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ラブリィ創価学会コミュの「開眼」に関する日犬臭のウソを破折する

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 日犬臭の輩は、学会員が何も知らないだろうと思ってか、御本尊は「アホッス(法主)の開眼」が無いと効力が無い、などと完全に邪宗のようなことを口走り続けています。簡単に言えば、
「大聖人の教えは、芸者遊びが大好きなトン魔がいないと効き目も功徳も生まれない」
という、ヘソが茶を沸かしそうな、大聖人の教えを「未究竟」におとしめる主張なのです。
 しかし、それが如何に大聖人の教えとは違う邪教であるかを御書に基づいて破折しましょう。


◎御書に示された「開眼供養」とは、御本尊の開眼などについて言っているのではありません。絵や彫刻の釈迦像を法華経の経文を安置することが開眼だと言っているのです。

 日犬臭のウソは、切り文(文章の一部を切り取って、歪曲し、白を黒と言う手口)ばかりなので、まず正確に開眼供養について示された御書を示します。

 御書には「開眼供養」について、次の三箇所で示されています。

(1)本尊問答抄

「何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とするや、答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす 其の義あるべし、問う其の義如何 仏と経といづれか勝れたるや、答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、(中略)釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり 釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり 故に今能生を以て本尊とするなり(中略)仏は所生・法華経は能生・仏は身なり法華経は神(たましい)なり、然れば則ち木像画像の開眼供養は唯法華経にかぎるべし而るに今木画の二像をまうけて大日仏眼の印と真言とを以て開眼供養をなすはもと(最)も逆なり。」(本尊問答抄 P.366)

(通解:どうして天台宗だけが法華経を本尊とするのですか。その答えは、真言宗、浄土宗、禅宗などは、仏を本尊とするのですが、天台宗は経を本尊とするのです。その義があるのです。問う、その義とは何ですか。仏と経とはどちらが勝れているのですか。その答えは、本尊とは勝れているものを用いるのです。(中略)釈尊と天台とは法華経を本尊と定めています。末代の今、私(日蓮)も仏や天台のように法華経を本尊とするのです。その理由は、法華経は釈尊の父母であり、諸仏の眼目なのです。釈迦や大日如来や、広く十方の諸仏は、法華経から出生されたのです。だから今、能生(仏を生みだす根源)を本尊とするのです。(中略)仏は所生であり、法華経は能生です。仏は身であり、法華経は精神です。であるならば、木像や画像の開眼供養は、ただ法華経だけに限るのです。ところが今、木像・画像の二種類の像を設置して、大日如来の化身とされた仏眼尊の印と真言によって開眼供養をすることなどは、正しい教えとは全く真逆のやり方なのです。)

(2)木絵二像開眼之事

「仏に三十二相有(いま)す 皆色法なり、(中略)三十一相は可見有対色なれば書きつべし作りつべし 梵音声の一相は不可見無対色なれば書く可からず作る可からず、仏滅後は木絵の二像あり是れ三十一相にして梵音声かけたり故に仏に非ず又心法かけたり、生身の仏と木画の二像を対するに天地雲泥なり(中略)木画の二像の仏の前に経を置けば三十二相具足するなり(中略)されば法華経をよませ給はむ人は文字と思食事なかれすなわち仏の御意なり(中略)法華経を心法とさだめて三十一相の木絵の像に印すれば木絵の二像の全体生身の仏なり、草木成仏といへるは是なり(中略)木絵二像を真言師を以て之を供養すれば実仏にも非ず魔なり鬼なり(中略)法華を心得たる人・木絵二像を開眼供養せざれば家に主のなきに盗人が入り 人の死するに其の身に鬼神入るが如し」(木絵二像開眼之事 P.468,9)

(通解:仏に三十二相が有ります。すべて色法です。(中略)そのうち三十一相は可見有対色なので書けるし作ることができます。梵音声の一相だけは不可見無対色なので書くことができないし作ることもできません。仏の滅後には、仏を木や絵に表した二種類の像があります。これらは三十一相であって、梵音声が欠けています。したがって仏ではありません。また仏の心法が欠けています。生身の仏と木像や画像の二種類の像を比較すると天地雲泥です。(中略)木像・絵像の二種類の仏の像の前に、経文を置けば三十二相が具足するのです。(中略)だから法華経を読まれる人は法華経を文字と思ってはなりません。法華経とはそのまま仏の心なのです。(中略)法華経を心法と定めて、三十一相の木像・絵像に安置すれば、木像・絵像の二種類の像はその全体が生身の仏なのです。草木成仏という法門はこのことなのです。(中略)木像・絵像の二種類の像を、真言師によって供養するならば、実際の仏でもありません。魔であり鬼なのです。(中略)法華経を心得た人(法華経の行者)が、木像・絵像の二種類の像を法華経によって開眼供養しなければ、家の主がいないところに泥棒が入り、人が死んだ時にその身に鬼神が入るようなものです。)

(3)四条金吾釈迦仏供養事

「秘之不伝とかかれて候は法華経の寿量品より外の一切経には教主釈尊秘めて説き給はずとなり。されば画像・木像の仏の開眼供養は法華経・天台宗に限るべし、(中略)国土世間と申すは草木世間なり、草木世間と申すは五色の絵の具は草木なり画像これより起る、木と申すは木像是より出来す、此の画木に魂魄と申す神を入るる事は法華経の力なり 天台大師のさとりなり、此の法門は衆生にて申せば即身成仏といはれ画木にて申せば草木成仏と申すなり」(四条金吾釈迦仏供養事 P.1145)

(通解:これを秘して伝えない、と書かれているのは、法華経の寿量品以外の一切経には、教主釈尊は秘密にされて説いていないということなのです。だからこそ、画像や木像の仏を開眼供養するのは法華経・天台宗に限るのです。(中略)国土世間と言うのは草木世間のことです。草木世間と言うのは、五色の絵の具は草木であり、画像はこれらの絵の具によって描かれるのです。木と言うものから木像が出来あがります。この絵像や画像に魂魄と呼ぶ魂を込めることが出来るのは、法華経の力なのです。これが天台大師のさとりなのです。この法門は、衆生について言えば即身成仏と言いますし、画像や木像について言うならば草木成仏と呼ぶのです。)


 まず、これらの御書で言われている「開眼供養」とは、「木絵の二像(木や絵で表された二種類の釈迦の像)」について言われているのであり、御本尊のことを言われているのではありません。

 「木絵(画)の二像」とは、木像と絵像(画像)のことで、これらは仏の三十二相のうちの「梵音声」が欠けているために三十一相しか無く、法華経の経文を木像・絵像の前(あるいは木像の中)に安置することで、三十二相を整足させるという化儀なのです。

 大聖人は、この開眼のための経を真言にするのは間違いである、という破折をされているのであって、法華経を安置し、あるいは読誦することが開眼になるのだということが御書で示された正義なのです。

 ところが、御本尊にはすでに主題の「南無妙法蓮華経」が認(したた)められていることから、三十二相がすでに備わっており、今さら木絵の二像のような法華経の安置による開眼などは不要なのです。ましてや、天魔のアホッスが何やら特別なウンコをなすり付けるような儀式をやられたら、大聖人と直結するための観心の本尊なのに、ハッキリ言って気分が悪いのではないでしょうか?何人もの元法華講員あるいは日犬本尊を安置していた学会員の体験ですが、命の底から人間を馬鹿にする権威主義の命(第六天の魔王の働き)が湧いて来たそうです。だから、日犬本尊の謗法払いを進めているのです。


コメント(40)

堀上人が、例えば大聖人の真筆御本尊(130体ほど現存)を写真に撮らないように勧めたのは、ありがたさに「御本尊の義を成ずる」ことを避けるためだと指導された資料を読んだことがあります。

観心の本尊とは、こちらの信心によって御本尊の義を成ずることで妙の四力は生まれますが、「和合僧の集団の総意」によって、中心とする御本尊を定めることで、御遺命の「一閻浮提広宣流布」が現実のものとなるのです。

なんでも御本尊になる、というような浅い法則ではなく、「四弘誓願」のうちの「衆生無辺誓願度」を成就しなければ、成仏はいたずらごとになる、と御書にあるとおり、個人の成仏さえも、世界広布を目指す実践の中にしか無い、というのが生命の法則なのです。

自分の成仏ばかり願うのは、「法華経の行者=大聖人門下」ではなく「法華経の信者=エゴイスト」なのです。

>>[3]

世界広布の基盤を構築した師匠が、我々が出来なかったことをほとんど全て実現してしまっていますが、師弟不二の法に基づくならば、我々一人一人が捨て身の覚悟で世界広布に挑戦した時にのみ、私たちの成仏も、師匠の偉大さの証明も、同時に証明されるのです!

誰かが決めてしまっている、という考え方は、五重の相対のバージョン1の「外道」でこけてしまうのです!

また、自己の成仏しか考えないのは、大小相対の小乗教で、成仏は思いもよらないのです。

五重の相対と言う物差しで、自分自身の生きる姿勢をチェックしながら前進しましょう!

五重の相対の詳しい解説は、また別の日記でアップしますね?
その後、多忙なためにほったらかしでごめんなさい。

五重の相対について、以下のような論文をヨーロッパの婦人部が作成していますので、ご参照ください。


「五重の相対の現代的な理解のために」

 本文書では、五重の相対を単純な思想・宗教の高低浅深(教えの深さ、言い換えれば救える範囲)について比較したものではなく、自分自身の人生観の自己点検の物差しとして考えてみたいと思います。
 この物差しとは、人間の生き方のバロメーターのようなもので、どんな思想・宗教を信じている場合にでも適用可能な人生の尺度ということが出来ます。
 誰人にも生命の尊厳が内在すると説く日蓮大聖人の仏法は、思想、宗教の枠を超えて普遍的なものであると同時に、日蓮大聖人の仏法を信じている方々に対しても平等に、限りない向上を求める哲学であることが理解できます。
 池田先生の世界的な対話の展開を学べば学ぶほど、私達はもう一度、この五重の相対の意義をもう一歩深く解釈する必要がある時を迎えたのではないでしょうか。
 これは、師匠池田先生の対談相手の方々が、五重の相対では「外道」という枠組みに分類される宗教を持たれている場合でも、私達以上に、深き内面の思索(内道)をされ、利他の菩薩のごとき慈悲を持ち(大乗教)、差別なく(実教)民衆のために尽くしておられることを鑑みれば明らかです。

 先生は、法華経の智慧第三巻で次のように語っています。
「仏法は人間そのものを見る。その人の「心」「生命」を見るのが仏法です。仏眼、法眼で見れば、仏教徒ではなくとも、菩薩界の人がいる。反対に、仏教徒でも外道の人がいる。見かけは信心しているようでも、心は餓鬼界の人もいる。「何教徒か」を見るのではない、その人の生命が「何界か」を見るのが仏法なのです。そして、全ての人の中の仏界を開くための仏法です。世間は「差別(差異)」の世界である。仏法は「出世間」です。出世間とはあらゆる表面の差異を超えて、人間の「いのち」を見るということです。」
 そこで、自らの一宗一派が正しいことを証明するための日蓮正宗的な外道の我田引水教学から一歩離れて、この五重の相対の現代的意義について論じたいと思います。

1.内外相対
 これまで内外相対というと、単純に「仏教とそれ以外の教え」ということとされていました。しかし、こう決め付けてしまうのは、上記のような理由からも、我田引水ではないでしょうか。
 本来の仏法の説く内道とは、すべての幸不幸の原因を自身の内面に見出す考え方のことであって、その逆に、幸不幸の原因を自分自身の生命の外に求め、環境が幸不幸を決めるという考え方のことを外道と呼ぶのです。
 この判断基準に照らすならば、SGI・創価学会に所属し、たとえ仏法を形ばかり実践していたとしても、自分自身の生命の中に幸不幸の原因があるということを信じていないならば、外道的な生き方だと言えます。

 また、世間の立場や組織の役職等にこだわって、人間を馬鹿にしたり差別するような行動をとる方のことも「外道の人」と呼べるのかも知れません。まさにそのとおりの内容が日蓮大聖人の御書に示されているのです。

「雖学仏教還同外見(すいがくぶっきょう・げんどうげけん=仏教を学んでいても、かえって外道の考え方と同じ人がいる。)」

 どんなに長い間信心をしていても、いつもいつも「誰かの」「何かの」せいにして、愚痴の題目をあげ、人間革命ができない人もいます。SGI・学会のメンバーだから内道とは限らず、メンバーでない人は「外道」だと決め付けることはできないのです。
 逆に、「神的なもの(生命の尊厳)は、外ではなくて、自身の内面に存在する」と主張するキリスト教徒の友人もいます。実際、先生と対話されている世界の人間リーダーたちも、内面を見つめ、内面の変革を行おうと切磋琢磨されている素晴らしい方ばかりです。
 つまり、SGI・学会のメンバーであるから、ご本尊様を受持したから、幹部だから、自動的に「内道」になれる訳ではなく、あくまでも一人ひとりの内面の価値観と、それが生み出す行動が決め手であるということなのです。
 このように、五重の相対は、どこまでも自分自身の信心や境涯をチェックし、向上していくための物差しであり、バロメーターなのです。「キリスト教徒は外道、仏教徒は内道」という○×式の割り切りは、逆に池田先生の嫌いな「教条主義」と呼び、仏法と対極にある考え方ではないでしょうか。
 内道とは、「自己の内面の変革によって、環境変革・社会変革のエネルギーを生み出す実践」です。つまり、いたずらに環境を変えようとする(またはコントロールする)のではなく、自身の内面の無明(弱気、諦め、傲慢、不知恩などのマイナスの精神作用)の征服によって環境(自分自身の身体から始まり、人間関係を変え、遂には社会環境まで)を変革できるという、強い主体性を基盤とする自立した生き方なのです。
 一方、外道は、「外界や環境が幸不幸の原因と捉え、環境を征服することを第一義とする実践」です。信心していても「あの人が、ああしたから、私はこんなに不幸なのだ。」「社会がこんなだから私は不幸なのだ」という一念で祈っていてもなかなか状況が変わらず宿命転換できないのは、実は奥底の一念が「外道」になってしまっているからなのではないでしょうか。

2.大小相対
 大乗教と小乗教の違いというのが表面上の意義ですが、その本来の意味から考えると、大乗教とは、「他人の幸福を優先し、民衆への貢献を第一義にする実践」であり、「利他」の境涯です。
 一方で小乗教とは、「自分と自分の周りだけの幸福を追求する生き方」であり、自己中心のエゴイズムの価値観です。
 他者の幸福という目標は、自分自身の成長と他者の幸福とが相互に循環して、次々に生命の広がりが生まれ、人類全体を最高の高みに到達させるまで、限りない成長を双方に生み出します。その成長の瞬間のたびに得られる巨大な幸福感は、菩薩に「この命を懸けてでも一切衆生を成仏させたい」という高貴な誓い(衆生無辺誓願度)を自発的に決意させるのです。その結果、菩薩は「死の恐怖」からも解き放たれるのです。御書に、

「仏界とは、菩薩の位において四弘誓願をおこすを以て戒となす」(通解:仏界とは、利他の精神で一切衆生の救済を誓う実践をし続けることで開かれる境涯である。)

とあるように、利他の精神で「四弘誓願」を、とりわけその第一である「衆生無辺誓願度」を誓うことが、人間の成長と幸福を決定づける最高の実践なのです。

 一方で自己中心の欲望は、必ず限界にぶつかるという分かり易い事例として、食欲を考えてみましょう。お腹が空いていれば、食べ物は美味しいものですが、どんな豪華な料理でも、食べて食べてお腹が痛くなってもまだ食べさせられると嫌になり、それでも無理して食べると体を壊して病気になりますし、それでも無理に口の中に突っ込まれると最後は死んでしまいます。要するに、自己中心の快楽を追求すると、必ず苦痛という壁にぶつかり、それでも快楽を追求すると最後には死というハードルにぶつかることに気がつくのです。快楽を追求したら、苦しみの究極である死にぶつかる、という矛盾は、人間の快楽への執着を吹き消すだけの衝撃です。釈迦が、エゴイストは絶対に成仏できない、と示したのは、自己中心の人間は「死の恐怖」という苦痛を回避することが出来ないからなのでしょう。
 また、自己中心の人間は、当然ですが皆から嫌われ、晩年になるほど一人ぼっちになっていって、最後は孤独地獄の中で死ぬという哀れな人生が待っているのです。
 「自分が幸せになれたら、他の人のことも考えよう」とか「自分がこんなに不幸なのに、他の人にまで手が廻らない」というような気持ちが、生命力が弱まった時に出て来ることはありませんか?実はそれはすでに小乗教的発想なのです。
 また、「こんなに活動を頑張っているのだから、きっと功徳があるに違いない」と、心のどこかに「取り引き」のような考えが少しでも残っていないでしょうか。これは、他人の幸福を自分自身の幸福の道具にする自己中心的な発想です。
 そして、「皆の幸せ」「私の幸せ」どちらをどの位の割りで祈ればいいのか、という質問がある時もあります。これも計算です。
 目の前に死の病で苦しむ人がいたら、目の前で溺れている人がいたら、その人のための祈りが自分の功徳になるとか、何分はその人のために祈ろうとか、計算する余裕があるはずはありません。心の奥底から、「今この人を救わずにおくものか!」という炎のような慈悲が湧いてくるに違いありません。
 そのような慈悲の炎を心の中で燃やし続け、草創の方たちの戦いのように、「我が身を厭わず人々の幸福のために走りぬく」という姿こそ、大乗教の心であり、池田先生が私たちに示してくださった崇高な生き方なのではないでしょうか。

>>[4]

「個人的見解」長々とお疲れ様です。
創価学会員なら、もう少し聖教新聞に書かれている事を中心に発言して欲しい物ですね。

また、もくれんさんに叱られちゃいますよ。

>>[3] 双六さんの質問

> 「和合僧の集団(創価学会)の総意」によるならば、
> やはり、「総意」として就任したと思われます会長さんや、
> 会則によるところの「永遠の指導者」でしたっけ?
> 名誉会長さんなら申し分ないと思ってしまいますが?

> 自分の勝手な心配なんて要らなくてもう既に準備されている可能性はありますか?

に対する創価学会の今後の可能性はもっと単純な物ですよ。
「そんな可能性は一切ありません。」です。

何故ならば
創価学会の教義自体は宗門に破門される前もされた後もなんら変わっておりません。
また、更に言えば、現在のこの教義を固定化させるための三代を永遠の指導者と定めたわけでもあります。

ですから、本尊、大御本尊に関しては、かつて戸田城聖第二代会長が仰ったとおりのままです。
「ただ大御本尊だけは我々は作るわけにはいかない。日蓮大聖人様のお悟り、唯授一人代々の法主猊下以外にはどうしようもない。」
(大白蓮華昭和三十四年七月号)

創価学会にとっては、「永遠の指導者」の一人である戸田城聖氏の発言に弓を引くことも
撤回する事もありませんから、動かせる解釈は極微量なものであり、これを遵守し
創価学会では、大石寺唯授一人代々の法主猊下の一人である
日寛法主猊下の書写を採用しているってだけの話ですね。

創価三代が永遠の指導者と銘打っている限り
創価学会が大石寺唯授一人代々の法主猊下以外の書写を本尊として採用する事は
有り得ませんと言うところですかね。


ま、聖教新聞に書かれている事だけで組み立てていけば
そう言うことになりますね。
>>[8]

ほとんど本尊の化儀をご存知ない書き込みなので、戸田先生の指導も曲解しているし、意図的な騙しではないということを前提に、事実を正確に示しておきます。

日蓮正宗が過去に発行して来た本尊には、以下のとおりいろんな種類があります。


(1)正式とされている「観心の本尊」

大聖人が顕わされた「観心の本尊」とは、我ら凡夫が余念の無い唱題行で胸中の仏界を成くための対境であり、それらには以下の種類があります。

〇戒壇の大御本尊
大聖人様の出世の本懐、とされていたが、実は大聖人滅後100年以上経ってから日禅授与本尊を模写(籠抜きと呼ぶ)して彫刻したものと判明。

〇一機一縁の御本尊
(戒壇の大御本尊以外の)大聖人が自らしたためられた御本尊。全国で100数十体が現存しているが、そのほとんどは邪宗日蓮宗等が所有。大石寺系には10数体。

〇書写本尊(常住本尊と呼ぶ)
歴代法主が大聖人、日興上人等の御本尊を紙に墨で書写した本尊。百貫坊の根檀家の井出家は16体もの歴代書写本尊を持っていたという記録がある。

〇彫刻本尊(摸刻本尊などの呼称も)
紙幅の本尊を和紙等で縁取りする(籠抜き)等の手法を用いて、仏師が板に彫刻したもの。


(2)仮本尊と堀上人が呼称した「観心の本尊」

堀上人が有師化儀抄註解で「仮本尊」と呼んだ「観心の本尊」も、成仏の実践のための対境であり、成仏は衆生無辺誓願度の実践で確定します。

〇形木本尊
写真製版等による印刷の本尊。学会員が草創期以来受持した本尊はほとんどが形木。
特別御形木本尊も印刷本尊。古来より末寺で行っており、9世日有上人が日蓮正宗の正依である「化儀抄」ですでに允可済み。末寺で勝手に印刷していたことは歴史上の事実。昭和50年代になって大石寺で一括して印刷発注を開始。

〇末寺住職による常住本尊
末寺住職が書写する判形(花押)を書かない常住本尊。日有上人が化儀抄で允可済み。

〇守り本尊
懐中に携帯するお守り本尊。末寺での発行を日有上人が化儀抄で允可済み。


(3)本尊もどき(ニセ本尊=唱題するためではなく、邪宗のお守りの類)

「観心の本尊」ではなく、外道のお守り札と同じ、金もうけの道具。

●未来本尊
葬儀の際に、棺に入れて焼いたり、骨壷に入れておく導師本尊のコピー。学会草創期に牧口先生がやめさせた。五老僧の邪儀。
 
●棟札
新築の家の天井裏の柱に、棟上げ等の時に打ち付ける。火事や洪水に遭わない、というお呪(まじな)いの書かれた板。

●神座(じんざ)
戒名のようなニセ本尊。日有上人は「禅宗の化儀」と指摘。

●免許袈裟
僧侶が教師の免許をもらう時に法主から贈られる袈裟で、背中の裏地に本尊を書き
込んでいる。経帷子(きょうかたびら)と呼ぶ邪宗日蓮宗の化儀。


以上のように、御本尊と一口に言っても多様な化儀がある訳ですが、戸田先生が「ただ大御本尊だけは我々は作るわけにはいかない。」言われたのは、「常住本尊」のことであって、形木本尊のことは含んでいないのです。

ところで、学会が自分たちで「書写」した本尊がどこかに存在するのですか?

まったくそんなものは必要も無いのです!
形木本尊に勤行唱題をして竜女の誓願・衆生無辺誓願度を実践することで、舎利弗でも出来なかった即身成仏が、竜女のように可能なのです。




>>[9]

挙げられている情報の出所は何を根拠としているのでしょう?

> 〇戒壇の大御本尊
> 大聖人様の出世の本懐、とされていたが、実は大聖人滅後100年以上経ってから日禅授与本尊を模写(籠抜きと呼ぶ)して彫刻したものと判明。

特にこの様な情報は、聖教新聞及び聖教新聞社刊の書籍には一度も掲載されたことがありません。
通常の創価学会員さんは"聖教新聞以外の情報は、嘘、偽り、デマ、捏造が極めて多いと言う指導下"にあります。
ですから、聖教新聞以外の情報は、聖教新聞に掲載されるまで、それらは採用されない事が通例です。

ちなみに聖教新聞及び聖教新聞社刊にて
こう言ったことが発表された事実と言うものがありますでしょうか?

もちろん、世間では大石寺板本尊は日禅授与本尊を模写された可能性は極めて高い物であると言う記事は
幾度も拝見させていただいており、その信憑性は考慮に値すると言う事も存じてはおりますが
そこまでの根底を覆すべきビックスクープを聖教新聞紙面上では見たことはないと言っているわけですね。

s-tanakaさんは、一体全体何を根拠に
「日禅授与本尊を模写(籠抜きと呼ぶ)して彫刻したものと判明。」と言う
確定事項を書かれているのかをお伺いしているわけです。
>>[8]

{9}に書いた内容は、事実を列記し、法華経と御書に基づいて書いているだけで、「個人的見解」なんぞではありませんので念のために釘を刺しておきますね?

逆に、君の主張こそ「自分宗、信者は自分一人だけ」という絶対に成仏不可能な生きざまであるということを断言しておきます。

ちなみに学会は、世界広布を使命として出現し、大聖人の教えを学びながら折伏を進めて来た結果、「一閻浮提広令流布」という仏語を人類で初めて実語としたという事実に基づいて、法華経の行者の集いであることは絶対的な事実です!

君のような鵲の分際で、学会の挑戦に対して誹謗中傷することは、罪を無間に開く地獄の所業ですので、くれぐれも警告しておきますね!命終の時に大聖人様から厳しい叱責をされぬように。


>>[11]

あらっ。
僕の見解は法華経と日蓮の書に基づいてのあくまでの「個人的見解」ですよ。
それが何か?
僕は別に組織を代表し、代弁しているわけではありませんからね。

また、僕自身の見解が全て僕個人の見解が故、
誰の名前を借りる事なく
掛る質疑を僕個人の責任の上にて一つずつ返答を述べているわけです。

それに対して、s-tanakaさんの場合、創価と言う組織の名を語り
自身の見解をあたかも、創価と言う組織の見解として、また池田さんの見解として述べられております。

創価の見解として述べられる場合は、あくまでも創価の公式を元に
池田さんの見解として述べられる場合は、あくまでも池田さんの発言を元に語るべきだと思います。

そう言う意味では、もくれんさんの発言は、あくまでも創価公式発表を元にされていますので
創価の見解を述べる姿勢としては極めて正しく
s-tanakaさんの発言は、極めて創価の見解としては根拠が乏しく
且つ創価のは全く持って違う「個人的見解」が多く見られているといっているわけです。

日蓮の見解を求める際には確かなる日蓮の書を根拠に
創価と言う組織の見解を求める際には、確かなる創価と言う組織より発表された物を根拠に
何が真実か否かを語る以前に
それぞれの見解を述べる上で、これらは大前提の話ではないですか。

s-tanakaさんが創価としての名を捨てて(別に創価学会から脱会しろと言ってるわけではありません。)
あくまでもs-tanaka個人としての見解を述べられると言うのであれば
それは自身の持つ「個人的見解」であると明確にした上で述べろと言っているわけです。
s-tanakaさん自身が創価学会の会長であり
公式教義を司る立場の人であると言うのであれば、それは別段構いませんが。

あなたと同じく創価学会に籍を置く、もくれんさんから
再三指摘され叱られている意味がまだ全然お解かりにならないのでしょうか?
>>[11]

私も堅皇氏と同様の感想を抱きますねぇ。

>君のような鵲の分際で、学会の挑戦に対して誹謗中傷することは、罪を無間に開く地獄の所業ですので…

って、まるで創価学会を代表して人を軽賎してますけど、S田中さんって創価学会の何なんですか? 今後の教義を決定していける立場とか? 

まるで歴史的事実であるかのごとく、「日禅授与本尊を模写(籠抜きと呼ぶ)して彫刻したものと判明。」って、犀角独歩さんのお弟子さんとかなんですか?
>>[13]

私は、創価学会の偉大な使命を経文に基づいて確信したので、その確信に基づいて、創価学会に縁して妙法を教えていただきながら、不知恩にも創価学会の誹謗をするような者に対して、宇宙の大慈悲を体験させてあげる決意をして、こうして邪義を破折し続けている者です。

>>[14]

S田中さん。それはそのまま創価学会を日蓮正宗に置き換えると、あなた方となりますよ。

 日蓮正宗に縁して妙法を教えていただきながら、不知恩にも日蓮正宗の誹謗をするような者…

歴史的経緯・事実からして、こちらのほうが真実でしょう?誰が見ても。

違うというなら明確な根拠がないと…。 あなたの主張は到底通りませんよ。
>>[15]

学会をカットしたのは日蓮正宗なんじゃないの?

知らないのかな?学会の責任役員の半分を渡せという要求文書を平成2年7月に学会につきつけようとした事実を?

学会員の財務を丸ごと横取りしようとしたお粗末なC作戦も、宗門の中の僧侶が池田先生に報告したので、連絡会の前夜に「綱紀粛正のお願い」という文書で反撃することになったのだ。

こうした歴史を洗いざらい研鑽してみたらどうかね?勉強不足だよ!


>>[16]

第二次抗争の ”前の歴史” をそれこそもう一度洗いざらい研鑽したらどうですか。

明らかな宗門支配の意図があるでしょう。宗門のほうからカットさせようと創価学会が仕向けた。
第一次抗争での池田さんの無反省。これにより異流儀があふれ出した歴史。
正信会・顕正会と、創価学会問題の流れて起きている。

支配が成らねば別れるしかない。 そういう意図だったでしょう?創価学会は。

狡猾な表向きの話で誤魔化そうとしても無理がありますよ。

日達上人の肉声がYouTubeにアップされてますね。北条さんとのやり取り。あれであなた方の意図は暴露されているでしょう。
>>[017]
通りすがり失礼します。


日達上人のYouTube動画拝見させて頂きました。

世界への布教を見越した場合、日蓮正宗国際センターが、外務省的な海外の情報収集機関であるならば、
日達上人がそれを「宗門支配」と否定する理由がわかりませんでした。


また、北条会長が
宗門の会計検査をやると言って来た際に
「どうぞ皆さんからの御供養ですから、一円単位までお調べください」
と、快く仰る事の出来なかった日達上人の御心労

察するに余りありますな。



>>[18]

日蓮正宗国際センター及び北条文書に関してすでにお調べかと存じますが念のため。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11110483791

時の法主=管長猊下がそう判断した背景には、それまでも創価学会との度重なる協議があってのこと。仏法の眼から見た場合、徒らに宗教ビジネスとして支配を目論む池田大作の魂胆を見抜いたとして何らおかしくないでしょう。

そして何よりそれ(宗門支配の目論見)は、その10年後の第二次抗争において、予測通り惨たらしい形で的中しているわけです。
池田創価学会の腹は、すでにこの第一次抗争時に決定していたことが明らかになったわけで、一層のタチの悪さを露呈したことになるのです。
>>[019]

YouTube見ました。

結論として、阿部、早瀬、池田三氏合同の、日達上人降ろしの工作であったとの解釈で宜しいですか?


お痛わしや、日達上人


そういや写真で見る限りですが、
阿部さんも海外行くの楽しそうでしたもんね。
YouTubeでなくて
Yahoo!知恵袋でした。

<(_ _)>
>>[20]

何ゆえ阿部、早瀬の両氏が日達猊下下ろしを工作せねばならないのですか?

その因果や利害をご説明ください。
>>[022]

阿部さんを取り込んで宗門内に影響力を増そうとした創価学会と、

その創価学会を取り込んで宗門内の権力を握ろうとした阿部さん。

その時は二つの利害が合わさって蜜月関係を築いたんでしょうね。


日蓮正宗国際センターなるものが、日蓮正宗の上にくるセクションとするのが事実なら、
阿部氏、早瀬氏には法主以上のなんらかの権限やメリットが創価学会によって約束されていたと思います。


不思議なのは、これ程の大問題に荷担していた阿部氏が次期法主になったことです。

なにがあったのでしょう?


>>[23]

そうした見方があることは重々承知しておりますが、今の私なら逆に考えますね。

>これ程の大問題に荷担していた阿部氏が次期法主に

なれるわけがない。 したがって、そうした見方は創価学会寄りの邪推でありましょうと。
>>[024]

阿部氏、早瀬氏は日蓮正宗国際センターの件には全く加わっていなかった、

仮に、少しは加わっていたとしても、それは創価学会の口車にうまく嵌められちゃったんですよ、

だから自分達は悪くないです


と言う事ですか?
この問題から10年後、事実として日達猊下の判断と同じことを日顕猊下がなさるわけです。

結果的に当時の日達猊下の洞察を、お見事と思われたことでしょう。

もし仮に、当時の阿部教学部長が軽率にも創価の目論見を見抜けなかったと言うなら、さぞや反省をされたでしょうし、あるいは当時からも、そういう可能性(宗門支配の目論見)すら側近として日達猊下に示唆していたかもしれないですよ?
と言う事は、
考え方の違うお互いが、別れてられて、結果双方共にハッピーなったって訳ですね。

いやぁ、この信心は凄いなぁ

>>[27]

全ては第三者から見た憶測の上での話なんだけど
事の真相はハロさんが仰るように

> 阿部さんを取り込んで宗門内に影響力を増そうとした創価学会と、
>
> その創価学会を取り込んで宗門内の権力を握ろうとした阿部さん。
>
> その時は二つの利害が合わさって蜜月関係を築いたんでしょうね。

そう考える事があまりにリアルだと誰もが見てもそう思えますよね。

加えて言えば、第二次ってのは、池田さんの方から蜜月関係にあった
阿部さんを外しにかかったと言うところかと。

こう言った憶測ってのは、当人たちしかあずかり知らずな話ですから
外野の立場からやいやい言う趣味は無いのだけれども
s-tanakaさん、マイタレイヤさんの話は憶測から来る希望的観測の域の出ない話で
それぞれの立場から見ての願望丸出し。

s-tanakaさんに至っては、憶測を断定的な話に仕立て上げているところが性質が悪い。
憶測を断定的な話にするってのは
もう「揚げ足を取ってください」と言わんばかりの話なんだけどね。
そんなに創価学会の名を語り、大石寺に塩を送りたいのかと思っちゃいます。

こう言った問題は
・その時、その瞬間、誰が一番得をしたか。
・誰が一番苦汁を飲まされたか。
・結果、怨念を抱き続けているのは誰なのか
てな、話ぐらいでしょうね、第三者から窺い知れることって。

全体的な話の流れとすれば
おおかたそんなこったろうとは思ったりしますが
第三者的に「そうである」とも「そうでない」とも断言はし切れませんね。

> と言う事は、
> 考え方の違うお互いが、別れてられて、結果双方共にハッピーなったって訳ですね。
>
> いやぁ、この信心は凄いなぁ

ただ、これに関しては「そうでない」とは言えるかも。
両陣営の怒り具合、怨念の度合いを見る限り
とても双方共にハッピーなったって事は全然思えませんからね。

もっとも、双方の願いと言うものが、怨念を持ち続け、誹謗合戦に終始するという物であれば
互いにその願いが叶いハッピーになったと言う解釈も出来ますけどね。
>>[028]

双方共にハッピーってのは双方への嫌味でした。

拙い文章ですみません。(・∀・∩)

でも、お互いの憎しみ合いを煽ることで、信徒の他宗教への流失を防ぐと言う意味では、
双方持ちつ持たれつのWINWINじゃあないかと。


最終的に日蓮正宗が金銭的にヤバくなったら、創価学会が買い取るんでしょうし。

その時は悪いのは阿部さん一人で、歴代法主から外し(その頃には、もう亡くなっているでしょうが)
その間の法主を
池田さんを名誉法主とする事で、御書の細かい不都合(法は僧によって住すとか云々)
に対処し、尚且、宗教としての威厳も保てる。


というシナリオを想像してみました。

>>[29]

> でも、お互いの憎しみ合いを煽ることで、信徒の他宗教への流失を防ぐと言う意味では、
> 双方持ちつ持たれつのWINWINじゃあないかと。

仰るとおりですね。
そう言う意味では、樋田さんもs-tanakaさんもいい仕事してくれてます。
その見返りってヤクザ映画やギャング映画での鉄砲玉の末路なんですがw

所詮は功名心から来る自業自得だって話なのですが
見ていてあまりにも痛々しいので、ついつい口を挟んでしまいます。

> 最終的に日蓮正宗が金銭的にヤバくなったら、創価学会が買い取るんでしょうし。

どうですかね。
創価学会も固定資産である会館建設は進んでいますが
会員数は伸び悩んでるのが現状ですから
今後の事を考えると、かつての檀那(パトロン)としての役目を担えるかって話もあります。

> 池田さんを名誉法主とする事で、

いや、双方における池田アレルギー、日顕アレルギーは尋常じゃないですよ。
双方が亡くなったからといって、おいそれと和解の道へは向かないでしょうし
池田さんを名誉法主とするなんて未来はあるはずもないとおもいます。
池田名誉法主は大袈裟でしたかね。


しかし法華講員(現在の数はしりませんが)の票は魅力的でしょうね。


実際、末端の学会員さんは、それほど阿部さんを憎いとか、池田さんを崇拝するとかは無いですよ。
なんつうか、近所付き合いの延長みたいな感じで。

それはそれでの価値があると思います。
法華講も多分そんな感じではないかと。

創価学会が欲しいのは建物や寺の坊主じゃなく、票としての信徒さん達なんじゃないですかね?
(まぁ宗門側は露骨に金銭目的で学会信徒を欲しがってましたが)


どうせなら外国人参政権なんかで票を集めるよりも
、そちらの方でうまく仲直りして、票集めしてもらった方が有り難いです。


>>[17]

正信会の坊主の分厚い日記を読んだこともないのかな?

平成2年7月の宗門と学会の連絡会の記録も知らないようだね?

歴史の真実を把握したければ、どちらか片方の記録ではなく、三方、四方の視点から一つ一つの事実を分析していくことで、正確な座標軸が浮き彫りになるんだよ。

ここで書き込まれている単なる憶測や推量などで真実を知ることは絶対に不可能だよ。

カニ(Cancer)は自分の殻に似せて穴を掘るのだ。


>>[31]

> 実際、末端の学会員さんは、それほど阿部さんを憎いとか、池田さんを崇拝するとかは無いですよ。

この辺は流れと地域性と言うものがありましてね。
「阿部さんを憎い」と言うものを振り撒いていたのは第二次の1990年頃から2000年ぐらい。
最近はあまり見受けられませんが、この辺を体感している人たちは日顕アレルギーは強しです。
逆に大石寺からの「池田さんを憎い」を強固にしているのは近年です。

「池田さんを崇拝する」と言う事をタテマエでも顕にし始めたのは
三代を永遠の指導者と定めた辺りからですかね。

そもそもの「池田さんを崇拝する」と言うものは地域差があり
都市部を始めとする来県の多い地域、言ってみれば公明党の候補が立てる選挙区が中心。
身近に接したことのあるなしは、それなりの影響力の違いはありますね。

ただ、2000年の創価は重点的に「池田さんを崇拝する」を全面に出してますから
活動家で「池田さんって言われてもねぇ」と言う事を口にすると
なんとなく疎外される空気ってのが生じています。

でもって大石寺からの「池田さんを憎い」の地域性は
創価上がりの信者の影響も大きいです。
そもそもの根檀家の方たちにしてみれば、池田さんって誰?って話ですが
法華講の信者の割合って、8割9割創価上がりの信者で構成されてますから
全体的に見ると池田アレルギーは、もう半端ないです。

> 創価学会が欲しいのは建物や寺の坊主じゃなく、票としての信徒さん達なんじゃないですかね?

それはおそらくないですね。
票とすれば40万程度、一旦アレルギーを持った人に対し、創価は求めることはありません。
何故求めないかと言えば、アレルギーを取り除く策がないからとも言えますね。
それだったら、無菌状態の人を探し信徒を獲得させる方を選びます。

かたや大石寺はその逆。
狙いは完全に創価の信徒さん達です。
悪い言い方をすれば創価のハイエナ。
大石寺の武器とすれば伝統と秘仏にありますから
これらを武器に創価の信徒さん達を少しでも獲得できればと言う戦術です。

つまるところ創価学会が欲しいのは建物や寺の坊主じゃなく、
伝統と秘仏と言うところです。
>>[32]

あなたの言説も、「ここで書き込まれている単なる憶測や推量」なのですね?

全然判明などしてないものと判明!と書くわけですから^^
>>[32]

> 正信会の坊主の分厚い日記を読んだこともないのかな?

あのさー、別に読むなって話ではなく
正信会の日記であろうが大石寺の日記であろうが日護会の主張であろうが
元公明党委員長矢野さんの手記であろうが
週刊新潮、週刊実話であろうが、読みたければなんでも読むのは宜しい。

> 歴史の真実を把握したければ、どちらか片方の記録ではなく、
> 三方、四方の視点から一つ一つの事実を分析していくことで、
> 正確な座標軸が浮き彫りになるんだよ。

この主張に関しては良く解る。

が、しかしだ。
創価学会の立場とすれば
当然ながら、これらを全て総括した上での公式見解なのではないのかな?

それとも何かい?
s-tanakaさんは、創価の公式見解や聖教新聞で発表されている事は
"どちらか片方の記録"を元にした、創価にとってあまりにも都合の良いことしか載せてない
「最低の機関紙である」と言う事を仰りたいわけですか?

ま、ぶっちゃけた話、世間の人が聖教新聞に対して抱く気持ちはそうなんだけどもね。

されど、創価では、それらの世間の人が聖教新聞に対して抱く気持ちが間違っています。
けしてそう言った話を鵜呑みにしてはいけませんよと指導されております。

その創価学会員であるs-tanakaさんは
何故に創価公式で発表もされてない事を
我こそ創価学会の真の主張だと言わんばかりに熱弁をふるわれるのでしょうか?

少々論点が逸れ気味なので再度マイタレイヤさんの言葉を借りて質問します。

S田中さんって創価学会の何なんですか? 今後の教義を決定していける立場とか? 

まるで歴史的事実であるかのごとく、「日禅授与本尊を模写(籠抜きと呼ぶ)して彫刻したものと判明。」って、犀角独歩さんのお弟子さんとかなんですか?
>>[034]

法華講の構成って、 元学会員が8割9割なんですね、

笑っちゃいました。

知ってる人で大石寺に行ったのは、
大体、お爺ちゃん
お婆ちゃん達が、
葬式に坊さんが居ない事の世間体的な不安と不満からですかね。


後は、幹部クラスで、人事や派閥争いでハブされて居場所を無くした人達とか。
(この人達の怨みは凄そうですね)


今後もさらに増える葬式のアイテムとしても、伝統と秘法は欲しい処ですな


スレ違いですが
今日、
「デビルマン対闇の帝王」買って来ましたよ
>>[37]

> スレ違いですが
> 今日、
> 「デビルマン対闇の帝王」買って来ましたよ

実を言いますと僕は永井豪フリークなんですが
基本、この手の本人が関わっていない名前貸しだけの二次作品はスルー傾向にあります。
もっとも、コミカライズ作家の方にも思い入れがあると
そちらの作家目当てに読んだりもするんですけどね。

これ、日蓮に対しても同じ嗜好で、大石寺歴代だの創価歴代などに
正直言って全然思い入れなんてものはないんですよ。
そりゃ、切っ掛けを作ってくれた部分での感謝ぐらいはありますけどね。

つまるところ現在の大石寺だの創価だのって
日蓮をそっちのけにして、やれ日顕、日如ゲイカ、やれ池田センセーでしょ。
ぶっちゃけそう言うのどうでもいいんです。

でもって双方の現行教義を眺めると
大石寺堀日亨と創価戸田城聖が大石寺の中興の祖と言われる日寛教義をベースに
独自に作り上げた物でしかない。
歴史や伝統と言ったところでけっこう浅いものでしかないよ。
よくよく調べ上げて洗練させた物ってわけでもないし
それを純然たる日蓮の教義って言われてもねぇ。

と言うのも日寛教義は日蓮の真筆と判断される書と比較すると
多数の矛盾点が発見されますし
そもそのも戒壇本尊論は、その日寛の物でしかない。
そんなもの本物であろうが模刻であろうが、知ったこっちゃありませんよって感じ。

やれ大石寺だの創価だのって言われたところで
どっちの肩持つつもりもないし知ったこっちゃないのですが
その攻防ににより日蓮や法華経を腐されるのが気に入らないと言うだけの話ですから。
>>[038]

真マジンガーZERO対暗黒大将軍を読んだ位で永井豪を解った気になるな!!

という事ですね。

確かにオリジナルの描写センスや予想外のストーリー構成
(デビルマンが後のクリエイター達に与え
た影響は数知れず)

現在のリメイク版と比べると全く別物ですね。



日蓮と現在の日蓮系教団みたい?


自分はマジンガーのメカキャラが好きなので、今のマンガも読んだり、今の超合金も買ったりして楽しんでます。
(女性キャラファンの知り合いも多々おります)


マンガも宗教も、
のめり込まない程度に、それぞれの指向に口を出さず、
程々に楽しむのが良いですな。


>>[39]

> 解った気になるな!!

いえいえ、全然別物だって話ですよ。
どっちが好きかって言うのは嗜好の問題なのでね。

現実的に漫画の作業ってアシスタントや編集者を交えての
共同作業だったりするわけです。
そこで影響されたり、また影響されずに我を通そうする箇所とかが織り交ざったり
でも、最終的に判断を下しているのは著名された人の作品。

そう言った作者管理下においた作品と
そうでない名前貸しは別物だと認識はしているし認識して欲しいという話です。

ですから
日蓮と現在の日蓮系教団を同一視するのは間違いであり
日蓮より日蓮系教団の方が好きだと言う考えを否定しているという話ではないです。

現実的に日蓮と日寛を読み比べ、僕は日寛は全然日蓮ぽくはなく
日蓮より言ってる事がとても陳腐であると言っていると言う話です。

それでも日寛の方がより素晴らしい
創価や現大石寺の方が優れていると思うなら
日蓮の名を外した上での手前で勝負して欲しいよねと言うことです。

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