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☆☆城マニア☆☆コミュの☆二条城☆

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二条城は、慶長8年(1603年)、徳川将軍家康が、京都御所の守護と将軍上洛のときの宿泊所として造営し、3代将軍家光により、伏見城の遺構を移すなどして、寛永3年(1626年)に完成したものです。
豊臣秀吉の残した文禄年間の遺構と家康が建てた慶長年間の建築と家光がつくらせた絵画・彫刻などが総合されて、いわゆる桃山時代様式の全貌を垣間見ることができます。
徳川家の栄枯盛衰のみならず、日本の歴史の移り変わりを見守ってきたお城です。


○二の丸御殿

桃山時代の武家風書院造りの代表的なもので、車寄せに続いて遠侍(とおさむらい)、式台(しきだい)、大広間(おおひろま)、蘇鉄の間(そてつのま)、黒書院(くろしょいん)、白書院(しろしょいん)の6棟が東西から南北にかけて雁行に立ち並んでいます。
 建物面積3,300平方メートル、部屋数33、畳は800畳あまり敷かれています。


・車寄
唐門(からもん)を入ると豪華に装飾された車寄せが目に入ります。欄間彫刻は表と裏のデザインを変えており、表側には五羽の鸞鳥(らんちょう)・松・ボタン、上部には雲、下部には笹を見ることができます。屋根は桧皮葺(ひわだぶき)になっており、床は牛車で中に入れるように四半敷になっています。

・遠侍の間
二の丸御殿内で最大の床面積をほこり、約1046.1平方メートルあります。一の間・二の間・三の間・若松の間・勅使の間等に分かれていて、城へ参上した大名の控えの間です。写真の部屋は遠侍二の間で、虎の間とも呼ばれていて虎と豹(ひょう)の絵が描かれています。

・勅使の間
この間は、将軍が朝廷からの使者(勅使)を迎えた対面所です。
上段に勅使が座り、将軍は下段に座っていました。

・式台の間
参上した大名が老中職とあいさつを交わしたところです。将軍への献上品はこの部屋で取次がされました。襖絵(ふすまえ)は狩野探幽(かのうたんゆう)が描いたものといわれています。

・大広間一の間、二の間
一の間は広さ48畳、二の間は44畳となっています。将軍が諸大名と対面した部屋で二の丸御殿の中で最も格式の高い部屋です。この部屋で慶応3年(1867年)10月、15代将軍慶喜(よしのぶ)が諸大名を集め、大政奉還(たいせいほうかん)を発表した歴史的な部屋です。
 また二の間は御水尾天皇の行幸のときに、南庭につくられた能舞台の見所に使われました。

・大広間4の間
将軍の上洛のときに武器をおさめた場所と云われています。襖絵は老松に鷹が描かれています。狩野探幽(かのうたんゆう)の作といわれています。

・黒書院
将軍と親藩大名・譜代大名の内輪(うちわ)の対面所です。大広間より若干規模は小さいのですが部屋飾りはより技巧的です。襖絵は探幽の弟、尚信(なおのぶ)の作品です。

・白書院
将軍の居間・寝室だったところです。内部の装飾も大広間や黒書院とは趣向が異なっています。絵画は狩野興以(かのうこうい)または長信(ながのぶ)の作で、居間にふさわしい水墨山水画となっています。




○本丸御殿

内堀に囲まれた部分16,800平方メートル(約5,200坪)を本丸と呼びます。
 創建当時の本丸御殿は、二の丸御殿にほぼ匹敵する規模をもっており、内部は狩野派の障壁画で飾られていました。
 また、本丸には五層の天守閣がそびえていましたが、寛延3年(1750年)落雷のため焼失、さらに天明8年(1788年)には市中の大火のため殿舎をも焼失してしまいました。

 その後永らく本丸御殿の再建はならず、幕末に15代将軍慶喜の住居として、本丸御殿が建てられましたが、明治14年に撤去されました。

 現在の本丸御殿は、京都御苑今出川御門内にあった旧桂宮邸の御殿を、明治26年から27年にかけて本丸内に移築したものです。
 この旧桂宮御殿は京都御所にあった当時、仁孝天皇の皇女和宮が14代将軍家茂に嫁がれる前、約1年8ヶ月にわたって住まわれた建物で、1854年(嘉永7年)内裏が炎上したときにも延焼を免れ、孝明天皇の仮皇居に使用された由緒深い建物です。


○二条城の庭

現在二条城には江戸時代につくられた二の丸庭園、明治時代の本丸庭園、昭和時代の清流園の3つの庭園があります。平成17年(2005)、米国の日本庭園専門誌『ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング』では、日本全国693カ所の中で優れた庭園が選ばれ、清流園が5位に、二の丸庭園が10位に位置づけられました。また平成18年度(2006)には日本全国731カ所の中で、清流園が6位、二の丸庭園が8位にランキングされました。

・二の丸庭園
作庭の年代については記録や作風から推測して、慶長7年(1602)〜8年(1603)頃(家康時代)二条城が造営されたと きに、その建築に調和させて作庭されたものですが、寛永3年(1626)(家光時代)の御水尾天皇行幸のために一部改修を加えられたと考えられています。書院造庭園である二の丸庭園は神泉蓬莱の世界を表した庭園と言われ、また八陣の庭とも呼ばれています。後水尾天皇行幸当時の姿は、新たに増築された行幸御殿、中宮御殿、長局等に取り囲まれた中庭的な庭園としてつくられ、池の中に御亭を建て、池の中央に2つの島、4つの橋を 併せ持ち、二の丸御殿大広間上段の間(将軍の座)、二の丸御殿黒書院上段の間(将軍の 座)、行幸御殿上段の間(天皇の座)・御亭の主に三方向から鑑賞できるように設計されていました。

とくに、大広間からは庭園ごしに天守閣が一部望めたものと思われます。その後行幸の翌寛永4年(1627)から四半世紀にかけ、二の丸庭園を取り囲んでいた行幸諸施設は移 築・撤去され、小堀遠州の作庭意図も薄れていきました。3代将軍家光の上洛以降、14代将軍家茂が上洛するまでの、229年間将軍不在のまま幕 末を迎えます。その間事由は定かではありませんが、吉宗の時代に庭園の改修が行なわれました。

時代は下り、15代将軍慶喜の上洛時には、樹木はほとんどなく、池は枯渇して枯山水風の庭園景観を呈し、荒廃していきました。大政奉還後、二条城は転々と所管が変わり、宮内省に所管されてからは5回以上改修が行なわれ、離宮的・迎賓館的な城として利用されました。特に離宮時代に行われた植栽工事は、幕末の庭園景が変貌する程の大規模な改修工事で、今日に至る基本的な景観が完成したと考えられます。京都市に下賜されてからの二の丸庭園は、昭和14年(1939)名勝に指定、昭和28年(1953)に 国の特別名勝の指定を受け、文化財的資産と観光要素の一つとして維持され現在に至っています。


・本丸庭園
本丸造営当初の庭園は、史料が不足している為、どのようなものであったか分かっており ませんが、二の丸庭園にひけをとらない庭園が存在していたと考えられています。しかし、天明8年(1788)の大火の飛び火によって本丸御殿、隅櫓、多聞櫓などが焼失。庭園も延焼して空地となっていたと思われます。幕末には、本丸内に徳川慶喜の居室が建てられ、庭園は茶庭風に作られました。
 居室は老朽化のため明治14年(1881)に撤去、庭園も取り壊されて空地となりましたが、明治26年(1893)から明 治27年(1894)にかけて京都御苑内にあった旧桂宮邸の一部が移築されて、枯山水庭園が作庭されました。

現在の本丸庭園は明治28年(1895)5月23日、明治天皇が本丸に行幸された折、既存の枯山水風庭園の改造を命じ、約7ヵ月半の歳月をかけ大改造の末、明治29年(1896)に完成した芝庭風築山式庭園です。明治の中頃になると洋風の庭園が多く作庭されていることなどから、本丸庭園も少なからずその影響を受けていると考えられます。庭園は東南隅に月見台(築山)を配し、芝生を敷き詰め、曲線的な園路を設け、石段(岩岐 <がんき>)沿いにはアラカシ、ベニカナメなどを植樹し、所々に燈籠や庭石などを据えられています。

・清流園
創建時(家康の時代)の二条城北部清流園地区は洛中洛外図屏風などから城内通路と天守閣の一部が存在していたと推定されます。しかし、寛永元年(1624)〜同3年(1626)(家光の時代)にかけての二条城増改築の折、天守閣は淀城に移築されて空地となりました。寛永11年(1634)以降、同心(幕府の役人)の住まいが建造され、幕末まで建造物群があったことが確認できます(但し、一時天明の大火で焼失)。同心らの住まいは明治前期に撤去されたと考えられ、緑地に整備されたと思われます。大正4年(1915)には大正天皇即位式饗宴の儀の会場として利用され、饗宴施設等が増築されました。翌大正5年(1916)より城内の復旧工事が行われ、饗宴施設の一部は岡崎桜の馬場(現在の京都会館付近)へ移築撤去され、その跡地を有名な造園家小川治兵衛氏によって疎林式庭園に復旧されました。

昭和25年(1950)進駐軍の意向によりテニスコートに転用され、その後、昭和40年(1965)に清流園が造営され、現在に至っています。この庭園は河原町二条にあった旧角倉了以の屋敷の一部、庭石、庭木等を無償で譲りうけ、更に全国から集めた銘石、篤志家より寄贈を受けたものなどを用い、昭和40年(1965) 完成しました。庭園は当時の高山義三市長によって「清流園」と命名され、東半分が芝生を敷き詰めた洋風庭園、西半分は二棟の建物を含めた池泉回遊式山水園(和風庭園)からなる和洋折衷庭園で、観賞するだけでなく実用的な庭となっております。

・庭園管理作業
昭和14年(1939)、京都市に下賜されて以降、二の丸庭園、本丸庭園、清流園のメインエリアは市の職員によって維持管理がされています。ここでは、特に毎年行われている庭園管理作業を紹介いたします。

二条城における蘇鉄の歴史
 そもそも蘇鉄がなぜ二条城に植えられたのかといいますと、江戸時代(3代将軍徳川家光の時代)、鍋島藩(現在の佐賀県)の鍋島勝重公が、後水尾天皇行幸に先駆け、蘇鉄を1本献上している記録(東武実録)があり、今まで二の丸庭園の蘇鉄は、鍋島勝重公が献上したものとして紹介されていました。しかし、平成9年(1997)に江戸中期(8代将軍徳川吉宗の時代)の二の丸庭園の絵図が公表され、当時の二の丸庭園には15本もの蘇鉄が植えられていたことが分かり、その内の1本が現存する蘇鉄の位置と合致しています。現存する蘇鉄は当時のものかどうかは不明ですが、幕末古写真には写っていることから、少なくとも150年以上の樹齢が経過していると思われます。

蘇鉄(ソテツ)の防寒養生
 私たち二条城職員は、蘇鉄が南方系の植物で寒さに弱いため、毎年11月下旬〜12月初旬頃に、蘇鉄の幹全体に、こもやワラなど巻く防寒養生を行っています。この手法は宮内省所管時から引き継がれ、少なくとも65年以上も続けられている庭園管理作業の一つで、二の丸庭園の冬の風物詩となっています。


二条城東大手門
屋根は本瓦葺で入母屋造り、妻は木連格子、棟には鯱が飾られています。形式は櫓門で石垣と石垣の間に渡櫓を渡して、その下を門とした形式になっています。


番所
徳川将軍不在の二条城は二条在番と呼ばれる、江戸から派遣された武士によって警備されていました。毎年2組(1組50人)が4月に交代して番にあたりました。この番所はそうした詰め所の一つで、正面十間(19.6メートル)、奥行三間(6.06メートル)の細長い建物です。現在、門番所の遺構は少なく、貴重な建物になっています。

唐門
切妻造、桧皮葺の四脚門でその前後は唐破風造となっています。彫刻がふんだんに使われています。

場内の門
城内には、本丸櫓門・桃山門・鳴子門・北中仕切門・南中仕切門があります。これは南中仕切門です。

西門
埋門で、寛永期に作られたものと考えられています。他の門と違って防備は厳重です。折れ曲がって東側に高い石塁を築き北側に出入り口が設けられています。

台所
寛永期に建てられたもので、本瓦葺となっています。入口は長方形の大きなケヤキの柱が立ち、両開きの扉と内開きのくぐり戸で構成されています。内部は広い土間と板敷の広間、御膳所や料理の間などの部屋で構成されており、この板敷の広間では、まな板を置いて調理を行い、御膳所などで盛り付けが行われていました。また、昭和25年に重要文化財の指定を受けました。現在、一般公開はしていません。

東南隅櫓
二条城には寛永期に建てられた隅櫓が本来四隅にありましたが、天明8年の大火の際に東北隅・西北隅の両櫓が焼失してしまい、今はこの東南隅櫓と西南隅櫓が残っているだけです



西  暦 年  号  歴 史



1601 慶長六年  徳川家康が西日本の諸大名に二条城の築城を課す。



1603 慶長八年  二条城、ほとんど完成し(現在の二の丸部分)、家康はじめて入城



1611 慶長十六年  豊臣秀頼、家康と会見



1614 慶長十九年〜  城内で大坂冬の陣・夏の陣の軍議を開き、当城より出陣



1624 寛永元年  三代将軍家光が城の拡張・殿舎の整備に着手



1626 寛永三年  本丸・二の丸・天守完成。現在の規模となる。九月、後水尾天皇二条城行幸(五日間)



1634 寛永十一年  家光が三十万人と称する大軍を率いて入城。このあと二条城には二条在番を置き、留守居をさせる。(大番頭四人、番士五十人



1750 寛延三年  八月、雷火により五層の天守、焼失する。



1788 天明八年  一月、市中の大火により本丸殿舎、同櫓焼失する。



1862 文久二年  将軍家茂の上洛を迎えるため、二の丸殿舎の整備及び仮設建物の造営に着手。



1863 文久三年  家茂入城(1634年に三代将軍家光が入城して以来)



1866 慶応二年  二条城内において慶喜十五代目の将軍職を継ぐ。



1867 慶応三年  十月、二条城に四十藩の重役参集し、大政奉還の会議がなされる。二の丸御殿大広間において慶喜が大政奉還を発表



1868 明治元年  一月、城内に太政官代(現在の内閣にあたる)が置かれる。



1871 明治四年  二の丸御殿内に府庁が置かれる。(のち一時陸軍省になる。)



1884 明治十七年  七月、二条離宮となる。



1893 明治二十六年  京都御所北東部にあった桂宮御殿を本丸に移築し、本丸御殿とする。



1897 明治三十年  二の丸殿舎の破風金具、入側小屋、廊下回り格天井の貼付絵を新装する。



1915 大正四年  大正天皇即位の大典が行われ、大饗宴場を造営(現在の清流園の位置)南門ができる



1939 昭和十四年  宮内省より二条離宮を京都市に下賜される



1940 昭和十五年  二月十一日、恩賜元離宮二条城として一般公開をはじめる



1952 昭和二十七年  文化財保護法の制定により、二の丸御殿六棟が国宝に、本丸御殿隅櫓など二十二棟の建物が重要文化財指定を受ける。



1965 昭和四十年  清流園作庭(江戸初期の豪商、角倉了以の邸宅の庭石などを使用する。)



1982 昭和五十七年  二の丸御殿障壁画が美術工芸品として重要文化財指定を受ける。



1994 平成六年  ユネスコの世界遺産リストに登録される。





所在地
〒 604−8301 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541
TEL 075−841−0096 FAX 075−802−6181



開城時間
午前8時45分〜午後4時(閉城 午後5時)



休城日
年末年始 12月26日〜1月4日
毎年12月・1月・7月・8月の毎週火曜日
※ ただし当該日が休日の場合は、その翌日を休城日とします。



入城料金
一般 600円 中学生・高校生 350円 小学生 200円
※ 団体料金につきましては、一般の方のみ500円になります。
※ 一般団体は、30名以上です。
※ 学齢に達しない方は、無料です。
<入城料が免除される方>
※土・日曜日の市内小中学生,市内70歳以上の京都市敬老乗車証等をお持ちの方は本人無料。
※市内70歳以上の介護保険被保険者証をお持ちの方は本人及び介護者1名無料,身体障害者手帳,療育手帳,戦傷病者手帳,被爆者健康手帳,精神障害者保護福祉手帳等をお持ちの方は本人及び介護者1名無料。
  注:入城改札口にて上記証明書をお見せください。



撮影に関するお願い
二の丸御殿内の写真・ビデオの撮影は禁止とさせていただきます。
また城内での一脚・三脚のご使用は御遠慮願います。



諸設備について
○コインロッカー
 入城券出札所隣り及び休憩所内に設置しております。有料。
○売店
 休憩所内にございます。
○車いすの貸出し(無料)
 二条城事務所へお申し出ください。また、二の丸御殿に観覧される方のために屋内用の車いすも御用意しております。御殿の係員にお申し出ください。
○身体障害者用トイレ
 清流園南側に設置しております。
○お弁当・喫煙
 休憩所内でお願いいたします。
○音声ガイドシステム
 東大手門脇の受付にお申し出ください。二条城の解説を聞くことができます。
 日本語・英語・中国語・ハングルに対応。有料。

コメント(5)

建物ももちろんですが、お庭までスゴイトコロはなかなかナイですよね桜
全てにおいてパーフェクト指でOK
たくさんの工夫された建築方法が素晴らしかったですわーい(嬉しい顔)
うん。ここは行きやすいから2度か3度行きました^^
徳川と豊臣の雰囲気が伝わる感じが好きです♪

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