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イタリア世界遺産(JITRA)コミュのイタリアにおけるロンゴバルド人たちの支配地 1

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2011年6月パリで開催された世界遺産の登録箇所決める会議で「イタリアにおけるロンゴバルド人の支配地」が、登録基準(ii)(III)(VI)などで、世界遺産に登録された。
今回の遺産はイタリア語で「I Longobardi in Italia. I luoghi del potere」というが、私は「イタリアにおけるロンゴバルド人の支配地」という訳を使った。このイタリア語の日本語定訳はまだないため、2011年3月に白水社からイタリア語伊和辞典を監修された静岡文化芸術大学教授の高田和文先生に質問したところイタリア語の「Potere」の意味を正確に訳すなら「イタリアにおけるロンゴバルド王国の政治的中心地」になり、「イタリアにおけるロンゴバルド人の支配地」が一番適切ではないかというアドヴァイスを受け、この訳を利用する事にした。                                               
1.ロンゴバルドの歴史
ロンゴバルドというのは「英語のLong beard」即ち「長い顎鬚」という意味で、この民族の特徴として男性は長い顎鬚を伸ばしていた事に由来し、それは彼らの残した浮き彫りなどに髭の長い男性の像が多く見られる。ロンゴバルド族の祖先はスカンディナヴィア半島出身と言われ、中世の初期に出現した。西ローマ帝国が476年に滅亡した後旧西ローマ帝国の領土は東ローマ帝国と法王がこの地を支配していた。東ローマ帝国は東方のサーサーン朝ペルシャなどとの紛争で軍備がおろそかになっていた。またカトリック教会は軍を持っていなかったので、北方から侵入してきたゲルマン系民族の侵入を止める事は出来なかった。西暦568年アルボイン王に率いられたロンゴバルド族は、当時東ローマ帝国の支配下にあった北イタリアを占領し、パヴィアを首都に定め、王国を設立し、その後ロンゴバルド人たちは、ウンブリアの中世の街スポレートとナポリの北東70キロのベネヴェントに公国を建設した。その後ロンゴバルド族は、約200年間イタリアを支配し、774年に神聖ローマ帝国のカール大帝に滅ぼされた。

ミラノの属する州をロンバルディアというのもこのロンゴバルド王国の名前に由来している。ロンゴバルド族は、他民族との混血を促し、固有の文化を捨て、同化政策により、融和を図った。そのため統治は安定し、王国は蛮族の王朝としては比較的長期に続いた。そして中世の停滞していた経済を活性化し、北イタリアの独立した都市国家の基礎を築き、後のルネッサンス誕生の要因になった。ロンゴバルド族は、イタリアに定住すると古代ローマの伝統様式、キリスト教価値観、ビザンチン文化の影響を受けた建築物を、イタリア各地に建設した。イタリアにはロンゴバルド王国の影響を受けた街が多い。その中には、パヴィア、ウディーネ、ゴリツィア、ポルデノーネ、ベッルーノ、パドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、ブレシア、ミラノ、ヴァレーゼなど。また南のモンテ・サンタンジェロも独自に世界遺産への登録を申請していた。おそらくユネスコの審査員も申請された街全部を世界遺産にする訳には行かないので頭を悩ました事だろう。そして最終的には、一つの街でなく、イタリア各地に存在するロンゴバルド族の特徴を最も現している建築物7カ所が選ばれた。世界遺産として登録されたのは、以下の場所である。   
1) チヴィダーレ・デル・フリウリCividale del Friuli  ガスタルダーガ地区にある 『ロンゴバルドのテンピエットIl Tempietto Longobardo』 及び『カリスト司教が整備した教会関連施設群  『I resti del Complesso Episcopale rinnovato da Callisto』  及び『国立考古学博物館所蔵ロンゴバルド族副葬品 Museo Archeologico Nazionale, corredi delle necropoli longobarde』

2) ブレシャBresciaの『サン・サルヴァトーレ=サンタ・ジュリア修道院 Il complesso monastico di San Salvatore-Santa Giulia』

3) カステルセプリオとトルバCastelseprio-Torbaの『カストラムCastrum(要塞地区)』

4) クリトゥンノ Clitunnoの『クリトゥンノのテンピエットil Tempietto del Clitunno』

5)スポレートSpoletoの『サン・サルヴァトーレ聖堂Basilica di S.Salvatore』

6)ベネヴェントBeneventoの『サンタ・ソフィア教会Chiesa di Santa Sofia』

7)モンテ・サンタンジェロMonte Sant’Angeloの『サン・ミケーレ聖所記念堂 Santuario Garganico di San Michele』

2. ロンゴバルド支配地への旅

1)ブレシア Brescia
2011年の夏イタリア各地に点在するロンゴバルドの建造物が世界遺産に登録されてから、どういう風にこれらの街を訪れるか、色々思案した。私にもこの夏にどうしても訪れてなくてはならない別の場所があったからだ。地図を見ながら住んでいるボローニャに近いまずブレシアを訪れる事にした。7月10日、私はヴェローナにおり、前日はナブッコをアレーナで見た。そしてこの晩はアイーダを鑑賞する事になっていた。ホテルで朝食を取るとすぐヴェローナ駅に向かった。





ブレシアには9時40分頃着いた。タクシーですぐ、『サン・サルヴァトーレ=サンタ・ジュリア修道院 Il complesso monastico di San Salvatore-Santa Giulia』 へ。駅から10分も走ると右に高い大きな教会が見えてきた。そして車はその脇の坂を上がり、左の教会の前で止まった。私が数枚写真を撮っていると、イタリア人の神父さんが日本語で話しかけて来た。私が世界遺産のサン・サルヴァトーレとサンタ・ジュリア教会を撮影に来たというと、この教会はサンタ・ジュリア教会ではない。世界遺産になっているのは、すぐ下の教会であると教えてくれた。神父さんの勧めで中の教会を見せてもらったが、美しいフレスコ画で飾られた素晴らしい教会で、名前はサン・クリストSan Cristo教会だった。
お礼を言い、下のサンタ・ジュリア教会に行った。それまで私の持っていた資料ではサンタ・ジュリア教会とサン・サルヴァトーレ修道院がどういう位置関係で存在しているか全くわからなかった。私が教会の下の道をどんどん進んで行くと入口があり、それがブレシア市立博物館だった。世界遺産になっているのは、この博物館の中にあるサン・サルヴァトーレ修道院と現在は教会としては使用されていない、集会所、結婚式場などに利用されているサンタ・ジュリア教会だった。そして博物館の中にあるロンゴバルド関係の展示、浮彫り、食器、貨幣などの展示物も世界遺産に指定されている。

このサンタ・ジュリア教会はロンゴバルド王国のデジリオ公爵が王になる前に建造した教会、修道院で、現在はラファエロの作品2点がある市立美術館などを含む市立博物館になっている。修道院は、古代ローマ時代の住居の跡に建設される事が多く、ブレシアの修道院周辺にも古代ローマ時代の遺跡であるA.D73年に建設されたカピトリーノ神殿(Tempio Capitolino)などがある。私はそれまで、ブレシアにはイタリア一のパスティチェリアといわれるマッサーリMassariの取材やプッチーニのマダマ・バタフライが上演され大成功を収めたテアトロ・グランデ(Teatro Grande)で上演された「アンナ・ボレーナ」を見に行った際、ロッジア、ブロレット、ドゥーモなどの主要な建造物を見ただけで、街の少し外れにこの様な巨大で価値ある世界遺産に登録されるほどの文化遺産が存在しているとは思わなかった。ロンゴバルド人の製作した彫刻、浮き彫りなどとても美しく、芸術性が高い。博物館内には、ロンゴバルドの部屋もあり、十分彼らの作品を堪能する事が出来た。

2) チヴィダーレ・デル・フリウリ Cividale del Friuli
私はこの数年間夏にトリエステで開催されるオペレッタフェスティバルを見にトリエステへ行くのが常で、今年も7月24,25日に行き、その後、ウディーネに向かった。この街には以前2回行った事があったが、今回訪れたのはウディーネから16キロ東にあるチヴィダーレ・デル・フリウリにあるロンゴバルドの遺産である『ロンゴバルドの小神殿Tempietto longobardo』を撮影する為だった。


トリエステから汽車で10時にウディーネに着いた私たちは、駅から遠くないアンバッサーダーホテルに荷物を置き、すぐタクシーで、チヴィダ―レ・デル・フリウリへ向かった。ウディーネの街を過ぎると緑の豊かな田園風景がどこまでも続く。約20分後タクシーは、チヴィダーレ・デル・フリウリの街に着いた。私たちがタクシーを下りたのは,ディアボロ橋を渡った所だった。30m位下の眼下にはナティゾーネ川の清流が流れ、ここから街の主要な歴史的建造物が一望できる。緑豊かな街の樹木と教会などが調和し、素晴らしい景色になっていて、一目でこの街が好きになった。時間がなかったのですぐ目的のロンゴバルドの小神殿に向かった。小さい小道を入り少し歩くと塔のある教会が見える。その左に入口があり、そこを入るとすぐ緑に包まれた静かな雰囲気のサンタ・マリア・ヴァッレ修道院Chiesa di Santa Maria in Valleが見えた。その先に教会の祈祷所である小神殿があった。チヴィダーレ・デル・フリウリは、ローマ皇帝カエサルの名前をとって紀元前53年「Julii」と言われたが、568年ロンゴバルド族が、近くのプレディル(Predil)峠から侵入し、公爵ジズルフォ(Gisulfo 1世)によって彼らの最初のイタリアにおける首都になり、Friuliになった。その後カリスト司教が、アクレイアから来て、チヴィダーレは、政治的、宗教的、文化的中心地になった。ロンゴバルド族はその後200年この街を支配するがその最も重要な足跡がこのロンゴバルドの小神殿だった。この神殿が、最初の文書に記録が見られるのは830年、建設されたのは定かではないが760年頃と言われている。小神殿はナティゾーネ川に突き出ていて、中には川に面した短い通路を通って入った。入場料は2Euroで、入り口にいた女性に「あなたはロンゴバルド族の末裔ですか」と質問したら「私は、フリウリの人間です。」といった。
8世紀に造られたといわれる司教説教壇の上の壁には、ビザンチン風の壁画が描かれ、奥の壁には人物を描いた8世紀の漆喰装飾Stucchi fuguratiがあり、弓なりの大きなフリーズにはブドウのつたの模様が描かれ、その上に6体の女性像があった。全体的にとても緻密な装飾で、また描かれている絵や人体像などは素朴な印象を受けたが、心に残る場所だった。私たちはその後ドゥオーモのそばにある国立考古学博物館に行った。その2階はロンゴバルドのフロアになっていて、そこには再利用されたローマ時代の石棺、フリウリを征服した時のロンゴバルド族のジズルフォ公の物と言われる武具、金細工類、周辺から出土した聖具などが飾られていて、これらも世界遺産に登録されている。
3) モンテ・サン・タンジェロ Monte Santa’Angelo
2011年8月10日妻と私は、プーリア州フォッジアの南にある港町でロマネスクの傑作といわれるカテドラーレのあるトラーニに来ていた。友人からトラーニは素晴らしい街なので是非行ったらといわれ、前日から来ていたのだった。トラーニは湾を囲むように港町が展開し、その湾の岬にロマネスクの優美な教会がある。確かにトラーニの街は素晴らしかったが、翌日の朝私たちは汽車でマンフレドニアに移動した。フォッジアで乗り換え、マンフレドニアに着いたのは、10時半頃、タクシーでレージオホテルマンフレディに行き、荷物を預け、すぐモンテ・サンタンジェロに向かった。   

マンフレドニアからモンテ・サンタンジェロまでは約16キロ、しかし現実には道が蛇行したりしているので25キロ位はあった。樹木のない荒れた石灰岩の岩山が横に伸びている。標高800mある坂をゆっくり上って行くと近代的な住居が見えてきたが、ロンゴバルド人にゆかりの深いといわれるようなチェントロ・ストリコはなかなか見えなかった。山の頂上に着き、車で10分も走ると古い建物が見えてきて、旧市街に入った様だった。朝11時半、目指す『サン・ミケーレ聖所記念堂 Santuario Garganico di San Michele』は、高い塔があるのですぐわかった。私が驚いたのは、多くの人の群れだった。チヴィダーレ・デル・フリウリのロンゴバルドの小神殿にしても見物に来る人はそれ程多くない。しかし、サン・ミケーレ聖所記念堂は、おびただしい人で賑わっていた。すぐに入口から石の階段を下りて行くと突き当り、右に少し行くとまた入口がありそこが大きな地下の礼拝堂になっていた。神父がミサを行い、多くの人が祈りを捧げていた。集会場の左の隅に祭壇があり、沢山の人が、白い大理石像に向かって、献金し祈りを捧げていた。


よく見ると小さな大天使ミカエルの像で、これはルネッサンスの彫刻家アンドレア・サンソヴィーゾの作品だという。私は、聖所記念堂に併設されているサン・ミケーレ・アルカンジェロ美術館に行った。ここには大天使聖ミカエル(「ミカエル」はイタリア語では「ミケーレ」)の肖像画、聖画、聖具などが展示されていたが、の色々な種類の彫像が数多く展示され、ここが大天使ミカエル信仰の発祥地であることを改めて認識させられた。ヨーロッパにおける大天使ミカエルの信仰は、493年このモンテ・サンタンジェロのとある洞窟に大天使ミカエルが姿を現し、司教ロレンツォ・マイオラーノは、この御使いに教会を献堂したと伝えられる。そしてそれがヨーロッパにおける大天使ミカエル信仰の発祥地になった。またこの教会の起源は6世紀後半に大バシレオス派の修道院だったといわれ、その時代モンテ・サンタンジェロは、ロンゴバルドのべネヴェント公国の領土だった。大天使ミカエルの教会は、「全国的な巡礼地」になり、現在もその巡礼の伝統は続いている。フランスのモンサン・ミッシェルも、大天使ミカエルの巡礼地である。今このサン・ミケーレ聖所記念堂のある周辺は多くの土産物屋、レストラン、バールが立ち並び、大きな観光地になっている。私たちは昼食後、この場所からすぐ近くの城に行った。そこからはモンテ・サンタンジェロの旧市街が一望できた。
4)ベネヴェント Benevento
2011年8月12日私たちはマンフレドニアからフォッジア経由でフレッチャロッサに乗り換えベネヴェントに着いた。ホテルはチェントロストリコから少し外れたウナ・ホテル・モリ―ノに泊った。ベネヴェントは、ナポリの北東約70Kに位置し、アッピア街道の交通の要衝地として繁栄し、古代ローマの遺跡がある。ベネヴェントはローマ時代に建設された現在も残るトロヤヌス帝の凱旋門、ローマ劇場などに見られるように経済の繁栄した地だった。     


西暦571年ロンゴバルド族が侵入し、ここを南イタリアの最南端の公国に定めた。その時代の建物として、現在『サンタ・ソフィア教会Chiesa di Santa Sofia』が残っていて、それが今回世界遺産に登録された。このサンタ・ソフィア教会は、8世紀後半、後ろにある修道院ともどもロンゴバルド族のアリキス2世によって創建された。
私がサンタ・ソフィア教会を撮影しようと夕方の5時頃教会に行くと、正装した人たちと花嫁、花婿がオープンカーに乗って現れ、沢山の人たちが教会に入って行った。私はサンタ・ソフィア教会を正面から撮影しようと、暑い中2時間も周辺を行ったり来たりしながら彼らの去るのを待っていたが、その日はとうとう撮影できなかった。撮影に邪魔だから新郎新婦の乗る飾りの付いたオープンカーをどかしてくださいともいえなかった。しょうがないので翌日サンタ・ソフィア教会を撮影する事にし、8月13日の朝9時教会に行った。人はいなかったが教会は一部、影になる箇所があり、満足に撮影できなかったが、教会の後ろにあるサム二ウム博物館に行った。

1873年に創設された博物館には、先史時代以前、ギリシャや古代イタリアの陶器、彫刻、近郊で発掘された美しい壺などがあり、奥の一室がロンゴバルドの部屋になっていた。そこにはロンゴバルド時代に着用された男性の衣装、石碑などが展示されていた。貨幣部門には、ギリシャ植民都市時代、ローマ、ナポリ王国時代の貨幣が見られたが、私にとって興味深かったのは、「トレミシス金貨」と呼ばれる金貨。これは、フランク王国のカール大帝が、774年ロンゴバルド王国を滅ぼした時、ロンゴバルド王国のべネヴェント王国の領主だったアリキス2世は、カール大帝より“Princip”の称号をもらい「べネヴェント公国」の存続が認可された。しかしその為ベネヴェント王国は、毎年7000ソリダスの年貢の支払いを義務付けられ、それを払うためにアリキス2世が発行した金貨が、「トレミシス金貨」と呼ばれ、金貨のデザインはビザンチン帝国の様式で、ビザンチンの皇帝の肖像画が彫られていた。

博物館の中庭は緑の豊かな静寂が支配する回廊になっていて中央に井戸があり、白い花が咲き乱れていた。その柱には、精巧な彫刻が施されていて、女人像やロンゴバルド族の特徴を示す長い顎鬚をはやした男性の彫刻、浮き彫りが数点あった。この回廊つき中庭は12世紀初頭にロマネスク様式で造られた。教会の内部は、角柱と円柱の一部が中のクーポラを支え、ロンゴバルド時代に描かれたフレスコ画の断片が左側にあり、聖ザッカリアの生涯が描かれていた。右側のフレスコ画は福音書の一場面が描かれていた。ホテルで紹介されて食べに行ったレストランで昼食を済まし、14時頃サンタ・ソフィア教会を再び撮影に行った。障害はなく、光もよく3度目でようやく綺麗にサンタ・ソフィア教会を撮影できた。

5) クリトゥンノ Clitonno
ベネヴェントには2日滞在し、8月14日(日)に次の場所スポレートに移動した。ローマにフレッチャロッサで着いたのは、11時15分、次のスポレート行きの汽車は12時55分だった。ローマ駅のセルフサービスのレストランで、食事を取りながら汽車の出発を示す電光掲示板を見ると私の乗る予定のアンコ―ナ行きの汽車は「Soppresso(中止)」と書かれていた。この日は日曜日で私の古いガイドブックを見ると日曜日は目指すクリトゥンノにあるロンゴバルドの小神殿の開館は12時までと書いてあった。その為一刻も早くスポレートに着きたかった。インフォメーションで調べると次のスポレート行きは1時55分になるという。それとは別に12:44分発の各駅停車のフィレンツェ行きの列車がある事がわかった。この列車はローマのテルミニ駅の一番線の奥のホームから発車するので、妻を呼びに行き、急いでキャリーバッグを引きづりながら約10分歩いて、列車に乗った。車内はものすごい人で、冷房などは効いてなかった。私は、オルテOrteでスポレートSpoleto方面に行く汽車がうまく乗り継ぎができる事を祈っていた。そして汽車はオルテに13時半に着いた。すると10分後にフォリーニョ行きの汽車が出ると言う。私は喜び勇んで、乗り換えた。こちらは冷房がよく効いていて、乗っている人も少なかった。約40分予定より早くスポレートに着いた。 

すぐにタクシーに乗り、スポレートから11キロ先のカンペッロ・スル・クリトゥンノを目指した。私は一度この場所を訪れた事があった。今から5年位前拙著「ゲーテのイタリア紀行を旅する」の取材で、この場所を訪れており、ヴェルギリウスら古代の詩人を魅了した、樹木に囲まれた美しい泉が印象に残っていた。『クリトゥンノのテンピエット(小神殿)Tempietto del Clitunno』 は、別名サン・サルヴァトーレ教会と言われ、(4世紀から5世紀、または8世紀から9世紀に建設されたという説もある。)、フラミニア街道沿いにある初期キリスト教時代を代表する美しい建物で、4本円柱が立つ古典的なプロナオス(神殿の入り口)が小さな部屋の前にあり、小さな後陣内部には8世紀のフレスコ画の一部が残っている。また建物や内部に描かれた絵画、彫刻、装飾などにロンゴバルドの様式が随所に見られる。私が3時少し前にこの神殿に着くと、幸運な事に入口は開いていた。すぐに2Euroを支払い、この神殿を心行くまで撮影できた。1786年10月26日この小神殿を訪れたゲーテはこの建物について「サン・クローチェ・フィッソーは、路傍にある不思議な礼拝堂である。僕はそれを昔この場所にあった神殿の遺跡だとは思わない。円柱や支柱や梁木などを拾い集めてつぎあわせたものだ。馬鹿げてはいないが、気違いじみている。」と述べ、この小神殿の不思議な美しさを書いている。





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