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The Spy in The Skyコミュの講義3『忍者とは〜歴史〜』

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★発祥と変遷
忍者という存在の発祥の由来については諸説ある。忍者は、各地に分かれていくつかの集団を構成していた。その中でも甲賀・伊賀地方には多数の忍者屋敷があり、訓練などをしていたと考えられる。伊賀と甲賀は鎌倉時代にはその領地の大半が荘園であったため守護や地頭の支配を受けなかったが、戦国時代となって荘園が崩壊すると地侍が数十の勢力に分かれて群雄割拠した。各地侍が勢力を保つために情報収集とゲリラ戦を行なう忍術が自然発生したと考えられている。

★服部氏伝説
昭和37年(1962年)、伊賀上野市の旧家から発見された上嶋家文書(江戸時代末期の写本)によると、伊賀、服部氏族の上嶋元成の三男が申楽(能)役者の観阿弥で、その母は楠木正成の姉妹であるという。正成の甥が観阿弥ということになる。偽系図といわれている。(根拠は特にない。)ちなみに観阿弥の息子世阿弥は先祖は、服部氏と自称していた。

伊賀では藤林・百地・服部の上忍三家が他の地侍を支配下に置き、最終的に合議制を敷いて戦国大名に支配されない地域を形作っていた。外部からの侵略に対しては結束して戦い、織田信長が伊賀を支配するために送り込んだ築城奉行滝川雄利を追放し、報復として攻め込んできた織田信雄の軍を壊滅させている(第一次天正伊賀の乱)。改めて大軍を編成した第二次天正伊賀の乱で伊賀忍者は壊滅的な打撃を受けたが、百地丹波以下100名が紀州の根来に逃げ延びたと言われる。

★徳川幕藩体制下
伊賀忍者は本能寺の変の際に、堺にいた徳川家康を護衛して伊賀越えを行なったことから、徳川幕府に召抱えられるようになった。お庭番は、八代将軍吉宗が紀州から連れて来た薬込役を起用したもので、伊賀忍者とは異なる。これらの忍者やお庭番は、徳川幕府のために諸大名の内情を探るだけでなく、江戸城下の世論調査を行ったり、大奥の警護や、参勤交代で国返りして空き家となった諸大名の屋敷の管理、同心として江戸城下の治安の警護を行なった。諸国の内情を探るために扮装をする際には、当時幕府の御用商人であった三井の店に変装用の衣服が用意されており、そこで着替えをしたことが、明治時代に元お庭番に聞き取りをした記録によって知られている。

諸国を行脚した松尾芭蕉は、三重県伊賀市の出身であったため、忍者、隠密だったのではないかという説があり、小説などにも扱われている。ただしこの説には確定的な根拠はなく、現状では単なる想像の範疇である。

島原の乱の際には忍者の一隊が一揆軍の立てこもった原城内に潜入し、兵糧が残り少ないことを確認した記録が残っている。

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