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大文字党コミュの赤備えで出陣 -編成隊が決定しましたっ!!-

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2009年4月19日(日)川中島合戦絵巻

わが大文字党の編成隊が決定いたしました。
●風の軍団 先陣(武田軍第一陣) 飫富虎昌隊
●林の軍団 第二陣(武田軍第八陣) 山縣昌景隊

です。飫富兄弟(正確には叔父と甥の関係)です。

「甲山の猛虎」と恐れられた飫富虎昌。
そして、武田軍最強とこれまた恐れられた山縣昌景。
合戦では、飫富・山縣らの名前に恥じぬよう思う存分、暴れましょうっ!!

■飫富虎昌隊 12名

(隊将)燕殿
(副将)風林火山殿
DENNY殿
阿僧祇殿
幸時殿
てぃたけ殿
明海殿
朝倉殿
鷹亮殿
家主殿
鶴岡殿
小林殿


■山縣昌景隊 12名

(隊将)咲夜殿
(副将)ふかふかひつじ殿
chimchim殿
yayo殿
らんこ殿
び―ん殿
元八殿
はね殿
ふかふかひつじ奥方
にし殿
村上殿
小助


▲期間限定のコミュでしたので、今年も例年同様に合戦後解散いたします。
今年は4月20日を予定しております。
毎年最後のつもりで戦場に向かっています。さてさて、今年で最後となるか、それとも…w


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飫富兵部少輔虎昌 1504〜1565年

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飯富虎昌、飯富兵部、飫富源内ともいう。
飫富昌義の長男。「武田の赤備え騎馬軍団」の首領。巨摩郡飯富郷(南巨摩郡中富町飯富)一帯を領する。
武田信虎の重臣。武田信虎に「虎」の一字を賜った股肱の臣。
飫富源四郎昌義の長男として永正元年(1504年)に生まれる(永正11年(1514年)生まれ説あり)。
飫富虎昌は、合戦では常に先鋒を引き受け、信濃侵攻では村上義清や小笠原長時を苦しめ、その剛勇ぶりは、敵、味方から、「甲山の猛虎」と恐れられた。
そんな飫富虎昌であるが、亨禄4年(1531年)1月21日には、甲斐国人栗原信真、大井信業、今井信是らとともに反旗を翻し、 武田信虎と戦っている。いわゆる御岳合戦である。しかしこの合戦で武田信虎に大敗している。
飫富は「おぶ」と読む。千葉県に飯富と書き「おぶ」と読んだ旧郷名があったほか『万葉集』に飯富の海と書いて「おぶのうみ」と読む歌もあることから、飯富と書いて「おぶ」と読むこともされている。『一蓮寺過去帳』の延徳4年(1492年)の条に「八幡飯富内」とあり、また永正12年(1515年)には飯富道悦と飯富源四郎が討死したともある。『甲斐国志』では飯富を「おふ」としており、『北越軍記』には飫富兵部と書いて「あきとみ」と読んでいる。
天文5年(1536年)6月、花倉の乱において、北条氏綱が駿河に侵攻すると、今川軍の援軍として参戦し、飫富虎昌は北條氏綱軍を撃破する。天文5年(1536年)11月に武田信虎の信濃佐久郡に従軍し、村上義清と戦う。殿を担った初陣の武田晴信に従っていたのが飫富虎昌の赤備え軍団であって、武田晴信と飫富虎昌は兵を引返して、油断していた平賀源心斎(大井成頼)の守る海ノ口城を攻撃し、これを落すことに成功。この功に対して、武田信虎は武田晴信をほめることはせず逆に「抜けがけの巧妙は武田の恥じである」と叱責したという。当然、飫富虎昌も武田信虎の勘気にふれたことはいうまでもない。天文7年(1538年)にも、佐久郡で村上義清と戦い、飫富虎昌が首級97を討ちとるという軍功をあげる活躍もあって、数で勝る村上勢を撃破する。 小笠原長棟が甲州へ攻め込み、韮崎においてこれを迎え撃ったときも飫富虎昌の率いる赤備え隊が第一陣をつとめ、 甘利虎泰隊、小山田信有隊、板垣信方隊らがつづき、小笠原勢を追い散らしたという。小笠原軍は2700余の戦死者を出して撤退。天文8年(1539年)にも信濃佐久郡への出陣に従い、北信の豪族村上義清の居城である葛尾城まで攻め入り村上軍と戦ったという。
天文9年(1540年)の武田信虎の信濃佐久郡への侵攻戦では、佐久地方の守備隊長として重要な役割を果たす。北信方面の備えをゆだねられた飫富虎昌は、小諸城を重要拠点として佐久地方の守備にあたった。天文17年(1548年)、村上義清を助けるため、上杉憲政は8000の軍勢を率いて飫富虎昌の守備する内山城を攻めたが、 飫富虎昌は800の城兵を指揮して奇襲作戦を展開し、上杉軍を右往左往させたという。『千曲之真砂』は「飫富虎昌隊の勢いたるや、あたかも猛虎が羊群に突入したるがごとく、全軍巨大な火の玉に見えたり」と勇猛ぶりをつづっている。「飫富の赤備え」と称された軍勢は、騎馬武者から兵卒にいたるまで一人残らず武具、差し物、馬具の全てを赤一色に統一されていた。合戦場で卑怯、卑劣な振舞いをさせないために敵味方にも目立つようにしたといわれているが、赤一色の飫富隊の突撃はまるで火の玉が飛ぶような勢いを見せ、敵は戦う前から「赤備え」の攻めてくるのを見て戦意を失ったという。武田氏が滅亡した後、徳川家康が飫富虎昌の武勇にあやかれと井伊直政(井伊万千代)を飫富虎昌が名のっていた官途の兵部少輔に叙し、武田旧臣を配属させることで赤備えを踏襲させ、関ヶ原合戦で活躍した「井伊の赤備え」の前身とさせたという。 武田晴信は嫡男武田義信の傅役に飫富虎昌を命じている。後継者の教育係に任じられたことは武門にとってこれ以上ない名誉である。
永禄8年(1565年)10月、武田義信は東光寺に幽閉され、 飫富虎昌ら義信衆80余人が処刑または追放される「義信謀反事件」が起こる。『甲陽軍鑑』には永禄7年(1564年)7月としているが、武田義信は永禄8年(1565年)6月の甲州二ノ宮造立帳に参千疋の寄進をしており、永禄8年(1565年)6月の時点までは武田義信が公式活動していたとしている。『甲斐国志』には「永禄8年(1565年)乙丑年、陰謀の発覚ありて幽せらる。永禄10年(1567年)10月19日深室に逝す。年30」とあり、 武田晴信が西上野の武将小幡源五郎に送った10月23日付けの書状『尊経閣小幡文書』に「飫富兵部少輔(飫富虎昌)所行くを以て、武田晴信・武田義信の間を相妨ぐべき陰謀露見し候の条、則ち生害を加へ候、父子の間のことは元来別条なく候、心安かるべく候」とあり、陰謀の罪を飫富虎昌だけに被せている。しかし、飫富虎昌は武田晴信の信濃経略や長尾景虎(上杉謙信)との度重なる抗争に反対することが多く、また飫富虎昌自身が武田家で大きな勢力を誇っていたため、「義信謀反事件」を契機として武田晴信自らが粛清に及んだという説もある。 飫富虎昌と同じく南巨摩の領主穴山信君の弟穴山信邦も連座して切腹していることから、親今川派の国人の反発という面も有している。
巨摩郡飯富郷(南巨摩郡中富町飯富)には、現在も兵部平とよばれる平坦地が残っている。墓所は山梨県甲斐市亀沢(中巨摩郡敷島町)の天沢寺。天沢寺が飫富氏歴代の菩提寺という。
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山縣三郎右衛門尉昌景 1518〜1575年

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山県昌景、飫富昌景、飯富昌景、飫富源四郎、景仲、三郎兵衛ともいう。
山縣重秋の六男。教来石信房、工藤昌豊、春日虎綱らと並び「四名臣」と称された。
母は飫富虎昌の姉。
永正15年(1518年)(永正12年(1515年)生まれ説あり)に山縣重秋の六男として生まれる。幼くして母を亡くした山縣昌景は、継母とも折り合いが悪くなり、亨禄2年(1529年)、11歳のときに実母の故郷である甲斐国の叔父飫富虎昌を頼る。 山縣昌景は叔父飫富虎昌の弟飫富源四郎と名のり、亨禄2年(1529年)から武田信虎に仕え、近習使番として武田晴信に仕えることとなる。武田晴信より3つ年上。
天文4年(1535年)に武田信虎は諏訪頼満と和睦を果たし、佐久郡への侵攻に重点を置きはじめるが、この頃に飫富昌景(山縣昌景)は元服したと考えられる。義兄飫富虎昌につき従い信濃国佐久郡侵攻に従軍。「甲山の猛虎」と恐れられた飫富虎昌に劣らぬ勇将の片鱗を見せ、しだいに頭角をあらわし、伊那郡攻略戦から本格的に活躍しはじめたとされる。
天文21年(1552年)に騎馬150騎を預かり侍隊将となり、天文17年(1548年)に板垣信方と甘利虎泰が戦死してからは、「職(しき)」として重く用いられ、戦場でも武田晴信を補佐し全幅の信頼を得ていた。永禄4年(1561年)川中島合戦では、武田信繁、武田信廉が本陣を固め、飫富昌景(山縣昌景)は旗本隊の指揮官として親族衆の 穴山信君隊、工藤昌豊隊など8000の軍勢で本陣の守衛にあった。永禄6年(1563年)には三郎兵衛尉と改める。とくに飫富昌景(山縣昌景)の城攻め、野戦での駆け引き、采配ぶりは武田晴信も感嘆するほどの妙を見せており、城攻めの短期決戦は山縣勢のお家芸との定評もあった。黒地に白抜きの桔梗紋を染め抜いた旗差し物を背に戦陣狭しと暴れまわる勇猛さは、数数の軍談本にも多く物語られている。『近代武勇記』には「上杉景勝には河田監物信親(川田信親)があり、徳川家康には本多百助正広、 武田晴信には山縣三郎兵衛尉昌景等等の勇将あり。いずれも大剛の士なり」と記されている。『古今武勇覚書』には、飫富昌景(山縣昌景)の出陣の際のいでたちについて「甲州の英傑山縣三郎兵衛の陣脇差を見ると、赤木作りで側は角地皮で菱取に巻いてあり、黒漆で塗りこめている。鞘は白木で所所に桜の皮を巻き、これも漆で塗っている。刀身は一尺五寸ばかりの塗り身である」としている。
永禄8年(1565年)には、武田義信に「武田晴信排斥の謀議」があると察知し、義兄飫富虎昌も関わっていると知った飫富昌景(山縣昌景)は「いかに義兄といえども、御大将に弓を引く謀反の企ては許すことができない」「兄を裏切るより、子(武田義信)に裏切られる父親(武田晴信)の方がはるかに心の傷は深い」と、 武田義信の謀反を未然に防ぎ、飫富虎昌を逆臣の咎により成敗させている。かつて武田晴信は「大義、新を滅す」という戒めに従って実父武田信虎を追放。しかし飫富昌景(山縣昌景)は引き立ててくれる主君への忠誠と武田家を守るために、たとえ兄であっても情に溺れることはなかった。 武田晴信は心中の慟哭を押し隠してまで訴えで出た飫富昌景の忠誠を喜び、300騎の侍隊将に昇進させる。また飫富昌景はもともとの姓、山縣姓に復し、山縣昌景と改めた。飫富虎昌が自刃してからはその兵「赤備」を継承。享禄2年(1529年)に武田信虎に誅されて断絶していた山縣虎清の名跡を継承する意味合いもあったとされている。元亀3年(1572年)9月、武田晴信の西上作戦が開始されると、飫富昌景(山縣昌景)は本隊の出発に先立って三河衆など5000余の軍勢で別働隊を組織し先発。下伊那から東三河へ入り、三方ヶ原合戦では秋山信友隊とともに徳川家康の本陣に迫り、徳川軍をことごとく撃破。豪気な徳川家康も一時は自決を覚悟したほどで、本多、大久保らの直臣に諌められほうほうの態で浜松城へ逃げ込んでいる。 大久保彦左衛門の『三河物語』によれば、徳川家康が「さても山縣という者、おそろしき武将ぞ」と驚嘆したという。武田氏が滅亡してから、徳川家康は散り散りになっていた山縣隊旧臣たちを召抱え、彦根井伊家に仕官させている。また徳川家康は本多信俊の子本多信勝の幼名を山縣と称させたというのだから、 徳川家康の脳裏にはよほど猛将山縣昌景の印象が強烈だったのだろう。
元亀4年(1573年)4月、武田晴信が臨終の際、山縣昌景を枕元に呼び「明日は瀬田に旗を立てよ」と遺命を遺したと『甲陽軍鑑』に記されている。
江尻城代をつとめていた山縣昌景であったが、天正3年(1575年)5月長篠合戦では、教来石信房(馬場信房)らとともに強攻めの不利と困難を武田勝頼に説くが聞き入れられず、無謀ともいえる合戦に突入。全身に無数の鉄砲玉を受けたにも関わらず、落馬もせずに采配を口にくわえたまま絶命。『勇士ものがたり一言集』によると、山縣昌景を狙撃したのは織田軍の鉄砲の名手大阪新助であったという。
山縣昌景には長男山縣将監昌満、次男山縣三郎兵衛信継、三男山縣源四郎昌純、四男山縣昌久(上村左兵衛)、五男山縣左兵衛昌次(山縣甚太郎)、六男山縣昌忠(新宮昌忠)らがいる。 山縣昌純には長男山縣荒二郎純寿がいる。 山縣昌久には長男山縣内匠昌之、次男山縣正時(笹治大膳常勝)がいる。 山縣正時には長男山縣刑部正次(笹治左兵衛直次)がいる。山縣正次には 山縣良次(笹治大学)がいる。父山縣与三兵衛重秋は永正8年(1511年)8月の船岡山合戦にめざましい武功を上げ、永正14年(1517年)10月22日の有田中井手合戦でも父山縣重秋、山縣右馬助重房父子は手柄を立て名を馳せた。 山縣重秋の長男山縣重房をはじめ、次男山縣備前守就延、三男山縣備後守就信、四男山縣備後守元信、五男山縣筑後守就相がいた。
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コメント(16)

集合場所は、

石和北小学校

です。

車でお越しの方は、ホテル石風向かいの駐車場が利用できるとのことです。
ただし限りがあるので、満車の可能性もあります。


集合時間は、

9時です。

旅館きこり組でない方は、それぞれ9時前までにお越しくださいね♪
よろしくお願いいたします。
希望で飯富とか山県がいいとはいいましたが、その要望あっさり通ってますね(笑)

飯富隊は去年の大文字党と同じ隊であり、武田軍として1番先頭の入場なので良かったです。
>燕殿

今回は完全に抽選です。
武田なら、上杉なら、と希望はいくつか出していました。
やっと去就が決まったのですね。
実は、こっそり親上杉派だったのですが、決まったからには謙信めの首狙います(笑)

もち赤備えですよね?
抽選なのに、叔父と甥の二隊とは、奇遇ですね。
昨年は飫富虎昌隊で謙信の首とれず、今年は山縣昌景隊で
かならずや討ち取って見せまするぞ!

天気も上々(曇り時々晴れ曇り晴れ曇り晴れ、最高気温23℃)
戦晴れでござるぞ いざ!出陣エイエイオー!富士山射手座
飫富虎昌隊とは!
これで安心して甲冑持っていけます。
今年で三回目、また武田軍で良かったですよ。
小助さんありがとうございます。

参加される皆さんよろしくお願いします!
どうにか参加できそうです!
小助さんにはご迷惑をおかけいたしましたあせあせ(飛び散る汗)
>ふかふかひつじ殿

山縣隊は赤備えだったか分かりませんが、副将は赤いですw
楽しみにですねw
ぜひ景虎の首、討ちとってくださいw
>chimchim殿

今年から武田か上杉かの希望は出せるようになりましたが、どこの隊かは選べません。
上杉なら直江、武田なら真田親子か、飫富兄弟…なんて言ってたら、飫富兄弟になりました。
四名臣の山縣昌景隊もかなりの人気でしょうしダメかと思いましたが、赤備えですし、よしとしましょうwやっぱり真田や直江は人気があるし、もしかしたら真田や直江はもうすでにお偉いさん(市関連)の隊に決ってしまっていたかもしれませんね。
>にーさん

そうでしたね、にーさんとはこれで3回目ですね。
3回連続で武田でしたねw
楽しみです。
>幸時殿

赤備えですっ!!
楽しみですね〜♪
はじめまして!
今回、初参加させて頂きます☆
武田軍最強チームに入れて頂き
ありがとうございます!!

とてもワクワク楽しみにしています!
よろしくお願いします♪
>HAOCИさん

はじめまして。
武田軍最強ですよねw楽しみましょう♪
今年の隊はまだ分かりません。
昨日速達で発送されたそうなので、本日か明日には分かると思います。

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