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酔拳を学ぼう 武学酔拳学会コミュの八仙人

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神 仙 列 伝 ― 八 仙 之 巻 ―






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 八仙 (呂洞賓・漢鍾離・張果老・韓湘子・李鉄拐・曹国舅・藍采和・何仙姑)



  中国では正月や結納などのおめでたい日には、八人の神仙(呂洞賓・漢鍾離・張果老・韓湘子・李鉄拐・曹国舅・藍采和・何仙姑)の絵を廟や玄関などに飾ることが多い。八仙と祝事を結びつける理由の一つとして、彭祖(房中術の祖)にまつわる話が残っている。
 彭祖がまだ若かった頃のある日、牛を使って田を耕していると、白い服を着た八人の人々が近くを通るのが目に入った。そこで彭祖は、牛を使うのをやめて八人が通り過ぎるのを待った。八人のうちの一人の老人が作業を止めた理由を彭祖に尋ねると、白い服に泥がはねて汚したら悪いから…という答え。答えに感心した老人は、彭祖の顔をまじまじと眺めて言った。
「可哀想に、お前の寿命は二十歳までしかない。けれども、お前の優しい心遣いに免じて助けてやろう」
驚く彭祖に、自分達が仙人であることを告げた老人は、続いて次の指示を与えた。
「我々八人は、来る八月十五日にあそこの桃の木の下で碁を打つ。お前はこっそりとそこへ酒や肴を持って来て我々に御馳走しなさい。こっそりとだぞ」
 当日、彭祖は老人の指示通りにこっそりと八人の仙人に御馳走した。仙人達は何も気づかずに酒を飲み、肴を食べていたが、そのうち一人の仙人が「この青年は何者だ」と彭祖のことに気付いた。そこで、この前の仙人が仲間に彭祖にことを紹介し、
「この青年は先日我々の白い衣に泥がつかないよう気を配ってくれたよい男だが、可哀想に今年限りの寿命しかない。我々八人が一人百歳づつ、計八百歳の寿命をやってはどうか」と提案した。すると他の七仙も賛成し、彭祖は八百二十歳まで長生きしたという。
 こうして八仙は不老長寿を約束するおめでたい仙人として、人々に親しまれている。

       

呂  洞  賓 ( 孚 佑 帝 君 ) りょどうひん

 姓を呂、字を洞賓、一般的には呂祖(りょそ)と通称される。山西省の蒲坂永楽鎮出身で、貞元十四(七九八)年四月十四日生まれという。二十歳で科挙を受験するよう推薦されるも、試験には落第。しかし、しばらくして五峯廬山の県知事に任命された。ある日、廬山に遊びに行き、漢鍾離に出会う。漢鍾離に終南山に連れていかれた呂洞賓は、山中で前後十回に及ぶ試練を課せられたが無事にこなし、天遁の剣法や竜虎金丹の秘宝などを授けられ、純陽子(じゅんようし)という道士の号も与えられた。
 仙術を授かった呂洞賓は、すぐに県知事を辞して修行に専念する一方、病気で苦しむ人々に金丹を与えたり、墨を売って得た銭を貧しい人に恵んだりして功徳をつんだ。
 元の武宗から「純陽演正警化孚佑帝君」に封ぜられ、今も民衆から絶大な人気を誇る仙人となっている。




漢  鍾  離 かんしょうり

 字を雲房、咸陽の人とされる。漢に仕えて左諫議大夫にまで出世した。漢が滅んだ後に晋に仕えたが、ある戦で敗れ、一人で終南山へ逃げ込んだ。山中でさ迷い歩いていると、ある隠士から南東に行くよう教えられ、言葉に従い歩いていくと東華帝君の住む洞に行着いた。そうして東華帝君から、護符、秘書、金丹の秘訣や悪鬼・悪霊を退治する青竜の剣法など様々な秘文秘法を授けられて下山した。
 それからというもの、正陽子と号してひたすら神気の修煉に打ち込む一方で、多くの霊験をあらわし、九世紀には廬山で呂洞賓に会い、彼に天遁の剣法などの秘儀を伝えて得道させた。その後は山西省の羊角山中にこもって修行し、たまに世間に姿を見せた。
「正陽開悟伝道垂教帝君」の報号をもっている。




張  果  老 ちょうかろう

 唐代の人で、山西省の中條山に隠遁していたが、いつも白いロバに乗って省内の汾州や晋州と往来していた。そのロバは日に数万里を歩くことが出来、そのうえ不必要な時は折りたたんで紙ほどの厚さにして持ち歩け、再び乗るときには水を吹きかけるとすぐもとのロバになったという。唐の太宗や高宗が召しても応じなかったが、則天武后が招くと、山を出たところの妬女廟の前で突然死んだ。真夏だったのですぐに腐ってしまい、報告を受けた武后は呼ぶのを諦めたが、後に中條山で会ったという人がいた。のちに玄宗が召すと、応じて出てきたので、集賢院において銀青光禄大夫とした。
 玄宗が有名な道士・葉法善に彼の素性を尋ねると、言うと死ぬが、陛下が裸足になり冠をぬいで救ってくれれば申しますと言う。玄宗が承知すると、あれは白い蝙蝠の精だと言うや葉法善は死んでしまった。玄宗が言われた通りの格好で詫びると、生き返ったという。




韓  湘  子 かんしょうし

 文豪・韓退之の外甥。若い頃は酒浸りの放蕩者だったが、二十歳の頃突然行方不明になり、しばらくしてぼろを身につけ帰ってきた。韓退之は学問をするよう勧めたが言う事を聞かず、出来ることは草の花をすぐ咲かせることだと言う。やらせてみると、盆に土をもり、牡丹を植えるとすぐに花が咲いた。花びらに「雲は秦嶺に横たわりて家いずくにかある。雪は藍関を擁して馬進まず」という句が記してあった。その意味はいずれわかるという。
 その年、帝の怒りにふれて広東省の潮州に流された韓退子は、たまたま藍関にさしかかった時に大雪に見まわれて一歩も進めなくなった。と、そこに現れたのが韓湘子。そこでさきの牡丹の花びらの句の意味を悟った退之が聞くと、自分の先生は洪涯先生だと告げた。




李  鉄  拐 りてつかい

 李鉄拐は、絵ではボロを着た片足の男として描かれているが、元々は堂々たる体格の持ち主で、いかつい顔をしていた。あるとき、華山で老君と会見することになり、弟子に「わしの魂はここを去って華山に行くが、身体は残しておく。もし魂が七日たっても帰ってこなければ身体を焚いてもよいが、それまでは絶対に動かしてはならぬぞ」と申しつけて出かけた。
 ところが、弟子の母親が六日目に死んでしまい、家に帰らければならなくなった弟子は鉄拐の身体を焚いてしまった。七日目に帰って来た鉄拐の魂は、戻るべき身体が無く困ってしまった。見回すと近くの路傍に片足しかない乞食が飢えて倒れていたので、その身体に入って再生することが出来た。そのため、今のような醜い格好の男となってしまった。




曹  国  舅 そうこくきゅう

 宋の曹太后の弟だった曹国舅は、自分の弟が姉の権力をかさに人々を苦しめたり殺したりするのに嫌気がさし、山中に隠遁し、一人修行に明け暮れるようになった。それを見た呂洞賓と漢鍾離が、何の修行をしているのかと尋ねると、曹国舅は道の修行だと答えた。その道はどこにあるのか?と笑いながら問い返すと、曹国舅は黙って天を指した。それでは天はどこにあるのか?と二人がたたみかけると、曹国舅は自分の胸(心)を指した。二人は大笑いして、「心はすなわち天、天はすなわち道。お前はすでに道の何たるかを心得ておる」といい、還真の秘旨を授けたうえに神仙の仲間に加えたという。




藍  采  和 らんさいか

 唐代の人で字は養素という。いつも破れた藍色の長衫に三寸幅ほどの黒い木の皮を腰帯代わりに巻いていた。片足には靴を履き、もう片足は裸足。夏は綿入れを着、冬は雪中に寝ても身体から湯気が出ていた。手に三尺ほどの長さの拍板を持ち、いつも歌いながら街を歩き食をもらっていた。彼は「踏々歌」という新体詩を歌っていたが、実はその歌には仙道の教えが込められていた。
 藍采和はいつまでたっても少しも年をとらなかったが、ある日、酒屋で飲んでいるとき、笙の音とともに舞い降りて来た白鶴に乗って、天に昇っていった。その際、靴、帯、長衫、拍板などを投げ下ろしたが、彼の姿が雲間に消えると同時にそれらも消え失せたという。




何  仙  姑 かせんこ

 八仙中、唯一の女仙である何仙姑は、広東省増城の何泰の娘で、誕生したとき六本の細い髪の毛が生えていた。十四、五歳のとき、夢の中に一人の神仙が現れ、雲母の粉を食べると身体が軽くなり、不死になれると教えてくれた。あまりに鮮明な夢だったので、試しに食べているうちに本当に身体が軽くなり、自由自在に山や谷を翔べるようになった。その噂を耳にした則天武后が召し出そうとしたが、都にいく途中で突然姿を消した。中宗の景竜年間(七○七〜七一○)に、彼女が白昼昇天したのを見た人があったが、七五○年に仙女麻姑の傍に従って五色の雲の中に立っている彼女が見えたとも言われている。

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