ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

青森県立八戸東高校コミュの「八戸市教育史」から

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 青森県立図書館の参考郷土室の開架で「八戸市教育史 下巻」を取り出して開いて見たら、下記のように我等が母校のことが書いてありました。
 小生は男子の1回生80人のうちの生き残りの1人です。これには書いてませんが、昭和25年は八戸高校が生徒を募集せず、男子で普通科に進学したいものは県立八戸女子高校を受けるしかなかったのです。それで一旦名久井農や八戸水産などに入学したけれども、普通高校で勉強したい者も受験したのです。小生は高等科→新制中学校からで、付き添ってきた父が人数を数えて、80何人かだから大丈夫だといったので、気が楽になりました。ただ、どんな試験だったのか、もう忘れてしまいました。
 下記によると、風紀問題と男子の萎縮問題を心配したとありますが、どっちを向いても女生徒ばかり、おまけに男子トイレがなくて、廃止された附属幼稚園の男の子用を使うという環境でしたから、半年ぐらいいわれなくてもビビッて過ごしましたね。「スムーズに男子生、女子生は融和し」たのは、三年生のときの修学旅行の以後だったと思います。いまの皆さんには想像しにくいでしょうね。

 2 青森県立八戸東高等学校

 昭和二十四年青森県立第二高等女学校創立以来半世紀を経て、桜並木の校門を男子生徒八十名がくぐった。共学について学校側、PTA側とも一番心配したのは風紀上の問題と男子生徒の萎縮感の問題で、これについてはたびたび両者で会合をもち、対策を考えたが、案ずるより生むが易しでスムーズに男子生、女子生は融和し、二十六年から新制中学校で男女共学を経験している生徒が入学してくると全然男女共学の違和感はなくなった。
 男子が入学するのに「女子高等学校」の校名はおかしいので校名変
更問題がおこり、職員会議、PTA、松友会の意見を参考に検討が加
えられ、「桜ヶ丘」「八戸第二」「八戸中央」「八戸東」などの案が
出たが、結局、学校の所在地が市の中央部より東にあるという方向性
をもった八戸東高等学校に決定し、同時に帽章、徽章が制定された。
二十六年十一月十日には創立五十周年記念式典が行なわれ、新校歌も
披露された。作詞は児童文学者として著名な石森延男、作曲は海征か
ばなどで有名な信時潔である。二十七年には定時制普通科の課程も設
けられ、三本木農業高等学校百石分校が八東高所管となった。
 かくて学校は戦後の混乱期から安定期に入り、勤労青少年の入学と
ともに学校は朝から晩まで一日中生徒であふれた。新制高校発足の二
十三年から三十年頃に至る時期は生徒の自主活動が盛んであり、また
制度上でも五日制、二学期制、選択制と生徒の自発的活動を促すよう
な点も多く、学習に運動に大いに活躍した時期であった。記念行事と
してクラス別に展示会が行なわれたり、校外では八戸東宝劇場で昼夜
二回、コーラスと静御前、ベートーヴェンの歌劇を行なったりした。
音楽家の山田実校長が自らタクトをふるう熱演で、娯楽にうえていた当時の市民は先を争って入場し、劇場正面の大ガラスを割るというアクシデントもあった。
 昭和二十三年から始まった運動会は、男子生徒の入学と共に年々盛んとなり、赤白または赤白紫黄と全校を分け、前日より櫓を組み、杉の葉を遠くは新井田方面から運んで装飾に力を入れ、当日は太鼓をならして競争した。なかでも各クラスの仮装行列は有名で市民の見物も多く、なかには息子の嫁さがしを兼ねて見物にくる人もあったという話もある。この運動会は昭和三十五年から校舎建築のため十数年中止され、最近再び復活している。運動部では、昭和二十八年のインターハイのスケート競技では全国優勝をし、その他バレー、バスケット、陸上競技、弓道の各部も二十年代は国体に出場して活躍した。文化部では音楽班がNHKの全国合唱コンクールで入賞を果たし、新聞、生徒会誌、文芸誌の発行もめざましかった。

  作品 19             二年 生江佳子

  茜の色が闇に吸いこまれ
  遠くさびしい藍色が漂いはじめる頃になると

  小さな心に
  還らない日の想いが空しく影を落とす

  誰もが忘れてしまった……ひとつの愛
  人一人の心の奥に消えることのない、つぶやき

  夕暮れの中に息づき……
          私をまよわせる悲しみ
                      (「樹」第八号)

 新制高校になった当初の約十年間は全国どこの学校もそうであるように八東高でもいろいろな新しい学校運営がなされ、混乱の中にも生き生きした学校生活があった。教育課程も必修科目と選択科目の二本立制となり(昭和23年―31年)、選択科目の時間には一、二、三年生が混合で授業を受ける風景もあった。また生徒は時間毎に教室を移動することとなったため狭い廊下は混乱し、民族大移動の感があった。昭和二十四年からは週五日制、二学期制も実施され(昭和二十七年三月廃止)、大学並みとなった。生徒の間にはこのような自由の風潮の影響で自主的な態度が育くまれ、勉強に、クラブ活動に優秀な成績をあげるものが多かった。だが、昭和二十四年四月十二日の入学式に八十名の男子が参列し、女の園に新時代の息吹きを感じさせた男女共学は、その後、年々男子入学者の数が減少し、三十三年には男子二名の入学をみただけであった。それで翌三十四年からは男子募集を中止し、また元の女の学園となった。男子の卒業生は総数百八十八名だった。一方、勤労学生を対象とした定時制課程も三十二年三月、百石分校が独立し、中心校も年々入学志願者が減少し、さらに新校舎建築の準備もあって三十四年三月で閉鎖した。
 八東高は校地面積が僅かに五千三百二坪、建坪千二百七十七坪という明治以来、つぎたして建てられた鍵形の多い建物であった。体育館は明治三十四年建造で昭和十六年、氷室の解体木材を使って増築した。講堂は大正三年建造、昭和十五年倍に増築した。しかし何れも老朽が激しかった。それで昭和二十五年頃からPTAや学校側から校舎新築の機運が起り、校地を市外地に求めて新築するなどの案がでたりしたが、結局現在地に新築するこ
とが決定し、昭和三十一年九月に新築促進会が、翌三十二年六月二十三日、それが校舎新築期成同盟会となり学校、PTA、松友会がその構成メンバーとなり、県や県議会へ陳情、請願をし、昭和三十五年から新築工事に着工となった。そして第一期工事四千八百六十一万円、第二期工事四千八百五十五万円、第三期として体育館を新築して昭和三十八年十月二日、創立六十周年及び校舎新築落成記念式典を盛大に行なった。<略>
(八戸教育史編さん委員会編「八戸市教育史」下巻211ページ、昭和50年3月、八戸市教育委員会=原本、)


コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

青森県立八戸東高校 更新情報

青森県立八戸東高校のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング