ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

名勝コミュの和歌浦

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 和歌山県和歌山市和歌浦西・和歌浦中・和歌浦東・和歌浦南・布引

 2008年06月24日、和歌山県が史跡・名勝に指定。
 2010年08月05日、文化庁が名勝に指定。
 2014年10月06日、国指定名勝地域が拡大。
 2017年04月28日、「絶景の宝庫 和歌の浦」として日本遺産に指定。
 
 元来、和歌浦は紀の川河口に広がっていた潟湖(ラグーン)で、西側に片男波(カタオナミ)と呼ばれる砂嘴(サシ)が細長く伸び、元々は弱浜(ワカノハマ)と呼ばれていました。古代、紀の川は現在の和歌川のルートを流れており、現在の市役所・和歌山城・県庁等の市街中心部は河口砂丘となっていて、秋葉山に繋がっていました。そして、和歌浦は葦(アシ)等の水生植物が生い茂る広大な湿地帯で、東から妹背山(イモセヤマ)・鏡山(カガミヤマ)・奠供山(テングヤマ)・雲蓋山(ウンガイサン)・妙見山(ミョウケンサン)・船頭山(センドウヤマ)の六つの小島が連なり、玉津島(タマツシマ)と呼ばれていましたが、干潮時には渡渉(トショウ)が可能になっていた様です。現在の雑賀崎(サイカザキ)等は河口砂嘴西方に浮かぶ島でした。
 西暦201年に神功皇后は産まれたばかりの人皇第15代応神天皇と共に紀の川を遡上して忍熊王(オシクマオウ)の乱を撃滅しましたが、その際、紀伊国で信仰を集めていた女神である稚日女尊(ワカヒルメノミコト)に加護を祈り、政権掌握後、神威に感謝して玉津島神社を創建したと伝えられます。以後、当地は景勝の地として知られる様になり、第37代斉明天皇・第41代持統天皇・第42代文武天皇・第45代聖武天皇・第48代称徳天皇・第50代桓武天皇…と多くの行幸が成されています。律令制下では紀伊国海部(アマ)郡に属していました。
 神亀元(724)年、当地に行幸した聖武天皇は陽が射した景観の美しさから「弱浜」を明光浦(アカノウラ)と改め、人皇第19代允恭(インギョウ)天皇の皇女とも妃とも伝えられ、和歌の女神とされた衣通姫(ソトオリヒメ)と神功皇后を玉津島神社に合祀、この風致を永遠に維持する事を命じて守戸と呼ばれる監視役を配置させています。
 その後、昌泰4(901)年に右大臣菅原道真が失脚して大宰権帥(ダザイゴンノソチ)に左遷された際に当地へ立ち寄ったとされ、康保年間(964〜968)に北野天満宮の勧請(カンジョウ)を受けて和歌浦天満宮が建設されました。この頃から明光浦が転じて和歌浦と呼ばれる様になったと推定されます。
 明応7(1498)年8月25日の南海トラフ巨大地震に伴う津波によって河口砂丘が破壊された結果、紀の川は西方へ向かう現行ルートを流れる様になったと推定されていますが、和歌浦へ注いでいたルートも和歌川と呼ばれる支流として残りました。
 元和5(1619)年、権大納言徳川頼宣(トクガワヨリノブ)が紀州藩主となると、元和7(1621)年に父家康を祭る紀州東照宮を和歌浦天満宮の東に創建しています。慶安2(1649)年には頼宜の生母養珠院(お万の方)が妹背山に日蓮宗妹背山海禅院を創建、鏡山と妹背山を結ぶ三段橋や紀三井寺を望む海中櫓である観海閣も設けられました。
 観海閣は庶民にも開放されたため、和歌浦は一層賑わう事となりました。頼宜は聖武天皇と同様に和歌浦の風光を永遠に維持する事を命じています。
 また、和歌浦生まれの画家桑山玉洲(クワヤマギョクシュウ;1746〜99)が周辺エリアを含んだ《蘆洲鳴鶴》《松汀積雪》《玉津春暁》《輿窟浪花》《琴浦戯鴎》《藤白落葉》《名草晩潮》《雑賀漁火》《吹上淡月》《松間釣舟》の明光浦(アカノウラ)十景を選定して描いています。幕末にも岡本緑邨(1811〜81)が同じ構図で明光浦十景図を描きました。
 しかし、19世紀に入ると和歌浦では塩田事業が始まったため景観は大きく変貌、潟湖の面積は大幅に縮小してしまい、玉津島6島のうち妹背山のみが島嶼の形態を残す事となったのです
 また、潟湖の残滓(ザンシ)である市町川に架かる不老橋は、第13代藩主徳川慶福(ヨシトミ)の治世である嘉永4(1851)年に完成しています。
 明治時代になると塩田は廃止されて陸地化され、潟湖内では海苔(ノリ)養殖が始まります。東照宮は衰微しましたが、明治18(1885)年に療養地としての海水浴場が開業し、日清戦争(1894〜95)年以後は別荘地・行楽地の性格を増して行きました。明治42(1909)年には和歌山水力電気の路面電車(後の南海電鉄和歌山軌道線)が和歌浦まで開通し、観光客増加に一役買っています。路面電車は大正2(1913)年には和歌浦港まで延伸し、鉄道の無いない紀伊半島各所を結ぶ航路の連絡路線としても賑わいました。明治43(1910)年には旅館望海楼が奠供山エレベーターを開設し、翌年には夏目漱石も乗っていますが、僅か5年で廃止されてしまいました。
 大正6(1917)年には伊都郡の資産家森田庄兵衛が開発会社新和歌浦土地を設立して和歌浦港より西側の海岸線を買い占め、道路を開いて本格旅館を相次いでオープンさせました。この地区は新和歌浦と呼ばれる大観光地として殷賑を極めますが、本来の和歌浦は老舗旅館が相次いで廃業・移転し、東海岸は工業用地として開発されるなど行楽地としては衰微してしまいます。
 しかし、昭和25(1950)年に毎日新聞による「新日本観光地百選」の海岸の部にて1位を獲得すると、その美しさが改めて全国的に知られるようになり、加えて縁結び信仰が強かった玉津島神社の存在意義も相俟って、全国随一の新婚旅行スポットとして賑わう様になります。
 更に新和歌浦が瀬戸内海国立公園へ編入され、高津子山(タカヅシヤマ)にはロープウェイが敷設、和歌浦遊覧船の周航も始まり、最西端の雑賀崎も奥新和歌浦と称して開発されるなど、大観光地として脚光を集めました。
 ところが1960年代末になると、当時温泉が無かった和歌浦への宿泊客は減少してしまい、夏場の日帰り海水浴客が中心となってしまったため、多くの旅館が打撃を受けます。昭和46(1971)年に南海電鉄和歌山軌道線が廃止されたのも観光客減少に拍車を掛け、ホテル・旅館の倒産が続出、バブル景気の時ですら「終わった地」と見做されて投資の対象にはなりませんでした。
 その後、平成6(1994)年に至って南方に和歌山マリーナシティが誕生、翌年には大河ドラマ『八代将軍吉宗』が放映されたため、和歌山市の観光客は激増、新和歌浦で温泉が掘削された事もあって和歌浦は活気を取り戻したかに見えました。しかし、平成9(1997)年にはロープウェーが廃止され、観光遊覧船も無くなって再び衰微が始まり、21世紀に入ると多少盛り返したものの、宿泊客が少ない状況は続いています。

コメント(47)

左・中;妹背山頂より片男波を望む
右;経王堂
左;あしべ橋(新不老橋)
中;芭蕉句碑 「行春(ユクハル)を わかの浦にて 追付たり」
右;妹背山
 玉津島神社〔村社〕 祭神;稚日女尊・息長足姫尊・衣通姫尊
 明光浦十景《玉津春暁》
 玉津島神社です。

左;二の鳥居
中;小野小町袖掛の塀
右;和歌浦状
 玉津島神社の万葉歌碑です。

左;山部赤人
 「やすみしし わご大君(オホキミ)の 常宮(トコミヤ)と 仕へまつれる 雑賀野(サヒカユ)ゆ 背向(ソガヒ)に見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒き 潮干(シオフ)れば 玉藻刈りつつ 神代(カミヨ)より 然そ尊き 玉津島山」

中;山部赤人
 「沖つ島 荒磯(アリソ)の玉藻 潮干(シオヒ)満ち い隠(カク)り行かば 思ほえむかも」
 「若の浦に 潮満ち来れば 潟をなみ 葦辺をさして 鶴(タヅ)鳴き渡る」

右;藤原卿(フジワラノマエツキミ)
 「玉津島 見れども飽かず いかにして 包み持ち行かむ 見ぬ人のため」
 玉津島神社です。

左;根上松
中;拝殿
右;本殿
 玉津島神社です。

左・中; 仁井田好古撰文碑〔和歌山市指定文化財〕
右;奠供山(テングヤマ)
 奠供山です。

左・中;仁井田好古撰文碑 望海楼遺址碑〔和歌山市指定文化財〕
右;不老橋を望む
 奠供山からの眺望です。

左;名草山方面
中;片男波方面
右;新和歌浦方面
左・中;鏡山
右;鏡山から名草山方面を望む
左;鏡山よりあしべ橋を望む
中;和合の松(二代目)
右;山部赤人歌碑
 鹽竈(シオガマ)神社 祭神;塩槌翁尊(シオツチノオジノミコト)
 明光浦十景《輿窟浪花》
 鹽竈神社です。

左;一の鳥居
中;拝殿
右;本殿
 不老橋〔和歌山市指定文化財〕です。
左;不老橋より鏡山を望む
中;片男波 明光浦十景《松汀積雪》
右;片男波より妹背山を望む
左;片男波海岸
中;浜木綿
右;松葉菊
左;万葉館
中;日本庭園
右;万葉の小路
 万葉の小路の万葉歌碑です。

左;巻十二 3168
 「衣手(コロモデ)の 真若(マワカ)の浦の 真砂地(マサゴツチ) 間(マ)なく時なし 我が恋ふらくは」
中;巻七 1215
 「玉津島 よく見ていませ あをによし 奈良なる人の 待ち問はばいかに」
  巻七 1217
 「玉津島 見てしよけくも 我れはなし 都に行きて 恋ひまく思へば」
右;巻七 1213
 「名草山 言にしありけり 我が恋ふる 千重の一重も 慰めなくに」
 万葉の小路です。

左;巻十二 3175
 「若の浦に 袖さへ濡れて 忘れ貝 拾へど妹は 忘らえなくに」
中;巻七 1219
 「若の浦に 白波立ちて 沖つ風 寒き夕(ユフベ)は 大和し思ほゆ」
右;鶴のモニュメント
 万葉の小路南端からの眺望です。

左;明光浦十景《名草晩潮》
中;明光浦十景《琴浦戯鴎》《藤白落葉》
右;明光浦十景《雑賀漁火》
 片男波の花々です。

左;ペンタス
中;唐綿
右;露草
 和歌浦天満宮〔村社〕 祭神;菅原道真
 明光浦十景《松間釣舟》
 和歌浦天満宮です。

左;表参道
中・右;楼門〔重要文化財〕
 和歌浦天満宮です。

左・中;楼門〔重要文化財〕
右;百日紅
 和歌浦天満宮です。

左・中;本殿〔重要文化財〕
右;末社
 和歌浦天満宮末社です。

左;多賀神社本殿〔重要文化財〕 祭神;伊弉諾尊
中;天照皇太神宮本殿〔重要文化財〕 祭神;天照大神
右;豊受大神宮本殿〔重要文化財〕 祭神;豊受大神
 紀州東照宮 〔県社〕 祭神;徳川家康・徳川頼宣
 紀州東照宮です。

左;一の鳥居
中;二の鳥居
右;摂社弁天社 祭神;弁財天
 紀州東照宮表参道です。
 徳川宜子(コトコ;1956〜)は紀州徳川家第19代当主で建築家です。
 紀州東照宮楼門〔重要文化財〕です。
 紀州東照宮です。

左;楼門〔重要文化財〕
中;唐門〔重要文化財〕
右;唐門・瑞垣(ミズガキ)・廻廊〔重要文化財〕
左;拝殿・石の間・本殿〔重要文化財〕
中;紫紺野牡丹(シコンノボタン)
右;神輿蔵

ログインすると、残り10件のコメントが見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

名勝 更新情報

名勝のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング