きな方連絡待つ。(加藤和彦 ・・・)」(写真:中)

から始まったザ・フォーク・クルセイダーズ。

その後、MEN`S CLUB 1968年4月号(写真:左)に
4ページにわたって凱旋記事が掲載されています(写真:中)。

で、その1968年4月号のMEGA-PHONEにも加藤さんの投稿がありました(写真:右)。

「自費出版のLPが手許に無くなりましたお持ちの方連絡下さい。
 (フォーク・クルセダーズ 加藤和彦 ・・・)」

2002年の「解散音楽会」、
きたやまさんが坂崎さんに感謝の気持ちで
2枚残っている自費出版LP「ハレンチ」のうち1枚あげたときに、
「加藤さんの手許には1枚もない」と言ってました。

あっという間に300枚売り切れた時に
自分の手許にないのであわてて告知したのでしょうか・・・
これはなかなか貴重な資料ですね。

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