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ニュース資料集コミュのブレジネフ時代の終焉 ソ連のアジア・中東政策

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http://d-arch.ide.go.jp/browse/html/1982/1982000TPA_04.html

ブレジネフ時代の終焉
ソ連のアジア・中東政策

佐久間 邦夫

Copyrights アジア経済研究所http://www.ide.go.jp/

■書記長にアンドロポフ

1982年11月10日午前8時半,ブレジネフ書記長が死去した。発表されたのは翌11日の午前11時。死因は「心臓の不整脈,心筋こうそく,腹部動脈りゅう,動脈硬化の合併症」であった。同書記長の死期がせまっていることは数年前からだれもが予期していたが,11月7日の革命記念日に赤の広場で祝賀行進の観閲をしていただけに,「突然の死」という印象を与えた。

いずれにせよ,18年にわたる「ブレジネフ時代」に終焉が告げられた。ブレジネフ氏の功罪については多くの論議が存在するところであろう。64年 10月にフルシチョフ氏にかわって党第1書記(後に書記長)に就任して以後,ソ連経済はいろいろな問題をはらみつつも成長をとげ,支出国民所得は約2.3 倍になった。そして,これを背景に軍事力が目覚ましく増強され,全地球的規模で米国と勢力を争う超大国にのし上がった。

しかし,このあまりにも急激で大規模な軍事力増強は国内経済を疲弊させ,近年は経済成長の著しい鈍化に見舞われ,社会の活力にも衰えが目立つようになった。国際的にも,アフガニスタンへの侵攻をはじめとする強引な拡張政策に対する批判が高まり,国際的孤立化を招いている。

注目されていた後任書記長には,12日の党中央委特別総会においてアンドロポフ党政治局員・書記が選出された。同氏は82年5月まで15年間も国家保安委員会(KGB)議長をつとめたが,その前にはハンガリー大使や党中央委員会社会主義諸国部長も経験している。

アンドロポフ政権は,上記のようなブレジネフ時代の「負の遺産」を背負って誕生した。82年のソ連経済達成状況を見ると,工業生産の伸び率が戦後初めて2%台に落ち込み,穀物生産も相変わらずの凶作続きで2億トンに達せず,国民所得の伸び率は2.6%と,79年に次ぐ低調ぶりである。

11月22日の党中央委員会総会におけるアンドロポフ書記長の演説は同氏にとって初の施政方針演説とも言うべきものだが,「5カ年計画の最初の2年間に一連の最重要指標について計画課題が未達成に終わった事実に,声を大にしてみなさんの注意を喚起したい」と強調したうえで,ほとんど全ての経済分野における欠陥をこれまでみられなかった率直さで指摘し,事態を深刻に受けとめていることを明らかにした。アンドロポフ書記長はその後綱紀の引き締めに力を入れている。しかし,なが年にわたってしみ込んだ官僚主義や過度に集権的な計画経済の悪弊にどのようなメスを入れようとしているのかは,まだ今後を見守る必要があろう。

対外政策については不変であることを明らかにした。しかし,あまりにも拡大した米ソの核軍拡競争の重荷は,ソ連にとっても限界に達している。米ソ双方とも「力の均衡」に固執し,核軍拡競争の抑制はこれまで空文句に終わってきたが,START(戦略兵器削減交渉)やINF(中距離核戦力)削減交渉にどうのぞむのかがアンドロポフ新政権にとって最大の課題となろう。

具体的外交課題としては,ブレジネフ時代に極限にまで悪化させてしまった隣りの大国中国との関係改善およびアフガニスタン,インドシナ,ポーランドなどの問題の解決といったきわめて困難な問題を引き継いだ。アンドロポフ政権が「タカ派」であろうと「ハト派」であろうと,これらを軍事的に解決することが不可能であることが明白になっている以上,いつまでも泥沼に足を突っ込んだままでは,負担は増大する一方であり,また中東情勢の緊張激化の際に露呈したごとく,国際問題への対応の選択の幅はきわめて狭められ,ますます立場を悪くすることを自覚しているものと思われる。ソ連経済の不振脱却のために不可欠である日本や欧米諸国との経済関係拡大もこのままでは多くを望めまい。その意味で,ソ連新政権登場を機に,これら懸案の課題の解決に向けて一定の動きが見え始めたことは注目に値する。

■急速に進展する中ソ関係修復

79年に中国側が中ソ友好同盟相互援助条約を破棄したのに伴って開始された中ソ交渉は,その第1ラウンドが終了した後,ソ連軍のアフガニスタン侵攻に抗議した中国が「第2次交渉の無期延期」を通告し,中断されたままになっていた。

これに対して,中ソ関係打開の可能性を模索していたソ連は,3月24日のタシケントにおけるブレジネフ書記長の演説の中で対中国関係改善の提案を行なった。その内容は,(1)ソ連は中国の内政に干渉したことも社会主義体制の存在を否定したこともない,(2)「二つの中国」を支持したこともなく,台湾への中国の主権をずっと認めてきた,(3)いかなる領土要求も持っていないし,国境交渉続行および国境地域の信頼強化措置討議の用意がある,(4)内政不干渉,互恵を基礎とするソ中関係改善措置合意の用意がある,というものである(「参考資科)参照)。

これらの内容自体はさして目新しいものではないが,積極的な意欲はあらわれている。おりしも中国はアメリカのレーガン政権の台湾政策に強く反発し,同政権への不信感を強めており,ブレジネフ提案はタイミングも絶妙であった。また,1月にチフビンスキー・ソ中友好協会第1副会長が中国を非公式訪問して中国側要人と会談しており,ある程度の感触も得ていたのであろうか。同提案のわずか2日後の3月26日,中国外務省スポークスマンが同提案に「留意している」との公式談話を発表した。きわめて敏速な反応に世界的な関心が集まった。もとより中国側は「ソ連の今後の実際行動でその言葉の真価を判断する」(3月 26日新華社論評)と,20年にわたる厳しい敵対関係にあったソ連への警戒も崩してはいない。

さらにソ連は5月20付『プラウダ』紙上で中ソ関係正常化の重視を強調するアレクサンドロフ署名の長文の論評「ソ中関係によせて」を発表した(「参考資料」参照)。

しかし,その後も中ソ双方ともに相手の「覇権主義」政策のあらわれを厳しく非難する論評を数多く発表し続けた。ブレジネフ書記長は東ドイツのホーネッカー書記長との会談(8月11日)で「中国は依然として社会主義共同体に敵対し,関係改善のきざしが見えない」と批判し,中国側もソ連のベトナムへの軍事的テコ入れやアフガン侵攻への非難をくり返した。

9月1日に開催された中国共産党第12回大会における報告で,胡耀邦党主席は厳しい条件を付しつつも対ソ関係改善に積極的に取り組む姿勢を表明した。同報告では,中国に対するソ連の脅威について,(1)中ソ・中蒙国境への大軍集結,(2)ベトナムのカンボジア侵略への支援,(3)アフガニスタンへの武力侵略,の3点を挙げ,「もしソ連当局が対中関係改善への誠意を持ち,(上記の)脅威を取り除く実際的措置をとるなら中ソ関係は正常化に向かう可能性がある」と述べられている。また,ソ連の覇権主義政策には反対すると同時に,ソ連とも平和5原則による関係改善をはかるという姿勢が示された。

これを前向きの反応と受けとめたソ連は,中国非難の発表を著しくトーンダウンさせ,ブレジネフ書記長は9月26日のバクーにおける演説で「ソ中関係正常化,漸次的健全化をきわめて重要な問題とみなす」と改めて強調した。

■着実に広がる実務関係

この間,中ソの実務的関係も一定の進展を見せた。中ソ・コンテナ貨物輸送協定が2月に調印され,3月には中ソ国境河川航行合同委会議の議定書が調印された。中ソ国境鉄道連絡輸送議定書も7月に調印された。両国間の82年の貿易は2億2400万ルーブルでソ連の貿易総額の0.2%にも満たない僅少のものではあるが,特別の事情が起こらない限り今後拡大することはまちがいあるまい。また12月に国境貿易交渉が合意に達したが,その経済的意義はともかくとしても,国境貿易再開が可能になるほどに国境の緊張が緩和していることを示すものとして注目される。このほか両国で開かれる国際会議やシンポジウム,スポーツ大会への参加が次第にふえ,学者や専門家の相手国への非公式訪問もかなり行なわれるようになった。また10月にはソ中友好協会創立25周年の記念行事がモスクワで行なわれ,ラフマニン同協会第1副議長が『イズベスチヤ』紙上に協会の活動状況を詳細に報告している。

以上述べた両国関係の現状はいずれも国家関係としては最低レベルのものだが,長い中断の後に再開されたものも多く,両国関係の根本問題の交渉と並行して,実務関係が徐々に進展していることの意味は決して小さくない。

■中ソ次官級協議始まる

こうした経過を経て,10月5日から北京で次官級協議が開始されるまでに至った(この間,5月にカピッツァ外務省第1極東部長・現外務次官が訪中, 8月には手洪亮外務省ソ連東欧局長が訪ソして,下交渉を行なっている)。同協議の双方の代表はイリイチョフ,銭其?両外務次官で,10月22日まで行なわれた。協議の内容は非公開だが,次回は83年3月にモスクワで開催されることが発表されている。この直後の10月27日ブレジネフ書記長は軍司令官会議での演説で「中国側の態度にも見落とせぬ新しい動きがあらわれている」と事態の一定の進展を示唆した。

ブレジネフ書記長の突然の死去は中ソ関係改善の動きを促進する役割を果たしたようである。中ソ対立の双方の立役者である毛沢東とブレジネフがともにこの世を去ったことは,新しい両国関係の到来の可能性を告げるものであろうか。

黄華外相はブレジネフ葬儀への参列に先立って11月14日に談話を発表し,(1)両国は長い友好の伝統を持つ,(2)両国の友好関係はアジアと世界の平和に有益,(3)ブ書記長が死去の前に行なった中ソ改善提案を評価する,(4)アンドロポフ書記長らが関係改善を促進するよう希望する,ときわめて好意的な態度を示した。

葬儀に参列した黄華外相をアンドロポフ書記長は丁重にもてなし,16日にはグロムイコ外相との会談が実現した。69年にコスイギン・周恩来両首相が北京空港で会談して以来の久方ぶりの政府高級指導者の会談であった。その内容は発表されていないが,タス通信によると「政治対話の継続」が合意された。

以上のごとく,中ソ関係改善の動きは肉眼でも見えるほどに発展した。まだ正式の中ソ交渉に入ったわけではなく,次宮の会議は「協議」と呼ばれている。しかし,実質的には79年の中ソ交渉のときよりはるかに進行しているといえる。79年のときには,米中関係が「ソ連の脅威」への対抗を共通の基盤として今よりずっと良好であったし,中国も「反ソ国際統一戦線」を世界に強く呼びかけていた。合でもソ連に対する警戒を捨てたわけではもちろんないが,いわゆる「ソ連主敵論」は後退し「米ソの覇権主義に反対」が従来より強調されるようになっている。ソ連側の熱意も79年当時よりはるかに強く,またアフガン侵攻やポーランド情勢の緊迫化などを経て,ソ連の国際環境はいちだんと厳しくなり,中ソ関係改善のメリットがずっと大きくなっているのである。かくして,この中ソ接近がどのような形で進展するか,そしてどこまで進むのかという点に,いま世界中から大きな関心が向けられている。

■アフガン問題「解決」への模索

アフガニスタンにおける反ソ・反政府ゲリラの活動は依然として衰えを見せず,同国駐留のソ連軍もむしろ増員をはからなければならない状況になっている。戦況の正確な把握は困難であるが,カブールのソ連大使館にまで数回にわたる砲撃が行なわれ,第2の都市ヘラートでも双方の奪回作戦が展開されるような状況で,最近ではソ連やカルマル政権の公式報道でも被害状況や困難さが伝えられるようになった。たとえばアフガニスタンのグラブゾイ内相が「反革命分子たちの凶暴な悪業」を告発する文章の中で,国内最大のナグール発電所や北部の天然ガス田,ジャララバード灌漑システムなど同国にとって最も重要な施設(いずれもソ連援助)が何度も攻撃され,数多くの工場が破壊され,1700以上の学校その他の教育施設が破壊もしくは大きな被害を受けたと述べたことをソ連ノーボスチ通信は伝えている。駐留ソ連軍も,西側の報道によれば,3年間で1万5000人の死傷者を出したと言われており,シキドチェンコ中将の戦死やサラン峠のトンネル内での「爆発事故」による数百名のソ連兵死亡が確認されている。

このためソ連は,アフガン革命支援の正当性を強調する一方で,さまざまな形での解決策の模索を始めている。6月にはゴルドベス国連事務総長特使の仲介でカルマル政権のドスト外相とパキスタンのヤクブ・カーン外相のジュネーブにおける交渉が実現した。これにはイラン代表も間接的に参加し,不完全ながら 3カ国会議の形をとった。パキスタンはカルマル政権を承認していないため,ドスト外相はアフガニスタン人民民主党代表という形式で出席したが,実質的には,これら3国の間の交渉はソ連とカルマル政権がかねて主張していた方式である。同会談は非公開であるが,今後も会談を継続することを確認した。同会談についてグロムイコ外相は10月1日の国連総会演説の中で「ジュネーブで開始されたアフガニスタンとパキスタンの代表の交渉はソ連では正しい方向での一歩とみなされている」と評価している。

アフガン問題解決,言いかえればソ連軍撤退の条件づくりは,11月に新しく発足したアンドロポフ政権にとっても最重点課題のひとつとなった。

その意味で,アンドロポフ書記長が,ブレジネフ葬儀に参列したガンジー・インド首相,ブッシュ・アメリカ副大統領,カルマル・アフガニスタン議長,ハク・パキスタン大統領,カールステンス西ドイツ大統領と会談し,アフガン問題を話題にとり上げたことは,同書記長がこれをアフガン問題解決へのひとつの転機にしようとしている意欲のあらわれと受けとられ,大きな注目を浴びた。これと前後して,アンドロポフ氏(当時はKGB議長)は当初からアフガン侵攻に反対だったとの風評も流され,ある種の雰囲気を生み出した。

しかし,一定の雰囲気が生まれたとはいえ,アフガニスタンの国内状況ひとつをとってみても,解決の条件がまだ熟しているとは思えない。カルマル政権にはソ連軍の庇護なしに国内を統治する力はとてもないし,反カルマル・ゲリラ勢力のほうも,戦闘は勇猛果敢だが,諸組織を真に統一する指導部を形成するにはいたっていない。ソ連自身にとっても,莫大な犠牲を払っているアフガニスタン問題で過大な譲歩の余地はあり得ない。

ソ連軍アフガン侵攻3周年をむかえた82年末のタス声明は「(対ソ制裁の影響を受けて)ソ連が民主アフガニスタンやその合法政府に対する立場を変えるだろうという期待は幻想である」と強調し,政治的調整の道は開かれているが「そのためにはアフガニスタン民主共和国政府と真剣に交渉を進める必要がある」と,あくまでもカルマル政権承認を前提とする従来の立場を押し出している。

この間,ソ連側からマケエフ副首相を団長とする党・政府代表団が4月にアフガニスタンを訪問して四月革命記念行事に参加,アフガン側も12月にカルマル議長とケシュトマンド首相が訪ソしてソ連邦結成60周年記念行事に参加したほか,カルマル議長は5月から6月にかけて約1カ月間ソ連で「休養」している。ソ連の対アフガン経済援助約束は1978年の四月革命以降急増しており,77年末の累計118項目から80年末は147項目に,さらに81年末には 167項目へとウナギ登りに増大した。82年5月には両国国境を流れるアムダリア川に初めての鉄橋が開通した。車道・鉄道両用の鉄橋で,ウズベキスタンのテルメスとアフガニスタンのハイラトンを結んでいる。アムダリア架橋はかねてソ連側が強く望んでいたもので,経済面のみならず軍事的にも重要な意義を持っている。しかし,全体的に見て,前述のごとくゲリラ側の重要施設攻撃がひんぱんにくり返されるなかで,ソ連援助プロジェクトの建設がどれほど進行しているかは疑問である。また3月にはアフガニスタン人民民主党全国会議が65年の創立大会以来初めて開かれたが,パルチャム派とハルク派の党内対立は依然として激しく,ソ連も党中央委員会名の祝電を寄せただけで,党代表団は出席していない。

コメント(5)

■ソ印友好関係の維持に努力

82年8月にソ印友好協力条約調印11周年にちなんで発表されたタス論評は「ソ印関係は肯定的な国家間関係の見本である」と強調した。ここにもあらわれているように,ソ連はソ印関係をアジアのみにとどまらず発展途上国全体との関係のなかでかなめの位置に据え,きわめて重視している。

一方インド側は,ガンジー首相が80年1月に政権復帰以来「親ソ偏重」の印象を与えることをできるだけ避け,非同盟政策を貫こうとしていることから,ソ連は対印関係にひじょうな神経を使わざるを得ない。したがって7月末にガンジー首相が約10年ぶりに訪米してレーガン大統領と公式会談した際には,これに先立って『プラウダ』がアメリカの南アジアに対する帝国主義政策を厳しく批判する論評を掲げ,米印関係を牽制した(7月9日)。また米印会談後も「両国間の最も複雑な問題は末解決のまま」で「重要な国際問題についても意見が異なった」ことを強調した(『プラウダ』8月7日)。同様に中印関係改善交渉の進行にも神経をいらだたせ,「最近はインド紙上に中国の対印友好の呼びかけの記事が目立つ」が,中国は国境問題,領土要求,分離主義者への支援などでの反インドの立場を変えていない,とインド世論に警戒を呼びかけた(『プラウダ』8月10日など)。

このような状況の中で,9月20日にガンジー首相がソ連を公式訪問した。ガンジー政権復活後,ブレジネフ書記長が80年12月に訪印して友好関係維持につとめたものの,ガンジー訪ソはソ連側の再三の招請にもかかわらずこれまで実現しなかった。それだけに,ブレジネフ書記長やチーホノフ首相などがそろって空港に出迎えるなど,最大限の歓迎ぶりを見せた。翌21日にはソ印共同宣言が調印されたが,そこでは両国間の経済協力,科学技術協力,貿易関係のさらなる発展がうたわれたほか,多くの重要な国際問題での両国の立場の一致が強調されている。しかし,それだけに,同宣言でアフガニスタン問題が直接触れられていないことは,両者の見解の不一致を示すものとして注目された。

ガンジー首相が11月のブレジネフ葬儀に参列した際にも,アンドロポフ新書記長は真っ先に同首相と会談している。同首相は帰国後,アンドロポフ氏の訪印を招請し同書記長はこれを受け入れたと発表した。ソ連側からも8月にソ連邦最高会議代表団(団長=イマシェフ同副議長)が訪印し,ガンジー首相に会見している。

また,軍事面でも,インドが武器購入先をソ連だけでなくイギリス,フランス,西ドイツなどにも拡大して注目されているが,6月にはインドのラオ参謀総長が訪ソしてウスチノフ国防相,オガルコフ総参謀長と会談したほか,10月のインド議会でベンカタラマン国防相はソ連との兵器近代化に関する協定をすでに締結していることを明らかにした。また,10月末に2年ぶりに対馬海峡を南下して注目されたソ連の空母「ミンスク」が,12月にボンベイで「実務上の投錨」を行なったことを『イズベスチヤ』紙が報道している。

経済関係の発展のための努力は双方が活発に行なっており,各担当大臣がさかんに訪問し合って,コルバ・アルミナ・プラント協力(1月),核融合開発協力(2月),グジェラート老朽油田再開発協力(6月),灌漑貯水協力(9月),その他の協定ないしは議定書が調印された。『プラウダ』報道によると,ソ連援助によるボンベイ沖海底油田の開発が進み,81年には800万トンを産出,82年には1170万トンに達する見込みであり,その他の油田開発なども進んでいる。このような経済関係発展の結果,82年のソ印貿易は25億ルーブル余に増大し,ソ連の発展途上国との貿易全体の15%近くに達するにいたった。
■民主カンボジア連合政府を非難

インドシナでは,ベトナム軍カンボジア侵攻後4年を経過したが,20万人といわれるベトナム軍の駐留は依然として続いている。一方,ポル・ポト派を中心とする反ベトナム勢力3派のほうも連合構想が難航していたが,ASEAN諸国や中国の強力なバックアップもあって,6月にシアヌーク氏を大統領とする「民主カンボジア連合政府」の結成宣言が行なわれるまでにこぎつけた。

ソ連は,いうまでもなく,ヘン・サムリン政権こそカンボジアの唯一合法的政府だとして,民主カンボジアが国連議席を保持していることを非難しており,「連合政府」結成に対しても,東南アジアの平和を望まぬ帝国主義(アメリカ)と覇権主義中国)の押しつけたもので「看板だけをぬりかえたポル・ポト政権にすぎない」(『プラウダ』7月7日)と非難を浴びせている。そしてASEAN諸国に対して,この地域の二つの国家グループ間の反目をたきつける米中両国のねらいに乗らずに,インドシナ3国外相会議の対ASEAN対話路線に応じて,東南アジアを平和と協力の地域にすべきだと呼びかけている。

しかし,1日300万ドルといわれるソ連の対ベトナム援助は,アフガン問題と同様に,ソ連にとって過大な負担となっている。ソ連,ベトナム両国ともに経済不振に悩んでおり,相互の不信感が高まっているとの観測もあとを絶たない。

特に,ソ連援助の返済のために5万人のベトナム人労働者がシベリアのパイプライン建設などにかり出されていることがアメリカをはじめ西側で問題にされるようになり,ソ越両国政府は「悪質なデマ」だとこれを非難している。ソ連国家労働・社会問題委員会のロモノソフ議長によれば,現在1万1000人余のベトナム青年がソ連で働いているのは事実だが,これは81年4月2日に調印されたソ越政府間協定によるベトナム民族要員の職業訓練措置であり,彼らは主として気候温暖なソ連南部で恵まれた労働・生活環境のもとで働いており,シベリアのパイプ・ラインではベトナム人は1人も働いていないと否定している。

今年もインドシナ3国首脳の訪ソがひんぱんに行なわれ,ベトナムのレ・ズアン書記長が5月末より1カ月以上もソ連で「病気休養」をし,ラオスのカイソン書記長も3月にソ連を友好訪問したほか,8月初めから10月初めまで約2カ月間もソ連で「休養」している(この間ハンガリーと東ドイツを訪問)。両書記長はその都度ブレジネフ書記長と会談し,また12月のソ連邦結成60周年記念行事に参加した際にはアンドロポフ新書記長と初の会談を行なった(カンボジアのヘン・サムリン書記長も)。3月のベトナム共産党大会にはソ連からゴルバチョフ政治局員・書記が,4月のラオス人民革命党大会にはロマノフ政治局員が代表団長としてそれぞれ出席し,演説した。11月のブレジネフ葬儀には,ベトナムのチュオン・チン国家評議会議長,ラオスのスファヌボン大統領,カンボジアのヘン・サムリン書記長が参列している。

10月にはチュオン・チン議長以下のベトナム党・政府代表団がソ連を公式訪問し,ブレジネフ書記長らと会談したが,ここでは対中国関係改善の問題についても意見交換したことが発表されている。しかし夕食会でのブレジネフ演説がこの問題で「見解の一致をみた」としているのに対し,ベトナム側は中国拡張主義・覇権主義批判を行なって,ニュアンスの明らかな違いを示し,発表された共同コミュニケにもこの点が明記されていないことから,ベトナム側が「頭越し」の中ソ関係改善の動きに懸念をいだき,この問題で相当な議論が行なわれたものと見られている。

軍事協力の面では,オガルコフ参謀総長が2月にこれら3国を歴訪している。会談内容は不明だが,中国の新華社論評は「苦境に陥ったベトナムに軍事援助を与えると同時に軍事基地使用権拡大を要求した」と批判している。経済協力面でも,2月にバイバコフ副首相,11月にマケーエフ副首相がそれぞれベトナム,ラオス両国を訪問して経済・技術協力について実務会談した。
■フィリピンに経済援助

ASEAN諸国との関係では,7月にイメルダ・マルコス大統領夫人が訪ソ,科学技術協力協定や通信社間の協力協定,セメント工場(年産100万トン)建設の協力協定などが調印された。これに先立って,フィリピンを訪問したリトビネンコ国家対外経済連絡委員会副議長は6月1日にマルコス大統領と会見し,上記セメント工場のほか組立式住宅工場などの協力を申し入れをしており,初めての経済協力関係が始動した。また同夫人(マニラ首都圏知事)訪ソでモスクワ・マニラ姉妹都市協定を結んだのを受けて,10月にプロムイスロフ・モスクワ市長がマニラを訪問,姉妹都市宣言に調印した。11月にはフィリピン国会代表団がソ連を公式訪問している。

このほか,ソ連邦最高会議代表団(団長=バルカウスカス同副議長)が8月にインドネシアを訪問。またタイのアルン副外相が12月に訪ソした。

しかし,ソ連とASEAN諸国との関係は全体として依然低調で,2月にはインドネシア駐在のソ連大使館員のスパイ事件で同国政府はソ連領事館を閉鎖,同じ容疑で拘留したソ連民間航空アエロフロートの支店長を国外追放,同支店の閉鎖とアエロフロートの同国乗り入れ禁止を命ずるという出来事があった。同様にシンガポール政府も同月,ソ連大使館員と造船技術者各1名をスパイ容疑で国外追放している。

■進展せぬ日ソ関係

日ソ関係は冷えきった状態が依然として続いている。これに対しブレジネフ書記長は3月のタシケント演説の中で日本への信頼強化措置合意の呼びかけを再度行なった(「参考資科」参照)。また日ソともに大使を更迭して,関係改善の手がかりを求めようとしている。1月には日ソ事務レベル協議が2年8カ月ぶりに開かれ,さらにニユーヨークでの国連総会出席を機会に日ソ外相会談も6月と10月に持たれたが,懸案のグロムイコ外相訪日についての進展は見られなかった。

ソ連側は特に日ソ経済関係の促進,とりわけシベリア開発への日本の協力をかねてより強く求めているが,日ソ経済委員会は79年9月以来中断したままになっており,サハリン石油・ガス共同開発も,アメリカの対ソ制裁強化措置(11月に解除)の影響で停滞した。しかし10月に来日したスシコフ外国貿易次官が永野重雄氏(日ソ経済委日本側代表)との会談で訪ソ招請を伝えたことから日本経済界の大型代表団の翌年2月訪ソが合意を見た。12月には元KGBスパイのレフチェンコ氏(元『ノーボエ・ブレーミヤ』東京特派員)の東京での謀略工作についての米議会における証言記録が公表され,各界に少なからぬ反響をまき起こした。
■決め手持たぬ中東政策

中東情勢は,82年4月のシナイ半島イスラエル占領地区のエジプトへの返還をはさみ,イスラエルがゴラン高原の併合など強硬な政策を推し進め,6月に始まったイスラエル軍のレバノン侵攻によって緊張はいっきょに激化した。ソ連はレバノン情勢をめぐってきわめてひんぱんにタス声明や政府声明を発表し,またブレジネフ書記長の公式発言を通じて,イスラエルとアメリカの侵略政策を非難し,中東問題の包括的調整のための国際会議開催という従来の立場をくり返し主張した。さらにこの間,同地域に対する外交活動をきわめて活発に展開した。しかし,インドシナ,アフガニスタン,ポーランドといった難問をかかえているソ連にとって,中東問題での行動の幅は著しく限定されており,「平和外交の展開」「原則的立場の声明」に終始せざるを得ず,PLOがベイルート退去に追いつめられても実効的措置はなんら講ずることができなかったため,中東諸国に対する「威信」を損う結果を甘受せざるを得なかった。

中東情勢をめぐる一連の過程の中で表明されたソ連の立場は以下のようなものである。まずシナイ半島返還に関してタス声明は,これをイスラエルによるシナイ占領をアメリカによる占領ととりかえる「シナイ半島の衛兵交代」にすぎないときめつけ,「茶番劇」と非難した。イスラエル軍がレバノンに侵攻すると,「中東はソ連の南部国境の間近かに位置する地域であり,そこでの出来事はソ連の利益にかかわらざるを得ないことを忘れるな」と警告したが(6月14日ソ連政府声明),PLOの具体的支援行動要請(艦隊派遣など)には応ぜず,武器補給以上の具体的支援に踏み切る用意がないことを明確にした。そしてブレジネフ書記長の『プラウダ』紙への回答(7月1日付)の形で,イスラエル軍撤退の第一歩として西ベイルート防衛兵力とイスラエル軍の引き離しに反対しないと表明,ただしそのためには国連軍使用は認めるがアメリカ軍のレバノン出現には絶対反対だと述べる一方,アラブ側にも団結こそ肝要で「この団結を妨げる事柄はこの危機的な時期には棚上げにすべきである」と呼びかけた。

さらにPLOのベイルート退去に際し『プラウダ』(8月26日)は「いまパレスチナ戦士が誇らかに顔をあげて去っていく」と悲痛な報道を行ない,「道義的,政治的敗北を喫したのはイスラエルのほうだ」と論じ,西ベイルートにおけるパレスチナ難民大量虐殺事件に関してもイスラエルとアメリカを激しく非難するタス声明を発表したが,イスラエル軍が一時ソ連大使館を一部占拠するという事態に対しては沈黙を守り続けた。

■ブレジネフの中東和平6原則提案

こうした中東情勢の新局面の中で,レーガン大統領が中東和平新提案を発表し,一方アラブ諸国も統一中東和平案(フェズ憲章)を発表したのに対し,ブレジネフ書記長は9月15日,クレムリンにおける南イエメンのモハメド大統領歓迎宴での演説のなかで中東和平に関するソ連の基本的見解をあらためて6項目にまとめて提案した。

その内容は,(1)イスラエルが1967年以来占領した全領土のアラブへの返還,(2)パレスチナ独立国家の創設,(3)東エルサレムのアラブへの返還(パレスチナ国家の一部とする),(4)同地域の全国家の安全と独立の保障,(5)アラブ・イスラエル間の戦争停止,イスラエルとパレスチナを含む全当事国による主権,独立,領土保全の尊重,(6)国連安保理または同常任理事国による国際的保障,というもので,ブレジネフ書記長は,この内容はフェズ憲章と基本的に一致していると指摘した(「参考資料」参照)。

これらは従来のソ連の主張と基本的に変わらず,ソ連が具体的に中東和平への発言力をどのように回復し,また大きく後退した同地域諸国に対する「威信」をどのように回復していくかは,新しく登場したアンドロポフ政権に残された重要課題のひとつとなろう。
■シリアへのてこ入れ

以上のように,中東情勢に対する対応の決め手を見出せないソ連は,再三にわたり原則的立場の表明をくり返す一方,シリアへの軍事的てこ入れ,アラブ諸国の共産党や民族解放勢力との交流促進,各国との関係強化ないし改善などの個別のアプローチに力を注いだ。

党レベルの交流は,中東情勢に関する意見交換とアラブ諸国における世論形成のためにソ連がかねて重視してきたことであるが,82年の緊迫した事態の中で特にこれが活発に行なわれた。まずブルーテンツ党国際部副部長を団長とするソ連共産党活動家代表団が1月から5月にかけて,シリア,レバノン,南イエメン,モロッコを歴訪し各国党指導部と交流した。同副部長は11月1日付『プラウダ』に「ワシントンの反アラブ政策」と題する長大論文を寄せている。一方アラブ各国からも,アルジェリアFLN代表団,レバノン,シリアの共産党代表団,シリア・バース党代表団などが訪ソしソ連共産党幹部と会談している。この間PLO代表団もしばしば訪ソし,支援要請その他の協議を行なった。なお,4月にはPLO駐ソ代表部が正式外交使節に格上げされ,アスシャエル首席代表が PLO特命代表に任命されている。

党レベルの交流とは別に,ソ連邦最高会議の各副議長をそれぞれ団長とする最高会議代表団が北イエメン,ヨルダン,南イエメン,モロッコ,シリア,アルジェリア,チュニジアの各国を訪問し,国家レベルでの友好交流ないしは実務会談を行なった。

2国間の関係でソ連が最も重視したのはシリアである。ソ連の対中東政策の重要拠点であるシリアとの間では,前述の党レベル交流,最高会議代表団訪問のほかに,1月にハダム外相が訪ソして中東情勢を討議,「軍事面を含む協力強化」をもりこんだ共同コミュニケを発表した。3月にはクタホフ空軍総司令官がシリアを公式訪問したほか,6月にソ連軍使節団が同国首脳と密度の濃い協議を行なったとか,7月中旬にアサド大統領がソ連を秘密訪問したといった情報も伝えられている。また6月上旬にイスラエル軍によってベカー基地のシリア軍のソ連製SAM6ミサイルが全滅させられたあと,ソ連が急拠最新鋭ミサイル SAM8を搬入,配備していたことが判明している。このほか5月にはアルヒポフ第1副首相,10月にはスカチコフ国家対外経済連絡委員会議長が同国を訪問し,経済協力の拡大について協議した。ソ連・シリア経済協力25周年を記念してスカチコフ議長が『プラウダ』(10月28日)に発表した論文によれば,同国へのソ連援助は70年代に約3倍化し,総援助約束64項目のうち35項目はすでに完工したと述べている。

一方,この間,エジプトとの関係修復,サウジアラビアとの国交樹立に向けての動きも次第に顕在化してきた。これらのアラブ2大国との関係改善は,中東問題への発言力回復を求めるソ連にとって重要な意義を持っている。

エジプトのムバラク大統領は,シナイ返還後のアラブ復帰を目指し,ソ連とも「いずれ関係を正常化する時がくる」と語っている。故サダト大統領は駐エジプト・ソ連大使やソ連人専門家約1000人を追放したが,ムバラク政権になると,82年1月にソ連大使館員増員を認め,ソ連援助プロジェクトへの専門家 66人の派遣を要請,さらに8月にはカイロの変電所への援助に同意するなど,徐々に関係改善の動きが進み,大使交換の復活も時間の問題と見られるにいたっている。ソ連側も9月に故ナセル大統領記念の夕べを催して過去の友好関係の復活を期待していることを示し,12月にはソ連・エジプト友好協会総会を開いてネポロジニー動力電化相を会長に選び,同協会が活動を再開したことを報道した。また故ブレジネフ書記長の葬儀に参列したサレム大統領顧問(元首相)がクズネツォフ最高会議第1副議長と両国関係悪化以後初の要人公式会談を行なっている。

サウジアラビアとの間でも,外交関係のないなかで,祝電や弔電の交換はすでに慣行化しており,12月には,アラブ代表団の一員としてではあるが,サウド外相が訪ソし,アンドロポフ書記長との公式会談に参加して注目を浴びた。

このほか,ヨルダンのフセイン国王が6月に「休養と観光のため」訪ソし,チーホノフ首相と会談し,さらに12月にアラブ代表団の団長として中東和平アラブ統一提案(フェズ憲章)の説明のため訪ソした際には,代表団の公式会談とは別個に,アンドロポフ書記長と単独で会談している。

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