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ラブリィ創価学会コミュの池田先生 本門戒壇の大御本尊を貶(おとし)める

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http://www13.ocn.ne.jp/~ryouran/html/souka_2.html

池田大作・創価学会にとって最も邪魔なのは、

実は御法主上人猊下よりも御本仏・日蓮大聖人であり、

同時に「弘安二年十月十二日御図顕の、本門戒壇の大御本尊」です。


池田にとっては、自分が「ただ一人の法華経の行者である」とするためには、御本仏様が邪魔なのであり、

ニセ本尊製造・販売を正当化するためには、御法主上人猊下ただお一人による御本尊の書写・開眼の権能を否定し、

さらに本門戒壇の大御本尊の御威光を忘れさせる必要があるのです。

学会員がいつまでも、本門戒壇の大御本尊を渇仰恋慕(かつごうれんぼ)していたのでは、学会としては非常に都合が悪い。

そこでまず、平成4年頃に作成した「学会版勤行要典」では、二座の観念文を「一閻浮堤(いちえんぶだい)総与、三大秘法の大御本尊に南無し奉り、報恩感謝申し上げます」と改変し、「本門戒壇」の文字を削除しました。

この狙いは、本門戒壇の大御本尊を恋慕する意識を徐々に薄めていくことでした。

また平成5年の5月3日、池田大作は、外道のカトリック教徒である上智大学教授の口を借りて、

「宗教の究極は、板曼荼羅(いたまんだら)ではなく、久遠元初の法である」
などと、

大聖人様の御当体である本門戒壇の大御本尊を蔑(さげす)む暴言を吐き、法だ法だと騒いでいます。


さらに池田は、平成5年9月7日の幹部会の席上、

「『もし、一瞬の信心があれば、すなわち、この信心の一念に一念三千の本尊を具(そな)える』これは日寛上人、有名なところだ、
本因妙抄(註;この御文は観心本尊抄文段であり、池田の間違い)。

たとえば水のある池には、月がただちに映るようなものである。
宗祖大聖人が、この御本尊もただ信心の二字におさまれり、と言われたのである。

信心の二字の中にしか、本尊はないんです。
本門戒壇・板御本尊、何だ、寛尊は『信心の中にしか本尊はない』。

ただの物です、いちおうの、機械です。
幸福製造機だもの。
信心、大聖人の御書だ」
と、

あろうことか本門戒壇の大御本尊を「ただの物だ」と罵(ののし)りました。

これが池田の本音であり、
いかに学会が会員たちを欺(あざむ)き
「自分は大御本尊を信じている」ようなポーズをとっていても、それは偽りです。

コメント(4)

チビあやさん

戒壇の大御本尊は、日犬のいうような「にせもの」ではなく、立派な模刻本尊ですよね?大聖人滅後の建立ですが。そして、600年以上かけて、身延100万人のところが、退席痔派はわずか3万人だったのが(法は曲げても、ヤル気が無かっただけです)、学会は同じ模刻本尊であっても信心があったので池田先生の時代だけで全世界1000万以上の人列を整備出来ただけです。

戒壇の大御本尊が大聖人ご在世に存在しなかった証拠はいくつもあげていますが、まともに反論を聞いたことも見たことも無いのですが?いったいどうされたんでしょうねえ?

詳細は以下のとおり。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1875753237&owner_id=54955889

◎戒壇の大御本尊が大聖人御在世には存在していなかった証拠の数々

(1)日興上人が身延を離山し、富士に移る際の宝物の中に板本尊の記録は無い(是1)

堀上人が昭和39年4月に「富士日興上人詳伝」という分厚い歴史資料集を執筆されて、日興上人が身延を離れ、富士に移られてからの事跡や、その後の退席寺派となってからの悲惨な歴史などを紹介されていますが、その中の日興上人が身延を離山する際の資料等の中には、どこにも板本尊についての記録はありません。そればかりか、伝説としての板本尊の存在に疑義を投げかけておられるのです。

「御荷物の中に「生御影」「御骨」はかならず御奉持であるべきであるが、板本尊にいたっては研究の余地が存ずる。」
「すでに原殿抄の末文にあるごとく、延山の常住物はなに一つ持ち出していない。」
「当初の日円入道(波木井実長)には、夢にも富士の板本尊を渇仰する思想はなく、後世もまたしかりであろう。本師は現に原殿抄全文を引用しながら、板本尊を延山が奪い返そうとするなんどの記事は、あまりにもまた(荒唐)無稽の沙汰である。」
「これをもって無条件に準守する頭脳を切り換えてもらいたさに数々書くのである。」

等と、若干婉曲ではあるものの、数百年にわたる伝説によって作られた既成概念(日興上人が身延離山する際には、戒壇の大御本尊を含め一切の宝物を奉持していたとする思い込み)を変更することを何度も示されているのである。
要するに、日興上人が身延を離山した時に、板本尊は存在していなかった、というのが堀上人の結論なのです。


(2)日目師等の残した日興上人御遺跡事の中で、本門寺本堂に安置するものの記載は「日蓮聖人御影並びに御下文」しかない(是2)

大石寺に板本尊が大聖人御在世から存在していたのであれば、当然のことながらその存在は歴史上に記録として残るのが当然です。ところが、(1)の日興上人の身延離山の際の記録にも無いばかりか、日興上人の入滅に際し、正慶2年2月13日に日目、日仙、日善の本六の3師が花押入りの連名で書き残した「日興上人御遺跡事」にさえも、
「本門寺建立の時に本堂に納め奉るべき」ものとして記録されているのは、

「日蓮聖人御影並御下文」(大聖人のお人形と、園城寺申状のこと)(歴代法主全書1-213)

と書き残されているだけで、この時点では広布の時の本門寺本堂に安置するべき板本尊は存在しなかったと考えざるを得ません。
この文書の内容は、上記の2つの日興上人の遺跡を象徴する宝物について、

「本門寺建立の時は本堂に納め奉るべし。この條、日興上人の仰せにより支配奉ることかくの如し。この旨に背き、異議をなし、失いたらん輩は、永く大謗法と為すべし。」

と、日興上人が残された最も大事なものについての取り扱いを定めているのですが、もしも大聖人の出世の本懐としての板本尊がその時点で存在していたら、その記録を残さないはずがありません。これもこの時点で板本尊は存在しなかったという証拠の一つです。
これに対して、根拠もなく「書かなかっただけだ」などというお馬鹿がいたら、
? 大事なものを記録していなかったという証拠を示せ
? 300年も経って日主が書いた途端に山ほどの記録が公表され始めている。これが大事なものの場合の常識である。
と攻めましょう。

(以下略)
おまけです。

(3)戒壇の大御本尊の主題と日禅授与本尊の主題は極めて高い一致(是3)

大聖人の御真筆本尊は、約140体が現存しており、いくつかを除いて立正安国会がそれらを「御本尊集」として公開しています。これらの御本尊の主題(題目)はデータベース化され、最新のコンピュータ・マッチングという手法でその類似性を確認することが可能です。
また、戒壇の大御本尊については今まで写真が公開されていたのは熊田葦城著「日蓮聖人」という文献のみで、非常に不鮮明なものであったため、写真鑑定が出来るような状況ではありませんでした。しかし、邪宗門が奉安堂と称する安普請の建屋に戒壇の大御本尊を移転した際に、ある法華講がごく近接した間近な距離で撮影したために、静岡在住の金原氏が入手することとなり、写されたその写真と、すでに公開されていた日禅授与本尊の写真とをデータとしてパソコンに取り込み、比較をしたのです。
その結果は驚くべきもので、他の約140体も含めて、御本尊の主題のサイズと形状(とくにヒゲと呼ばれる文字の撥ね方)は、それぞれが大きく異なっているため、当然のことですが一致するようなものは存在しません。
ところが、日禅授与本尊と戒壇の大御本尊のみについては、御本尊全体のサイズは全く異なるにも拘わらず、題目のサイズと形状の一致度が極めて高いことが判明したのです。
この事実は、阿部(日犬)が主張した「日禅授与の本尊の題目と花押を模写し、(中略)日禅授与の本尊に模写の形跡が残っている」との見解を見事に裏付け、証明するものです。
阿部の息子のシンショウなどは、「そんな昔に、題目を一定の比率で拡大する技術など無かった」と間の抜けた反論をしたそうですが、拡大などではなく、全く同じサイズの主題なのです。そのことを指摘されると、突然弱気になって「私は教学は苦手で」「私の信仰です」と、教学がまったく無いシンショウは、自分は「鰯の頭」と同じレベルで信じ込んでいることを自ら暴露したというのです。本当にお粗末な邪宗門です。


(4)戒壇の大御本尊の座配と日禅授与本尊の座配は完全に一致(是4)

大聖人の御本尊を比較すれば、十界の座配はほとんどが異なっています。
例えば、初期の10体ほどの真筆御本尊には、釈迦・多宝の二仏しか書かれておらず、全部が仏界のみです。
この事実ひとつを見ても、邪宗門が学会の日寛上人の形木本尊を誹謗するに際し、最初の頃には「十界が全部書かれていないからニセ本尊だ」などという誹謗は真っ赤なウソだというのが明らかです。彼らは単に「学会員の信心を破壊するためにならばどんなウソでもついてやる」という天魔の立場であることが理解できます。学会員から破折され、赤恥を晒してすぐに引っ込めたようですが。
そこで戒壇の大御本尊と日禅授与本尊の座配を比較すると、阿部が指摘したとおり日禅授与本尊を模写したのであれば当然のことですが、十界のすべての表現と共に「仏滅度後二千二百二十余年」までが全く同じ内容なのです。
そして、「腰書き」と称する御本尊の下部に位置し、模刻の際に書き加えられたと考えられる部分に「弘安二年十月十二日」が存在するのです。
これらのことを確認して明らかなことは、完全な模刻本尊だということです。戒壇の大御本尊とは、日禅授与本尊を大聖人の滅後に模刻したものだという見事な証拠です。


(5)「南無大迦葉尊者」の記載は弘安3年3月から11月に限られる(是5)
これらの十界の座配の中で特筆するべきは、迦葉尊者についての書き方です。
130数体に及ぶ真筆本尊の中で、迦葉尊者の書き方は極めて明確な変遷があります。

? 弘安3年3月以前は「南無迦葉尊者」
? 弘安3年3月から11月は「南無大迦葉尊者」
? 弘安3年11月以降は「南無大迦葉尊者等」

戒壇の大御本尊が建立されたとするのは弘安2年10月のはずなので、当然「南無迦葉尊者」であるはずですが、阿部の主張のように弘安3年5月の日禅授与本尊を模写したのであれば、「南無大迦葉尊者」となっていることになるのです。
そしてやはり事実は、弘安3年3月から11月にしか書かれていない「南無大迦葉尊者」という表現が、弘安2年10月と称する戒壇の大御本尊に記載されているのです。
ここでもまた日犬が暴露したとおり、日禅授与本尊を模写したことを前提とした仮定が裏付けられた訳です。

まだまだありますが、とりあえずここまでとして、これらの事実はあくまでも証拠の一部です。

「もし証拠無くんば誰人か信ずべきや、かかる僻事をのみ構え申す間、邪教とは申すなり」

の御書に照らして、チビあやさんに反論の意思があるならば、

? 日禅授与本尊に籠抜きをした形跡が残っているかを確認せよ
? 戒壇の大御本尊をわずか数mg削って、AMS法で炭素14を分析せよ

それによって事実を示せないならば、戒壇の大御本尊とは大聖人滅後に日禅授与本尊を模刻したものだと断定せざるを得ないということです!
要するに、退席痔派の方々は、「観心の本尊」の意味が理解できていないのです。邪宗門の垂れ流す大本営発表を鵜呑みにしているだけで、はっかいり言って勉強不足ですね!

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=72049508&comm_id=3137679

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