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世界を知ろう!with国際交流コミュのアフリカの現実〜第7話〜

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私は2006年2月から2007年3月まで世界一周をしました。

そのときにトルコのイスタンブールでさやかという子に会いました。

連絡先を交換したのでその後、イエメンのサナアとエチオピアのアジスアベバでも会いました。2006年9月の話しです。

それから1年10ヶ月経ちましたが彼女はまだアフリカにいます。今はモザンビーク。

ずっと施設でボランティアしてます。ネット環境が悪いためなかなか読むことはできませんがエチオピアにいたときの文章からここで紹介したいと思います。

アフリカの現実を知れるので読んでくださいね。


●お友達、家族との面会

ここの施設では毎週日曜日の朝だけ、外部からの
人が会いにこれます。
日曜日の朝は少しだけ、患者さんみんなの様子が
緊張しているのが、わかります。
みんな お友達や、家族と自分で連絡するすべを
もたないから、もしかしたら今週の日曜日、誰かが
会いに来てくれるかもしれない。。って思ってベットで
動けない子も、家族も友達もいないってゆう子も 外部の
人が入ってくる大きな鉄の扉 をきにしているのが雰囲気で
私にもいつもわかって私までなんだか緊張していました。

逆に鉄の扉の外も、何日もかけてきたかたや、何ヶ月も
待ってやっと居場所がわかりあいにこれたかたが入れるのを
待っていました。

大切そうに小さなバナナを一つだけ
もって娘に会いにきた
ぼろぼろの服装で裸足だけど、
目はきらきらしたおばあちゃんや、
遠くの山岳地帯からやってきた部族の、
親戚一同のかたとか
本当にそんな光景をみているだけでいつも
じーんとしていました。

日本の病院の病室と同じ光景で、みんなで一人の患者さんの
ご家族が持ってきたフルーツをわけあったり、挨拶したり。

中年のカップルの方が手に持っていたバナナ落として
号泣しているのが目にとまりました。

その理由は、娘さんが亡くなってしまっていたためです。
娘さんの名前はブルトカンっていって24歳の女の子でした。
HIVポジティブだったのですが、上半身やけどした
状態で、1週間前に運ばれてきたばかりの子でした。

村ではほとんどの家庭は薪をくべて火をおこして料理をします。
あと、電気がないため、火をおこしたり、夜間はとても冷え込む
のであたたまるために火をくべます。
みんなが住んで居る家は、本当に日本の縄文時代のおうちです。
床はそのまま地面で、わらと木と動物の糞でできています。
火が大きくなりすぎてそのまま家ごと燃えてしまって、
亡くなる人、おおやけどを負う人。
ブルトカンは、村を出てアディスにいて何かのきっかけで
熱湯をあびてしまったようでした。

彼女は、たった1週間しか一緒に過ごさなかったけど、
毎日、
「チャラカーラーメンアンチタファシムノナシノ?」
(さやかーなんでこんなにくるの遅いの?なんかあったの?)

ってやけどでただれた唇一生けんめい動かしていつも
真剣な顔できいてきました。

彼女がきてちょうど1週間たった日の朝、その子のベットに
いくと、彼女が私に早口で何かいっていて、
私にはなんてゆってるか理解できなくて、

「ブルトカン ザレムンデンノ?イクルタエネアルガバニ」
( ブルトカン 今日どうしたのかな? ごめんね。
なんてゆってるかわかんないよ。。)

そしたら、隣の患者さんが
「ブルトカン 死にたくないよ。助けて。
死ぬの怖いってゆってるよ。」
って教えてくれました。

えって思って、ブルトカンの顔に手を当てて
様子を見てみました。
亡くなる直前に、ここまで言葉を話せる子は
今までみたことなかったから
大丈夫なんじゃないかなって思いました。
でも少しずつ少しずつ呼吸が、亡くなる前の呼吸に
変わるのがわかりました。

ドクターを呼んでも、心電図?や呼吸器?(ごめんなさい
なんてゆうのかわかりません・。)のような
機械はここにはなく、
私もここへきたばかりはドクターを探しましたが
たとえドクターがきてくれても、なすすべがなく
他の患者さんやワーカーの子達とその子が天国に行ける
ように祈りを捧げるのが
みんなが出来る精一杯のことでした。

彼女の身体きれいにして、汗をたくさんかいている顔、
きれいな布でふいてあげて、
「大丈夫だよ。安心してね。 」って
顔をなでなでして
ブルトカンは私の手をすごく強い力でギュッって握っていて、
呼吸は亡くなる前の呼吸だけど
ここまで強い力で私の手、
握れているから大丈夫なんじゃないかな。ペインキラーの注射
打とうかなって思って注射器とりに握られていた手を
無理矢理はなして
「アスナロエネティニィッシュボハライマタンロ」
(ごめんね。少しだけまっててね。すぐもどるからね。)
とだけいって、注射器と薬品とりに違う部屋にいって、
その帰りに、ワーカーの子が「新しい患者さんきたから
その子の腫瘍みて」っていって、
すぐ終わるだろうと思って、
違う病室に入って、
それからブルトカンのところに
急いで戻りました。
でも、私が戻ったとき、口の動きも
目の動きも止まっていました。

強く握られた手、なんで離しちゃったんだろう・・。
側にずっといてあげればよかったのに・・。
私馬鹿だ・・。
ってすごく悔やみました。。


「チャラカーチャラカー」
って私の名前叫んでいた声が今でも頭に残っています。


その中年のカップルは、ブルトカンのご両親でした。
ずっとブルトカンが首都のアディスにいったきり
2年間以上、連絡がとれなくて
先日ワーカーの子が村に電話で連絡をいれて
早速会いにきてくれたようでした。
あと2日早ければ、、って思いました。
亡くなる直前でも最後に会うこと
できたのに・・・。
号泣して自分の髪の毛をむしりとる、女性をみて
ワーカーの子も、他の患者さんもみんな目に涙浮かべて
ました。

色んな生き方があります。
それはどこの国に住んでいようとみんな色々です。

私の尊敬する人の本で、

みんな幸せと不幸せの入るポケットの大きさは同じ。
たくさん欲ばっても全部ははいりきらないよ。。

ってかいてあった言葉思い出しました。

でもここにいる子達は、あんまりに短い生涯で、
あんまりに苦しんでいて。

その子の一生ずっとみてきたわけでは、
ないからわかりませんが、
生まれた場所、育ってきた環境、
人生公平ではないきがして
たまりません。

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