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奄美産大島紬コミュの大島紬の歴史・概要編

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奄美大島の発祥と大島紬の出現


 奄美大島の発祥は、古く神代の昔、阿麻彌(古事記)と呼ばれ阿麻彌姑の手によって島造りが創められ、五穀の栽培と機織りの法を授けたとされており、現在の奄美なる名称も阿麻彌から脱化したものとの説があります。

 阿麻彌姑は常に珍絹で頭を覆っており当時の婦女子の間ではその人徳を慕いこれにならって珍絹域は珍首を使用しており、その風習が奄美では対象の末期頃まで珍首(ウックイ)と称され残されており、その製品の多くが手紬のカスリ織物であったことから推しても奄美大島においては神代の頃から絹織物(紬)ができていた事が窮えます。

 また、一方琉球のおもろ草紙には、国知彦命は天照大神の命を受け日向の国から船路にて夜久島(現在の屋久島と想像される)を経て大島に至り(山野開き、水作、畑作、蚕道、麻績、糸取り、綿打ちの神技を授けたり)とある点などからみても奄美には奈良朝以前から養蚕やこれによる絹織物が出来ていたことも容易に窮え、他方染色面でも我が国で行われていた古代染色の技法、梅染め、桃染めの技術が奄美ではテーチ木(車輪梅)染めとして取り入れられ、この頃からかつ色紬が出来るようになりこのかつ色紬が朝廷に献上されたことも東大寺献物帳に記録されております。
 
 また九世紀頃奄美は遣唐使の通路でもあり、これを介して奄美人が支那大陸や日本本土との交流は勿論、朝廷への出向も頻繁に行われていた事実からして、その頃紬が貢物として献上されたとの説もあり、これから推察しても奄美大島紬の起源は1300年以前から出来ていたものと言えます。



大島紬の経緯


 奄美では古くから養蚕が行われており、これから手つむぎ糸を取って織物が創められたとの説がありその染色は、西暦661年・天智天皇の頃行われていた古代染色の技法に習い奄美に生殖するチン木、フク木、ヒル木等を染色原料としたかつ色紬が創り始められ、その後西暦1266年〜1609年(343年間)琉球王朝の支配下におかれ、さらに1609年〜1871年に至る(262年間)島津藩政下におかれるなど幾多の返還を経て今日に至っている。

 奄美は西暦808年頃からは遣唐使の通路として大陸との交流が頻繁に行われ、琉球久米島の人が1521年に唐に渡るなどこれらの往来によって大陸文化、特に織物、製糸、紡績などの技術が導入され、逐次織物などの発展を見るにいたり、琉球王朝の統治の頃からは沖縄を(沖縄八重山群島をさす)「南方」と称しこの地方には久米島紬が起り、奄美「北方」地方には大島紬が起り、江戸時代にいたるや大島紬は著しく普及され島民の衣料とされていた。

 亭保5年(1720年)今から255年ほど前将軍徳川吉宗の時代島津藩主島津吉貴から紬着用禁止令が出され島民の着用が禁止され、薩摩藩への貢物か上納用としてのみつくられるようになり1871年「明治4年」廃藩置県にいたる150年の間島民は島津藩政の苛酷な圧制の下にしん吟してきたのであるがその後大島紬は島民の衣料として技術及び製品面も徐々に開発され、明治20年には従来の地機(イザリ機)から高機への改良が行われ、さらに明治34年には大島紬同業組合が設立され品質の向上と販路の拡張や信用保持に努め、さらに明治40年には従来のカスリの手括り作業が締機の開発によって完成し
カスリ技術の飛躍的な改善が行われ、器材の改良と技術の向上が急速に図られ大島紬も一段と高級化され市場価格も認められるようになった。

 大正初期には従来の泥染大島紬(かつ色紬)に植物藍染を併用した泥藍大島紬が生産されるようになり、さらに昭和34年頃には化学染料のみによる新しい色彩感覚をとり入れ近代的なセンスを打出した色大島紬の出現を見るなど大島紬の多様化と併せて品質面も向上し順調な伸びを見て今日に及んでいる。

大島紬の歴史 (紬会館見学案内書より)

☆ 東大寺献物帳
大島紬の歴史は古く、その起源は約1300年以前にさかのぼり、わが国染色織物の最も古い伝統を持っているといわれてます。
大島紬が始めて歴史の表舞台に登場したのは、734年聖武天皇の時代に奈良東大寺や正倉院の献物帳で「南島から褐色紬が献上された」との記録が始まりです。
おそらく遣唐使を通じてみつぎ物として献上されたのでしょう。

☆ 褐色紬(テーチ木染め)一般庶民も愛用していた。
そもそも天皇に献上された褐色紬とはどのようなものだったのでしょう。
中国から染色の技術が奄美にも伝えられ、奄美に生息するテーチ木などの草木を用いて染色されたものであり、後のテーチ木泥染めの源流をなすものと推測されます。
この褐色紬の技術はとてもたかいものだったようで、朝廷への貢物としてはもちろんのこと奄美に住む一般の庶民までが愛用していたようです。

☆ 養蚕がされていた
では、なぜこの南国奄美で紬が作られるようになったか皆さんも疑問に思ったことはあると思いますが、その一番の要因はこの奄美大島の大自然の中に蚕が生息していたことです。
奄美における養蚕の歴史は古く奈良時代から行われていたそうです。
紬を織る技術は中国から伝わり、原料となる蚕そして紬を織る技術、この二つが合わさったことで、この奄美大島に紬という文化財的貴重な織物が生まれたのです。

☆ 薩摩藩による奄美支配
江戸時代に入り、奄美大島は急変します。
慶長14年(1609年)薩摩藩は奄美・琉球を攻略し、奄美諸島を琉球から分離して薩摩藩に直接支配させました。
奄美の島民は薩摩藩の黒糖政策により苛酷な大島紬の生産と上納を強いられ、それが明治初期まで続き島民は悲惨な生活を送りました。

☆ 紬着用禁止令
享保5年(1720年)薩摩藩がまたしても理不尽な命令を出しました。
それは奄美大島・喜界島・沖永良部島・徳之島の四島に対して役人の者には紬を着る事を許すが、それ以外のものには紬を着る事を禁止するという紬着用禁止令を出したのです。
これにより島民は、自分達で作っている紬を着ることができなくなりました。

☆泥染め伝説
紬着用禁止令により、島民は紬が着られなくなりました。
しかし、島民の中にも隠れて紬を持つものが現れました。
役人に見つかれば、牢獄につながれヘタすれば死刑になるかもしれません。
そこで島民は「家の中に隠すと見つかってしまうから田んぼに隠しておこう。お役人様も田んぼに隠してあるとは思わないだろう」と考え、田んぼに隠すことにしました。
そして次の日、田んぼから紬を取り出してみると不思議なことに今まで褐色だった紬が何と艶やかな黒になっているではありませんか。
これが奄美大島で有名な泥染めの始まりと言われています。
なぜ黒くなるのか?それはテーチ木で染めた織物は鉄分を豊富に含んでいる泥と、テーチ木のタンニン酸が化学反応を起こし黒くなるからです。
まさに奇跡的な発見です。
それ以来、奄美大島の紬は艶やかな黒を基調としたものに変わっていきました。

○大島紬泥んこ物語
◆泥んこはおもしろい?
 奄美の泥は古代地層なので、粒子が丸く細やかです。だから、紬の糸を傷つけずにやさしく染めあげることができます。まるで、泥のおしろいのようですね。
◆いい泥田がいい泥染めをつくる
 蘇鉄が自生している土質は泥染めに向いています。鉄をよみがえらすと書く”蘇鉄”。泥 田の鉄分が枯れると蘇鉄の葉を刻んで泥田に埋めます。蘇鉄の葉に含まれた鉄分が泥 田に溶け、再び泥染めができるようになるのです。
◆流星が落ちて鉄分を含んだ大地に変えた
 奄美大島の大地が鉄分を多く含んでいるのは、その昔流星が落ちたからとも言われてい ます。島の土が星の力を引き込んだ?そんな星のロマンを一杯秘めた大島紬なのです。


☆江戸では井原西鶴により大島紬江戸大流行
元禄元年(1688年)当時、ファッションリーダー的存在であった井原西鶴は、大島紬の素晴らしさを褒め称え好んで着ていたようです。
これにより江戸中で大島紬が有名になり全国に広がりを見せました。
当時は紬の中でも、泥染めの渋い大島紬がもてはやされていたようです。

☆明治に入り大島紬黄金時代
明治時代になり、明治10年(1877年)西南の役以後、大島紬は鹿児島を始め大阪などの市場に持ち出され、奄美の人々により初めて商品としての取引が開始されました。
それから20年間「大島紬第一期黄金時代」と言われる活況が到来し、群島の経済界を支配するようになりました。

☆偽者大流行・組合結成
第一期黄金時代を迎え、需要が増えるにつれて生産業者も増え粗悪品を乱造する業者が現れました。
また名古屋などの他産地からは模造品も出たため、日本中に大島紬の偽者が出回りました。
そこで、これを憂えた業者有志が厳重に製造方法を監視し、偽者を排除するため明示34年に大島紬同業者組合を設立しました。
これにより模造品などは現象していきました。

☆戦後アメリカに占領され紬販売禁止
第二時世界大戦に入り、「贅沢は的だ!」を合言葉に、大島紬は贅沢品と受け取られ生産中止となり、壊滅的なダメージを受けます。
終戦を迎えた後も奄美大島群島全域は、アメリカに9年余りの間支配され、大島紬は自由な販売が出来なくなり、このままでは「大島紬の火は途絶えてしまう」というところまで落ち込んでしまいました。

☆鹿児島産大島紬
9年余りの間アメリカの支配下にあり、紬の販売経路を失った奄美大島在住の大島紬の生産者は「大島紬の火をたやしたくない」と鹿児島に渡り、独自に鹿児島の地で「大島紬」の生産をはじめます。
これが現在の鹿児島産大島紬の始まりです。

☆昭和47年大島紬最大生産反数
昭和40年代から需要も大幅に伸び奄美群島の基幹産業としての地位を築きました。
この頃、紬に携わった人々は景気がよく、奄美に住む若い女性の多くが紬の織り子さんを希望したといいます。
昭和47年には大島紬最大生産反数を記録し奄美全体が大島紬で活気づいていたようです。

☆終わりに
奄美大島は、薩摩支配時代に古い記録が藩の命令で集められ消去されてしまったので確たる記録はありませんが、沖縄や鹿児島の記録などから奄美の絹織物の起源は1300年以前の神代ころであると言われてきました。
ところが近年、発掘調査された笠利町の遺跡の出土品の中から、弥生時代前期に属する紡績車が発見されたことにより、少なくとも2000年前には、この奄美大島で何らかの織物ができたと考えられ始められました。
このように、いにしえからの伝統を持ち奄美の生命産業とまで呼ばれている大島紬の更なる発展を私達は心から願っています。

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