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池田晶子の哲学エツセイを継ぐコミュの池田晶子著『残酷人生論』ーオカルトの正体

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オウムの一件にもかかわらず、世の「不思議大好き」ブームは衰えないらしく、書店には新手の「精神世界モノ」が平積みされている。

じじつ、よく売れているらしい。「脳内革命」などは、ごく普通の健康法なのだが、人はあれに一種の「奇蹟」を期待するらしく、万病に万能の「脳内ホルモン」信仰が生まれているようである。

しかし、変ではないか。「脳内ホルモン」とは、たんなる化学物質であって、それは人が快感を覚えるときになぜか分泌され、それが体を健康にするという。したがって、物事は悪いほうに考えずに、常に良いほうに前向きに考えるようにしようというこれは、いかなる他力本願でもなく、まっとうな自力更生ではないか。なのに人は、このような自然現象を、何がしか超常現象のように思い、ホルモンを分泌させんがために、気功や瞑想に入れ込んだりする。
ここにすでに転倒が生じている。

自分の「前世」を知りたいという願望にも、同種の転倒が潜んでいる。自分の前世は何だったのか、そこで自分は何をしたのかを知りたい。しかし、たとえそれが現在の自分を規定している事実として知られることがあったとしても、それが事実であるというまさにそのことによって、それを知ることには意味はないはずである。

なぜなら、このとき、前世を知るということは、それが規定している現在をたいということのはずだったからである。この現在には何の変わりもない。それなら、なぜとくに前世なんかを知る必要があるのだろうか、いかなる「奇蹟」を人は期待しているのだろうか。

「サイババ」というのも、よく売れたのらしい。私もちょっと、読んでみた。すべての人のすべての出来事が書かれているという「アガスティアの葉」というのを、著者が探しにゆくというくだりに妙な臨場感があって、面白かった。が、面白くなかった。納得したが、納得しなかった。なぜ誰も、こういうことをきちんと最後まで考えようとしないのだろう。

いいですか、その人が葉を読みに来ることは決まっていたと、葉に書かれているのを読みに来たその人が読む。つまり、読みに来ない限りは、読みに来ると書かれているかいないか、知り得ないわけである。来れば、ほら来た、と書いてある。ということは、そのとき君のすることは、そのとき君のすることであろう、というこの形式のことを「予言」と人は驚いているということだ。しかし、これがいったい何を予言したことになっているのか、私は断じて納得しかねる。

じつは、このとき人は「予言」ではなくて「存在」の形式に騙されているのだ。
在ることは在ることで、在らぬことではないという存在の不思議に誑(たぶら)かされているのだ。しかし、なぜ在ることは在ることで在らぬことではないのか、サイババにだってわかりっこないのである。

私とて、もともとその種のこと、宇宙のことなど考えるのは、決して嫌いなほうではない。そう、「考える」のが嫌いではないのであって、その種のものごとを「愛好する」のは、何を隠そう、大嫌いなのである。そんなふうななことを「精神世界」と称して騒ぐのは、間違っても世のためにならない。なぜなら、「精神世界」なるものは、世界のどこにも存在しないからである。世界はもとから「世界精神」でしかないからである。

「不思議大好き」、この態度が、根本的に誤っている。念力やテレパシーは存在する、それが不思議だというのなら、存在が存在するというこのことのほうが、よほど不思議のはずだろう。自分がなぜそれを不思議と思うか、その前提を考えるほうが、順序としては先である。それができないから、オカルトは、「しょせん」オカルトと言われるのだ。


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