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池田晶子の哲学エツセイを継ぐコミュの「私」が「私」である神秘

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言うところの「近代的自我の乗り越え」なる議論が、ほとんど常にくだらないのは、そもそも「自我」という言い方で自分が何を言っているのか不明なまま、それを乗り越えろと言っているからに他ならない。問い方がわからないものを、議論できるわけがない。

それらの論者の方々は、揃って、「私」というものはもはや「ない」と主張しているのらしい。しかし、問われているのは、「ない」と主張しているところのその人の「私」なのだから、これはおかしい。「ない」なら、黙っているはずだろう。

前項で私は、科学には「私」は扱えないと言ったが、社会学などにはもっと扱えないのだ。社会学は、「私」とは社会の形成物だと前提することで成立する。むろん、それはその限りでの真実ではある。つまり、生まれと育ちによる、性格もしくは世界観である。しかし、それらは決して「私」ではない。それらがそのようであると認識しているところのこれ、これのみが常に問われるべき「私」なのだ。だからこそそれは、哲学という思考にしか扱われないということになる。

が、「哲学」と一括して言ったところで、それを考えているのは、やはりそれぞれ別の「私」である。認識主体としての「自我一般」は「私」ではない。大勢の哲学者たちの間で議論されたところで、「私」が「私」であるというこのことの不思議は、ほんの少しも動かない。したがって、「私」は、いかなる学問の網の目にもかからないということになる。なぜなら、「私」は、質だからだ。一般的な量には換元され得ない、唯一無二の質だからだ。


たとえば、同じ「私」の語によって、私が「私」と発語するときのその感覚と、誰か他人が「私」と発語するときのその感覚が、同じ感覚であるかどうか、いかにして知り得ようか。いかにしても知り得ない。質とはこれだ。これを感じることなく
自分を「私」と言うときにのみ、「私」はたんなる記号であり得る。

質的「私」の扱いに慣れているのは、哲学よりもむしろ宗教、というより説教を無視して自身に向き合う禅とか神秘主義とかのほうなのだ。あれらもやはり、「私」なんてものは「ない」と言う。そんなもの、どこかに探してもどこにもないと。しかし、ここが違う。「ない」が、「在る」と言う。「無い」ことにおいて「在る」。そして、「在る」もの、それは「神」だ、と。

「私」は「神」である。

というのは、うんと大ざっぱに言うなら、まあだいたいにおいてそうなのである。しかし、このことを正確に述べようとすると、これがもう本当に難しい。どうしてもあちこちに無理が生じる。それで禅などは、そういう無理を説明するのがいい加減億劫なので、ああいう形式なのである。そこが私は好きなのだが。この話、詳しくは「神」の章をご覧ください。

たとえば、「神との合一」と言って万歳できると思っている神秘主義などの底がすぐに割れるのは、それなら、「神」であるところの「私」と、やはり「神」であるところのあなたの「私」との関係如何と問うときである。「神」としての私の「私」は、やはり「神」としてのあなたの「私」の、その質を、いかのしても知り得ない。それなら、神様同士はやはり互いにどこまでも孤独なわけで、それなら、なんのことはない、この世の「私」たちが互いにどこまでも孤独なのとおなじことである。

とくに何を説明したことにもなっていない。神秘主義的認識は、問いの側から見てれば、決して上がりではなく、永遠の振り出しなのである。

とはいえ「私」を「問う」のに、少々飽きた。
それが、そんなに、特別か?

最近私は、「魂」と言う。それを「感じる」ことのほうが、ずっと切実であると今や感じられる。




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