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池田晶子の哲学エツセイを継ぐコミュのショーペンハウエル著『自殺について』

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 ―1― 
私の知っている限り、自殺を犯罪と考えているのは、一神教の即ちユダヤ系の宗教の信者達だけである。ところが旧約聖書にも新約聖書にも、自殺に関する何らの禁令も、否それを決定的に非認するような何らの言葉さえも見出されえないのであるから、いよいよもってこれは奇怪(きかい)である。

そこで神学者達は自殺の非認せられるべきゆえんを彼ら自身の哲学的論議の上に基礎づけねばならぬわけであるが、その論議たるや甚(はなはだ)もって怪しげなものなのであるから、彼らは論議に迫力の欠けているところは自殺に対する憎悪の表現を強めることによって、即ち自殺を罵倒(ばとう)することによって補おうと努力しているのである。

だからして我々は、自殺にまさる卑怯(ひきょう)な行為はないとか、自殺は精神錯乱(さくらん)の状態においてのみ可能であるとか、いうような愚(おろ)かにもつかないことをきかされることになる。そうかと思うと、自殺は「不正(ウンレヒトUnrecht)である、などという全くのナンセンス(nonsense)な文句まできかされる。

一体誰にしても自分自身の身体と生命に関してほど争う余地のない権利(レヒトRecht)をもっているものはこの世にほかに何もないということは明白ではないか。いま言ったように、自殺は犯罪の一種にさえ数えれれている。だからして、殊にも賎民(せんみん)的な頑信(がんしん)の英国においては、自殺者の埋葬は恥かしめられその遺産は没収されることになっている、___そこで陪審裁判所は殆ど大抵の場合精神錯乱の判決をくだすのである。自殺が果たして犯罪であるかどうか、この点に関しては何よりもまず倫理的感情に訴えて判定を下されたらいいと私は思う。試みに、知人がある種の犯罪、たとえば殺人とか暴行とか詐欺(さぎ)とか窃盗(せっとう)とかの犯罪を犯したという情報に接した場合に我々の受ける印象と、知人が自発的な死を遂(と)げたという報道に接した場合のそれとを比較してみられるがいい。前の場合にはなまなましい憤激(ふんげき)やこの上もない腹立しさを覚え、処罰や復讐(ふくしゅう)の念に駆(か)られるたりするのであるが、後の場合に呼び覚まされてくるものは哀愁(あいしゅう)と同情とである。そしておそらくはそれに、悪行にともなうところの倫理的非認というよりはむしろ、彼の行為に対する一種嘆賞(たんしょう)の念がかえってしばしばいりまじることであろう。

自発的にこの世から去っていったような知人や友人や親戚をもっていない人がいるだろうか、___そしてこれらの人達を一体誰もが犯罪者に対するような憎悪(ぞうお)の念をもって回想しているとでもいうのであろうか。否、断じて否! むしろ私は、僧侶どもが一体如何なる機能によって、___何らの聖書の典拠(てんきょ)も提示しうることなく、否、何らか確かな哲学的論拠すらもちあわしていることなしに____教壇や著作を通じて、我々の敬愛する多くの人達がなした行為に対して犯罪の刻印をおしたり、また自発的にこの世を去っていく人達に対して名誉ある埋葬を拒(こば)んだりするのであるが、この点に関して何としても僧侶どもに弁明を要求すべきである、という意見を有している。但しこの場合はっきり断っておきたいことは、我々の要求しているのは論拠なのであって、その代わりに空虚なたわごとや罵倒の言葉を頂戴することは御免蒙(ごめんこうむ)りたいということだ※。

さて、刑法は罰則によって自殺を禁じているのであるが、これは教会で通用しているのとは違った理由によるものである。それにまたこれは徹頭徹尾滑稽である。一体死をのぞんでいる者を、脅かして思いとどまらせるに足るような刑罰などありうるだろうか。___もしもひとびとが自殺未遂を罰するとしたら、彼らは自殺者が自殺に失敗したその不手際を罰しているのだということになろう。

※[異文]
むしろ私は、僧侶どもは一体如何なる理由によって(そのような場合)我々の友人や親戚に犯罪者の刻印をおし、この人達に名誉ある埋葬を拒むのであるか、その根拠を提示するように何としても僧侶どもに要求すべきだ、という意見を有している。聖書には典拠は見出されえない。哲学的な根拠もたしかではない、それにまたこれは教会には通用しない。してみると一体、何によるのか、何によるのか、何によるのか、返事をし給え! 死は我々には余りにも必要な最後の避難所なのであって、これは坊主どものただの命令などで我々からとり去らるべきものではないのだ。

 古代の人達もまた、自殺をそのような光のもとで眺めるような態度からは遥(はる)かに隔(へだ)っていた。プリニウスは言っている、___「生命というものは、どんな犠牲を払ってもこれを延ばしたいというほどまでに、愛着せられるべきものではあるまい、と私は考えている。そのようにのぞんでいる君が、どのような人間であるにしろ___よし君が不品行な乃至(ないし)は罪悪に充ちた生活を送ったにしても___どのみち君は死ぬことになるのだ。だからして誰もがおのが魂の良薬として何よりまず次ぎのことを銘記(めいき)しておくべきであろう、___自然が人間に与えてくれたあらゆる贈り物のなかで、時宜(じぎ)をえた死に方ということにまさる何物もないのだということ。そしてその場合にも特に最上のことは、誰もが自分自身で死の時を選ぶことができるということなのだということ」。彼はまた言っている、___「神といえども、すべてをなしうるわけはでない、と私は考える。何故というに、神は、たとい彼がそれを欲したとしても、自殺することはできないのだ。
                 
ところが神は人間に対しては、かくも多くの苦難に充ちた人生における最上の贈物として、自殺の能力を賦与(ふよ)してくれた」。

マルセイユとケオス島では、死なねばならぬ尤もの理由を述べることのできた者には、市当局者の手によって、なんと公然と毒人参(にんじん)の汁が提供されていた。

さらに古代においては如何に多く英雄と賢者(けんじゃ)とがおのが生命を自発的な死によって結んだことであろうか! 尤(もっと)もアリストテレスは、自殺は自分自身に対する不正とは言えないとしても、国家に対する不正である、と言っているが、しかしストバイオスは逍遥(しょうよう・ペリパトス※)学派の倫理学に関する彼の叙述(じょじゅつ)のなかで、次ぎのような言葉を引用している、___「善人は不幸が度を超えたときに、悪人は幸福が度を超えたときに、人生に決別(けつべつ)すべきである」。___「このようにして彼は結婚し、子供を生み、政治に参与することであろう。また全面的のおのが知能を啓発する
ことによって生命の保持をはかるとともに、必要の迫るに及んでは、生命を放棄することであろう」。

※ 「ペリパトス」Peripatos (英語では “Peripatetic” ) とは,ギリシア語で散策路,遊歩道を意味する。


さらにストア学派にいたっては、自殺が一種の高貴な英雄的行為として賞賛されているのを我々は見出すのである、___たとえば、寡婦焚死(かふふんし)※とか、ジャガノート※のような神車(かみぐるま)の轍(わだち)の下に身を投ずるとか、ガンジス河や寺院の聖地などに身を捧(ささ)げるとかいった風のことである。
※寡婦焚死(かふふんし):サティー(Sati)といい、ヒンドゥ社会における慣行で、「貞淑な女性」を意味し、寡婦が夫の亡骸(なきがら)ととも焼身自殺する。

※ジャガノートという巨大な山車があった。この巨輪に轢(
ひ)かれて死ぬと極楽往生(ごくらくおうじょう)するという迷信(めいしん)があり、祭りの最終日、多数の老若男女が自ら身を投げ出してこのジャガノートの餌食(えじき)になった。(第一分冊)

人生の鏡ともいうべき演劇においても、また同じようなことが見られる。そこでたとえば我々はシナの有名な演劇『シナの孤児』においては、高貴な人物の殆どすべてが自殺によって死んでゆくのを見るのであるが、そこには自殺は犯罪であるといった風な示唆などは全然感じられないし、また観客の念頭にそんなことが想い浮かべられなくてくることもない。そう言えば我々自身の舞台においても結局事情は少しも違っていないのだ。たとえば、『マホメット』におけるパルミーラ、『マリア・ステュアート』におけるモルティマ、それからオセロやテルツキイ伯爵夫人。

一体ハムレットの独語は或る犯罪行為に関する思索なのであろうか。彼は次のように語っているにすぎない、___もしも死によって全くの無になるのだということがたしかだとしたら、世の中がこのような性質のものである以上、無条件に死を選ぶべきものであろう。「だがそこに問題があるわ」(『ハムレット』第三幕第一場)。___ところで、一神教即ちユダヤ系の宗教の僧侶共並びにそれに迎合している哲学者どもによって提出されている自殺反対の論拠なるものは、容易に反駁せられるような拙劣な詭弁なのである。そういう詭弁に対する最も
徹底した反駁をヒュームが彼の『自殺に関する試論』のなかで行っている。5/18

この書物は彼の死後始めて出版されたものだが、野卑な頑信(がんしん)と卑劣(ひれつ)な僧侶専制の国英国においては、忽(たちま)ちにこれは発売禁止となった。そこで極(ご)く僅(わず)かの部数だけがこっそりとまた高価に売られていたのであるが、本書とそれからこの偉大な人間のもう一つの論文とが今日保存されているのは、バーゼルの翻刻のおかげによるものである。

それにしても、自殺を非難する通俗的な論拠を純粋に哲学的に冷静な理性を以て反駁している書物、それも英国第一流の思想家、著述家の一人の手になる書物、が本国ではまるで詐欺ででもあるかのようにこっそりと忍び歩きを余儀なくさせられた挙句、遂に外国において庇護を受けるにいたったなどということは、英国の国民にとっての大いなる恥辱(ちじょく)であろう。同時にまたこのことは、教会というものがこういう点に関してどういう種類の良心をもっているかということも教えている。___自殺に反対せらるべき唯一の適切な倫理的根拠を、私は私の主著の第一巻、第六九節のなかに述べておいた。

その根拠はこうである、___自殺はこの悲哀の世界からの真実の救済の代りに、単なる仮象的な救済を差出すことによって、最高の論理的目標への到達に反抗することになるものであるということ。それにしても、こういう錯誤は、僧侶どものいう犯罪___キリスト教の僧侶どもは自殺に犯罪の刻印をおそうとしている___からはまだまだだいぶ道が隔っているのである。

キリスト教はその最内奥に苦悩(十字架)が人生の本来の目的である、という真理を含んでいる。それ故にそれは自殺をこの目的に反抗するものとして排斥するのである、___これに反して古代は、もっと低い立場からして、これを是認し、否賛美さえもしている。

しかしながら、自殺を非認するいま述べた根拠は、禁欲主義的なものなのであり、ヨーロッパの倫理学者達がこれまでとってきたよりは遥かに高い倫理的立場においてのみ妥当しうるものなのである。もしも我々が非常に高いこの立場からくだってしまうとすれば、そこにはもはや自殺を弾劾すべき何らの確実な倫理的根拠も見出されえない。一神教の宗教の僧侶どもが、聖書によってもまた適切な論拠によっても支持されていないにも拘わらず、あんなにも並はずれて活発な熱心さをもって自殺を排撃しているのには、何かしらその底に隠された理由がひそんでいるに違いないように思われる。

その理由というのは、自発的に生命を放棄するなどとは、「すべて甚だ善し」と宣うたあの方に対して余り失礼な、というようなことではあるまいか。___もしそうだとすれば、ここにもまたこれらの宗教の義務づけられた楽天主義が見出されるというわけで、この楽天主義は自殺から告発せられないように先手を打って自殺を告発していいるのである。

コメント(3)

同感します。
わたしがわたしの拠り所であり、すべては私の意志の自由にある以上、その意志決定を阻止できるものは誰もいない。

わたしは人生の責任を全て私自身が負っているのであって、誰にも転化できない。
わたしが感じ、考え、行動しところの全てがわたしの生き様である。
制約された世界の中で、わたしが取りうる自由こそわたしのものである。
自由こそ必然である。
自殺という行為もわたしの取り得る自由の選択のなかにある。

幸いにもわが国では自殺は、同情と哀悼をもってその死を痛むことが普通であるが、イギリスでは犯罪と看做されるようだ。

以前イギリスに留学した女性が、同級生から仕組まれて、周囲から窃盗の疑いをかけられた。その女性は自らの潔白を証明するために、窓から飛び降り自殺を遂げた事件を思い出します。

ところがイギリス人の受け止め方は、まるでわれわれとは逆でした。
彼の地では自殺は犯罪であり、自分が犯人だから自殺したのだ、と受け取られたようです。
わが国では自殺に関して、仏教の影響でょうか、人生を苦悩とみなし、死者までを罪に問いことは無いようです。それが真っ当な感情ではないでしょうか。

キリスト教など宗教が権威としてその国を支配するとき、自殺するものは罪を犯したとして地獄へ堕ちるようですね。

自殺に関しては、仏教の影響をうけたわが国に生まれたことを感謝したい。
仏教に詳しい方にその辺のところを聞いてみたいものです。


貴重なご意見ありがとうございました。

ショーペンハウエルも、神学者や一神教を槍玉にあげていますね。
彼は仏教を高く評価していたのではないでしょうか。

私は生を肯定するものであるが、自殺の自由意志は尊重したい。
しかし
死へのハードルが低ければ、人類は滅亡するのではないかと思われる。
極端な考えではあるけど。

自殺は生の否定であり、自分で自分の人生に決着つけるものであるが、
いろんな動機があり、個々のケースについて、部外者があれこれ言ったところで、結局当人しか分からないものであろう。
他人からみれば、その理由はたわいない事に思われようとも、当人には深刻な問題であったのだ。
動機理由は契機であり、感情的なものによることが多いのではないか。

身近なケースから言えば、挫折、絶望、厭世、鬱等からくる突発的、衝動的なものから考えぬかれたものがある。

そこには大きく感情とか気分が支配していて、自分で自分が止められないという自殺への激情というものがあるのではなかろうか。

それはわれわれが怒りの感情に支配されたとき、見境無くその激しい感情をぶっけてしまうというものに似た感情であろうか。そこでは理性は完全に何処かに飛んでしまっている。


人の日常は、むしろ人生の大半を情念や感情によって支配されて過ごしていると言っていいのではないか。
冷静に理性的に考える事をこととする哲学者にですら、傲慢な感情に支配されていると思われることがある。

自分を絶対的に信じているが故、どうしても断定的に語らざるえないということを割り引いても、思い上がった、人を見下した説教的態度は感じ取れるものである。

だからどんなに冷静に見えようとも、人は常になんらかの感情に支配されていると言っていいのではないか。
もっとも人間である以上当然といえば当然であるが。

また人間は想像力豊かな動物であるがゆえ、或る感情に支配されると、それはスパイラル現象となって大きく自己増幅されてしまう。すっかりその感情の虜となって、その挙句極端な行動に走る。
つまり思い込みというものだ。
思い込みは悪循環の典型であろう。

ここに自分の感情をいかにコントロールするかということが、大きな課題となってくる。
感情のなすがままに任せることは、そこから抜け出す事を難しくする。
われわれは自分を律するということを学ばなかった。
いきなり社会にでて、自分のままならないことばっかりだ、ということがわかる。
本来の自己で無い自己を強要され、不本意なことを命じられ、疎外されている自己を味わう事になる。

現代の大きな病は自己喪失と自己疎外だ。

ニートやフリーターは自分が社会の中に組み込まれてしまうことに抵抗し、あるいは自分でありたいと思うが故の行動であろうか。
社会にでれば、自分でなくなり、非本来的なる自分を演じなければならないということは確かではある。
自分の道徳に反することを、仕事上強要される事もあることも事実だからだ。

ともあれ人の中にあって、自己を確立して生きるということは難しいことではある。

そのようなことを考えると人生は自分との戦いであり、絶え間ない意識と感情の変化のなかで、自己同一を確信して自己にもどるということであり、其れが私の世界ということになる。

すべては自己から出て、自己に戻るという循環が繰り返されるのがわたしの人生である、ということになる。

自分探しに旅にでる人は、自己喪失に陥って、外に自分を求めようとするものであろう。
何処へにも行くまいぞ。
わたしはわたしから逃れる事は出来ない。
それは対自といい、わたしがわたしに常に向かい合うという宿命である。
絶え間ない自己反省的循環と言ったらいいのであろうか。

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