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セネタースコミュのセネタースの歴史

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敗戦からわずか一月の1945年(昭和20年)九月中旬、
横沢 三郎は兄・小林 次男からプロ野球が再開される
という話を聞く。すでに横沢は41歳になっていたが、
プロ野球への夢はまだくすぶり続けていた。

混乱の続いてる今なら、優秀な若い選手を見つける可能性も
あるだろう.....  横沢 三郎の心に再び希望の灯がともりだす。
横沢兄弟にはいまだセネタース復活への夢があった。
戦争で中断していた既存のチームが動き出す前にいち早く
新しい球団の形を整えなければ出番もなくなると判断し、
早速選手集めを開始する。球団名ももちろん『セネタース』に
決定した。兄・小林 次男が専務で、横沢 三郎が取締役兼監督、
弟の横沢 四郎がマネージャーとスカウトを兼ねる。
横沢 七郎は選手として加わることになった。

球団事務所を銀座六丁目の交詢社ビルの一階に構え、
会長には、第一次セネタースの理事長だった安藤 信昭の助力を得て、
西園寺 公一(さいおんじ きんかず)をかつぎだした。
西園寺 公一は華族であった西園寺 公望(きんもち)の孫で、
戦前からの貴族院議員でもあった。




横沢 三郎にとって明治大学野球部後輩の、大下 弘を
発掘したのがまずは大きな成果だった。野球部所属として
最後になった神宮での試合(1945/11/4)が終わって数日後、
大下はセネタースの合宿に合流、セネタースは、埼玉県大宮市の
石井肉店の二階を借りてすでに合宿をはじめていた。

11月初め、日本野球連盟が再建されると、鈴木 龍二が
専務理事に就任、横沢たちは、さっそくセネタースの連盟加入の
手続きを行い、11月7日に認可された。加盟料金は三万円であった。
連盟再建とほぼ同時に新球団が誕生したことになる。

11月23日、プロ野球の戦後初めての興行試合、東西対抗戦が
神宮外苑球場で行われた。

1925年(大正15年)10月23日に完成された神宮外苑球場は
敗戦間もなく進駐軍に接収されて、メモリアル・スタジアムと
改名されていた。アメリカ軍は東京へ進駐すると、兵士たちの
娯楽施設にするために神宮球場を接収し名称まで変えてしまった。

戦前、神宮球場は学生野球の殿堂として神聖視され、プロ野球が
神宮を使用するなどありえないことだった。

大下は新生セネタースの選手としての出場となり他にセネタース
からは二選手が東西対抗戦の出場選手に選ばれた。白木 義一郎、
飯島 滋弥であり、共に慶應義塾大学のエースと四番打者として、
戦前の神宮球場を沸かせた学生野球のスターだった。

この日の神宮球場の有料入場者数は、5,878人で入場料は6円。
そのうち4円が税金として徴収された。

この試合の先発メンバーは以下の通りと記録されている。

<東軍>
センター:古川 清蔵(名古屋)
ショート:金山 次郎(名古屋)
セカンド:千葉 茂(巨人)
レフト:加藤 正二(名古屋)
ライト:大下 弘(セネタース)★
キャッチャー:楠 安夫(巨人)
ファースト:飯島 滋弥(セネタース)★
サード:三好 主(巨人)
ピッチャー:藤本 英雄(巨人)

<西軍>
センター:呉 昌征(阪神)
ショート:上田 藤夫(阪急)
セカンド:藤村 富美男(阪神)
サード:鶴岡 一人(近畿)
ファースト:野口 明(阪急)
キャッチャー:土井垣 武(阪神)
ライト:岡村 俊昭(近畿)
レフト:下社 邦男(阪急)
ピッチャー:笠松 実(阪急)

コメント(4)

(つづき)

第二次セネタースは、大下 弘という新たなスターを誕生させて
快調な滑り出しを見せたが、大きな問題は資金面にあった。
富豪の伯爵や鉄道会社がスポンサーになっていた戦前のセネタースと
違い、まったくのゼロから後援者を探さなければならなかった。
専務の小林 次男を中心に横沢 三郎も可能性のありそうな人物を
片端から捜し歩く毎日が続いた。

横沢兄弟はあの手この手で獲得した選手たちを、大宮市の石井肉店の
二階に集め、とりあえずの合宿所としていた。たまたまマネージャーの
横沢 四郎が大宮に住んでいて、この店の主人と知り合いだった
関係から、12月初めまでの約束で二階の二部屋を無理に空けて
もらっていたのである。

むろん合宿所が肉屋だからといって、選手たちは豊富に
肉を食べられたわけではなかった。

年が変わり3月に入ってセネタースは大宮球場で練習を開始したが、
この時点でもついに合宿所を設けることはできず、資金不足も解消
することができなかった。食料入手のもっとも困難な時期に、
食糧確保を兼ねた地方でのキャンプを張ることも叶わず、選手たちは
自宅や友人、知人の家から大宮の球場へ弁当持参で通っていた。



確かにセネタース以外のチームは、都会では食べ物もないとあって
地方でのスプリング・キャンプを企画した。

例えば巨人は、ご当地出身の千葉 茂・山田 潔の提案により
愛媛県は道後温泉に赴きキャンプを開始するが出発前の目論見は
見事にはずれ、思うように食糧は集まらない。仕方なく選手の
中から食糧調達係を選び、朝から晩まで米や野菜の調達に走り回る。
この役目を任ぜられたのは林 清一外野手だった。本来巨人の
ライトを守る筈の林が練習どころではなくなったため、
練習グラウンドの外野フィールドで守る野手は二人だけになって
しまった。もともとこのキャンプへ参加した外野手は各ポジション
ひとりづつの三人だけだったのである。

中断前の1938年(秋)から1943年まで6シーズン連続で
チャンピオンになったジャイアンツでさえこのありさまであった。



さて戦後初めての日本野球公式リーグの第一戦は、1946年4月27日、
後楽園球場(中部日本対金星、巨人対セネタース、変則ダブル)と
西宮球場(阪急対近畿、阪神対パシフィック、変則ダブル)で行われた。

この日の「読売報知」に掲載された鈴木 惣太郎による各球団の
戦力分析によると



「八球団中もっとも充実しているのは阪急で、これはどのチーム
にも優り、大異変のない限り阪急の年度優勝は間違いあるまい。
これに次ぐものはグレートリングと巨人で、またパシフィックも
投手陣を充実して次第に台頭してくるであろうし、中部日本も
小鶴を迎えて内野を充実、洗練して力を増してこよう。

セネタースは一応よくまとまっているが、攻撃力を一段と充実
せねばなるまい。大下の持つ快打力なども彼の前後にもっと
たたける者がいなければ完全に発揮はできない。

タイガースも渡辺、富樫の二投手では心細く何としても若林を
引き出してくる必要がある。タ軍ばかりではなく巨人も川上、
中島などをもう一度登場させる責任があるが、白石も帰還している
というから然るべき球団に納まらせたいものである。このことは
各球団のためばかりでなく、日本野球の発展にかかわることでもある。
金星は編成後、日浅きがゆえに最も弱勢であるが、リーグ戦の
興味を減殺せぬために大奮闘して球団強化の必要がある」



大下ファンでもあった鈴木によるセネタース評はこれでも、
この時点でのチームの実力以上にひいき目に書かれている。

開幕ゲームの先発メンバーは以下の通りとなった。

<巨人>
ショート:山田 潔
センター:呉 新亨
セカンド:千葉 茂
レフト:黒沢 俊夫
キャッチャー:多田 文久三
ファースト:諏訪 裕良
ライト:林 清光
ピッチャー:近藤 貞雄
サード:山川 喜作

<セネタース>
サード:横沢 七郎
ショート:鈴木 清一
センター:大下 弘
ファースト:飯島 滋弥
セカンド:長持 栄吉
ライト:上口 政
キャッチャー:熊耳 武彦
レフト:大木 董四郎
ピッチャー:一言 多十


復活したプロ野球への大衆の反応は良好で、多くのファンが球場へ
詰めかけるようになるが、急上昇するインフレに、球団経営は
予想を遙かに超える出費を強いられた。小林 次男が必死の思いで
見つけてきたスポンサーの、横浜の土建業者・安藤 国夫と
川口証券の川口 真一郎は開幕から一ヶ月もたたないうちに、
これ以上の援助はできないと判断し、早くも球団経営から手を引いた。
セネタースは新たなスポンサーを捜さなければならない状況に追い込まれた。

「ベースボール・ニュース」の創刊号では、開幕から5月27日まで
一ヶ月間の入場者について触れている。それによると、この間の
試合挙行日は19日間で、入場者総数は98,059人。一日平均、5,161人
となる。総売上額は46万3,341円で、この中から税金と球場使用料を
差し引くと、純収入は29万6,400円、一日平均、15,600円という
勘定になる。日本野球連盟では、そのうちの3割を八チームに均一に、
残りの7割を勝ち試合に応じて分配することにした。

セネタースの5月の成績は5勝9敗で最下位だったので、連盟からの
収入も一番少なかった。

最終的に1946年度の観客動員数は156万1165人に登り、目標に
していた年間百万人突破を大きく上回った。



セネタースの財政的な行き詰まりは、なかば公然化していたようで、
翌年、鈴木 惣太郎が「野球界」に書いた「日本プロ野球太平記」に
よると、

「昭和21年夏頃から、白木、飯島、一言などのスター・プレーヤーが
チームの内部の不平不満を再三、副会長の私に訴え始め、同時に
横沢監督からも意見を求められた。いずれにしても、選手たちの訴えを
聞いていると、財政的な不如意もあって、何かしら不明朗な空気が
セネタースを包んでいた」

とあり、ナインがとてもプレイに専念できるような状態では
なかったことがわかる。



こんな中、6月16日の西宮球場でのゲームでは阪神の呉 昌征投手に
戦後初めてとなるノーヒット・ノーランを食らう。四死球は5個選んだ
もののセネタース打線は結局1本のヒットも打てず、11-0で敗れ、
呉に大記録をプレゼントする。呉 昌征(1937春-43巨人、
44-49阪神、50-57毎日)は1942、43の二年連続首位打者や
1950の16試合連続得点(現在でも日本最高)、同年第1回
日本シリーズにおける第1号ホームラン等々、打者としての
実績の方が高いが、投手としても通算31試合に登板、
17完投、15勝7敗という成績を残している。わずか15勝のうちの
1勝がこの試合のノーヒット・ノーランだった。



さらに9月27日には屈辱の放棄試合を体験する。変則ダブルで
予定されていた西宮球場の第二試合は対金星戦だった。
セネタースの宿舎である宝塚周辺は、朝から雨が降っており、
選手たちの大半は試合が流れたと思い込み外出してしまった。
ところが、その日の降雨は局地的なもので、西宮球場は晴れていた。
監督の横沢 三郎は第一試合が行われたことをラジオで知り、
慌てて選手たちを探し出したが、時すでに遅かった。
当然のことながらセネタースは連盟と世論の激しい叱責を
受けることになる。



チームとしてのまとまりは欠けていたが、主力選手はその力を
充分に見せつけた。シーズン前半あまりにも大きな期待に
反発するかのように力が出せなかった大下 弘も徐々に真価を
発揮、終わってみればホームラン(20)、塁打(206)、
長打率(0.522)の三部門でトップになる。特にホームランでは
それまでのシーズン最高の10本(鶴岡 一人ら3選手)が
一挙に倍増され、一躍人気者になった。

投げては白木 義一郎が勝利(30)、先発(28)、完投(43)、
無四球試合(7)の四タイトルを獲得、チーム勝利数(47)の
実に64%が白木の右腕によるものだった。

コメント中の「近畿」と「グレートリング」は、同じチームで、戦前および後の「南海」です。
財政的な行き詰まりは選手への給料の遅配につながり、
スター選手の間からは監督のつきあげが起こるようになる。
個性の強いスター選手たちは決して一枚岩だったわけではなく、
それぞれの思惑を秘めた主張をしはじめ、一種の派閥が形成された。

横沢 三郎と小林 次男は藁にもすがる思いで、球団経営の
経験や知識もなかった折手 登を知人の紹介でスポンサーに
迎えた。折手 登はジョッキーあがりの金融業者ということ
だったが、球界にはその素性を知る者はいなかった。しかし
その折手もセネタースの窮状を救うことはできなかった。折手は
和服の着流しで、札束をふところにして球場に現れる粋な男
だったが、プロ野球に対する格別の夢や愛情があったわけでは
なかった。赤字の累積は次第に選手と横沢たちとの間に大きな
食い違いをもたらし、再び給料の給付がとどこおる結果になった。
シーズンが終了する頃には、セネタースは分裂、解散の瀬戸際に
追い込まれ、まさに危機的状況に置かれていた。

そこで小林 次男はかねてプロ野球進出に色気を見せていた
東京急行電鉄に球団の身売り話を持ち込んだ。

このとき、小林 次男と東京急行との仲介の労をとったのが
小西 得郎と自由党の参議院議員浅岡 信夫である。戦前、
小林が日活の宣伝部にいた頃、浅岡も同じ日活の俳優だったので、
二人は懇意だった。浅岡の広島一中時代の親友が、東京急行の
専務をしている黒川 渉三だった。小西が黒川と相談をし、
東京急行の社長で当時は公職追放中であった五島 慶太の
ところへ話を持っていった。セネタース身売りの交渉は
急速に進展し、正式契約寸前までこぎつけた。

ここに至って、セネタースのスポンサーである折手 登が
へそを曲げた。事前に一言の相談もしなかったことが折手の
心証を害し、東京急行への譲渡を拒否したのである。このとき
セネタースの選手たちは折手派と横沢派に二分した。

実は折手としても、別のある会社にセネタースを売るという
筋書きがあった。勿論東急以外の会社だったが、これには
折手派でもっとも信任が厚い主将の白木 義一郎が一枚役を
買っていて、一方は横沢氏による東急、一方は白木を交えた
ある会社と二本の線が反対の方向へ走っていたのだが、
横沢・連盟の線が独走して全てのことを決めてしまう結果となった。

折手氏といよいよ手が切れる時には、全選手に退職金が
出る約束だったが、果たせなかった。横沢 三郎が
「白木とその一派が金で踊らされている」と話したのも
この関係である。しかしその横沢自身、ユニフォームを脱ぎ
東急との橋渡しを済ませたあと、東京急行の技術指導部という
ところへ籍をおき給料を受け取っていたわけであり、折手氏
および折手派と目された選手たちからはかなり恨まれる結果となった。

横沢が(東急から)金を貰ったのではないか、との強い憶測も
このあたりから出たのだろう。

横沢はチーム分裂の難局を切り抜けるため、東京中野の料亭で
折手と会見することになった。折手の側には暴力団の用心棒が
ついているという噂が流れるほどの険悪な雰囲気のなかでの
話し合いであったが、横沢は覚悟を決めて一人で出かけた。

横沢派の一番手だった大下 弘も、横沢の身を案じ、その後を
追って料亭に現れ、折手をなだめながら横沢の弁護につとめた。

このときの話し合いで、横沢兄弟は東京急行との折衝から
手を引くことになる。

最終的には連盟の会長、鈴木 龍二が遂に乗り出し、
折手と東京急行との仲介役に再び浅岡 信夫をたてた。
浅岡は児玉 誉士夫と親しい右翼の辻 嘉六の懐刀といわれる
人物である。さすがの折手も浅岡の説得には応じざるを得なかった。

しかし、折手にも面子がある。条件として出されたのが、
横沢 三郎の監督解任であった。横沢がこれをのみ、セネタースは
22年1月7日付けで東京急行にわずか35万円で身売りされた。



1947年セネタースは東急フライヤーズと名前を変え、
翌48年にはさらに大映と暫定的に合併し急映フライヤーズと名乗る。

しかし、1949年大映スターズ設立とともに再び
東急フライヤーズに戻り、二リーグ分裂後はパ・リーグの一員となる。

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