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師匠 シリーズ コミュの生活態度

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「せいかつ、たいど?」

「うん」

「確かにそう言ったのか?あいつは」

「うん・・・たぶんそう言ったと思うよ」

「そうか。ありがとう」

私は石川さんに礼を言って自分の教室に戻る。
いま学校で起こっている奇妙な事態に得体の知れない危機感を覚えていた私は、癪に障ることではあったが間崎京子という、なにもかも見透かしているような女の元へ話を聞きに行ったのだ。
しかし彼女の教室へ向かった時にはすでに早退した後だったので、そのクラスで唯一の知人である石川さんに間崎京子の様子を尋ねたのだった。
私と同じくこの状況に興味を持っていた石川さんは朝イチで間崎京子にそれとなく水を向けたらしい。
彼女もなにかあれば間崎京子を疑うという習慣が出来てしまっているということか。
すると間崎京子からたった一言、件の答えが返ってきたというのだ。
生活態度か・・・
いったいどういう意味なのか。
まさか文字通りの意味ではあるまい。
あのもったいぶった訳知り顔の女が、そんな単純な言葉を吐くだろうか。
廊下を歩きながら、私はため息をついてこれまでの経緯を頭の中で整理する。
そもそもの発端は、私達の通うこの女子高で不思議な挨拶が流行ったことだ。
その挨拶は一度聞いただけでは意味がわからないが、みんななんとなくというそのニュアンスを楽しんでいるらしい。
いつごろからかクラスの仲の良いグループ間で密かに交されていたので、私もそれを漏れ聞くことはあったが、所詮は一過性の他愛もない流行だと思っていた。
その状況が、今日という日を境に一変した。
朝、何ごともなく登校をした私は、さして親しくもないクラスメイトからその挨拶を振られたのだ。
面食らった私は、思わず同じ言葉をオウムのように返した。
返した後で、じわじわと気恥ずかしさが首をもたげてきて、なんだかたまらなくなる。
けれどそれからその教室で繰り広げられた狂態は、私の気恥ずかしさなど吹き飛ばすようなものだった。
昨日までグループ間でこそこそと話されていたその言葉が、一夜にして市民権を得たように教室中を飛び交っていたのだ。
セーラー服を着ている者がみんな揃いも揃って同じ言葉を交している。
まるでバベルの塔を造ろうとした人間に怒った神が、人間同士の言葉をバラバラにしてしまったこととちょうど真逆の事態だ。
たった1日でクラスメート達の言葉が統一されてしまったのだから。
そしてそれは私の教室にとどまらなかった。
学校のすべてのクラスで同じ現象が起こっていたのだった。
そのただならない状況が分かるにつれて私は混乱し、クラスメートの中ではまだ心を許せる高野志保という女子生徒に話しかけた。
すると、なんということか。
彼女までまったくイメージにそぐわないその言葉を発したではないか。
顔を強張らせて高野志保の前から立ち去った私は、なんだかひどく打ちひしがれてフラフラと教室から出た。
そして間崎京子の元へ向かったのだ。
結局、本人には会えなかったが、彼女はこの異常な事態に対して『生活態度』というなんとも面はゆい表現を使っている。
生活態度・・・
確かにあのふざけたような言葉、というか挨拶は、あまり頭の良くない響きを持っている。
以前から使っていた人達は、格好を見ても化粧をしていたり、スカートの丈がやたらと短かかったりと、なんというか、不真面目な印象を受ける子ばかりだった。
その彼女達を評して、『生活態度の問題だ』と間崎京子は言ったのだろうか。
しかし今のこの状況は、そんな生活態度に問題のある生徒達だけではなく、学校に来ているすべての生徒が一斉にその言葉に毒されてしまったことが異常であり、不可解なのだ。
歩きながら、ぽつりとその言葉を呟いてみる。
カァーッ、と顔が赤くなってくる。
みんな、正気でこんな言葉を使っているのだろうか。
それともこの学校の中で私だけが狂っているのか。
この世に『正気と狂気』などというものはない。
ただ千の貌の狂気があるだけだと、誰かが言っていた気がする。
呆然と歩いていたその時、職員室のそばを通った私の耳は、電話の音を聞き取った。
昼休みのざわめきの中で、確かに廊下に据え付けの赤い公衆電話が鳴っている。
私は予感を抱きながら手を伸ばす。

「もしもし」

「・・・猫に肉球がいくつあるか分かって?」

間崎京子だ。
電話口の向こうに、あの女がいる。

「20個だ」

「残念ね。22個よ。今度裏返して数えてみてね」

「そんなことはどうでもいい。これはなんだ。おまえは何を知っている?」

「クスクスクス・・・」

薄く後を引くような冷笑が微かに聞こえる。

「100匹目の猿のお話はご存じ?」

100匹目の猿?
どこかで聞いたことがある気がする。

「日本の幸島という島に猿がたくさんいたのね。
そしてその猿の中に、砂のついた芋を水辺で洗う個体が現れたの。
それを見ていた別の猿が見よう見まねで芋を洗い始めた。
だんだんと芋を洗う個体が増えていったわ。
それは新しい技術がコミュニティーの中に浸透していく、文化の萌芽とも言えるものね。
ところがある日、それが一変する。
芋を洗う猿が100匹目を越えた日を境に、幸島にいる全ての猿が一斉に芋を洗い始めたの。
直接その様子を見て真似たとは思えない地理的に離れた群まで、全てが。
これはいったい何だと思う?
もちろん100匹という数は正確な観測結果ではなく、1つの象徴よ。
けれど、世の中にはこうした目に見えない『閾値』があるのは確かだわ。
猿だけではなく、人間にだって当てはまる。
一部で始まった流行が、爆発的に社会に広がっていくことは良くあることね。
100人の中のたった1人が右を向いても残りの99人は前を向いたままだけれど、1億人の中の100万人が右を向けば、残りの9900万人も右を向きたくなるの。
おかしいでしょう。
同じ100分の1なのに。
割合を超えた、数の力ね。
人間社会ではそんな閾値がいたるところにあって、100匹目の猿がその境界を踏み越えた時、目に見えない『模倣子』が爆発的に拡散していく。
そしてそれは文化を浸食し、テロメアの尾が続く限り社会を席巻するけれど、その固有の寿命が尽きた時、まるで社会の抗体反応に負けるように一瞬で崩壊していく。
ブームが過ぎるとあっという間に死語になっていく、流行語がその代表ね」

「おまえは、今のこれもそうだと?」

「極端な例だけれど」

すました声が答える。

「こうした現象のことを、金属などが共振するさまに例えて、ライアル・ワトソンは言ったわ。『形態共鳴現象』と」

形態共鳴?
幸島の猿がそうであったように、女子高生という私達のコミュニティーが共鳴現象を起こしてその意識をある種の共有状態に置かれてしまったというのだろうか。
なんだか、高校生になってから信じられないことばかり起こる。
いや、この間崎京子という希有な存在に出会ってからなのかも知れない。
ため息が出た。

「あら、お疲れね。気にしないことよ。確かに私も聞いてるだけで××だけど」

え?今、なんて言った?

「だから、チョベリバ」

氷で出来た風鈴が鳴るような声。
なんてことだ。
おまえもか。
チョベリバ、チョベリブ、チョバチョブ、チョベリグ・・・
みんな流行に後れまいと必死なのか。
それとも模倣子だか形態共鳴だかの仕業なのか。
なんだかおかしくなってきて、声を出して笑ってしまった。
ひとしきり笑った後で、まだ電話口の向こうに間崎京子がいることを確認する。

「石川さんに、本当はなんて言ったんだ?」

「石川さん?ああ、あの子ね。だから、思った通りのことを言っただけよ」

間崎京子はそこで、記憶を辿るような間を置いた。

「そう、ライアル・ワトソンが100匹目の猿の話を取り上げた、その筋では有名な著書があるのよ。
邦訳は『生命潮流』と言うんだけど、1979年に発表された原題は・・・」

あ、待って、オチ、わかっちゃった。

『LIFE TIDE』

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