武田典厩家コミュの駿臺雑話　武田信繁

駿台雑話（全5巻）は、室鳩巣（むろきゅうそう）の著作。享保17年（1732）成立。鳩巣が朱子学（儒学の一派）の観点から教育や道徳を説いた随筆集。鳩巣の屋敷（駿台邸）へ来る門弟たちに語る体裁で書かれている。
室鳩巣は江戸時代中期に活躍した幕府の儒学者。万治元年2月26日（1658年3月29日）～享保19年8月12日（1734年9月9日）。

駿台雑話の『武田信繁』項、全文を掲載する。
旧仮名づかいはそのままとし、漢字の旧字体も出来る限り原文のままとした。
音読が難しいと思われる箇所は、（　）内にルビを示した。

朱子学の見地によるため正邪の二元的内容（一方を持ち上げるために他方を殊更に貶める）であり、また非常に教訓的だが、江戸中期の武田信繁の評価がよくわかる内容であると思う。

駿臺雑話　卷四『武田信繁』

爰（ここ）に足利氏の季世、天文、永祿も間に至りて、賢と稱すべき人あり。甲州武田信玄の弟、左典廏武田信繁是なり。然るに、近代武功のみを尙びて、德行をば稱せざる故に、信玄の名は高けれども、信繁の賢はかくれて世に知る人なし。今翁があらはさずしては、誰かいひ出づる者あらん。信玄の父信虎、信繁を愛して信玄を廢する心あり。それ故信玄父子不和なりしに、群臣いづれも信玄の武畧（ぶりゃく）に長じたるを見て、信虎をすてて信玄に思ひ附きしかば、信玄群臣と謀りて、信虎をすかし出して是を距（ふせ）ぎし程に、信虎甲州へ歸る事かなはず、今川氏眞が外祖父たるによりて、駿河に出奔して、今川家の寄公となりて、年を經けれども、信玄つひに父をむかへて國に入ることなし。信虎後に京都に流落して、一生をなん終へたり。信繁、信虎の愛子として、信玄を廢して信繁をたてんとするをば、かねて信玄も知りたる事なれば、必ず忌（いみ）惡（にく）むべし。それに、國に残りて信玄につかふるは、危難の場なり。父を追出す程の人なれば、露（つゆ）友愛の心あるべきにもあらず。しかるに信繁嫌疑の間に處（い）ながら、信玄につかえて、兄弟の間少しも違言（いげん）ある事をきかず。むかし後漢の東海王強は、光武の太子たりしが、廢されて諸侯王に下れり。明帝母寵によりて、弟をもて立ちて太子となり給ひけるが、其後明帝の代に至りて東海王恭謹にして、上を奉じ身を全うして終られしをば、前史にも褒稱して記（しるし）置きしぞかし。されど、それは明帝孝友なれば、つかへやすかるべし。信繁はそれとはちがひ、殘忍至極の兄につかへて、朝夕（てふせき）國に惓々（けんけん）として、人臣の節を失はず。信玄といへども、常に親任して疑忌（ぎき）の心なく、始終一のごとし。その忠信誠實人を感孚するにあらずして、いかでかくのごとくなるべき。さて川中島にて討死せられしこそ、尤（もっとも）義にあたりて覺え侍る。信玄一生の危き折なれば、此時死せずして、いつの爲に命ををしむべき。されば主辱めらるれば臣死するの義を守りて、こころよく討死せられしは、誠に見危授命（あやふきをみてめいをさづく）といふべし。其子を誡められし條子がきの物を見侍るに、一として恭敬篤實のことにあらざるはなし。其中一條に「假令（たとひ）海は野となり野は海となるとも、盡（じん）未來際おやかたに對して二心あるべからず」といひ、又一條に「たとひいかやうの御懇意にても、後庭（かうてい）へ出入（しつにう）すべからず」といひ、又一條に「諸人同座する時、もし好色の語に及ばば、目にたたぬやうにして其座を立つべし」といふにてしりぬ。信繁人がら恭謹なる物から、しかも身を守ること嚴正にて、かり初にも汚俗に同ぜず。其高風清節、古人に恥ぢざるべし。又一條に「合戦に、赴く時、敵ちかくならば、人數を急にあらくつかふべし」とあり。是にて、信繁戰陣に勇ありて、兵をまはすに熟しぬる事をしれり。しかれば、勇威武畧さへ兼備りけらし。易にいはゆる、「知剛知柔萬夫之望（がうをしりじうをしるはばんふののぞみ）」とは、此人のたぐひをいふべし。嚮（さき）に信玄社稷の慮（おもんばかり）ありて、はやく此人を立てて世子とし、監國（かんごく）の任にをらしめば、甲州ながく滅びざらまし。しかるに昏昧剛愎（こんまいがうふく）の勝頼に傳（つた）へしかば、信玄死していく程なく、織田氏のためにほろぼされにき。なげかわしき事にあらずや。