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妄想の館へょぅこそ>(・∀・)ノコミュの幕末最後に暗躍した忍者・その一 「平山行蔵」

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武士の力が国を治めていた最後の時代。
それは「忍び」の時代の終焉でもあった……。
そんな動乱の時を生きた、三人の忍者がいた。
その名は平山行蔵・間宮林蔵・沢村甚三郎……。
彼等はどんな人物であったのだろうか?。そしてその時何を為したのであろうか?。

(注釈・尚今回UPしているお話は「教科書が教えてくれない裏忍者列伝」及び作家、戸部新十郎氏の著作に依る物から一部抜粋してありますので、御了承を)

平山行蔵(ひらやまいくぞう)[1759〜1828]

一章・罪人をもって北方警備に当たろうとした

18世紀末から19世紀初頭、幕府は蝦夷地(北海道)など、択捉島(えとろふ)、国後島(くなしり)、樺太(からふと)に出没するロシア艦船の対応に頭を悩ませていた。
幕府はこれら北方地区の測量、調査を行い幕府直轄領地としたが、依然、役所や官船を焼き、物資を掠奪するロシア艦船に決然とした対処の姿勢は見せなかった。
そこに声を上げたのが、江戸の剣豪の一人でもある伊賀同心、平山行蔵であった。
行蔵の考えはこうである。
「自分に1000人の兵ではなく、無頼の徒や罪人で構わない」
行蔵の考えは無頼の徒や罪人は凶悪で命知らずの者たちであるから、利を与え恩を着せてやれば、一身を顧みず働くであろうというものであった。

ここで行蔵の言う罪人とは、単なる窃盗犯や犯罪者のことを指したわけではないだろう。おそらく夜盗や強盗を得意とする、盗賊団の類を指していたのではないか。
なぜならそうした罪人たちの中に、かつて「忍び」「忍者」として「陰」の力をふるっていた者が多くいたからだ。
武田家の忍者や、北条家の忍者として有名な風魔小太郎率いる風魔一党は北条家滅亡後、江戸の町を襲う盗賊団として暴れ回っていたからだ。

伊賀忍者の末裔である行蔵はこうした者たちを集め自ら鍛え直し、再び実戦的な忍者集団を作り上げようとしていたのであろう。
しかし、「罪人あがりが簡単に言うことを聞くであろうか」「逃げ出した時はどうするのだ」そうした疑問に行蔵は、こう答えている。
「まず最初に、俺の額に焼印を押す。彼らの額にも残らず焼印を押す。こうしておけば、逃げ出してもすぐに見分けがつく。捕らえたら首をはねるまでである」
その焼印の文字は「赤心報国(嘘いつわりなき心で、国恩にむくいる)」とするものだったという。
平山行蔵とはいかなる人物だったのか?。
行蔵の生き様を、辿ってみよう。

二章・剣術とは、敵を殺伐するすることなり

行蔵の書「剣説」に、書かれた言葉である。
戦がなくなり武術(剣術)が実戦よりも「武士道」としての精神や心の有り様を重んじるようになった時代において、凄まじい一言である。
行蔵は「忠孝真貫流」の開祖であり、剣術のみならず長沼流兵学、大島流槍学、渋川流柔術、武衛流砲術、弓、馬術にも通じており、出来ない武芸は一つもなかった。
毎朝7ッ(午前四時)に起き、冷水で身体を浄め、祖先の霊を拝してから庭で7尺5寸(約2メートル30センチ)の白樫を振ること400回。それが終わると居合いを300回。次に弓を引き、鉄砲を撃ち、槍の素振りをし、最後に馬術にかかる。
この朝稽古が毎朝正確だったので、近所からは「平山の7ッ時計」と呼ばれ、時計がわりにされたという。
また学問も和漢の蔵書が、約8000巻あったという。現存する蔵書目録によれば総数2980巻、和漢の兵書1085部、城郭や兵器に関するものが362種。そのうえ行蔵自身の著が、約500巻を数えた。
そして机に向かう時は樫の二尺(約60センチ)四方の板を敷物にし、読書しながら拳をその板に突き立てた。
常に身体の鍛錬は、怠らなかったのだ。

食事は玄米飯に生味噌と塩辛い漬け物と決まっていて、湯茶は湧かさず食後も冷水で済ませた。
「治において乱を忘れず」行蔵の生活はまさにそれであった。
髪は四方髪。着物は1年を通じて袷(あわせ)の着物一枚。極寒の日でも足袋ははかず、短袴の下からは毛脛をさらし、3尺(約90センチ)以上の長刀を差し2貫500匁(もんめ)(約9.4キロ)の鉄棒を突き、通りを闊歩していた。
そして夜は薄い木綿の布団を一枚掛けただけで、板の間に寝た。

こうした生活を続けた行蔵の邸を訪れた水戸藩の儒学者・藤田幽谷をして「金皮(きんかく、武器)をしとねとして、死して厭(いと)わず、という言葉があるが、今確かにその人を見た」と言わしめた。
常に心身を鍛え上げ技を磨き、来るべき戦さに備え続けた行蔵はまさしく「陰」の力を受け継いだ「忍び」であった。

行蔵が1000人の鍛え上げた罪人を率いて択捉、樺太、蝦夷の地でロシア兵と対峙した時、いかなる戦いを挑んだであろうか?

かつての忍びの様に、ゲリラ戦法のごとく森にひそみ、山を渡り、神出鬼没に現れ、近代兵器に身を固めたロシア兵を震え上がらせただろうか?

あるいは馬上の武人となり、騎馬隊を率いて蝦夷の大地を駆け抜け、磨き上げた力で突撃をかけたであろうか?

だが時の権力者、幕府は、行蔵の声に耳を傾けることはなかった。
文政11年(1828)行蔵は、70歳の生涯を終えた。
病にあっても、門弟達を前に1貫600匁(6キロ)の鉄棒を振り回して見せたという。
ついに戦場に立つことがなかった最後の忍び、行蔵の辞世の句は、

武蔵野の芝生隠れのすみれ草 花の咲くてふ知るや知らずや

であった。

行蔵の抱いた夢の花は咲くことがなかったが、その夢は幕末の志士たちに引き継がれていくことになる。

以上が「平山行蔵」のエピソードです。

次回は「間宮林蔵」をご紹介します。

最後に。平山行蔵のウィキペディアを貼り付けておきます。

勝小吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%9D%E5%B0%8F%E5%90%89

以上です。
ではまた夜ぴかぴか(新しい)ムード





コメント(3)

忍者は興味深いな〜ウッシッシ今思えば妖刀って存在するのかな〜わーい(嬉しい顔)
ピーチちゃん&イチロー似さん。

コメントありがとうございます&纏めてレス失礼します。

忍者の姿は現在でも「まだ半分以上」が『不明な部分』があり、今後の研究等が待たれます。
それと、『妖刀』は実在します。
(実際妖刀「村正」が実在しますし、半徳川派の武家は全員が「村正」を所持し、それで徳川家の人達は命を落としている文献などがあります)

また続きが出来上がりましたら、UPしますほっとした顔ぴかぴか(新しい)

ではまた夜ぴかぴか(新しい)ムード

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