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☆☆城マニア☆☆コミュの☆★竹田城(別名:虎臥城)★☆

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 この時期になると、毎年、兵庫県朝来市和田山町にある竹田城や立雲峡に桜を見に行きます。
今年は、偶然『竹田城祭り』をやっている日に行ったので、2重に楽しめました。竹田城と言えば、やはり石垣群の威容とそこから見下ろす絶景には感動します(城下から遥か高く見上げる山の頂に位置し、しばしば円山川の川霧により霞むことから、天空の城の異名をもつ)。
皆さんもぜひ機会があれば行ってみて下さい!!


【歴史】
但馬国守護大名山名持豊(宗全)によって、出石此隅山城の出城として、播磨、丹波と但馬の国境が近く、街道が交わる地に侵攻を防ぐ目的で建設された。 築城は1431年(永享3)、完成は嘉吉年間(1441〜43年)と伝えられる。当初は土塁造りの城郭であったが、羽柴秀長から赤松広秀(斎村政広)の城主時代における改修工事により、総石垣造りの近世城郭として生まれ変わり、廃城間近に現在の壮大な姿となった。修復には13年の年月を要し、賦役のため農民は「田に松が生えた」ほどの困窮に陥ったり、村中が夜逃げするところもあったと伝えられる。石垣には織田信長がしばしば採用した穴太流石積みの技法(野面積み技法)が用いられている。
山名氏のもとでは山名四天王の太田垣氏が配された。応仁の乱によって東軍の丹波国細川氏の軍勢の侵略を受けるが、太田垣氏らの軍勢が国境の夜久野が原に撃退した。しかし、羽柴秀吉による、1569年(永禄12)および1577年(天正5)の但馬征伐により落城。1580年(天正8)、山名氏の後ろ盾となっていた毛利氏が但馬から撤退し、太田垣氏による支配は完全に終焉をむかえた。
その後、秀吉の弟羽柴小一郎長秀(秀長)が城代となるが、のちに秀長は出石の有子山城主になったため、秀長の武将である桑山重晴が竹田城主となった。その後、桑山重晴は和歌山城に転封となり、替わって秀吉に投降した龍野城主赤松広秀(斎村政広)が城主となる。
本丸北面最後の城主である赤松広秀(斎村政広)は関ヶ原合戦では西軍に属し、田辺城(舞鶴城)を攻めるも、西軍は敗戦。徳川方の亀井茲矩の誘いで鳥取城攻めに加わって落城させるが、城下の大火の責めを負い家康の命によって、慶長5年10月28日(1600年12月3日)鳥取真教寺にて切腹。竹田城は廃城となった。

コメント(2)

ものすごくきれいな場所ですね。
まだ興味をもったばかりなのでこれから各地のお城について勉強して以降と思っています。
なんちゅー歴史の深い、お城でしょうか・・・・・。
読んで感動しました。

しかも兵庫県・・・・。
今は朝来郡じゃなくなってるんですね。

兵庫県はたくさんお城があるけど、ここの事は知りませんでした。
しかし、なんともゆかりのあるお城なんだ。。。

細川藤孝も攻めたとは。

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