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ニュース資料集コミュの【日本】NHK「JAPANデビュー・第2回 天皇と憲法」全文

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【日本】NHK「JAPANデビュー・第1回 アジアの“一等国”」全文
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【日本】NHK「JAPANデビュー・第2回 天皇と憲法」全文

 ◇

夕刻の備忘録
http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-124.html
【転載歓迎】「JAPANデビュー第2回」全文・関連情報

一昨日の5月3日に放送された「JAPANデビュー・第2回 天皇と憲法」の番組全内容をテキストにて紹介した。元映像を見て頂くことが最善ではあるが、テキスト版は放送時間(72分)の約1/4程度の時間で、全体を読み終はることが出来、また携帯電話からもアクセス出来るので、忙しい方にはかうした形式も便利かもしれない。

願はくば一人でも多くの方に放送内容を把握して頂きたい。そこで大変御手数ではあるが、「掲示板各所」「個人ブログ」「著名ブログ・コメント欄」等にて御紹介頂ければ大変有難ひ。現状での情報拡散の桁は、少なくとも「二桁」は小さいと思はれる。今の100〜1000倍程度流通すれば、大規模な二次、三次派生が期待出来るので、爆発的に周知されるのではないか、と考へてゐる。

来る16日の「大規模デモ」に向け、全二回の放送の中身、その発言録を「把握しておいて頂くこと」は極めて重要であらう。問題の所在を知る人が一人でも増へれば、それがそのまま「マスコミ問題」解決への大きな支援となる。これは直接行動に参加するか否かとは、また別の問題である。

読みやすさに配慮して五分割し、逆順に登録したが、読者は上から下へ普通にスクロールして頂ければ、それが番組の内容順になつてゐる。五部の直接リンクは、以下のアドレスになる。

Part.1. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-123.html
Part.2. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-122.html
Part.3. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-121.html
Part.4. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-120.html
Part.5. http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-119.html

              ★ ★ ★ ★ ★

三名のコメンテーターが発する、ダラダラとした「全く締りの無い言葉」を、聞き取れる限りそのまま記載した。徹夜で「寝言」を聞き取るといふこの作業は、大変な苦痛を伴ふものであつたが、その話の中身以上に、飲屋での雑談の如き口吻が、その人物と視聴者への姿勢を明瞭に示すと考へたからである。共産党用語である「天皇制」といふ言葉はあつても、最後まで「陛下」といふ敬称を聞くことは一度も無かつた。唯一の例外を、ボン大学のラインハルト・ツェルナー教授の「呟き」に見出した。これは極めて示唆に富んでゐる。

番組最後のナレーション:

        天皇と国家の在り方を、どう決めていくのか、
             私達の未来への課題です

この「私達」とは一体誰のことなのか。NHKの云ふ「私達」とは、「未来への課題」とは、誰に向けて、何を、どうしろ、と呼び掛けてゐるのか。これは「スリーパー」への指令ではないのか。少なくとも「この私」は、NHKの称する「私達」の中には、断じて含まれないことだけは強調しておく。加へて「皆様のNHK」の「皆様」にも含まれないことを。


追加:「国営放送局」創設に向けて、国民の意見をまとめる時期に来てゐるのではないだらうか。以下の過去記事も御一読頂ければと思ふ。

http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-83.html
http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-84.html

2009.05.05 | NHK-問題 | @




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http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-123.html
【転載歓迎】「JAPANデビュー第2回」全内容-Part.1

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★オープニングタイトル
JAPANデビュー
未来を見通す鍵は歴史の中にある
世界の連鎖が歴史をつくってきた
150年前 世界にデビューした日本
私たちはどう生きた そしてどう生きる

NHKスペシャル シリーズJAPANデビュー
第二回 天皇と憲法

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★皇居周辺の空撮映像

語り・濱中博久:
1859年、横浜が開港し日本が世界にデビューした150年前。日本は天皇を中心とした近代国家を目指し憲法を制定。議会や内閣など、国家の仕組を作っていきました。

国会を天皇が召集する。今の憲法に決められた天皇の国事行為の一つです。この天皇の役割も、明治時代に初めて定められ、今に続いています。

★今上陛下の映像と御言葉:
『本日、第171回国会の開会式に臨み、全国民を代表する皆さんと一堂に会することは、私の、深く喜びとするところであります』


現在の日本の国の骨組みは、明治に形作られました。

大日本帝国憲法では、天皇は日本を統治する国家元首と定められました。その憲法の基本理念を示す資料が、ドイツに残されていました。国家を人間の身体に譬え、その頭部が君主にあたるという考えです。しかし、天皇の権力が何処まで及ぶのか、その解釈の違いが激しい議論を呼びます。

やがて天皇を絶対視する思想が、日本全体を支配していきます。テロによる事件が頻発、遂には憲法を停止して、天皇中心の国家を新たに作り直すという過激な思想まで出現します。

憲法が作った政治体制は崩れ、日本は戦争への道へと突き進んでいきます。大日本帝国憲法の制定から崩壊までの道程、そこから何が見えてくるのか。

京都大学・山室信一教授:
「つまり、明治憲法の出来方ということですね、まあ、問題にしようとしているのはですね、天皇というのは、どういうあるべきなのか、という問題、あるいは、内閣とかですね、議会とか、どうあるべきか、という問題をですね、その、その存在理由や意義や機能について、徹底的に議論をしたのは、実は、この憲法起草の過程なんですね。そもそも何か、という問題をですね、考える必要があるんだろうと思います」

東京大学・御厨貴教授:
「だから、明治憲法というのは、ある意味で、考え抜かれた憲法で、その意味では、凄く制度設計がよく出来た憲法だという風に、彼等も思い、当時の人達もそう思った。ところが、やっぱり国が成長していくというのかな、国がやっぱり、その時の状況で変わっていくってことをですね、余りにも想定しなかったんですよね。国がそんなに急に変わると思ってない。ところが、近代ってのは、あっと言う間に変わっていく訳ですよ」

評論家・立花隆:
「それで、その今の昭和憲法ってのは、実は大半の人は、あの明治憲法とは全く離れて、全く新しい憲法が出来たと思ってるんですよ、ね。大半の人はそう思ってます。しかし、そうじゃないんですよ、ありゃ続いてんです。だから、昭和憲法ってのは、全く新しい憲法が突然議決されて出来た訳じゃなくて、明治憲法の改正された訳なんです、一部改正しただけなんです。非常に重要な部分が、改正されてますよ、非常に主要な部分が改正されてるから、あたかも別の国家がそこで生まれたみたいな感じだけれども、そうじゃなくて、国家の芯そのものは続いてる訳ですね」

大日本帝国憲法を分析し、現代日本に繋がる天皇と憲法の在り方を探っていきます。


★第1部 大日本帝国憲法の誕生

大日本帝国憲法です。

天皇についての規定が明文化され、第一章に掲げられました。その第一條、「大日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」、日本は天皇が統治する国であると謳われています。

この條文が後に、天皇を絶対視する思想に繋がっていきます。
しかし、この憲法には、天皇が支配者として独断で政治を行わないように、その権限を制限するための條文も定められていました。それは第四條です:
「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」。

「憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」という規定、つまり天皇は国家の元首であるが、この憲法に従って統治するとされたのです。天皇を絶対視することに繋がる第一條、そして天皇も憲法に従うとする第四條、この二つの條文が憲法に同時に存在することによって、様々な矛盾や曖昧さを産んでいくことになります。

大日本帝国憲法は、どのように練られ、どう制定されていったのでしょうか。

語り・礒野佑子:
当時、世界では文章に明記された成文憲法を制定し、国家体制を示すことが、近代国家の証となっていました。その魁はアメリカでした。アメリカは、イギリスの植民地支配から脱するために、独立戦争を戦い連邦制国家を形成。1787年に、人民主権と三権分立を謳った合衆国憲法を制定しました。議会を開き、国民の意見を集約するために、国の基本理念や制度を定めた條文が必要だったのです。

成文憲法の制定の波は、ヨーロッパにも押し寄せました。フランスでは、フランス革命後、1791年に憲法を制定。その後、1831年ベルギー王国、1848年プロイセン王国。多くの王制国家で、君主を元首とし、その権限を定める立憲君主制の憲法が次々に作られました。19世紀には、世界の近代国家が、成文憲法を制定していたのです。

★ウイーンの映像

語り・濱中博久:
世界の列強と対等に渡り合える近代国家にするために、日本はどのような憲法を作っていくのか。1882年、明治政府は憲法調査のため、伊藤博文をヨーロッパに派遣しました。伊藤の課題は、天皇の政治的位置付けと、自由民権運動で求められた国会を、どう規定するかでした。

伊藤は、ドイツ、オーストリア、イギリスなど、一年余りに渡って滞在します。悩む伊藤に、立憲君主制のイメージを強くもたらしたのが、ウイーン大学の国家学者、ローレンツ・フォン・シュタインでした。シュタインは、近代国家の仕組を研究し、各国の憲法に精通していました。伊藤は一ヶ月以上、直接シュタインの講義を受けました。

ボン大学教授のラインハルト・ツェルナーさんです。
NHK番組スタッフ:「どうも先生、こんにちは」
ツェルナー教授(日本語で語る):「あっ、こんにちは」
NHK番組スタッフ:「今日は……」
ツェルナー教授:「ああ、そうですね。ここはとても懐かしいです」

シュタインの生まれ故郷にある図書館に、シュタインの資料が残されています。

ツェルナー教授:「例えばですね、こういう資料があります。えっと、当時の……」

シュタインは、国家は一つの人格を持ち、一人の人間のように活動するものと考えていました。シュタインの受講生の一人が書き記した「絵図」です。

国家を人体のように表しています。頭の部分が君主にあたると考えられました。両肩に上院、下院の議会。胴体の部分には、政府を構成する各省。人民が足に描かれ、国家を支えています。人間の身体のように、国家もそれぞれの機関が、それぞれの役割を果たしてこそ、健全な状態になるとされました。

シュタインの教えの根柢には、「君主」「行政」「立法」の三権によって国を運営する考え方がありました。立憲君主制は、この三権がそれぞれ独立し、調和しながら、国を動かしていく体制と説きました。

シュタインが特に重視したのが、行政でした。君主の権限を制限し、議会が力を持ち過ぎることを抑え、安定した国家運営を行うのは、行政だと強調しました。このシュタインの教えに、伊藤は強い影響を受けました。三権のバランスを保ちつつ、政治家である自分達行政が国家を導く、その政治システムを学んだのです。

伊藤は帰国後、シュタインの教えを明治天皇に伝えるため、天皇の侍従、藤波言忠をシュタインの下に派遣し学習させました。その藤波がシュタインに宛てた手紙が残されていました。

ツェルナー教授:「これです、藤波のサインがあります。えっと、三日に一度、天皇の前で、シュタインの講義の内容を、まあ天皇、両陛下に説明して、で、天皇はそれを聞いて、えっと喜んで、憲法の必要を、あの、まあ理解して、認めたっというわけなんですけれども」

明治天皇は、藤波からシュタインの講義内容を33回に渡って熱心に聞いたとされています。これは藤波が、シュタインの講義の内容を記したものです:

「君主独裁でなく、立憲政体となり、国会を開設すれば、国王と雖も、思い通りにならないことが、生じてくる」

憲法を作り、国会が開設されれば、政府と君主との間で争いが起きる可能性もあり、君主、立法、行政の三権の役割を明確にすることが重要だと説いていました。

近代の法制思想史を研究する京都大学教授の山室信一さんです。政治家としての伊藤博文は、憲法の中で天皇をどう位置付けようとしていたのでしょうか。

京都大学・山室信一教授:
「まあ、伊藤の場合にはですね、えー、まあ自らが、まあ、その、政治的リーダーシップを取ってきたという、まあ自負もありますので、えー、天皇というのは、まさに自分の政治的なですね、その行為を最大限にですね、その活かすための、ある種の、その、道具という言い方は、ちょっと、大変不遜になるかもしれませんけども、そういうような考え方をですね、持ってた側面があると思います。実際、政治の場で、まあ、明治天皇にどう働いて貰うのか、あるいは、天皇がどういう機能を果たすべきなのか、ということに、まあ非常に関心があったのだろうと思います」

2009.05.04 | NHK-問題 | @

コメント(11)

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【転載歓迎】「JAPANデビュー第2回」全内容-Part.2

伊藤博文は、1885年、明治18年、それまでの太政官制度を廃止しました。内閣制度を作り、自らが内閣総理大臣となったのです。そして、憲法作りに取り掛かっていきます。

★國學院大學図書館の映像

東京渋谷の國學院大學です。
明治時代に作られた大日本帝国憲法の起草に関する、膨大な資料が残されています。

★日本帝国憲法草案の映像

憲法の草案。
諸外国の憲法の翻訳。
外国人法学者との問答集など、全部で6000点を超えています。

これらの資料を残したのは、大日本帝国憲法の草案を書いた井上毅です。治法省にいた井上は、法律専門の官僚として、憲法の草案作りに当たるよう、伊藤博文に命じられました。
井上は天皇の位置付けについて、憲法の條文を何度も書き直し、推敲を重ねていきました。

天皇が日本を統治することの根拠を、明文化しなければならないと考えたのです。

井上は天皇が日本の歴史の中で、どう位置付けられて来たのか、歴史書を改めて研究します。古事記などの古典を調べ、日本の国の成り立ちの中に、天皇が国を治める正当性を見出そうとしました。古事記には、天照大神の子孫である神武天皇が、第一代の天皇となったと記されています。

★『岩倉公実記』の映像

そこから出発し、後の世、天皇は武士が台頭した時代であっても、絶えることなく、連綿と受け継がれたとされてきたことから、井上はその連続性を重視しました。そして明治になって、天皇の歴史的由来を示す言葉として、頻繁に使われるようになっていた表現に着目します。それは「萬世一系」。先祖代々絶えることなく、今に続いていることを意味するこの言葉を、井上はそのまま憲法の草案に用いようとします。

京都大学・山室信一教授:
「萬世一系という言葉がですね、まあ、あの普通に考えますと、ずっと江戸時代以前からですね、存在しているように考えがちでありますけれども、それまでのですね、その常用の言葉ではないんですね。えー、むしろ、それがですね、その明治期に入って、えー、外交文書に使われている、多く使われたことからも分かる、明かなようにですね、その徳川幕藩体制を壊して成立したですね、明治政府というものの正当性というものをですね、いわば諸外国に対してですね、証明する、という、まあちょっと修飾語として使われ始めたというのが、私は、まあ事実だろうと思います。で、そういう中でですね、その同時に今度は、国内におきましてはですね、その天皇というものが何故支配するのかについてですね、まあこれは、その旧支配階級などは、非常に不満を持っているわけでありますから、それに対しても教えなければならない、つまり、その正当性を伝えなければならない、という点で、国内向けに今度は使われ始める。それがですね、次第に天皇制の支配、あるいは、天皇の支配というものをですね、まあ、その正当性、根拠であるということに使われてくる、ということになると思います」

★神奈川・夏島の風景

1887年、明治20年、伊藤博文は神奈川県夏島で、井上毅と共に憲法の草案作りに取り掛かります。

これがその時、議論された夏島草案です。
井上は第一條に、「日本帝国ハ萬世一系ノ天皇之ヲ統治ス」と書きました。ところが、この「萬世一系」の用語を憲法條文に書くことに反対する意見が持ち上がります。反対したのは、明治政府の法律顧問、ドイツ人のヘルマン・ロエスレルでした。ロエスレルの憲法修正案に関する意見書です:

「第一條に萬世一系の天皇と過大な誇称を書こうとしているが、これから先の百年を予測することは出来ない。ましてや、今後幾百年、幾千年の後まで皇統が連綿と続いていくことを、一体、誰が予想出来るだろうか」

ロエスレルは、萬世一系という漠然とした文言は、成文法に馴染まないとして、止めるように意見したのです。しかし、伊藤と井上は、この意見を採り入れませんでした。

京都大学・山室信一教授:
「井上や伊藤に取りましてはですね、その、日本の国家というもの成り立ちというものを説明するために、まあ、萬世一系と、重要でしたし、同時にですね、えー、その、まあ様々な地でですね、論争もあり、そして、対立もあった日本社会というものを、統合していくためにはですね、天皇というものが、その言ってみれば、統合の中心としてですね、その存在していなければならない、という風に思ってましたし、逆に言えば、百年後も、二百年後も、そういう体制であって欲しいということを示すという点ではですね、これは伊藤や井上は、むしろそれを書きたいという風になるのは、当然ではないでしょうかね」

1888年6月、出来上がった憲法の草案について、天皇の諮問機関・枢密院で審議が始まりました。天皇臨席の下、議長は伊藤博文です。審議された項目の一つが、「天皇は憲法に従って統治する」と書かれた第四條でした。その時の模様が描かれた絵です。

「第四條 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ條規ニ依リ之ヲ行フ」

山田顕義・司法大臣から意見が出ます:
「この憲法の條規以下の文字を削除することを望みます。この文字を置くと天皇の統治権は、元々在った権限ではなく、憲法を設置したことで、新しく始まったかのような感覚を持ってしまいます」

これに対し、議長の伊藤博文は、自らこう説明しました:
「本條は、この憲法の骨子です。憲法政治といえば、即ち、君主権を制限することなのです。この條項が無ければ憲法は、その核となるものを失うことになります。憲法の條規により、という言葉が無くては、憲法政治ではなく、無限専制の政体となってしまうのです」

第四條は、多数の賛成を以て可決されました。1889年2月11日、大日本帝国憲法が発布されました。天皇、議会、司法、国民の権利、義務などを明記、近代国家の骨組が出来上がりました。

語り・礒野佑子:
憲法の制定によって、天皇、内閣、そして議会という三つの権力による、立憲政治システムをスタートさせた大日本帝国。天皇の下、内閣と議会が実際の政治を運営していくことになります。
しかし、議会を担う政党は、政権に固執して党利党略に陥り、やがて自滅。一方で権力を強めていくのが、軍部です。憲法に定められた、天皇が陸海軍を統帥す、という統帥権を盾に大きく肥大化。遂には、憲法が作り上げた立憲政治システムは崩壊。
この時代の象徴ともいうべき人物が、犬養毅です。犬養が、第一回帝国議会で国会議員となり、五・一五事件で暗殺されるまでを描き、立憲政治システムの始まりから崩壊までを追っていきます。

2009.05.04 | NHK-問題 | @
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http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-121.html
【転載歓迎】「JAPANデビュー第2回」全内容-Part.3

第2部 政党政治の自滅

語り・濱中博久:
憲法が制定された翌1890年、明治23年、第一回帝国議会が招集されます。

自由民権を推し進めてきた政党、所謂「民党」にとっては、待望の立憲政治の始まりです。民党の闘将と言われた犬養毅は、立憲改進党の一員でした。政党が力を持つことによって、国民の声を反映させる政治を目指します。

『朝野新聞 論説』より:
「出来上がった憲法は、世界の基準と成る優秀な憲法である。しかし、如何に優れた憲法であっても、運用が良くなければ、優秀の美を為すことは出来ない。一致協力して天皇が作った立派な憲法を、無にすることがないよう務めよう」

こうした犬養ら民党と激しく対立するのが、時の総理大臣・山県有朋でした。明治維新以来、長州と薩摩などによる藩閥政治を推し進めてきた山県は、台頭する政党政治に対抗するための制度を打ち立てます。
陸海軍大臣、及び次官に任じられるのは、現役の軍人のみに限定する制度です。現役の軍人が大臣に就くには、軍の許可が必要となります。

たとえ政党が政権を獲っても、軍部が許可せず、大臣候補を挙げなければ、内閣は組閣出来ません。
更に山県は、軍の法令などについて、総理大臣の署名は必要とせず、陸海軍大臣の署名だけで成立するように改めました。

こうした軍部の台頭を可能にしたのが、大日本帝国憲法第十一條に掲げられた、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という條文でした。これによって、陸海軍に指揮命令するのは天皇のみとされ、統帥権は、内閣や議会に干渉されない独立した軍の存在を可能にしたのです。

★陸軍特別大演習(1934年)の写真

何故、藩閥内閣の山県は、犬養ら政党を押さえ込もうとしたのでしょうか。明治時代から現代までの日本の政党政治を研究している東京大学教授の御厨貴さんです。

東京大学・御厨貴教授:
「当時は、やっぱりこう党派っていう、何か、何かあるイデオロギーなら、ある、その主張を持った党派が、要するに、政治を私する、という感覚を持ってましたから、そりゃ今日の目から見たら、藩閥の方がよっぽど国家を、その、私しているように見えますが、彼等にとってみれば、自分が国家ですから、だから要するに、政党は政党に有利なこと、だからその地方の利益であるとか何とかっていうのを主張してくる、それはイカンと、国家の利益全体のことを考えていれば、だから自分達だけだ、これは勿論、今から考えると、非常に独善ですよ。だけど彼等は、それを本当に信じていたわけですよね。だから政党は部分利益だからダメ、国家利益を代表していないからダメ、こういう形ですね」

政党と軍部の対立により、伊藤博文や井上毅など憲法起草者が予想もしなかった事態が、日本の立憲政治システムに起きていきます。

語り・礒野佑子:
この頃、世界は大きく変動していました。1914年、第一次世界大戦が勃発します。この大戦によって、これまでの世界の君主国が、崩壊していったのです。1917年、ロシア革命により、300年余り続いた王朝が滅亡。1918年、戦争に敗れたドイツ帝国と、オーストリア・ハンガリー帝国で皇帝が退位。一方、アジアでも1911年、辛亥革命が起こり、清朝が瓦解。中華民国が成立し、アジアで最初の共和国が生まれていました。

日本でも、大きな変化が起きていました。1912年、明治45年7月、明治天皇が世を去ります。大正天皇が皇位を継承しました。しかし、大正天皇は病気がちで、公の場に姿を見せることが少なくなりました。その一方で、国内には自由と平等を求める動きが強まり、民主主義を求めていく、所謂「大正デモクラシー」の空気が満ち溢れていきました。

語り・濱中博久:
犬養毅は、民衆が広く政治に参加出来るように、普通選挙の実現を訴えていきました。

『1925年5月の演説』より:
「先ず国民が一致して国政に参加すること。国難に当たるには、普通選挙の断行を促したい」

1925年、大正14年、普通選挙法制定。納税額による制限は廃止され、25歳以上の男子に選挙権が与えられました。普通選挙が実施されると、有権者の数は一気に四倍に膨れあがりました。政党は、選挙に勝つために、一票でも多くの票を獲得しようとします。

政策や理念ではなく、政権獲得のため、党利党略に走るようになります。普通選挙が実施されたことで、藩閥政治から政党政治の時代へと、大きく変化を遂げたものの、一方で、民意に大きく影響される政治を生み出しました。

東京大学・御厨貴教授:
「そりゃ二面ありましてね、だから一つは、良い方、良い方って、まあ、あの、ある意味で言うと、その、まあ、国民みんなに、せ、政治に対する、要するに参加意識を持ってもらって、それで政友会と、その後には民政党という二大政党による、その政党の政党政治というものが、まあ、形の上で出来上がっていく。で、それが出来上がることによって、政党総裁以外は総理大臣になるということは、ないという、そういう時代になった。だから、その意味では、これは、あの、民主主義の、まあ発展なんですよね。と同時に、その国民が、その、政党や政治を見る時に、日本がやっぱり勇ましく、外へ出て行く、あるいは、ソ連がまた、もしかすると出てくるかもしれない、という状況の中にあって、かなりですね、ナショナリズムみたいなものがね、刺激をされて、日本は一応、国威発揚しなくちゃいけないんだから、そのためには、外に出て行くべきだ、という一種の対外強行主義みたいなものを、その草の根の人達が支える、で、その上に政党が乗っかる、というね、形になっていく。これを、まあ抑えるよりは、むしろそれを受け入れっていくって筋が出てくる」

普通選挙実施の翌年、犬養毅は二大政党の一つ、政友会の総裁に担がれました。犬養は、従来から訴えてきた、軍の合理化を、党の公約に掲げました:

「軍制を整理し国防の経済化を図る」

この時、政権は対立する民政党にありました。首相の浜口雄幸も緊縮財政に取組み、軍縮を推進する姿勢を示していました。1929年、昭和4年、ロンドンで海軍軍縮会議が開かれることになり、会議の前に、財部毅・海軍大臣が政友会総裁の犬養を訪ね、軍縮への了承を求めました。この席で犬養は、異論は無いと述べています:

「日本のような貧乏所帯でいつまでも軍艦競争をやられては国民が堪らない。こんな問題は政争の具にすべき問題ではない」

ところが、ロンドンでの会議の後、犬養は大きく態度を変えていきます。ロンドン海軍軍縮会議には、日本をはじめ、イギリス、アメリカ、フランス、イタリアの五ヶ国が参加。巡洋艦や駆逐艦、潜水艦などの制限が話し合われました。会議は難航、成立した協定案は、海軍軍令部が確保を主張していた、軍艦の目標総トン数を下回っていました。浜口内閣は、海軍軍令部の反対を押し切り妥結、調印しました。

これに対し、猛然と政府を責め立てたのが、犬養率いる政友会でした。政友会が問題にしたのが「統帥権」でした。政友会は、条約の調印は、天皇の大権である統帥権を侵すものであると政府を攻撃。海軍軍令部の主張を認める方針を打ち出しました。

政友会が軍との繋がりを深めたのは、犬養の前の総裁だった田中義一の時です。田中は軍人出身であり、軍関係者の組織票を頼りに選挙を戦っていました。犬養は、そうした政友会を党首としてまとめるために、それまでの自説を大きく変えたのです。

東京大学・御厨貴教授:
「犬養には、もう残された時間は無かった。しかも、その総理大臣の椅子というのは、もう、目の前にぶら下がっている、いう時に、彼は、権力の方を獲った訳です。だから、そこで大胆な妥協をする。やっぱり政治家って疼くんですよ、その権力を目の前にした時に、その権力って魔物なんだけど、俺は自由に出来る、俺の力で自由にしてみたい、それはもう歴代の、累代の政治家、みんなそう思うみたいだから、だから、これ、軍拡路線に何故、その、政友会が乗っかっていくかというと、軍拡路線に乗っかることによって、次の選挙に勝てるに違いない、と思うからですよ。あるいは、次の選挙に負けないと思うからであって。で、そうこうしてるうちに、本当に軍に取り込まれちゃう」

★満州事変 1931年(昭和6)の映像

ロンドンでの条約調印の翌年、満州事変が勃発します。関東軍が、独断で満州を占領。時の民政党、若槻礼次郎内閣は、満州での不拡大方針を巡って、閣内で意見が分かれ、総辞職しました。その年の12月、遂に犬養に天皇から大命が下ります。第一回帝国議会から41年、漸く手にした総理大臣の座でした。

総理大臣官邸前に集まった500人の人々、犬養の地元、岡山の支持者達です。その真ん中で、カメラに収まる犬養毅。民衆の声を政治に反映させるという夢を、いよいよ実現出来ると、意欲に燃えていました。総理大臣になった犬養は、満州国の承認に反対の意志を示しました。軍部や党内から激しい反発を受けます。

★五・一五事件 1932年(昭和7)の映像

そして、総理大臣就任から僅か5ヶ月、海軍の青年将校らによって、犬養は射殺されます。この「五・一五事件」以降、政党内閣は成立せず、犬養は政党政治・最後の総理大臣となりました。

東京大学・御厨貴教授:
「政党政治ってのは、それ自体としては非常に脆いものであって、それ以外のもの、つまり政党総裁以外のものは、総理大臣候補になれない状態を、要するに枠組として、その、ずっと維持し続ける、これはもう、それこそ日々努力していなければダメな訳ですよ。これをきちんと確立した上で、その、政党が相互に争うならいいんだけども、そこのところの枠を全部破って、やっぱり反政党的な機関と結ぶことによって、全体としての政党政治の基盤が壊れていったってのが1930年代ですから。だから自殺なんですよ、これ」

★皇居の空撮映像

語り・礒野佑子:
政党の自滅、軍部の台頭によって、立憲政治システムを崩壊させた日本。その崩壊の過程で、急速に日本を支配していったのが、天皇絶対主義でした。この天皇を絶対視する思想をもたらしたのが、国体論と呼ばれる国の在り方を問う議論でした。
天皇が治める国家体制は、どうあるべきか。その議論を激化させる大きな切っ掛けとなったのが、東京帝国大学の美濃部達吉が説いた「天皇機関説」です。天皇機関説を巡る論争は、やがて日本を戦争の道へと駆り立てます。天皇機関説論争の始まりから、日本が敗戦し、新憲法が誕生するまでを検証していきます。

2009.05.04 | NHK-問題 | @
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http://jif.blog65.fc2.com/blog-entry-120.html
【転載歓迎】「JAPANデビュー第2回」全内容-Part.4

第3部 「国体論」の暴走

語り・濱中博久:
天皇機関説論争の舞台となった東京大学です。大日本帝国憲法発布から23年後、1912年、憲法の解釈が二つに分かれ、大論争が起こりました。

憲法講座を持っていた上杉慎吉博士は、「天皇は国家そのものであり、天皇の意志によって国家は動かされる」という天皇主権説を説いていました。

一方、同じ法学部で、主に行政法について講義していた美濃部達吉教授が、天皇機関説を唱えました。美濃部が著した『憲法講話』です。この中で美濃部は、国家は沢山の機関から成り立つ組織である。天皇もその機関の一つで最高機関であると記しました。

東大で起きた天皇機関説論争とは、何だったのか。近現代史でも数多くの著作がある評論家、立花隆さんです。

評論家・立花隆:
「あの、と、東大だと思ってるでしょ、東京帝國大学なんですよ、これは。帝大なんす、こっちも帝大。こっちも東京帝國大学ですよ、ね、へへへ(マンホールの蓋を指差しながら)」
「天皇機関説ってのは、あの、別の言い方をすると、あの、国家法人説と言ってもいいような立場ですよね、えーと、要するにその、国を統治する、統治する主体、要するに主権、保持者は何者かというね、えーと、結局はそこの論争になるんですが、主権そのものは、えー、要するに国家という法人の中にあるんだという、それで、天皇は、その中で何者かというと、あのー、えーと、あの、国家全体を、あの肉体に譬えれば、あの、要するに頭の部分が天皇であると、ね。だから、あの天皇も一つのオーガン、あの器官ってのはね、“きかん”きかんってのは、機関車の機関じゃあなくてですね、あのオーガンなんすっよ、あのオルガンなんすね、それが美濃部の天皇機関説なんですが、そういう流れに沿って書いた、あの美濃部の論文に対して、あの上杉というのは、あのー、東大で、えっと憲法講座を、まあ20年もずーっとやってきた人ですから、で、その人は元々、天皇中心主義者で、天皇中心主義こそ、日本の国体そのものであるというね、非常に強い考えを持っていた人ですから、まさに萬世一系の天皇が、あのー、日本を支配しているというね、えっと憲法一條そのものを、その通り、あの、要するに、言葉通りに解釈するっていうか、受け取るというかね」

美濃部、上杉、両者の論説の違いは、憲法の解釈にあります。
上杉は、憲法に記されていると、天皇こそが統治権を持ち、日本の主権者であると主張します。これに対し美濃部は、天皇も国民と同じく、国家機関の一つであるという考えから、統治権は国家そのものにあると唱えたのです。上杉と美濃部は、お互いの意見を、当時の雑誌「太陽」の誌面で、激しくぶつけ合います。

上杉:「美濃部博士は、天皇が統治権の主体でないという。では統治者は誰だというのか。私は天皇が主権者であるとするが、美濃部博士は人民全体の国体を以て、統治権の主体とする。私は我が国を君主国とするが、美濃部博士は民主国という」

美濃部:「私は、憲法講話の如何なる場所においても、帝国を民主国であるとしていない。また天皇が、国を統治する大義を無視する言を為したことはない。統治権は、君主一身の利益の為でなく、全国家の利益の為に実現するものであるので、その権利は国家にあると考える」

上杉:「美濃部博士は、天皇が機関だという。国家の機関であり、団体の役員だという。団体とは人民全体のことであり、天皇は人民の為に働く使用人として存在するというのが、美濃部博士の説である」

美濃部:「法律学で、通常使われている団体の機関という語を取って、他人の使用人と解釈するとは、全く想像さえしていなかった。機関という言葉は、国家を人体に譬えることから起きた言葉で、君主が国家の機関というのは、人間の頭脳が、人間の機関であるのと同様の意味でいうのである」

評論家・立花隆:
「国体に関する異説という、その上杉が書いた、ね、あのー美濃部に対する、その、糾弾の文章ね、この糾弾の文章そのものが、完全に、要するに曲解なんです。あの、ねじ曲げると、こう、そういう論理も成り立つのかなという、やね、あのー、そういうことを言っている、わけで、こりゃね、えーと美濃部が、あの、もう完全圧勝という形に読めるんです」

論争の結果、この時は、美濃部の説が、他の憲法学者や法学者からも支持され、それまで東大で一つしかなかった憲法講座が二つ設けられました。学生がどちらかの講座を選ぶことになったのです。

評論家・立花隆:
「で、学生が、現実にどっち取ったかっていうと、あの、相当多数が、あの美濃部の方を取っちゃうんです。ですから、あのー、東大生の主流が、そっちを取っちゃうってことになると、要するにそのー、それから以後の、その司法試験の、試験の内容も、何もかも、今度は美濃部の考えに従って、あの、なるというか、だから、憲法の世界を完全に支配していた上杉憲法は、そこで、あの、完全に美濃部に敗北するということが、事実上起こるわけです。これは上杉の生涯、あのー、何ていうか、一番大きな恥辱の経験として、ずーと彼のトラウマになって残っているわけですね」

語り・礒野佑子:
第一次世界大戦後、世界では新たな政治思想が拡がっていきます。社会主義革命が起こり、ソビエト社会主義共和国連邦が誕生。その波は日本にも押し寄せ、共産主義運動や無政府主義運動が起こります。東京帝国大学でも、経済学部の助教授であった森戸辰男が、無政府思想を日本に紹介します。同じく東京帝国大学の吉野作造は、民主的な思想の拡がりから、議会や政党を中心にした国家の有り様、民本主義を説きました。また、各地で労働組合が結成され、労働争議が起こるようになっていました。

語り・濱中博久:
こうした新しい思想や活動に、大きな危機感を抱いたのが、元老・山県有朋でした。1920年、大正9年に、山県は時の原敬内閣の閣僚に、極秘の共産主義運動防止の意見書を配布していました:

「世界の思潮が急激に変態をきたし、今やその勢いはほとんど全世界を風靡している。新思想は陰密の間に各部に浸透し、その状況は驚きに堪えない。教育制度を改善し、新思潮を食い止めなければならない」

天皇機関説論争で破れた上杉慎吉も、山県同様、新しい思想や活動は、国体、国の在り方を大きく揺るがすものとして、強く反発します。特に、民本主義を説く吉野作造を激しく非難します。

『我が憲政の根本義』より:
「我が立憲政体は、天皇親政を基礎とするものである。議会中心の政治というのは、即ち、天皇親政を排斥する政治である」

評論家・立花隆:
「彼はね、やっぱりね、あの、論争達者なんすよ、ね。そりゃ議論はうまいんです。あの、彼の文章だけを読んでいるとね、なるほど、なるほど、と思います。上杉の文章ってのはね、非常に独特の熱気を持ってるんですね。だから、大衆の心を、あの、この、マインドを、この引き込んで、そちら側に惹き付けて、こう、乗せちゃう。上杉は、扇動家の能力があるんですよ、ね。攻撃性が物凄く強いの、ね。だから、ちょっとでも上杉的なマインドがあったらね、もう、そりゃもう、上杉絶対正しいわ、みたいな感じになって、だから上杉の周りに集まった学生がね、みんな上杉の熱狂的な支持者になるんですよ、で、そういう熱狂的な支持者が、あの時代の、あの若い右翼学生の、あの運動の中心になってるわけですね」

東大では、上杉の教えを信奉する学生達が「七生社」を結成。七度生まれ変わっても、国に尽くさんとする者の集まりとされ、国体活動を繰り広げます。

『七生社誌』より:
「今や大日本帝国は、実に多事多難。非常の時には非常の事を為すべし。深刻痛烈なる覚悟を以て、共に死生を誓って切磋琢磨しよう」

1932年、大蔵大臣を務めた井上準之助、三井財閥の団琢磨が、相次いで暗殺される血盟団事件が起きました。この暗殺団の中に、四人の東京帝国大学の学生が居ました。何れも七生社のメンバーでした。上杉に深く傾倒していた四元義隆。懲役刑に処せられますが、服役後は、近衛文麿首相の側近となります。この後、四元は政界に深く関わり、戦後は、歴代総理大臣のブレーンとなっていきます。

★上杉慎吉の写真(1929年、昭和4年、死去)

上杉の死後、その門下生達が、テロやクーデター事件に、身を投じるようになっていました。この血盟団事件の前後、国内では血生臭い事件が相次ぎます。

1930年 浜口首相 狙撃事件
1931年 三月事件
      十月事件
1932年 血盟団事件
      五・一五事件
1933年 神兵隊事件

日本は、急速に右傾化していきました。
更に、天皇中心国家を目指す過激な変革思想が生まれていました。国粋主義者、北一輝が『日本改造法案大綱』を著します。

★日本改造法案大綱(1923年出版)の映像

この本は、直ぐに発禁処分になりますが、一部を伏字にすることによって、出版が許されます。冒頭から削除された三十四行には、何が書かれているのか。これは、当時の司法省刑事局が、危険思想を研究する為に作成した極秘文章です。ここに削られた三十四行が記されていました。最初の項目、天皇。その冒頭には、憲法停止と書かれていました:

「天皇は全日本国民と共に国家改造の根基を定めんが為に、天皇大権の発動によりて、三年間憲法を停止し両院を解散し、全国に戒厳令を敷く」

政治腐敗を打破し、貧困から国民を救うには、明治維新と同じく、再び天皇親政による国家改造しかないという議論が浸透します。不況や不作に喘ぐ民衆。国家改造の空気が拡がった背景には、政治家や財閥など特権階級に対する強い不満がありました。

犬養毅を暗殺した五・一五事件では、被告達の命を救おうという嘆願書が寄せられ、その数は百万を超えたといわれています。

2009.05.04 | NHK-問題 | @
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【転載歓迎】「JAPANデビュー第2回」全内容-Part.5

そして再び、美濃部の天皇機関説が問題にされます。今度の舞台は、帝国議会です。

★天皇機関説事件 1935年(昭和10)

1935年、昭和10年2月、貴族院本会議で、元陸軍中将の議員、菊池武夫が美濃部を批判する演説を行います:

「我が国で憲法上、統治の主体が国家にあるということを、断然公言するような学者、著者というものが、一体、司法上から許すべきものでございましょうか。これは緩慢なる謀反になり、明かなる反逆になるのです」

この三年前に、貴族院議員になっていた美濃部は、二時間に渡って弁明を行います:

「私の学説について批評されるのならば、拾い集めた断片的な片言隻句を捉えて、徒に惨侮中傷の言を放たれるのではなく、私の著書の全体を通読し、真の意味を理解して、しかる後に批評して頂きたい」

美濃部が攻撃された背景には、軍部批判がありました。
陸軍省が出した『国防の本義と其強化の提唱』。これを美濃部は、あまりに好戦的、と批判しました。世界を敵に回し、国が総力を挙げて軍備増強を続けることは、国家の自滅だと主張しました。これに激しく軍部が反発します。

美濃部の弁明演説から二ヶ月後、『憲法撮要』など、美濃部の著書三冊が発禁になります。美濃部批判が高まる中、政府は声明を発表し、天皇機関説を排除する動きに出ます:

「天皇機関説を取り除く。機関説を唱えるは、国体の本義を誤るものなり」

9月、美濃部は遂に貴族院議員を辞職しました。この時、昭和天皇は侍従長の証言によれば、次のように語ったといわれています。

『西園寺公と政局』より:
「君主主権説は、むしろそれよりも国家主権の方がよいと思う。美濃部ほどの人が、一体何人日本におるか。ああいう学者を葬ることは、頗る惜しいもんだ」

議員辞職後も、美濃部には連日、日本各地から脅迫状が送りつけられました。右翼団体からだけでなく、一般の個人からのものも多数ありました。その手紙には、美濃部に自決を迫る言葉が書かれていました。貴族院議員辞職の翌年、1936年2月21日、美濃部は自宅に来た暴漢に銃で撃たれ、負傷しました。

その五日後、二・二六事件が起こります。陸軍の青年将校に率いられた兵士千四百人あまりが、天皇親政による国家改造を目指して決起しました。国体論の暴走は、政府要人を含む八人を殺害する事件にまで行き着いたのです。

評論家・立花隆:
「天皇機関説問題ってのは、もう、その、抽象的な議論ではなくて、その社会的な勢力のぶつかり、ぶつかり合いみたいな、そういう場面でして、もう、兎に角、理窟よりは、もう兎に角、こう、やる、みたいな感じで、その運動の中心になった、要するに、あのー、天皇機関説問題を社会的に、あの、大問題化して、えー、兎に角、その美濃部を徹底的にやっつける方向へ行ったのは、在郷軍人会ですから、ね。要するに軍部そのものなんです。でー、それがもう、要するに、そのもう、軍に連なるありとあらゆる勢力を糾合して、あの、要するに、その美濃部の天皇機関説を容認している政府はけしからん、という反政府運動に転化していくわけすね。あすこで、その要するに、反天皇機関説論者がいってる、ね、国体明徴を叫ぶ、あのロジックは、あの上杉憲法説そのものが、そのバックグランドにあるんです。だから、あのー、その、だから、あの、もう美濃部一人しか残っていなかったけれども、あれは、だから、死んだ、死んだ上杉が圧勝した、美濃部に圧勝した、というね、そういう事件だった、その延長の上に、今度は、二二六が起きて、その二二六の、そのテロルの恐怖の上で、今度は軍部が完全に日本の政治を乗っ取る、というね、その上で、今度は、あの日中戦争が始まりというね、戦争の時代そのものに、こう突入していくというね」

評論家・立花隆:
「そのもっと、大きな歴史の構図で見た、つまりその後の1945年の戦争の敗北に至る、そこの時代まで見据えた時に、あれが、あれが、その日本の戦争の時代の、あの始まり、ということがいえる訳で、えー、その日本の大敗北の始まりが、あすこだったということにいえる訳ですね。だから、そのー、美濃部、だから第二次で上杉が勝ったことそのものが、日本国全体にとっては、大敗北の始まりであったというね、そういう歴史的な位置付けが出来ると思いますね」

1941年、太平洋戦争が勃発。天皇の為に死ぬ、先鋭的な国体論が論じられるようになります。説いたのは、東京帝国大学で日本の中世史を研究していた文学部教授の平泉澄です。

『國史の眼目』より:
「日本の国体は、萬国に冠絶せる国体である。この国体は幾多の苦しみの中に、幾多の忠義の人々が、命を捨てて護り切ってきたものだ」

天皇への忠誠の極致は、天皇に命を捧げることにある。特攻隊員を生んだ思想にも、平泉の教えが色濃く影響しています。前線各地で玉砕戦となります。平泉は新聞に寄稿します。沖縄で激戦が続く最中の事でした:

「国民の一人ひとりが、己一個の生命を皇国の為に捧げる、という強い決心さえ持っていれば、最後の勝利は必ず我にある」

平泉の国体論は、本土決戦も辞さない一億玉砕の精神論へと突き進んでいったのです。

1945年、昭和20年8月、敗戦。
その翌年、11月3日、日本国憲法が公布されました。
第一條に、天皇は日本国の象徴であり、この地位は国民の総意に基づく、と定められました。

日本国憲法制定により、萬世一系の君主から、国民統合の象徴となった天皇。60年以上が過ぎ、現在の象徴天皇制は、NHKの世論調査によれば、国民のおよそ八割から支持されています。

評論家・立花隆:
「だから、あくまでも、昭和憲法も第一章は、天皇なんです、ね。それで、だから、その天皇條項の中に、天皇の在り方は国民の総意が決めるという、そういう風な、あの條項があるというね。今は、天皇を憲法で雁字搦めに縛って、あの、これ以外、何も出来ませんっていうね、これ以外の、これの幾つかが、所謂国事行為、ね。所謂国事行為で、まあ天皇がハンコ押すものが、これとこれみたいな、そういうのが憲法に決まっているじゃないですか、あれだけなんです。だけれども、あれは、また、その憲法の改正條項で、改正して、そこのその縛っているもの取られるのを、ちょこちょこと切れば、また、こう、こう、拡げることも出来るわけよ。だから、国民の総意ってのは、そういうことですよ、その時の国民が、天皇に何と何が出来て、何をやらせない、というね、その縛りは、その時々の時代の国民が決めるという、それが、あの、要するに昭和憲法の考える、国民の総意が天皇の権限の、あの、この、なんていうか、可能性の範囲を決めるというね、そういうことだということですよね」

京都大学・山室信一教授:
「あのー、天皇というものはですね、元々その、先程、井上毅や、それからまあ、その伊藤博文、色々それぞれの立場の人が違う、でも同時にまた、それぞれの人が、自分の政治理念をそこに仮託しながらですね、そして、それをまあ、利用してきたことは事実なわけですね。常にその、天皇というものが、その振る舞いというものを使いながら、まあ、自分の、まあ、ある種の政治的目的を達成してきた、ということはもう、これはもう、疑いの無い事実なわけですから、そういう点で言いますとですね、そういうような可能性というのを、一方で無くしておくことは、必要なことでもあるわけですね。ですから、そういうような囚われないような、天皇制の在り方、あるいは天皇家の在り方っていうのも、必要だろうと思います。天皇を利用してですね、何かを決めるってことは、もう出来ないと思いますし、誰もしないと思いますけれども、そういうような形でない、天皇が、じゃあ、どういう存在理由、新たな存在理由を持っているのか、についてはですね、必ずしも実は合意が出来ているわけでもないわけですね」

東京大学・御厨貴教授:
「で、問題はだからやっぱり、僕は、天皇條項だと思っていて、この天皇條項が、やっぱり、その、如何に非政治的に書かれていても、やっぱり政治的な意味を持つ場合があるし、そういう点でいうと、あすこをですね、やっぱり戦、戦前と同じように、神聖にして犯すべからず、あるいは、不磨の大典としておくのは、やっぱり危険であって、そこに一歩踏み込む勇気を持つことね。天皇っていうのは、だから、その主権在民の立場から、どう考えるかってことを、本格的にやってみること、これね、みんなね、大事だと思いながらね、絶対口を噤んで言わないんですよ、危ないと思うから、危ないし面倒臭いし、ね。だから、ここを考えないと、21世紀の日本の国家像とかいった時に、何で天皇の話が出て来ないってなるわけでしょ、そういう、やっぱり、やっぱり、天皇って、そういう意味では、国の臍ですから、この臍の問題を、つまり日本国憲法においても臍だと思うな、考えないと、もういけない時期に来ている、と僕は思います」

大日本帝国憲法が出来て120年。日本国憲法が出来て63年。天皇と国家の在り方を、どう決めていくのか、私達の未来への課題です。

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★エンドロール
NHKスペシャル シリーズJAPANデビュー
第2回 天皇と憲法

資料等協力(略)

タイトル映像:西郡 駿
語り:濱中博久、礒野佑子
声の出演:81プロデュース
撮影:地主浩二
編集:吉岡雅春
取材:市川 光
ディレクター:倉迫啓司
制作統括:林 新、河野伸洋、若宮敏彦
共同制作:NHKグローバルメディアサービス
制作著作:NHK
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文字起し:夕刻の備忘録
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2009.05.04 | NHK-問題 | @

<了>

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