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橋本 忍コミュの私は貝になりたい

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私は貝になりたい
http://www.google.co.jp/search?hl=ja&c2coff=1&q=%E7%A7%81%E3%81%AF%E8%B2%9D%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8A%E3%81%9F%E3%81%84%E3%80%81%E6%A9%8B%E6%9C%AC%E5%BF%8D&btnG=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&lr=

解説
昨年度芸術祭文部大臣賞を受賞した同名のテレビドラマの映画化。「コタンの口笛」の橋本忍が、自身の原作を自ら脚色・監督する。撮影は「暗黒街の顔役」の中井朝一。

あらすじ
清水豊松は高知の漁港町で、理髪店を開業していた。家族は、女房の房江と一人息子の健一である。戦争が激しさを加え、赤紙が豊松にも来た。彼はヨサコイ節を歌って出発した。--ある日、撃墜されたB29の搭乗員が大北山山中にパラシュートで降下した。「搭乗員を逮捕、適当に処分せよ」矢野軍司令官の命令が尾上大隊に伝達され、豊松の属する日高中隊が行動を開始した。発見された米兵は、一名が死亡、二名も虫の息だった。日高大尉は処分を足立小隊長に命令、さらに命令は木村軍曹の率いる立石上等兵に伝えられた。立石が選び出したのは豊松と滝田の二名だ。立木に縛られた米兵に向って、豊松は歯をくいしばりながら突進した。--戦争が終って、豊松は再び家族と一緒に平和な生活に戻った。が、それも束の間、大北山事件の戦犯として豊松は逮捕された。横浜軍事法廷の裁判では、命令書なしで口から口へ伝達される日本軍隊の命令方式が納得されなかった。豊松は、右の腕を突き刺したにすぎない自分は裁判を受けるのさえおかしいと抗議したが、絞首刑の判決を受けた。独房で、豊松は再審の嘆願書を夢中で書き続けた。矢野中将が、罪は司令官だった自分ひとりにある旨の嘆願書を出して処刑されてから一年の間、巣鴨プリズンでは誰も処刑されなかった。死刑囚たちは、やがて結ばれる講和条約によって釈放されるものと信じた。ある朝、豊松は突然チェンジブロックを言い渡された。減刑?いや、絞首刑執行の宣告だった。豊松は唇をかみしめながら、一歩一歩十三階段を昇った。--もう人間なんていやだ。こんなひどい目に会わされる人間なんて……深い深い海の底の貝だったら……戦争もない、兵隊もない。房江や健一のことを心配することもない。どうしても生れ変らねばならないのなら……私は貝になりたい--という遺書を残して。

キャスト(役名)
フランキー堺 フランキーサカイ(清水豊松)
新珠三千代 アラタマミチヨ(清水房江)
菅野彰雄 スガノアキオ(清水健一)
水野久美 ミズノクミ(敏子)
藤木悠 フジキユウ(酒田正士)
織田政雄 オダマサオ(三宅)
多々良純 タタラジュン(根本)
加東大介 カトウダイスケ(竹内)
榊田敬二 サカキダケイジ榊田敬治(松田老人)
沢村いき雄 サワムライキオ(理髪店に来る客)
堺左千夫 サカイサチオ(運転手)
藤田進 フジタススム(矢野中将)
笈川武夫 オイカワタケオ(尾上中佐)
南原伸二 ナンバラシンジ(日高大尉)
藤原釜足 フジワラカマタリ(足立少尉)
稲葉義男 イナバヨシオ(木村軍曹)
小池朝雄 コイケアサオ(立石上等兵)
佐田豊 サダユタカ(滝田上等兵)
平田昭彦 ヒラタアキヒコ(参謀)
桜井巨郎 (山口)
加藤和夫 カトウカズオ(田代)
中丸忠雄 ナカマルタダオ(大西三郎)
清水一郎 シミズイチロウ(西沢卓次)
坪野鎌之 (河原)
笠智衆 リュウチシュウ(小宮)


スタッフ
監督 : 橋本忍 ハシモトシノブ
製作 : 藤本真澄 フジモトサネズミ / 三輪礼二 ミワレイジ
原作 : 橋本忍 ハシモトシノブ / 加藤哲太郎 カトウテツタロウ
脚色 : 橋本忍 ハシモトシノブ
撮影 : 中井朝一 ナカイアサカズ
音楽 : 佐藤勝 サトウマサル
美術 : 村木与四郎 ムラキヨシロウ
録音 : 伴利也 バントシヤ
照明 : 隠田紀一


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私は貝になりたい
    1959・東宝

監督:脚本:
    橋本 忍
撮影:中井朝一
美術:村木与四郎
音楽:佐藤 勝

出演:フランキー堺
    新珠三千代
    水野久美
    加東大介
    藤田 進
    笠 智衆
    中丸忠雄
    藤木 悠
    藤原釜足
    稲葉義男
    小池朝雄
    南原宏治

物語

高知の漁港町で床屋を開業している清水豊松(フランキー堺)は、妻の房江(新珠三千代)と一人息子の健一との三人暮らしだ。
太平洋戦争に突入して日本は苦しい戦況にあった。今日も出征する地元の酒田(藤木悠)を豊松は万歳三唱で見送った。

その豊松にもとうとう赤紙(召集令状)が・・・。「・・・とうとう来たでよ・・・おめでとう」 配達人の竹内(加東大介)が神妙な面持ちで赤紙を届けに来たのだ。
壮行会が開かれる。親類縁者、隣組が宴会で豊松の出征を祝う。豊松はヨサコイ節を歌う。妻の房江とその妹の敏子(水野久美)は甲斐甲斐しく訪問客をもてなす。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・B29爆撃機による空襲が日本全土を襲っていた。そんなある日、日本の撃墜を受けたB29機が一機、大北山山中に墜落したとの報があった。
搭乗員はパラシュートで脱出した模様だ。
報告を受けた矢野軍司令官(藤田進)は、「搭乗員を逮捕、適当に処分せよ!」 ただちに命令を下した。

パラシュートで降下した米兵のうち一人は既に死亡。二人は山中の木に縛り付けられていた。だが、負傷しており虫の息だった。
「ただ今より、突撃訓練を実施する!」 足立少尉(藤原釜足)が号令を発した。「第三分隊より2名選抜せよ」
「立石!一番たるんでる奴にやらせろ!」 木村軍曹(稲葉義男)の指図で立石上等兵(小池朝雄)は目を光らせた。直立不動で並ぶ二等兵たちの顔がこわばる。
「清水、滝田、前へ出ろ!」 豊松と滝田は列から前へ出た。
「貴様ら、そろいも揃ってグズだ!今日は、大尉殿、少尉殿、軍曹殿の前で立派な帝国軍人となったところを見せろ!」 立石は檄を飛ばした。

日高大尉(南原宏治)が、豊松と滝田に向かった。 「お前達の家を焼き、妻や子供を殺したのはあいつ達だぞ!憎いとは思わんか!」
「・・・憎いであります・・・」 「行け!」
二人は銃剣を構えて突進したが、二人とも米兵の手前で止まってしまった。すかさず立石が二人にビンタをくれた。
日高が叫ぶ。「貴様等!上官の命令を何と心得る!上官の命令は、天皇陛下の命令だぞ!」
豊松と滝田は歯を食いしばって突進した。そして米兵捕虜を突き刺した。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本は敗戦し、豊松は再び高知の床屋で平和な毎日を送っていた。客の酒田との会話の中で、A級戦犯の東京裁判の話が出る。
酒田 「勝ち目のない戦争に俺たちを引っ張り込んだ軍の上層部はアメリカ軍の裁判に掛けられても仕方ねえさ」
豊松 「・・・俺たちは二等兵でよかったなぁ・・・」
だが、その豊松の床屋に進駐軍と共に警察がやって来て豊松に手錠を掛けたのである。

裁判で、アメリカ人の裁判長に豊松は訴えた。
「上官の命令は、天皇陛下の命令です。絶対服従しなければ・・・」
日系の通訳は事務的な冷えた口調で裁判長の言葉を伝えた。
「上官の命令といえども不当と思えば拒否できた筈ではないか?」
「・・・そんなことしたら銃殺だよ・・・」
「軍法会議に掛けることもできた筈である。被告がそれをしなかったのは、捕虜を殺す意志があったからではないか」
「・・・どこの話をしてるんですか、あのねぇ、日本の二等兵は・・・牛や馬と同じなんです、牛や馬と・・・」
豊松の気持ちは容易には伝わっていないようであった。

判決。裁判長の判決を通訳が事務的に言い渡した。
矢野軍司令官に対しては、「捕虜を殺せと命令したことにより、絞首刑」
足立少尉に対しては、「・・・終身刑」
木村軍曹、立石上等兵に対しては、それぞれ重労働、二十年、十五年であった。
日高大尉は敗戦時に自決していた。
清水豊松に対しては、「あなたは捕虜を殺した、有罪、絞首刑!」
瞬間、豊松は我が耳を疑った。「俺が・・・どうして俺が!・・・」

豊松は死刑囚の独房に入った。独房で自殺する者が出てきて、独房だが、二人部屋なのである。既に大西三郎(中丸忠雄)という囚人が入っていた。
豊松はその夜、眠ることができなかった。
木曜日の朝になると、房のあちこちからお経を唱える声が聞こえてくる。死刑囚は木曜日の朝呼ばれ、金曜日の深夜、刑が執行されるのだという。
大西は戦争でただ一人生き残った妹から送られた『聖書』を読んでいた。
そしてその朝、大西にお迎えが来た。
「一晩だけでしたが、何かのご縁でしょう・・・」 大西はうずくまる豊松に言い、他の房に声を掛けた。「お世話になりました・・・」 房からは「さようなら・・・」
と力ない声が返った。

刑務所の中庭の散歩時間。豊松に矢野が話し掛けるが豊松は無視した。
『この男の指示があったから、今の俺の苦境があるのだ、・・・』 
だが、矢野は警備員を説得し、豊松の独房を訪問して来た。
矢野は豊松に煙草を勧め、おもむろに話し出した。
「・・・わしの不注意から、君たちを巻き込んで・・・本当に済まないと思ってる・・・」 「・・・・・」
「実はわしも、嘆願書を出したのだ。・・・罪は司令官である自分ひとりにある・・・他の事件関係者の罪はあまりにも過酷すぎる・・・司令官一人を絞首刑にすべきで、再審により、他の者は、むしろ無罪にすべきが正当である、・・・とね」
豊松は矢野の言うことを神妙な面持ちで聞いていた。矢野は自分の責任は死で果たし、更に部下の刑は免除してくれるよう嘆願書を出したのであった。

豊松が警備員立会いのもとで矢野の散髪をしている。豊松の表情は明るい。
豊松 「また、日本に新しい軍隊ができるらしいですな」 
「あぁ、警察予備隊のことだね・・・民主的な軍隊・・・そんな絵に描いた餅みたいなものは世界中にありゃせんよ・・・なぁ、清水君、わしは、新しい憲法で一番いいのはもう二度と軍備をしない、というところだと思っていたのだがね」

その矢野の刑が執行されてからお迎えがぴたりとなくなった。人々の間ではもう刑の執行はないのではないか、と囁きあった。
更に死刑になった人間が別の場所で生きているという、面会に来た人間の話もあって、豊松は希望を持てるようになっていた。

妻の房江が遥々高知から面会に来た。既に何回目であろうか。豊松はせっせと再審の嘆願書を書き、故郷の高知では町会議員が中心となり豊松の助命嘆願書を集めてくれたのである。房江がその嘆願書を届けに来たのだ。
「ありがたいな、故郷の人は・・・。だがな、じきに講和条約の締結があるそうや、そうなりゃ戦犯も何もない、みんな釈放や、それにこの嘆願書があれば、鬼に金棒や!」
房江は目を輝かして新しい理髪台のカタログを見せた。随分とハイカラな理髪台を見て、「ええなぁ、早よう出て稼がにゃ!」 豊松の心は早くも高知に飛んでいるのだった。

ある木曜日の朝、豊松の独房の前に憲兵が立った。
独房を出て別の部屋へ連れていかれた豊松は、そこで信じ難い言葉を聞いた。
「明日、零時30分、巣鴨プリズンにおいて絞首刑を執行する!」

豊松は頭から毛布をかぶり、教誨師(笠 智衆)の言葉も聞いていなかった。教誨師が葡萄酒を勧めた。豊松は一杯飲む。死の前の酒の味は甘くはない。
「・・・なんという人生だろう・・・あっという間に35年経っちまった・・・」 豊松は立て続けに葡萄酒を呷った。
「そこですよ、人は50年、仮に100年経っても、死ぬ間際には恐らくあっという間に感ずるものですよ・・・とにかく、来世を信ずるより方法がありません・・・清水さん、あなたは来世に生まれ変われるとしたら、何になりたいですか?」

頭から黒い袋を被せられ、豊松はゆっくりと13階段を登って行く。
「・・・せめて生まれ変わることができるのなら、いいえ、お父さんは生まれ変わっても、もう、人間になんかなりたくありません・・・人間なんていやだ、牛か馬のほうがいい。・・・いや、牛や馬ならまた人間にひどい目にあわされる。・・・どうしても生まれ変わらなければならないのなら、いっそ、深い海の底の貝にでも・・・そうだ貝がいい、貝だったら深い海の底の岩にへばりついているから何の心配もありません、兵隊にとられることもない、戦争もない。房江や健一のことを心配することもない・・・どうしても生まれ変わらなければならないなら、私は貝になりたい・・・」
映画館主から

1958年度の芸術祭賞を受賞した同名のテレビ・ドラマを、その時のシナリオも書いた橋本忍が映画化した第一回監督作品。
平和な市民の生活が戦争により無惨に打ち砕かれる悲劇を描いた反戦映画の秀作。

「羅生門」「七人の侍」などの黒澤作品を始め、「切腹」「白い巨塔」「首」「日本のいちばん長い日」などの問題作、「ゼロの焦点」「砂の器」などの松本清張作品の脚本を多く手がけた日本を代表する脚本家、橋本忍が実在の手記を元にドラマ化したものです。
私が二十代の始めに赤坂のシナリオ研究所に通っていた頃、橋本忍の講義を受ける機会があり、「私は貝になりたい」もそこで見ることができました。

戦時中、上官の命令で捕虜を殺害した罪で、戦後の裁判において絞首刑を宣告されるという、一般市民に降って沸いたような理不尽な悲劇がドラマの中心です。
戦勝国が敗戦国の戦争責任を裁く戦後の裁判では、A級戦犯25人のうち東条英機元首相ら7人が絞首刑。
B・C級戦犯は5700人に及び、うち920人に死刑が執行されたとのことです。戦争に負けるということはそういうことなのでしょうが、アメリカの広島、長崎への原爆投下で何十万人もの人の生命を一瞬に奪った大殺戮の罪は誰が裁いたのでありましょう。この大矛盾には到底納得できるものではありません。

私事ですが、私は戦後の1947年(昭和22年)の生まれです。私の母方の叔父は南方で戦死しており、私の父は海軍でしたが南方で負傷して帰国、その傷が悪化して、私が生まれた翌月死んでいます。
戦争のために今は亡き私の母は辛酸を舐め、やっとの思いで私を育ててくれたのです。
「私は貝になりたい」 (わたしはかいになりたい)  監督:橋本忍 出演:フランキー堺 1959年 掲載日2000年11月14日
 野球の世界では、よく“名選手、必ずしも名監督にあらず”といわれるが、映画の世界でも“名脚本家、必ずしも名監督ならず”といえると思う。
 かつてあっしが名脚本家、成澤昌茂にインタビューしたとき、氏はこんな話をしてくれた。
“シナリオ作家にとって、自分の作品を他人に監督されるのは言葉は悪いがレイプされるようなものです。小津安二郎、黒澤明をはじめ、いろんな監督にレイプされたが、レイプされて気持ちよかったのは溝口健二だけでした”
どうです、深い含蓄のあるお言葉じゃありませんか。じゃあ、その論理でいくと、自分のシナリオを自分で監督するのってオナニーになるのかな?だから自分ではイィィ〜!と思っても、それを他人に見せるとつまらないんだ。ポルノ映画でも、オナニーものよりレイプものの方が面白いもんね。う〜ん、われながらどうしてこういう例えしかできないんだろう。
 というわけで、「羅生門」の名脚本家、橋本忍も自ら原作し、脚本、監督を務めた「幻の湖」は、あまりに酷すぎて今では名画座で上映すると、爆笑の連続を巻き起こす、コメディー映画も真っ青のカルト的迷作になってしまっている。しかし、今回紹介する「私は貝になりたい」は、同じ橋本忍原作、脚本、監督でも掛け値ナシに素晴らしい名作だ。
 善良な理容師が、ある日突然戦争犯罪人としてMPに連行される。そして、戦時中に上官の命令で捕虜のアメリカ兵を殺した罪で、死刑を宣告されるのだ。
 悲劇の主人公、豊松を演じるフランキー堺が最後に叫ぶ
“私は貝になりたい”
というセリフが観るものの心を打つ。同じスタッフ、キャストで製作されたテレビドラマの映画化だが、次の機会にはテレビドラマも放送して欲しい。きっといっそう興味深く見られるに違いないと思う。
 今回は、橋本忍が生み出した名セリフ“私は貝になりたい”に座布団一枚!
  ( 書き下ろし )
私は貝になりたい事件 東京地裁判決

本判決は、第一法規株式会社様のご厚意によりデータの提供を受けて掲載しております。

【判例ID】   27755025
損害賠償等請求事件
東京地裁昭和四九年(ワ)第二三七号
同五〇年三月三一日民事第二九部判決
原告 中野昭夫
被告 橋本忍
右訴訟代理人弁護士 酒巻弥三郎 外一名
       主   文

原告の請求を棄却する。
訴訟費用は、原告の負担とする。

       事   実

第一 当事者の求めた裁判
一、原告
(一)原告が、映画及びテレビ映画「私は貝になりたい」の脚本につき、著作者人格権を有することを確認する。
(二)被告は、原告に対し、金五〇万円を支払え。
(三)訴訟費用は、被告の負担とする。
との判決を求める。
二、被告
主文同旨の判決を求める。
第二 当事者の主張
一、請求原因
(一)映画及びテレビ映画「私は貝になりたい」の脚本は、原告と被告が共同で創作した共同著作物である。すなわち、原告は、昭和三二年九月、株式会社東京放送(以下「東京放送」という。)美術部勤務の訴外Sに対し、原告が創作した別紙記載のとおりのドラマ「私は貝になりたい」の原案(以下「本件原案」という。)を口頭で伝達したうえ、同人から東京放送編成局長に対し、東京放送においてしかるべき脚本家を選定して本件原案をそのまま採り入れて脚本化した、昭和三三年度芸術祭参加番組として製作、放送するよう伝達することを依頼した。東京放送は、テレビ映画「私は貝になりたい」を製作し、昭和三三年一〇月、昭和三三年度芸術祭参加番組としてテレビ放映し、また東宝撮影所は、同年一二月、映画「私は貝になりたい」を製作し、上映した。右テレビ映画及び映画「私は貝になりたい」は、「私は貝になりたい」の脚本(以下「本件脚本」という。)に基づくものであるが、本件脚本は、被告が本件原案をそのまま採り入れて作成したものであつて、原告と被告の共同著作物である。
(二)ところで、共同著作物の著作者人格権は、著作者全員の合意によらなければ、行使することができないのに(著作権法第六四条第一項)、被告は、原告に無断で、本件脚本を被告単独の著作物として公表し、原告が本件脚本について有する公表権及び氏名表示権を侵害し、現在に至つている。
(三)よつて、原告は、被告に対し、原告が本件脚本について著作者人格権を有することの確認及び原告が有する右著作者人格権の侵害に対する損害賠償として慰藉料金五〇万円の支払いを求める。
二、請求原因に対する被告の答弁及び主張
(一)請求原因(一)のうち、東京放送がテレビ映画「私は貝になりたい」を製作し、昭和三三年一〇月、昭和三三年度芸術祭参加番組としてテレビ放映し、東宝撮影所が同年一二月映画「私は貝になりたい」を製作上映したことは認めるが、その余の事実は否認する。
原告と東京放送美術部勤務のSとは、原告が昭和三一年暮ころ東京放送美術部にアルバイトで来ていたことによる顔見知りで、原告主張のころ、偶然西荻窪駅前の路上で会い一緒にお茶を飲んだことはあるが、原告からSに対し、本件原案の話はされなかつた。本件原案は、テレビ映画「私は貝になりたい」の断片的シーンを、原告が右テレビ映画を見たときの記憶に基づいて羅列したものに過ぎない。
(二)同(二)のうち、被告が本件脚本を被告単独の著作物として公表し今日に至つていることは認めるが、その余の事実は否認する。本件脚本は、被告単独の著作物であつて、原告の創作は何ら加わつていない。
(三)原告の主張は、それ自体失当である。すなわち、原告は、Sに本件原案を口頭で伝達した旨主張するが、原案ではいまだ著作物とはいえない。また、原告の主張によれば、原告が本件脚本を自ら書いたという事実もないのであるから、原告は、本件脚本の著作者とはいえない。原告は、本件原案を被告に提供したから、本件脚本の共同著作者である旨張するが、共同著作者たりうるためには「数人ノ合著作ニ係ル」場合でなければならないところ(旧著作権法第一三条第一項参照)、前述のとおり原告の主張自体から原告には本件脚本についての著作行為がなく、原告が本件脚本の共同著作者たりえないことが明らかであるから、原告の主張は、それ自体失当である。
第三 証拠関係〈省略〉

       理   由

 原告は、本件脚本は原告と被告の共同著作物である旨主張し、被告はこれを争うので、この点について判断する。
 本件脚本が原告と被告の共同著作物であるというためには、原告と被告が、本件脚本自体について、共同してその創作に関与したことを要するものと解すべきである。ところで、原告は、本件脚本が原告と被告の共同著作物である根拠として、原告から訴外Sに対し、原告が創作した本件原案を口頭で伝達したうえ、右訴外人から東京放送編成局長に対し東京放送においてしかるべき脚本家を選定して本件原案をそのまま採り入れて脚本化するよう伝達することを依頼したところ、被告が本件原案をそのまま採り入れて本件脚本を作成したものであるから、本件脚本は原告と被告の共同著作物である旨主張する。しかしながら、仮に右の事実がそのまま認められたところで、それは原告が本件原案を創作したというにとどまり、その事実だけからは、原告と被告が本件脚本自体について共同して創作に関与したということにはならず、原告がそれ以上に本件脚本自体の創作に被告と共同して関与したとの主張立証をしない本件においては、原告の、原告が本件脚本の共同著作者であることを前提とする本訴請求は結局その理由がない。のみならず、原告本人尋問の結果中、本件原案は原告が創作しこれを右訴外人に伝達したものである旨の供述部分にしても、原告のその余の供述部分及び〈書証〉の記載内容に照せば、これをそのまま信用することは難しいし、他にこれを裏付けるに足りる証拠もない。
 そうすると、原告の本訴請求は、その余の争点について判断するまでもなく、理由がないから、これを棄却することとし、訴訟費用の負担について民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(高林克己 牧野利秋 清水利亮)
「私は貝になりたい事件」
 

98427 政氏美緒

「私は貝になりたい?事件」 
損害賠償等請求事件
東京地裁昭和50年3月31日判決:判タ328−362


当事者
原告:中野昭夫
被告:橋本 忍

事実の概要
 「私は貝になりたい」は、昭和33年被告の脚本により、東京放送が放映したテレビ映画であり、同年劇場用としても作成され、上映された著名な作品である。本件は、この作品につき、原告が、映画及びテレビ映画「私は貝になりたい」の脚本は、被告と共同で作製した共同著作物であると主張して、著作者人格権を有することの確認と、損害賠償50万円を請求した事案である。

<原告の主張>
(一)原告は、昭和32年9月、株式会社東京放送(以下、東京放送)美術部勤務の訴外S(坂上健司)に対し、原告が創作したドラマ「私は貝になりたい」の原案(以下、本件原案)を口頭で伝達したうえ、同人から東京放送編成局長に対し、東京放送においてしかるべき脚本家を選定して本件原案をそのまま採り入れて脚本化した、昭和33年度芸術祭参加番組として制作、放送するよう依頼した。テレビ映画及び映画「私は貝になりたい」は、「私は貝になりたい」の脚本(以下、本件脚本)に基づくものであるが、本件脚本は、被告が本件原案をそのまま採り入れて作成したものであって、原告と被告の共同著作物である。 

(二)共同著作物の著作者人格権は、著作者全員の合意によらなければ、行使することができないのに(著作権法64条1項)、被告は、原告に無断で本件脚本を被告単独の著作物として公表し、原告が本件脚本について有する公表権及び氏名表示権を侵害し、現在に至っている。よって、原告は被告に対し、損害賠償として50万円の支払いを求める。

 

<被告の主張>
(一)本件脚本は、被告単独の著作物であって、原告の創作は何ら加わっていない。

(二)原告の主張は、それ自体失当である。すなわち、?原案ではいまだ著作物とはいえない、?原告が本件脚本を自ら書いたという事実はない、?共同著作者たりうるためには「数人ノ合著作ニ係ル」場合でなければならないところ(旧著作権法第13条1項)、原告には本件脚本についての著作行為がなく、本件脚本の共同著作者たりえないことが明らかだからである。

判旨
請求棄却。

「本件脚本が原告と被告の共同著作物であるというためには、原告と被告が、本件脚本自体について、共同してその創作に関与したことを要するものと解すべきである。…しかしながら、仮に(原告主張の)右の事実がそのまま認められたところで、それは原告が本件原案を創作したというにとどまり、その事実だけからは、原告と被告が本件脚本自体について共同して創作に関与したということにはならず、原告がそれ以上に本件脚本自体の創作に被告と共同して関与したとの主張立証をしない本件においては、原告の、原告が本件脚本の共同著作者であることを前提とする本件訴訟は結局その理由がない。」

「…原告本人尋問の結果中、本件原案は原告が創作しこれを右訴外人に伝達したものである旨の供述部分にしても、原告のその余の供述部分及び<書証>の記載内容に照らせば、これをそのまま信用することは難しいし、他にこれを裏付けるに足りる証拠もない。」

「そうすると、原告の本件訴訟は、その余の争点について判断するまでもなく、理由がないから、これを棄却することと」する。


「私は貝になりたい?事件」
著作者人格権等確認請求事件
東京地裁昭和51年3月5日判決:判タ344−288

 

当事者
原告:中野昭夫
被告:橋本 忍

事実の概要
 本件において、原告は、?原告が、別紙記載の映画及びテレビ映画「私は貝になりたい」の原案につき、著作権を有することの確認、?被告は原告に対し、金10万円を支払うことを求めた。この背景には、先の昭和10年3月31日判決の事件において、原案の創作は原案創作に止まり共同著作権を発生させるものではないという法律上の判断と、原案を創作した事実も認められないという事実上の判断を重ねて示し、原告の請求を棄却した、ということがあるものと思われる。

<原告の主張>
一、原告は、別紙記載の戦争、軍隊の不条理を訴求するドラマである「私は貝になりたい」という著作物を創作したものであって、現にその著作者である。すなわち、原告は、昭和32年9月、株式会社東京放送美術部勤務の訴外S(坂上健司)に対し、本件著作物の内容を口頭で伝達したうえ、同人から東京放送編集局長に対し、東京放送においてしかるべき脚本家を選定して原案である本件著作物をそのまま採り入れて脚本化し、昭和33年度芸術祭参加番組として製作、放送することを依頼した。東京放送は、テレビ映画「私は貝になりたい」を作製し、昭和33年度芸術祭参加番組として放送し、また東宝株式会社は、同年12月、映画「私は貝になりたい」を作製し、上映した。

二、被告は原告に無断で本件著作物を本件脚本の中にそのまま採り入れた。

三、原告は、被告に対し、原告が本件著作物について著作権を有することの確認を求める。四、原告は、被告に対し、本件著作物の著作権の行使につき通常受けるべき金銭の額に相当する額を自己が受けるべき金額の額として主張するものであるが、右通常受けるべき金銭の額に相当する額は本件著作物の使用料相当額100万円である。原告は、被告に対し、右損害額の内金10万円の支払いを求める。

<被告の主張>
一、原告は、別紙記載のとおりのものが本件脚本の原案でありそれ自体著作物であると主張するが、原案は未だ著作物として出来上がっていないものであるから、それについて著作権が生じるはずかない。また、原告は、別紙記載のとおりのものを創作したというが、原告がそのようなものを創作した事実はない。実際は、テレビ映画「私は貝になりたい」が放送された後になって、事実に反しその原案は自分が創作したものであると東京放送に申し向けてきたものである。原告は、東京放送に対し、「私は貝になりたい」について、20回近く訴提起、調停の申立等をしたが、結局原告には、「私は貝になりたい」について著作権及び著作者人格権のないことが判決で確定した。そこで、原告は、被告に矛先を変えて本件訴訟を提起したものと思われる。

判旨
請求棄却。

 「原告は、その本人尋問の結果中、原告が本件脚本の原案ともいうべきものを頭の中でまとめ上げ、昭和33年9月その内容を訴外Sに口頭で伝達することによって、別紙記載のとおりのものを著作した趣旨の供述をするが、…原告の右供述部分そのまま信用することはできないし、他にこれを裏付けるに足りる証拠もない。すなわち、…右訴外人が別紙訴訟で証人として、原告から本件脚本の原案ともいうべきものを口頭で伝達されたことはない旨供述していることが認められるところである。」
 「…原告は、その本人尋問の結果中、本件脚本の原案を頭の中でまとめ上げたが、これを文章に表現することはせず、右訴外人にその内容を口頭で伝達するに当たつては、道路を歩きながら、あるいは喫茶店の席で、別紙記載のとおり右訴外人に口頭で伝達することによって、別紙記載のとおりのものを創作的に表現したものであるとは認められないところである。」
 「右のとおりであって、原告が別紙記載のものをその主張のときに著作したものとは認められない。」
 「そうすると、原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がないので、これを棄却することと」する。

「私は貝になりたい?事件」
著作権確認等請求事件
東京地裁昭和61年5月16日判決:判タ609−94


当事者
原告:中野昭夫
被告:株式会社東京放送

 

事実の概要
 本件は、原告が、テレビドラマ「私は貝になりたい」の原案を作成したからとして、同テレビドラマを制作放送した放送会社である被告に対してその著作権の確認を求めたものである。

<原告の主張>
1.原告は、ドラマ「私は貝になりたい」の原案(以下、本件原案)を創作したもの出会って、現にその著作権者である。即ち、原告は、昭和32年9月、被告美術部勤務の訴外坂上健司に対し、本件原案の内容を詳述したうえ、同人から被告編集局長に対し、被告にいおてしかるべき脚本家を選定して本件原案をそのまま採り入れて脚本化し、昭和33年度芸術祭参加番組として製作、放送するよう伝達することを依頼した。被告は、原告の右申し入れを採用し、脚本製作を訴外橋本忍に依頼し、同人が本件原案をそのまま採用して製作した脚本に基づいて、ドラマ「私は貝になりたい」を製作し、昭和33年10月。昭和33年度芸術祭参加番組としてテレビにて放映し、さらに昭和34年10月30日にも再放映した。

2.被告は、原告が本件原案を創作した著作者であることを争っているから、原告は、被告に対し、原告が本件原案について著作権を有することの確認を求める。

<被告の請求の原因に対する認否>
 請求の原因の事実中、原告がその主張の頃、訴外坂上健司と面談したことがあること、被告が、訴外橋本忍脚本作成にかかるドラマ「私は貝になりたい」を製作し、原告主張の頃テレビにて放映したこと。被告が、原告が本件原案の著作者であることを争っていることは認めるが、その余は否認する。

判旨
請求棄却。

一.「原告本人尋問の結果中には、原告は、本件原案を頭の中でまとめあげ、昭和33年9月、その内容を訴外坂上健司に詳述することによってこれを著作した旨の部分がある。しかし、右尋問の結果によれば、原告が右詳述した場所は、喫茶店であって、しかも、右訴外人との会合は、短時間であるにもかかわらず、その内容は、ドラマ「私は貝になりたい」の導入部分から終了に至るまでの、すべての映像、台詞、音楽に及んでいたというのであつて、極めて不自然というほかないこと、また、原本の存在及び成立に争いのない乙第五号証(訴外坂上健司の別件訴訟での証人調書写)の記載に照らすと、右原告本人の供述のみによって、原告が本件原案を創作し、その著作権を取得したものと認めることはできず、他にこれを裏付けるに足りる証拠もない。」

二、「よつて、その余の点につき判断を加えるまでもなく、原告の請求は、失当であるからこれを棄却」する。

評釈
三つの事件とも判旨賛成。

(以下、特に断りなき限り、本件とは「私は貝になりたい?事件(以下、?事件)」を指すものとする。)

(1)共同著作物の成立要件
 現行法では、共同著作物とは、「二人以上の者が共同して創作した著作物であって、その各人が寄与を分離して個別的に利用することができないものをいう(著作権法2条1項12号)」と規定されている。しかし、旧著作権法においては、「数人ノ合著作ニ係ル著作物ノ著作権ハ各著作者ノ共有ニ属ス(13条1項)」と規定し、同条2項および3項で「各著作者ノ分担シタル部分明瞭」な場合とそうでない場合とに分けて「著作物中ニ其ノ発行又ハ興行ヲ拒ム者」があったときの措置を定めていた。従って、旧法下の共同著作物と現行法下のそれとは、必ずしも同義ではない。しかし、複数人が共同して著作物を創作したというための要件については、本件判決の判旨は現行法の解釈についても指針となるであろう(中村稔「判批」著作権判例百選[第2版]57事件・116頁)。
 そこで、共同著作物について、本件判決の判断は、「原告と被告が、本件脚本自体について、共同してその創作に関与したことを要」し、「仮に原告の主張する事実が認められても、それは原告が本件原案を創作したにとどま(る)」とした。このことだけを見れば、確かに原告が本件脚本を被告との共同著作物であると主張したことは、無理のある主張であったというしかないだろう。
 また、「複数人が一つの著作物の創作に関与するケースとしては、数人が順次直列的に関与する場合、並列的に関与する場合、その両者混合の場合等が考えられるが、本判決の右の考えでは、直列的に関与する場合には、共同著作物と認められる余地は少なくなろう」という見解もある(判例タイムズ「冒頭解説」No.328・362頁)。そこで、この見解について考えてみたい。普通、共同著作物といわれて、一番初めに思いつくのは、ここでいうところの「複数人が一つの著作物に並列的に関与する場合」であり、この場合は共同著作物として認められることに、何ら問題はないものと考えられる。
 それでは、数人が直列的に関与する場合について、学説はどう考えているのかというと、まず、「複数の者がその現実の意思を承知し、相携えて1つの著作物を作製するにこしたことはないが、その意思が判断できるだけでもよいように思う。そうなると、故人の著作物に改作を施すといったような、寄与の時点も含むことになるが、師匠の著作物に弟子が改作を施すようなとき、寄与の時点にずれがあったとしても、師匠の意を体しての弟子の寄与には共同性を認めることができ両者を共同著作者とする余地がある」とする説がある(斉藤博『著作権法』・103〜104頁・有斐閣・初版・2000年)。このような見解からすれば、本件判決の立場は、共同関係の成立要件としての共同関係について、特異に厳格であるといってよい(中村稔「判批」著作権法判例百選[第1版]47事件・102頁)。だが、他の学説においては、「共同著作性の要件を満たすためには、単に相手方が創作を加えるということを許諾していたというだけでは足りず、互いに相補う形で創作がなされたことが必要となると解される」という反対意見がある(田村善之『著作権法概説』・305頁・有斐閣・初版・1998年)。この説によれば、「甲(師匠)の著作物に乙(弟子)が改作を施すような場合は、当初から甲と乙が協力して改訂版を作成しようという意図の下で作業が進められ、くわえて、甲も単著であった元の版になにがしかの手を加えた原稿をある程度、仕上げており、甲の死後、乙がこれをも引き継いで改訂版を完成したというような事情が認められない限りは、この改訂版は単なる二次的著作物に止まるというべきである」ということになる(前掲・田村『著作権法概説』・305頁)。確かに、故人の著作を改作する場合、原作者の意思に反しないことの保証はまったくない(前掲・中村・百選[第1版]・103頁)。よって、師匠の著作物に弟子が改作を施すという場合には、共同著作物として議論するよりは、二次的著作物として論じたほうが妥当だと思われる。
 本件においても、共同著作物の問題として論じるよりは、原告が創作したとされる原案を一次著作物、本件脚本を二次著作物として論じたほうがよかったのではないだろうか。本件原告は、本件被告と並列的に本件脚本を書いたわけではないので、本件原案を原告が創作したとしたら(「私は貝になりたい?事件(以下、?事件)」・「私は貝になりたい?事件(以下、?事件)」においては、本件原告の本件原案に対する著作権が否定されている)、本件原案はかなり詳細であるので、二次的著作物を創作する際に許諾を受けなかったとして訴えれば、勝機はあったと思われる。

(2)原案について
 本件判決においては、「原案」というものについて、必ずしも明確に説明しているとはいえない。この点につき、「原案original plan」とは、「著作物を作るもとになる企画案、プロット、アイディアなどをいう。これらの思想、感情を文字、絵画、録音物などに表現したものを除き、それ自体には著作性なしとし著作権は発生しない」という解説がある(前掲・中村・百選[第1版]・103頁)。この定義に基づくと、アイデアそれ自体は保護されないところ、「原案」も保護されないのか、と考えられる。本件判決も、この解釈に則ったものといえるだろう。
 しかし原案といわれるものは、必ずしも具体的に表現された形式を有しないものではない(前掲・中村・百選[第1版]・103頁)。本件原告が本件訴訟において主張した原案は、かなり具体的であったところ、これが本当に原告の書いたものであったとしたら、これについて著作権が発生するということは、ほぼ問題ないと思われる。もし、この程度の原案について著作物性が認められないとしたら、かえって著作物性が認められる範囲が不当に狭く解されることになり、妥当性を欠くことになるのではないだろうか。
 これを本件において考えると、「たんに『私は貝になりたい』という遺言をのこして絞首刑に処せられたBC級戦犯の悲劇をテレビ映画として制作するというレベルの企画案」の場合と、「反対に、主人公の性格や各エピソードの展開によって構成されるストーリー等が具体化されているもの」の場合とでは、著作物性が認められるか否かについて、前者の場合は否定され、後者の場合は肯定されるという結論になりそうである。
 原案の提供により、共同著作物の成立が認められた裁判例としては、「商業広告事件」(大阪地裁判昭和60年3月29日・判タ565号274頁)がある。これは、その意向が大きな役割を占めた広告の依頼主が、広告の原画を作成した広告デザイナーと共同著作者に当たると判断されている。そのように考えると、本件判決も、原案を創作し提供しただけではつねに共同著作者たりえないものと判示したのではいえないのかもしれない。しかし、個人的には、本件のような場合には二次的著作物の問題として争うほうが妥当ではないかと思われる。

(3)「私は貝になりたい?事件」についての総括
 本件だけを見てもわかるように、著作物性を有しない原案と著作物性を有する原案との境界は明確に定め難いし、また、原案と原案にもとづく著作物との関係で、著作物が共同著作物にあたるか、一次著作物と二次著作物との関係に立つか、どうかをどういう基準でみるか、も明確に定め難い(前掲・中村・百選[第1版]・103頁)。それは確かにそうではあるが、これはケースごとに考えていくのがもっとも妥当であろう。本件においては、「原案を創作しただけでは、共同著作物とはならないといっているのではなく、本件原案の本件脚本に対する寄与の如何によっては、本件脚本の創作に共同して関与したものといいうる余地はありえた」という見解もある(前掲・中村・百選[第2版]・117頁)。しかし、個人的には本件のような場合は、二次的著作物として論じるほうが、無理がないと考える。やはり、師匠と弟子の例をみてもわかるように、共同著作物というものが認められる余地は厳格に限定されるべきと思うからである。

(4)「私は貝になりたい?事件」と「私は貝になりたい?事件」についての総括
 さて、?事件と?事件について、ここで簡単にまとめておきたい。まず、?事件においてだが、これは、?事件において本件原案が被告との共同著作物だとする主張が認められなかったため、本件原案の著作権を有することの確認を求めたという事件である。先に、?事件においては、原案を一次著作物、脚本を二次著作物と考えての主張なら、原告にも勝機があったのではないかと述べた。しかし、?事件においては、原告が上記のような詳しい原案を作成するのは、その情況からして失当といえるだろう。もちろん、著作物とは「表現されたもの」であり、外部に表現されあるいは口述、記述されることによって、媒介に固定される必要はないが、客観的存在となっていることを必要とする(土肥一史『著作権法入門』・223頁・中央経済社・第3版・2000年)のだから、?事件原告が、口述で本件原案を示しただけだということをもって、著作権がないとはいえない。だが、本件原告が著作物を主張しているのは、「著作権関係判例集?巻43頁」や「著作権研究8号128頁」に紹介されている相当に詳しい原案である。すると、原告と訴外Sの会合の時間は短いものであるのに、このような原案が作られたとするのにはやはり無理があるといえよう。従って、?事件においても裁判所の判断は妥当であったと思われる。
 次に、?事件についてだが、この事件は?事件の判決から10年ほども経ってから、?事件・?事件と同じ原告が、今度はドラマを製作し、放送した放送会社を相手取って、本件脚本の原案について、その著作権の確認を求めたものである。?事件・?事件については、損害賠償も合わせて請求されていたので、訴訟の意図がわからないでもなかったが、?事件においては、確認の請求がなされているに過ぎない。確認の訴えとは、原告の被告に対する特定の権利ないし法律関係の存在または不存在の確認請求について審判を求める訴えのことである(上原敏夫・池田辰夫・山本和彦『民事訴訟法』・33頁・有斐閣Sシリーズ・第2版補訂・1999年)。そこで、確認の訴えにより、権利の存否が確認されることは、紛争の解決につながることから、ここでは原告に本件原案の著作権が認められたとしたら、被告に対しどのような権利の主張ができるかを考えてみる。
 まず、多くの裁判例は、著作物の創作的な表現と認められるところを作成した者は誰かという基準で著作者を判別している(前掲・田村『著作権法概説』・299頁)のであるから、本件原案の著作権を原告が認められれば、放送会社に対して翻案権侵害に基づく損害賠償の請求や、通常の使用相当額の請求ができることになるだろう。これは、原告にとって相当意味のあることであろうが、?事件で明らかになっている事実をもとに考えれば、原告の訴えは認められるべきではないだろう。従って、この点についても判旨に賛成である。
 最後に、?事件が?事件の10年後になって、提起されたことを考えてみたい。おそらく?事件の被告にとっても、原告がおよそ著作権がないと判事された事件について、再び訴訟を起こすというようなことは、考えられなかったのではないだろうか。そうすると、なんとなく、?事件の被告は気の毒に思えてくる。従って、なぜ原告がこんなにも「私は貝になりたい」というテレビ映画の原案の著作権についてこだわったのかはわからないが、本件においては被告らに同情したい。こんなにも長期間、原告の訴訟に振り回されたことは、被告らにとっては相当な精神的苦痛であっただろうし、原告の主張は三つの事件を通していずれも失当といえるものだと思うので、本件判決が原告の請求をいずれも棄却したことは、そういう意味でも社会的妥当性に合致するものといえるだろう。


参考文献
1.中村稔「(東京地判昭50.3.31判タ328-362)判批」別冊ジュリスト著作権判例百選第2版57事件 

2.判例タイムズNo.328 冒頭解説 P.362

3.斉藤博『著作権法』(有斐閣、2000)

4.中村稔「(東京地判昭50.3.31判タ328-362)判批」別冊ジュリスト著作権判例百選第1版47事件 

5.田村善之『著作権法概説』(有斐閣、1998)

6.斉藤博「(大阪地判昭60.6.29判時1149-147)判批」著作権判例百選 第2版 61事件

7.金井重彦、小倉秀夫『著作権法コンメンタール 上巻』(東京布井出版、2000)

8.土肥一史『知的財産法入門』(中央経済社、2000)

9.上原敏夫・池田辰夫・山本和彦『民事訴訟法(有斐閣Sシリーズ)』(有斐閣、第2版補訂、1999)

10.加戸守行『著作権法逐条講義』(著作権情報センター、三訂新版、2000)

11.著作権判例研究会『最新著作権関係判例集?』 (ぎょうせい、出版年不明) 

12.著作権研究8号 P.128

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