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ジュリーとの新しい思い出コミュの1980年・パート1(パラシュート、はじめました)

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 0時を知らせるセイコーのCMが流れ、70年代が終わりを告げると大
量消費時代の80年代が幕を開け、パラシュートを背負って電飾をつけた
ジュリーが映った!
 その『TOKIO』を静岡で見ていたボクは言葉を失った。なにこれ? 
見る者を黙らす力を持った衣装だった。少なくとも静岡の田舎では。友だ
ちと見ていてもキョトーンって感じ。近所のオバサンは「あらー、この人、
どうしちゃったの? 人気がありすぎて頭がおかしくなったんじゃない」
と言っていた。衣装だけでなく、歌謡曲に初めてテクノの要素を入れた曲
だと言われてて、小学生だったボクはよくわからず、「ね、どこら辺がテ
クノなの?」と近所の友だちに訊いたりしていた。「そうか、ここがテク
ノか。ナウイね」とか言っていたかも。YMOもテクノも何も知らなかっ
たのにね。
 ピカピカの電飾をつけ、パラシュートをつけ、当時としては『気が狂っ
た』ともとられかねない衣装をつけたジュリーに世間は賛否両論だった。
面白いと飛びつく人。この人、もう終わりだと背を向ける人。大スターな
のに何やってんのと嘆く人‥‥‥。
 そんな世間の評判を全く気にすることなく、生放送であの衣装をつけて
ニコニコ歌うジュリー。しかし、その頃、ジュリーにとって大きな別れが
あった。
 バックを務めた井上堯之バンドの解散だ。
 過激になっていくジュリーのパフォーマンスに堯之さんは違和感を覚え
ていたという。NHKのインタビューで堯之さんは「ボクらはバックバン
ドなんだけど、バックバンドだと思ってなかったの、勝手に」と言ってい
た。解散が決まってからジュリーと堯之さんは六本木で朝まで飲み、ジュ
リーは「堯之さんは何もしてくれなかった」と泣いたという。ショーケンに
は映画音楽とかいいものを書いているのにボクには何も書いてくれてないと。

 その頃、一人の若者が渋谷の西武にかかった大看板を見上げて、一種の
羨望を持っていた。
 大看板には『JULIE/TOKIO』とある。
 いつかあんな大きな音楽プロジェクトに参加したい。そう思っていた若者
こそベーシストの吉田健さんだ。
 健さんは歌謡界のトップを走るジュリーに特別な思いを抱き、一緒に仕事し
たいと思っていたそうだ。そして、井上バンドが解散した後、ジュリーのバッ
クバンド・オールウェイズに参加した。
 こうしてこれまでスター・ジュリーをサポートしてきた兄貴的なバンドが別
れを告げ、ここからはジュリーが年下のミュージシャンを引き連れていく形に
なり、翌年のエキゾティックスへ繋がってゆく。

 『TOKIO』は大ヒットし、『大都会』に1位を阻まれたものの、ベスト
テンでは何週も2位だった。この時、ジュリーは背中にバッテリーを背負って
いて、そこに何万ボルトという電流が流れていると聞き、ジュリーが歌ってい
る途中に感電死するんじゃないかと心配したこともあった。
 また、ブルーバードのCM撮影で海外の大平原に行った時も、パラシュート
を背負ってベストテンに登場したジュリー。「律儀に海外までパラシュート持
っていたんですね」などと言って、司会の久米・黒柳コンビも苦笑していた。
そんな過激な『TOKIO』の後、次の曲はどうするんだろう。ボクはその頃
はそれほど熱狂的なファンではなかったけれど、TVっ子だったので関心があ
った。もう『TOKIO』以上はないだろうと思った。が、その予想は大きく
外れる。
 次の曲では更に過激になっていた‥‥‥。


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