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いじめの加害者たちコミュの大分の「いい子」の「いい親」たち

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 「いい親」の「いい子」たちが、それぞれに、また別な顔を見せてくれたと思うのが、大分県の教員採用をめぐる贈収賄事件だった。

 県教委の幹部職員である父親と、小学校の教頭である母親が、二百万円で娘を教師として採用させた。
その女性教頭の助言によって今度は、小学校の校長である母親が、四百万円で長男と長女を教師として採用させた。

 そこにからんだ県教委のお偉いさんたち、「口利き」で動き回った県議会議員の方々がまた、いずれも、「いい子」の「いい親」たちであったのだろう。
とてもわかりやすい「構図」で、「いい親」と「いい子」の世渡りの上手さは格別で、舌を巻くしかない。

 そういう「親子」が「いじめ時代」をつくっている。
というのが「カツオ先生」が主張してやまない現代社会の病んだ姿というものである。

 お役所にはそれぞれの役職名があるらしくて「教育審議官」とか「参事」、何か「平安貴族」社会の「畏(かしこ)き辺(あた)り」連想させるが、そういう方々が「贈収賄」を日常業務の「一部」とされていた気配であるのだから恐れ入ってしまう。

 北海道滝川市で「遺書隠し」として騒がれた「いじめ自殺」でも、首謀者の女の子は、市教委の「参事」様の娘、その母親は娘に「放っておきなさい。死ぬといって死んだためしはないのだから」と言い放ったという。
T子さんは教室で首をくくる数日前、クラスメイトの一人に「予告」の手紙を渡していた。
「死」へと追い詰められながら、なお「生きていたい」ともがき苦しんでいたのではないかと「カツオ先生」は推測しているが、娘から伝え聞いた「参事」婦人は、死へと突き放つような言辞を弄(ろう)し、後日、その「手紙」は、ぐちゃぐちゃにされたままゴミ箱から見つかっている。
これ以上はない「いじめ加害者」である「いい親」と「いい子」たちの「悪意・冷酷」としてここに記し、とどめておきたい。そんなことでしか、T子さんの「無念」に応える方法がない。

 秋葉原・男の父親は、地元の金融機関の幹部職員だった。
母親は、二人の息子を何とか「エリート」のレールに乗せようと必死であった。
その方法が稚拙で、多少、強引だったとしても、日本のどこにでもいる母親の姿そのままであるし、金品を渡して息子や娘を教師にした女性教頭や女性校長である「母親」に比べて、何か違いがあるとは思えない。

 ぼくがことさら「ワル」たちと「いい子」たちと区別して、「いじめ」や「犯罪」について考えようとするのは、今や、「犯罪」も「いじめ」も「特定」の人間のすることではなくて、圧倒的多数派であり、かつて(今も、であるかもしれないが)は「善良」な「市民」とされた「親子」の「家庭」のあり方が、そのまま「いじめ」や「犯罪」の温床となっていると考えるからだ。

 「いい親」の家族が、子どもを「いい子」として育むというよりは、「いい子」というヴェールで見えづらくした「いじめ加害者」や「犯罪者」をつくっているのではないかということなのである。

 だから学校や教師に責任はなくて、家庭がどうだのこうだのというのではない。
家族がそうであればあるほど、その「ヴェール」をはいで、子どもたちに、人としてのあるべき「顔」を持たせて、社会に送り出すことこそが教師と学校の役割なのではないかといいたい。

 大分県教育委員会の教員採用をめぐる「贈収賄」が「特別」であるのは、学校から「正義」というものを失わせてしまったということに尽きる。
教師の仕事で何より大切なのは、この「正義」の感覚で、それがあればどんな事態にも対応できるというほどに、学校は、わかりやすい世界なのである。
そんなにも大切な「正義」を失ってしまっては、他に何があっても、学校は否定される存在でしかないものになってしまう。

 大分県警による「捜査のメス」が入ったことが、せめてもの「慰め」というしかないというのは、寂しい。

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