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忠臣蔵コミュの生類憐みとお犬様の真相

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 画像は、徳川五代将軍綱吉と隆光


【江戸時代のゴシップ集】

 元禄時代について書いた歴史の本には、必ずでてくる 「生類憐みの令」。徳川五代将軍綱吉による稀代の悪法と書かれ、この法律は綱吉将軍の生母・桂昌院の帰依した隆光の進言によってできた、と常識のように語られています。

 嗣子を得ることが出来ないのは云々。

 「公方さまは戌歳であらせらるることから、犬を大切に・・・」


 出典は、『三王外記』。「三王」とは、三人の将軍の意。
 綱吉・家宣・家継、この三代の将軍の時代のさまざまな評判を記したゴシップ満載の書物。署名は東武野史。じつは太宰春臺(延宝八年九月十四日/1680年11月5日 - 延享四年五月三十日/1747年7月7日)が書いたとされる。国会図書館に写本があります。


 どうもおかしい。

 ボクが元禄赤穂事件の調査をしたのは平成9年の夏からの2年半です。平成10年の新年号から連載が始まりました。
 平成10年の夏ごろから調べ始めた 「生類憐み」 については合点のいかないことが多く、その最たるものが隆光による進言でした。

 「あった!」

 東京工業大学大学院教授の山室恭子さんが書いた 『黄門さまと犬公方』。平成10年の10月。文春新書の創刊のなかの一冊です。
 この本によって、隆光進言説が崩壊したのでした。

 出版社を通じて山室さんを紹介していただき、同書を参考文献の一冊に加えるとともに、著者サイン入りの初版本10冊を読者プレゼントにしました。

 そもそも 「生類憐みの令」 と称する法令はなく、後世の研究者が綱吉将軍の 「生類憐み思想」 によって出された町触れなどを総称していったものでした。


 生類憐みに関する発令の第一号は、貞享四年正月二十八日(1687年 3月 11日)に出されたとされていました。
 病気になった牛馬その他生類を捨てることを禁じたものです。

 原文:「惣而人宿又ハ牛馬宿其外ニも生類煩重く得てハいまた不死内ニ捨候様ニ粗ニ相聞候 右之外不族有之におゐてハ付候 蜜々ニ而ケ様成儀有之候ハ訴人に出へし 同類たりといふとも其科をゆるし御ほうひ可被下候」




 【アリバイ成立】

 ところが、それ以前。貞享二年七月十四日(1685年 8月 13日)に、こんな発令があったのです。

 公方さまお成りの道筋において犬猫が出ても苦しうないので、どのような者が通ろうとも犬猫をつないでおく必要はない。

 原文:「御成被為遊候御道筋江 犬猫出申候而も不苦候間 何方之御成之節も犬猫つなき候事可為無用者也」

 隆光が綱吉に接近するのは貞享三年(1686)。江戸にある知足院の住職に任命されてからのことです。
 上記発令の貞享二年七月十四日には隆光は大和国の長谷寺にいて、綱吉はおろか桂昌院とも対面することは不可能でした。

 これで、隆光さんのアリバイ成立。

 奈良の長谷寺ですよ。

 長谷寺は、新義(しんぎ)真言宗豊山(ぶざん)派の総本山で、多くの優秀な学僧を育てた寺としても有名。長谷寺の学僧になるには、東大入学なんてものではない。超難関を突破しなければなりませんでした。

 隆光さん、晴れて 「シロ」 となったのでした。

 これをすぐに追いかけて、雑誌に書いたのはボクです。

 こう書くと、「いいものめっけ」 でそのまま戴せてしまったと思われるかも知れませんが、ボクはそんなことはしません。山室さんの説を取り入れたのには理由があります。

 なぜ、「お犬さま」 になったのか。中野と四谷に巨大な犬小屋を作った理由は? そのことで、ボクには別の発見があったからです。



 【犬を食っていた】

 江戸時代初期から中期のはじめに生きた、大道寺孫九郎重祐(老いて友山と号す)が書いた 『落穂集』 には、こんな記述があったのです。

 私が若いころは、江戸の町方に犬はほとんどいなかった。もし犬がいれば、武家方も町方ともに、下々の食物としては犬にまさるものはないとされ、冬に向かうと、犬は見つけ次第に打ち殺して食べたからである。

 原文:「我等若き頃迄は御當代の町方に於て犬と申すものはまれにて見當り不レ申候 若したまさか見當り候へは武家町方共に下々のたべものには犬にまさりたる物は無レ之とて冬向になり候へば見掛け次第に打ち殺し賞翫仕るに付まゝの義に有之事也」



 【まずは人です】

 綱吉将軍の 「生類憐み」 は、まず人でした。牛馬、犬猫以前に、江戸時代の初期には、「辻斬」 という、路上殺傷がよくあった。武士が刀の切れ味を試すために、夜間道端で通行人を斬ることが多発し、幕府はそれを防ぐために 「辻番」 を設けたのですが、どうもそれだけでは手薄だったようです。

 天和三年(1683)には辻番制度が強化され、番人の数は、一万石から一万九千石までは昼三人、夜五人。二万石以上は昼四人、夜六人。組合辻番では昼二人、夜四人となりました。番人は、二十歳から六十歳までの健康な者という条件もあります。

 綱吉が将軍になったのは延宝八年(1680)なので、綱吉は将軍に就任して3年目に辻番を強化したのです。



 【元禄十四年の米の不作で江戸にも餓死者が】

 歴史に残る大凶作こそなかったものの、元禄前後には米の不作がいくつもあって、刃傷事件があった元禄十四年も東北地方の米の不作の影響で江戸も米不足。師走には幕府によって御救小屋が設置され、餓死者がでないように、食糧のない人には粥を施行していたのです。




 【犯人は誰だ!】

 「生類憐み」 を歪めてしまったのは、大正2年にはじめて世に出た 『御当代記』(戸田茂睡著)と上記の 『三王外記』。それに前代をこき下ろすように書いた新井白石の 『折りたく柴の記』 であるといっても過言ではないでしょう。

 こうした史料を使うにしても、すべて真に受けず、他のいくつもの史料と照らして調査していく必要があります。

 そうすると、

「むかしだったら、米が不足すれば犬を食えたのに」、とか

「いちいちうるせーな。人間よりもイヌコロが大事だというのか。犬公方め」

「何ィ、ほっぺの蚊を叩き殺したら斬首だとお。いくらなんでもそこまでやるかぁ」

「ウソでもおもしろい。こいつも記事にしちまえ」


という声が聞こえてくるでしょう。



 でも、そのおかげで平和な江戸になっていったのです。

 いちばんまずいのは、こういった史料を自ら解釈することなく、誰かの解釈をそのまま引用して公にする人が多いことだと思います。



コメント(7)

私はただの歴史好きで忠臣蔵好きなので、史料の読み方とても勉強になります。
そらに、ひゃくさんの問題提起、意見、結論の書き方がわかりやすくいつも感心してます。
史料を資料と読みかえれば自分の仕事にも活かせると思っています。

ただ、このトピは忠臣蔵のコミュで出さなくてはいけない話ですか?
忠臣蔵にも赤穂事件にも話がつながってなく唐突な感じがしました。
いくつかの別トピを見れば言わんとしていることはわかるつもりですが。。。
晴れおれりゅうさん

 ご意見ありがとうございました。
 フィクションの忠臣蔵ファンもいれば、「あの事件、ホントはどうだったのだろう」 と、史実を追究する方もいます。
 ところが後者では、書店で売ってる本に書かれているほとんどは、誰かが書いたものをそのまま借りてきてるだけ。
 史実としての赤穂事件があった時代の 「生類憐み」 などはその最たるものといっていいでしょう。

 政治のバックにあった思想とそれによる施策を知らずに、三百年以上も昔の大事件の真相究明はできない、とボクは考えています。

 つづく
「生類憐み」 に関係して辻番のことを書きました。
 この辻番。じつは綱吉将軍の前にも、御徒目付が辻番をチェックして歩くようにしたり。いろいろやってきたのです。

 ボクが上に書いた辻番強化の発令は、「お七火事」の直後に出されたもの。火付改の創設や屋根番制度など、火事関連施策と同時でした。

 八代将軍吉宗の時代になると、辻番の番人を町人に請負わす家が出てきて、それが広がった。幕府としてこれをどうするか、試行錯誤が繰り返されます。

 辻番は武家地の辻に置かれていたもので、その数は屋敷の広さなどで変わりますが、おおざっばにいえば、

 100m × 100m に、
 
 一カ所か二カ所。

 武家地の辻番に町方の自身番。江戸は交番だらけだった、といっていいでしょう。

 辻番といえば江戸時代中期以降、町人請負の辻番のだらけた状態や、番人は老人だとか、番小屋で遊んだりアルバイトしている者もいたなど、町の木戸番などと同レベルと思っている方が多いと思います。

 討入事件当時の辻番の番人は、運営する家の家来。アルバイトで牢人(浪人)を雇うことはあったかも知れませんが、決してヤワなものではなかった。

 江戸の武家地では、辻番の前を通過しないで5分も歩けない。江戸の場末とはいえ本所も例外ではなかったのです。

 討入メンバーは赤穂から江戸にやってきた人が多く、江戸詰の元家来は少なかった。江戸のセキュリティシステムを知っていれば、「夜討」は画餅のようなもの。

 相生町二丁目の前原伊助の借店のすぐそばに、吉良家と土屋家の共同運営の辻番があった。これは間違いないことでしょう。

 吉良屋敷の南を走る道の向こう側が相生町二丁目です。前原の借店が相生町二丁目のどのあたりにあったかは確定できないものの、表に面していたはず。とすれば、戸を開けただけで辻番の番人と目が合うくらいの至近だった可能性もあります。

 大石内蔵助が討入前日に赤穂の僧に送った書簡に 「若老中も知ってる」 ように書いてます。
 若老中とは、幕府職制の若年寄と同じ。
 江戸城の絵図を何枚か見ていくと、そのなかには「若老中」と書かれた部屋があったりします。

 大石内蔵助は、「若老中も知ってる」 ことをどのようにして知ったのか。
 おそらく、前原借店至近の辻番などがフリーパスだったからでしょう。

 わかりやすくいえば、こうです。
 辻番の運営は大名各家および、旗本の 「組合辻番」 では二〜数家が共同で行っていましたが、幕府管理下にあって、その最高責任者が若老中(若年寄)だった。
なるほど。勇み足でしたね。

> 政治のバックにあった思想とそれによる施策を知らずに、三百年以上も昔の大事件の真相究明はできない

今起きていることでも同じですが、史料が少ない昔なら尚更のことですよね。
背景を知れば史料の正しさや矛盾がわかりますね。加えて読解力も必要ですな。
 綱吉の時代の政治でよく語られるのが、御側用人だった柳澤出羽守保明(松平美濃守吉保)。ところが御側用人でもう一人大きな力を持っていた人がいるのです。次席御側用人、松平右京大夫輝貞。

 徳川実記と総称されているなかの 「常憲院殿御實記」。綱吉の代について書かれたものには、「松平右京」の名が度々でてきます。
 生類憐みに関する当時の落首のなかにも、右京大夫の名が見られます。

 この松平輝貞は若い頃、神田川沿い佐久間町二丁目北の屋敷に住んでいました。隣には従弟で十歳年下の松平信望が住んでいたのです。

 
 松平信望の通称は、登之助。
 輝貞は出世して、屋敷も御城の近くになりましたが、信望の屋敷は元禄十一年までは佐久間の北にあって、その後に本所に移りました。元禄十一年九月の勅額火事に被災したためです。
 同じくこの大火で鍛冶御門内にあった吉良上野介の屋敷も焼けて、呉服橋御門内に移りました。

 元禄十四年の刃傷事件ののち、松平登之助信望は本所の屋敷を立ち退いて御徒町の近くに移りました。
 松平登之助の住んでいた本所の上ケ屋敷に吉良上野介が入ってきたのです。

 ちなみに松平登之助は、綱吉将軍の御小姓でした。
綱吉は善政だったと井沢元彦は述べてますね
三公七民や実力者の人材登用、ケンペルが綱吉を褒めちぎる日記を記述している。

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