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師匠 シリーズ コミュの先生中編2

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全身を強く打ったタロちゃんをシゲちゃんが担いで、僕らは必死に山を下りた。
公衆電話の置いてある所まで辿り着くと、そこから救急車を呼んだ。
深夜だったけれどシゲちゃんの家とタロちゃんの家にそれぞれ連絡が行き、僕らはこっぴどく叱られて、病院に駆けつけたタロちゃんの家族に謝ったり、事情を聞かれたりして家に帰って布団に入ったのは明け方近くだった。
興奮していたけれど、よほど疲れていたのか僕は泥のように眠った。


昼ごろに目が覚めてから布団の上に身体を起こした。
昼に起きるなんてめったにないことで、やっぱり朝とは違う感じがして寝起きの清清しさはない。
僕は昨日の夜にあったことを思い出そうとする。
あの顔入道の洞窟で、僕とシゲちゃんは怒りを堪えているような顔を見た。
そして入れ替わりに入っていったタロちゃんが悲鳴を上げて飛び出てきて、勢いあまって崖から落ちた。
幸い怪我は思ったほど大したことがなく、右肩の骨にちょっとヒビが入ってるけどあとは打撲だそうで、しばらく入院したら戻ってこられるとのことだった。
だけど僕には気になることがあった。
痛がって呻くタロちゃんをシゲちゃんが担いで山を下りていた時、タロちゃんが繰り返し変なことを呟いていたのだ。
怒った。
顔入道が怒った。
そんなことをうわ言のように繰り返していたのだ。
それを聞いた時の僕は、とにかくあの洞窟から早く遠ざかりたくてたまらなかった。
今にも巨大な顔が憤怒の表情で闇の中を追いかけてきそうな気がして。
夜が明けて冷静になった今振り返ると不思議なことだと思う。
あの洞窟は一本道で、他の場所には通じてないはずなのだ。
僕とシゲちゃんが顔を見てからタロちゃんが入れ替わりに洞窟に入っていくまでほとんど時間は経ってないし、僕とシゲちゃんが外で待っているあいだ当然ほかの誰も入ってはいない。
だからタロちゃんは一人で洞窟に入り、行き止まりの場所で顔入道を見てから戻ってきただけのはずなのだ。
僕らが見た時には怒っていなかった顔入道がタロちゃんの時には怒っていたなんて、そんなことあるはずがない。
考えてもよくわからない。
タロちゃんは一体なにを見たのだろう。
聞いてみたいけれど、今は隣町の病院だ。
そんな変なことを聞きに行けない。

「起きたか」

考え込んでいると、おじさんがやってきて飯を食えと言う。
シゲちゃんも起きてきて、一緒に食べているとおじさんにもう一度、昨日のことを聞かれた。

「どうして夜にあんな山に登ったのか」

と。
半分はお説教だ。
僕らは口裏を合わせるように顔入道のことは言わなかった。
そうだろう。
秘密を守るのは仲間の証なのだから。
ただ探検したかった。
もうしない。
ごめんなさい。
そんなことを何度となく繰り返して乗り切るしかなかった。
昼ご飯を食べ終わると、じいちゃんの部屋に呼ばれた。
僕とシゲちゃんは正座をさせられて、じいちゃんの険しい目にじっと見つめられる。
お説教なら別々にせずに一度にしてくれよと思いながら俯いていた。

「顔入道さんだな」

とじいちゃんは言った。
僕は驚いて顔を上げる。
じいちゃんは顔入道のことを知っていたらしい。

「わしらも子供の時分に見に行ったものだが」

と眉間に皺を寄せた。
そして

「あれは、おそろしいものだ」

と呟く。
どうやらじいちゃんの子供の頃にも顔入道が怒ったことがあるらしい。
その時にはなにか大変なことが村に起こったそうだが、詳しくは教えてくれなかった。
顔入道さんにはもう近付いてはならないと、きつく厳命されて僕らは釈放された。
さすがにシゲちゃんもしょげかえっていて、元気がなかった。
竹ヤブ人形事件の時よりも大ごとになってしまったからだ。
次のイタズラを思いついて目の奥がぴかりとするのはまだ先のことだろうと僕は思った。
その日は結局、夏休み学校には行けなかった。
午前中を寝て過ごしてしまったのだから仕方がない。
僕は昨日あったことを先生に聞いてほしかった。
こんな不思議なことが世の中にあるんだということを。
けれど同時にこうも思う。
先生なら、この出来事に僕には思いもつかなかったような答えを見つけ出してくれるんじゃないかと。
前に一度、午後にもあの学校に様子を見に行ったことがあるけれど、先生はいなかった。
お母さんに付き添って病院にでも行っているのかも知れない。
時間がゆったりと流れる夏の家の中で、早く明日にならないかと僕はやきもきしていた。
シゲちゃんはその後、元気がないなりにどこかに遊びに行ってしまったが、僕はそんな気になれず家で宿題をぽつぽつと進めていた。
けれどだんだんと心の中に、ある欲求がわいてきて、それが大きくなり始めた。
昼間なら、あんまり怖くないよな。
そんなことを思ってしまったのだ。
つまり顔入道を、タロちゃんが見たものを確かめに行こうというのだ。
さすがにこれは悩んだ。
じいちゃんに、あれはおそろしいものだなんて言われたばかりなのだ。
でも、見たかった。
知りたかった。
タロちゃんは、一体なにを見たのか。
一度逃げ出した場所にもう一回挑戦することで、手に入るものもある。
例えば鎮守の森の奥に進むことで先生に会えたようにだ。
バシン、とノートを閉じた。
ようし、やってやる。
僕は立ち上がった。


夜と昼間では山道の印象が違っていて、何度も迷いそうになりながらも僕はなんとか顔入道の洞窟に辿り着いた。
ぜえぜえと息が切れる。
昨日の夜よりしんどいのは太陽の光が木の枝越しに凶暴に降り注いでいるからだろう。
樹木が開け、山肌が見える場所で僕は額をぬぐう。
小さな崖になっている場所が見える。
昨日タロちゃんが飛び出して落っこちた所だ。
タロちゃんがゴロゴロと転がって、身体ごとぶつかって止まった岩もその先にある。
そのどっしりした岩の形を見ていると今さらながらゾッとする。
タロちゃんはそんなにまで怯えて、一体なにから逃げたかったのだろう。
昼間でも暗い口を開けて、洞窟が僕の目の前にあった。
覚悟を決めていてもドキドキしてくる。
顔入道は怒っているかも知れない。
それがどんな顔なのかあれこれ想像する。
今のうちに最悪の事態を想定しておけば、ビビって崖から落っこちたりはしないだろう。
あらゆる怒りの表情を十分にイメージしてから、僕は深呼吸を5回した。
5回した後で、もう3回して、それからもう後4回くらいしてから洞窟に足を踏み入れた。
太陽の光が届かないので中はひんやりしている。
外の熱気が追いかけてくるけれど、それも何度か角を曲がると去って行ってしまった。
リュックサックから懐中電灯を取り出す。
シゲちゃんが昨日持ち出したやつが見あたらなかったので、押入で見つけたもう一回り小さいやつだ。
心細いような光の筋が目の前を照らすけれど、洞窟の中はぐねぐねと折れ曲がっているので見通しが悪く、いつ曲がり角の向こうになにか怖いものが飛び出してくるか分からない。
首筋のあたりをぞわぞわさせながら僕は洞窟の奥へと進んでいく。

『岩でできた顔が怒り出すなんてあるわけない』

そんな考えが浮かぶたびに

『いや、この世ではなにが起こるか分からない』

と気を引き締める。
そう。なにが起こるか分からないのだ。
隠れたような枝道がないか慎重に探りながら僕は深く深く洞窟へ潜って行った。
そしてどこか見覚えがある曲がり角を回った時、目の前に白いものが飛び込んできた。
ビクゥッ、と背中が伸びる。
顔だ。顔入道。
昨日と同じように洞窟にみっしりとはまり込んでとおせんぼをしているその白い顔を見た瞬間、僕は恐怖というよりも吐き気を催した。
なんだこれは?あれほどイメージトレーニングを繰り返したにも関わらず、まったく想像していなかった不気味な姿がそこにあった。
足下から天井まで伸びる巨大な顔は、笑っていたのだ。
目を細め、口元の皺は縦に真っ直ぐではなく横にふっくらと広がっている。
ほっぺたは丸々として口の端は優しげに上がっている。
これこそがこの洞窟の先で即身仏になっているというお坊さんの普段の顔だったのだろうか。
けれどそのえびす顔がもたらす印象は、吐き気を催すような奇怪さだった。
僕とシゲちゃんは2人でここまできて『怒りをこらえる顔』に会った。
そしてその後、入れ替わりにタロちゃんは一人でここまできて、『怒った顔』に会ったという。
そして次の日の昼、今僕は笑っている顔と向かい合っている。
これはいったいなんなのだろう。
足がガクガクと震える。
目の前で白い顔がぐにゃぐにゃと飴のように形を変えていくような錯覚がある。
・・・でもそれは本当に錯覚だろうか。
僕は、泣きそうになりながらも、『これだけはする』と決めていた確認作業を断行した。
生唾を飲みながら、震える足を叱咤して少しずつ顔に近付いていく。
顔が大きくなっていくにつれ、この狭い空間がこの世から切り離された異空間のような気がしてくる。
どんなことが起こっても不思議ではないような。
それでも僕は自分の顔を突き出し、顔入道の表面に光をあてる。
よく見ると、ところどころボロボロと塗装が剥げ、白い顔にも黒い汚れが目立った。
その地肌は確かに岩で、その上に描かれた顔は昨日今日のものではないのは明らかだった。
何年も、いや何十年も前から同じ顔でここにこうして洞窟に挟まっているはずのものだった。
顔の真下には折れた歯のような塗料のついた尖った岩。
笑っていても、ついさっきまで牙のあった証のように青白く光っている。
僕は今までとは違う、別の寒気に襲われ咄嗟に逃げ出した。
くるりと振り返って、きた道をひたすら戻る。
うわあ、という叫び声を上げたと思う。
ギャー、だったかも知れない。
とにかく僕は何度も転けそうになりながら走り続けた。
白い手が追いかけてくる幻想が、昨日よりもくっきりと頭に浮かんだ。
怖い。怖い。なんだこれ。なんだこれ。
それでも射し込む太陽の光が道の先に見えた瞬間にブレーキをかけた。
洞窟の外まで飛び出した僕は、崖の前でピタリと止まることができた。
昼間だったから良かったのだ。
夜だったら、洞窟の続きのような暗い空の下に両手両足を泳がせていたかも知れない。
背中に異様な気配を感じる。
ハッと振り返ると洞窟の奥に赤い着物の裾が翻ったような気がした。
それはすぐに記憶の彼方へ消えて、現実だったのか幻だったのかわからなくなってしまう。
僕はガチガチと震えながら、洞窟の入り口から中へ小声で問いかけた。

「誰かいるの?」

いるはずはなかった。
中は一本道なのだ。
行き止まりにはあの顔入道の岩がつっかえている。
がっしりと地面にも壁にも天井にも食い込んでいて、とても動きそうには見えなかった。
だから洞窟の途中に誰もいなかったからと言って、その岩の奥に誰かが隠れているはずはない。
こういうのをなんて言うんだっけ。
こないだテレビでやっていた。
そう。密室。密室だ。
密室の中には生きたままミイラになったお坊さんがいるはずだ。
真っ暗闇の中で座禅を組み、もう二度と変わらない表情を顔に貼り付けたままで。
その顔は怒っているのだろうか。
笑っているのだろうか。
ああっ。
なんだかたまらなくなり、僕は逃げ出した。
崖を回り込み、山道を駆け下りる。
振り返らずに。
汗を飛び散らせて。
ぜいぜい言いながらひたすら走り続けていると、頭が勝手に想像し始める。
顔入道が怒ったら、悪いことが起きる。
じいちゃんが、あれはおそろしいものだと言っていた。
本当なのかも知れない。
ひょっとしてタロちゃんが崖から落ちたのだって、その『悪いこと』に入っているのかも知れない。
目に見えない手が、崖の前でその背中を押したのかも知れない。
でもさっき見た顔入道は笑っていた。
けれどそれがなにか楽しいことを暗示しているような気がしない。
いつもは誰も来ないはずの暗い洞窟の奥底で、どうして笑っていたのだろう。
想像が顔入道の笑顔を大げさに変形させ、視界一杯に、いや頭の中一杯に広がってい
く。
その奇怪な姿を僕は振り払おうと振り払おうと、木の根を飛び越えながら駆け続けた。


その夜、晩ご飯を食べている時に、おじさんからタロちゃんが3,4日後には退院できるらしいと伝えられた。
僕もホッとしたけれど、首謀者であり、親分でもあるシゲちゃんが一番ホッとした顔をしていた。
食べ終わってから、僕はシゲちゃんに顔入道の洞窟にもう一度行ったことを話そうと思ったけれど

「疲れたからもう寝る」

と言ってあっという間に布団に入られてしまった。
僕はどういうわけか顔入道の笑顔のことを他の人に話すのが妙に怖い気がしたので、寝ちゃったからしかたないやと自分に言い訳をしながら居間でテレビを見ることにした。
ブラウン管の向こう側ではプロレス中継をやっていた。
怖い顔の外国人レスラーがマットの中や外で大暴れしていたけれど、刻一刻とその表情は変わり、どの瞬間にも同じ顔はなかった。
睨む顔、強がる顔、痛がる顔、笑う顔、吠える顔。
繕い物をしているばあちゃんと並んで、僕はテレビの前にずっと座っていた。


次の日、少し元気になったシゲちゃんが朝から外へ遊びに行ったのを見送ってから、僕は夏休み学校へ行く準備を始めた。
先生にどうやって洞窟のことを話そうか考えながら、一応、宿題をやるふりをしていると、ばあちゃんがハタキを持って部屋に入ってきた。
パタパタと家具や壁を叩いて回り、ちょっと重い物をどかす時に

「エッヘ」

と言いながら小一時間ハタキをかけていた。
僕は早く出て行きたかったけれど、なんとなくタイミングを失ってどんどん埃っぽくなっていく部屋の中でイライラしていた。
すると一通りハタキを掛け終わったのか、ばあちゃんが腰を叩きながら目の前に立つと僕の顔をまじまじと見つめてきた。
そして

「あんた、つかれちょらんか」

と言った。
この2,3日のあいだは確かに色々あって疲れている。
それでもタロちゃんがすぐ退院できると分かったし、昨日会えなかった先生に早く会いたかった。
会って、話をしたかった。
僕は

「別に」

と言って立ち上がり、散歩してくる、とばあちゃんを残して部屋を出た。
外はあいかわらずカンカンと日が照っていて、半そでから伸びる腕の何重にもなった日焼けの跡が疼いた。
顔見知りのおばさんとすれ違って

「おはようございます」

なんて挨拶しながら、なんにもない道をてくてく歩いているとなんだか足が重いような気がする。
やっぱり疲れてるな。
朝ご飯もお茶碗一杯しか食べられなかったし。
それでも僕の足は素晴らしく早く動いた。
入道雲が北の山の稜線に大きな影を落としている、その先を目指して。


アッバース朝や後ウマイヤ朝、ファーティマ朝など分裂・建国を繰り返したイスラム国家はトルコやイベリア半島、北インドなどに確実に勢力を伸ばしていった。
その中でローマ帝国の後継者ビザンツ帝国の領土に侵攻したセルジューク朝はキリスト教の聖地エルサレムまでも圧迫したので、ローマ教皇の号令の下についに西方諸国が腰を上げ十字軍が結成された。
成功に終わった第一回遠征の後も、十字軍はトルコ人やエジプトのサラディンなど相手を変えながら第二、第三、第四と続いて結局、第七回くらいまでいったらしいけれどイスラム勢力との決着はつかなかった。
それはそうだろう。
今だってターバンを巻いたりスカーフをしたりして『インシュアラー』なんて言っている人がたくさんいる所をテレビで見るんだから。
みんなやられちゃったはずはない。
あの人達が、先生から教えてもらう歴史の先にいるのだ。
そう思うと、先生の口から語られる遠い世界の出来事も、けっしてファンタジーの世界の物語ではなくこの僕の生きている今に繋がっているのだと実感する。
凄いことが起きたら、その凄いことが今の人間の社会のどこかに影響している。
だから僕はほかの科目にはないくらい、ハラハラドキドキしながら先生の授業を受けた。
漢字がたくさん出てくる中国の歴史はさわりだけで勘弁してもらったけれど。

「で、どうしたの?」

世界史の講義が終わった休み時間、洞窟であったことをどう話そうか悩んでいる最中に先生の方から訊いてきた。
おかげで僕はビビって逃げたことを上手くごまかせずに、全部話してしまった。
かっこ悪いな。
ゲンメツしたかな。
先生は窓際のいつもの席に腰掛けて真剣な顔をして聞いている。
花柄の白い服が射し込む太陽の光を反射してキラキラ輝いて見えた。
今朝、先生は昨日僕が来なかったことを怒りもせずに、いつもの笑顔で2階の窓から校庭の僕に手を振ってくれた。
今日もだけど、昨日も他の子は来なかったらしいから、きっと先生は午前中ずっと教室で僕を待っていたはずなのだ。
2階の窓際で頬杖をついて。
ぼうっと校庭を見ながら。
それを思うと、僕は胸が痛くなる。
先生みたいな、若くてきれいで頭が良くて優しい人が、こんな誰も来ない山の中でじっと僕みたいなただの子供を待ってるなんて。
先生は言わないけれど、きっと東京でしたいことがあったんだろう。
好きな人だっていたかも知れない。
そんなものを全部捨ててこの田舎へ帰ってきて、夏の間ずっとこんなオンボロの学校でたった数人の生徒を毎日待っているのだ。
僕が算数の問題を解いている間、時どき先生は窓の外を見ながらぼんやりしている。
そんな時、先生はそこにいるのにそこにいないような感じがする。
その横顔を覗き見するたびに、僕はなんだか悲しくなるのだった。

「そんなことがあったの」

先生は顎の先に、折り曲げた人差し指をあてて頷いた。

「顔入道さんのことは聞いたことがあるわ。わたしが子供の頃にも男の子なんかは肝試しに行っていたみたいね。わたしは見たことないけど」

不思議な話ね。
先生はそう呟いてあのぼんやりした表情を一瞬だけ見せた。
僕は何故か慌てて

「こんなことってあると思う?」

と問いかけた。
先生は我に返ったように目を大きく開くと

「この世の中は不思議なことだらけよ。とくにこんな田舎にはね、生活のすぐそばにおかしな迷信や言い伝えがあるの。学校で習う物理や算数よりもずっと近くに。私も、都会の生活が長くなっていくにつれて忘れそうになっていたけど」

先生がふっと息をつくと、外はうるさいくらいジワジワジワジワ蝉が鳴いていたのに、教室の中は変にシーンとした。
ただの岩が怒ったり笑ったりするのも、学校では習わない不思議な力が働いているからだろうか。
ただの森を鎮守の森なんて呼んで神社を建てるのも?
お仕置きをするため暗く狭い場所へ僕を押し込める父親の顔と、暗闇でひとりになった後で誰かがいつの間にか背後にいるようなあの振り向けない感じが頭の中をよぎった。

「でも理科や算数を教える先生としては、それで終わりってわけにはいかないわね」

その時、僕が感じたことをなんて言えばいいんだろう。
先生はゆっくりと立ち上がり、僕のまだ知らないことを楽しく、そして優しく教えてくれるあの素敵な表情をした。
僕を、どうしようもなくワクワクさせてくれる大好きな顔だ。
先生は教壇に立ってチョークを握り、黒板にスッスッと手を走らせる。
その指が描き出す、白くて涼しげな線を僕は息をするのも忘れてじっと見つめていた。

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