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名勝コミュの光禅寺庭園

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 山形県山形市鉄砲町二丁目5−7

 1972年01月17日、山形市が名勝に指定。

 曹洞宗天瀧山光禅寺は、慶長元(1596)年、若しくは慶長7(1602)年に最上義光(モガミヨシアキ)が自らの菩提寺とするため、現在の北村山郡大石田町にある向川寺(コウセンジ)の9世である春林禅冬(シュンリンゼントウ)を招請して開創した寺院で、250石の寺領を有しました。当初は現在の三日町(現;七日町)にあり、慶長寺と称していました。最上義光は慶長19(1614)年に没し、葬儀も慶長寺で行われました。この際に殉死(ジュンシ)した寒河江十兵衛尉(サガエジュウベエノジョウ)等4人も傍らに葬られました。
 その後、江戸幕府の社寺法規により年号を寺院名とすることが禁じられたため、元和年間初期(1615〜17)に最上家親が光禅寺と改称しました。
 元和8(1622)年に最上家が改易されて鳥居忠政が山形に乗り込んで来ると,忠政は父元忠の菩提寺である長源寺を陸奥国磐城平(イワキタイラ)から移す事とし、光禅寺を現在地へ移転させて,その跡地に長源寺を設けました。現在地には天正寺がありましたが,それは玉突き式に移転させられました。義光や殉死者の遺骸の改葬に際しては,最上氏の浪人500〜600人が集まって義光の遺骸を光禅寺に運んだとされ、その後も山形に残った最上氏の旧家臣らにより寺が護持されて来ました。移転の際に寺や住民と共に「三日町」の地名も同時に移転し、元の場所は「元三日町」と呼ばれるようになったのです。
 その後も,光禅寺には義光から寄進された250石がそのまま幕府から朱印地として認められ、財政的には恵まれた寺院でした。嘉永年間(1848〜55)の記録によれば、6718坪の境内地に234坪の本堂があったとされます。
 ところが,明治27(1894)年の山形市南部大火により、観音堂と鐘楼を残して全焼してしまい,貴重な宝物や古文書等も失われてしまいました。現本堂は大正2(1913)年の再建です。
 現在でも境内地は約5000坪に達し、最上家11代義光・12代家親・13代義俊の墓が存在します。義俊の本墓は東京都台東区西浅草の万隆寺にあります。
 最上家墓所に隣接して初代羽州探題斯波兼頼に関係があるとされる永和2(1376)年の板碑〔山形市指定文化財〕も存在します。山形城二の丸から出土した物が当寺へ移されました。
 庭園は、江戸時代初期に流行した遠州流心字の池があるため、寺の移転の際に築庭された可能性が強く、山形県内では最も古い庭園の一つです。庭内の石は石英粗面岩(セキエイソメンガン)と安山岩です。現在では樹木が成長し過ぎて視界が遮られていますが、本来は東方の千歳山が借景となっていました。約900坪の広さがあります。
《続く》

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