ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

アントニオ猪木&新日本プロレスコミュの猪木監禁事件・IWGP立ち上げと世代交代政界進出・落選

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
〜猪木監禁事件・IWGP立ち上げと世代交代政界進出・落選〜

【猪木監禁事件】
1982年2月27日には、猪木に対し「ルールの無い命をかけた」果し合いを申し込んだ沖縄松林流空手東海支部長であった水谷征夫とともにフルコンタクト空手の団体「寛水流空手(かんすいりゅうからて)」を設立したが、同年に漫画原作者の梶原一騎が暴力団関係者を使い、猪木を大阪のリーガロイヤルホテルの一室に呼び出し監禁する事件が起こった。当時週刊誌やスポーツ新聞のみならず、テレビや全国紙でも大きく取り上げられるニュースとなった、原因は猪木が寛水流を設立したことに怒ったとされるが真相は不明。

ちなみに梶原の著書『わが懺悔録』によるとこの事件は、「タイガーマスクのキャラクター使用料が猪木側から支払われなくなっており、猪木も梶原を避けていたので全く連絡がつかなかった時にたまたまホテルで会ったので、部屋に招いてその件を問いただしただけで監禁恐喝は完全に冤罪である」、とある。だが、梶原の他に同席者がいたことは否定しておらず、猪木に対して何らかの威圧をかけることができる人物、もしくはその様な「物」を手にした人物が存在したのは事実のようである。

〜IWGP立ち上げと世代交代〜
1983年には世界統一タイトルを目指しIWGPを立ち上げるが、同年6月2日に、自身の立ち上げた第1回IWGP優勝戦において、当時新鋭であったハルク・ホーガンにロープ越しのアックスボンバーを受けリングサイドに落ちた際に頭を打ち脳震盪を起こし、衝撃の失神完全KO負けを喫する。この頃から新日本プロレス内での世代交代の機運が高まってきた。

また、この頃より猪木自身が「アントンハイセル」など様々な事業に新日本プロレスの資金を投資したものの、その多くが失敗に終わって新日本プロレスの経営を圧迫することになり、これに嫌気がさした所属レスラーによる「クーデター」と、タイガーマスクや長州力の退団騒動がこの後に起こることになる。

1988年8月8日に行なわれた猪木対藤波戦は、「猪木負ければ引退か」?と憶測が飛び交った試合であるが、この一戦の前には長州力の不意打ちのラリアットをくらいピンフォール負けするなど、先行きが危ぶまれる中でIWGP挑戦者決定リーグ戦を何とか勝ち抜き、弟子の藤波辰爾が持つベルトに挑戦した。

「負けたら引退する」と宣言し、引退試合の実況を約束していた古舘伊知郎がテレビ朝日の演出により、急きょ実況する設定の中行われた試合は、結果60分時間切れの引き分け、後に猪木がIWGPに挑戦した最後の試合となった。

なおこの試合の模様はキー局のテレビ朝日が全国生中継で放送したが、試合の途中で、放送が終了していまい、クレームの電話が殺到した為かその後の、久米宏のニュースステーションのスポーツコーナーで、試合結果を試合模様と共に放送した。意外にもスポーツ部が長年ワールドプロレスリングを担当して放送して来たにも拘らず、この番組でプロレスの試合結果を放送したのはこれが初めてである。

1989年2月22日に両国国技館で行われた長州力とのシングルマッチで、ラリアットの連打をくらい完璧なピンフォール負けを喫する。それまでは自分より若手の選手に負けた場合、休養あけで本調子でなかったとか、タッグマッチであったとか、過酷なリーグ戦の最中だったなどの理由が考えられたが、この試合はそうではなかった。猪木はセコンドに肩を担がれ涙を流しながらリングを後にした。この後、政治家に転身している事から、この試合を事実上の"最後の第一線での試合"と見るファンは多い。

〜政界進出・落選〜

【政界進出】
同年には「スポーツを通じて国際平和」の合言葉で、スポーツ平和党を結成。第15回参議院選挙にも比例区から99万3989票を集めて初当選(キャッチコピー「国会に卍固め、消費税に延髄斬り」。さらに「今話題になっているリクルート問題に対して私はこの一言で片付けたい”逆十字固め”」。国会の場でも俺にしかできない事をやる」と言っていた。

史上初のレスラー出身の国会議員(=参議院議員)となる。また当時衆参両院共通で比例区は政党名の投票であったのに対し、自身の知名度の高さから猪木の個人名を書いた無効票が大量に出た)。比例区で最後の一議席をギリギリまで争ったのも猪木らしかった。政治活動を続けながらもプロレス界からは引退せず、政治とプロレスの「二足のわらじ」体制で活動を続ける。

1989年10月14日には、福島県会津若松市で講演中に暴漢に刃物で襲われ左の頸部などを負傷、東京の病院に入院した。10月25日頭に包帯をし車椅子に乗った状態で、統一会派を組んだ民社党の配慮により、初めて質問に立った。また、1991年に開戦した湾岸戦争前夜の1990年12月1日に、イラクにおいて「平和の祭典」を行なうことを発表し、関係者や人質被害者41家族46人と共にトルコ経由でバグダット入りを果たす。このイベントの開催後に、人質状態にあった在留日本人と全人質の解放に貢献した。

この勢いを元にその後行なわれた1992年7月第16回参議院議員通常選挙に、比例代表候補として元阪神タイガースのプロ野球解説者江本孟紀を擁立し、見事当選し参議院会派で2議席目を獲得する。1994年1月4日に行なわれた東京ドーム大会では「現役の参議院議員レスラー」として、馬場の遺伝子を受け継ぐ天龍源一郎と全日本でもレフェリングの経験を持つタイガー服部レフリーにより対戦する。

チョークスリーパーで天龍を落とし失神させたが(レフェリーは反則(5秒以内なので厳密には反則に当てはまらないのだが・・・)技のためダウンカウントを拒否)、蘇生した天龍に最後はパワーボムで敗れる。この試合は1年間テレビ中継されなかった。このシングル対戦は1回のみで猪木はリベンジ戦は行わなかった。

【落選】
しかし、この頃よりマスコミによる税金未納問題、女性問題などスキャンダルを連発する。これらは全て、佐藤久美子元公設第1秘書(当初は公設第2秘書だったが第1秘書の猪木快守が借金問題で秘書を解雇され昇格した)とスポーツ平和党前幹事長の新間寿によるものであった。TBSは、新間寿の記者会見を急遽生中継までして放送した。またこの前後には、江本副代表と党の運営を巡って対立する。特に党運営に関る金銭疑惑による猪木への不信感は2人の関係に大きな亀裂を生じてしまう。

また猪木の釈明記者会見の際に机を叩き記者を怒鳴るなどの高圧的な態度も茶の間から強い批判を浴びた、また政治評論家の菊池久が新聞に動じ一大疑獄になっていた佐川急便事件との関連性を報じた事もあった。この新間らによる「猪木スキャンダル」によって、1995年の参議院選挙で落選する。この落選にはかつて猪木の愛弟子=付け人だった高田延彦が副党首のさわやか新党が参戦し違いを明確に出来なかった事も影響したと言われる。尚その後江本孟紀副代表は離党し無所属になる。

コメント(0)

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

アントニオ猪木&新日本プロレス 更新情報

アントニオ猪木&新日本プロレスのメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。