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ラブリィ創価学会コミュの「観心の本尊」が理解できない邪宗門・退席痔派

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 邪宗門が「本尊」と称しているのは、正式名称は「観心の本尊」であり、これを略して呼称していることが分かっていないのです。だから、天井裏にネズミの小便まみれにするような本尊もどき「棟札」や、骨壷や棺に入れて焼く「未来本尊」や、禅宗の化儀である戒名もどきの「神座」というモノを地方の店(末寺とは呼びません)で平気で販売していたのです。

 そんなただの邪宗門の退席痔派ですから、観心本尊抄の後半に示された、
「当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す」
の文は、日寛上人も文段で指摘されているとおりですが、世界広布の時を創った学会員にしか理解できない御金言なのです。

 本尊とは、別しては大聖人様の御生命であり、総じては世界広布の時の我等の生命そのものだというのが極理なのです。

「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」(御義口伝 P.760)
「涌出とは広宣流布の時一閻浮提の一切衆生法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり」(P.834)

 邪宗門は、極理は法主しか知らない、とでも思い込まされているようですが、

「所詮日蓮が意に云く法華経の極理とは南無妙法蓮華経是なり乃至上行菩薩に授与し給う題目の外に法華経の極理は無きなり」(御講聞書 P.844)
(通解:結論は日蓮の考えは、法華経の極理とは南無妙法蓮華経のことである。上行菩薩に授与された題目の他に法華経の極理は無いのである。)

『今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり、聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出ずるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり』(P.752)
(通解:今大聖人門下の考え方は、広く言えば如来とは一切衆生のことであり、深く根本的に言えば大聖人の弟子檀那のことである。したがって無作の三身とは末法の法華経の行者のことを言うのである。この無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と言うのである。寿量品の事の三大事とはこのことである。これを六即に立て分けた時は、一切衆生が如来であるというのは理即の凡夫のことである。題目を受持した時が名字即である。その理由は、初めて聞く題目だからである。題目を聞いて修行する(唱題行に励む)のは観行即である。この観行即とは事の一念三千の本尊を持つことである。次に惑障を伏するのを相似即と言うのである。折伏をするのを分真即と言うのである。わが身が無作の三身の仏であると究竟した境涯を究竟即の仏と言うのである。一般的に伏惑を以て寿量品の究極とはしない。ただ凡夫の当体本有のままをこの寿量品の極理と心得べきである。)

 つまり、特別な戒律や修行によって惑障を伏するのを寿量品の「極理」とはせず、ただ凡夫の当体本有のままで、一切衆生の救済のために自行化他の題目をあげ、難を乗り越えて命を懸けて妙法を広め続けること、またその最高の振る舞いの人を最大に尊敬することを寿量品の極理とする、ということが口伝されているのです。この「極理」を伝えるべき法主が悩乱して放逸(謗法の異名 P.1174)と権威主義(立場にとらわれた外道)に陥った故に、今こそ正法を守るため断固として邪義と戦わねばならないのです。
 要するに、法主だけが特別に持っている極理などは存在しないのです。邪宗門は、大聖人滅後に建立された板御本尊が極理だという教条主義にしがみつくばかりですが、大聖人様の言葉に照らすならば、法華経の行者たちが持っている題目すなわち「生命の当体」こそが法華経の極理なのです。この深義も口伝書である御義口伝や御書の随所に明確に示されています。相伝書がすべて公開されてしまった現在、邪宗門の価値観では、これらの御金言が矛盾してしまって説明困難になってしまい、無視するばかりなのです。愚かとしか言いようがありません。

「今日蓮等の類いの意は即身成仏と開覚するを如来秘密神通之力とは云うなり、成仏するより外の神通と秘密とは之れ無きなり、此の無作の三身をば一字を以て得たり所謂信の一字なり」(P.753)

「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、是を九識心王真如の都とは申すなり、十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依って曼陀羅とは申すなり、曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり」(P.1244)
(通解:この御本尊は全く他の所に求めてはならない。ただ我れら衆生が法華経を持って南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団に備わるのである。これを九識心王真如の都と言うのである。十界具足とは、十界が一界もかけず一界にあるのだ。これによって曼陀羅と言うのである。曼陀羅というのは天竺の名である。ここでは輪円具足とも功徳聚とも名づけるのである。この御本尊もただ信心の二字におさまっている。以信得入とはこのことである。)

「涌出とは広宣流布の時一閻浮提の一切衆生法華経の行者となるべきを涌出とは云うなり」(P.834)
(通解:地涌の菩薩の涌出とは、広宣流布の時に全世界の全ての人々=弟子が必ず法華経の行者となることを涌出と言うのである。)

 つまり、法華経の行者とは決して大聖人様お一人ではなく、末法に妙法を命懸けで受持し、世界に広める全ての民衆のことを「法華経の行者」と呼ぶのです。
 板御本尊が無いと成仏出来ないと開き直る奴隷根性の外道には、「観心の本尊」がまだ顕されていない時代の成仏の実践を教えてあげるしかないのでしょう。

「仏界とは菩薩の位に於て四弘誓願(しぐせいがん)を発(おこ)すを以て戒と為す」(P.434)
「所詮四弘誓願の中には衆生無辺誓願度を以て肝要とするなり、今日蓮等の類いは南無妙法蓮華経を以て衆生を度する此より外には所詮なきなり」(P.846)
「一切の菩薩必ず四弘誓願を発す可(べ)し其の中の衆生無辺誓願度の願之を満せざれば無上菩提誓願証の願又成じ難し」(P.424)
「菩薩と申すは必ず四弘誓願をおこす第一衆生無辺誓願度の願・成就せずば第四の無上菩提誓願証の願も成就すべからず」(P.522)

 要するに、御書を全編にわたって研鑽し、身命を捨てて折伏弘教に徹するならば、必ず三類の強敵が出現し、それにも耐えて世界広布に邁進した時に、その菩薩たちを「本化地涌の菩薩」と呼び、その菩薩一人一人の生命に本尊が涌現し、功徳が湧き出るのです。

 以上、極めて端的に、邪宗門の本尊観を破折し、大聖人様の言葉に従った本尊観をお示ししました。
 すでに学会は過去の宗規に規定していた「日蓮正宗の教義に基づき」という文言を、邪宗門による破門を契機にきれいに捨てて、大聖人の言葉に基づく正義の宗教として出発しました。それに対して退席痔派は、日蓮正宗の宗規に定めた「正依」を、宗門自ら放棄して日蓮正宗の教義に背くという、全く愚かな行為に走ってしまったのです。


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