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言語学コミュの<準体助詞>という誤り

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じゅんたい‐じょし【準体助詞】

〘名〙 種々の語に付いて、ある意味を加え、全体で体言と同等の機能を持つ単位を作る助詞。きれつづきの機能を持たず、連用語に付く事がない点を特色としてこの助詞を一類としたのは橋本進吉で、次の六助詞をあげる。「の」(「弟からのは大きかった」)、「ぞ」(「どこぞが痛んだ」)、「から」(「三〇〇斤からの重さ」)、「ほど」(「三つほどがちょうどいい」)、「ばかり」(「一〇人ばかりがちょうどいる」)、「だけ」(「三つだけあまる」)。
[補注](1)橋本進吉は現代語の例のみをあげるが、「の」「が」「ほど」「ばかり」などの古典語にも同様の例はある。
(2)これらは、格助詞・係助詞・副助詞、あるいは接尾語としても扱われ、形式名詞、あるいは名詞とする説が多い。
【精選版 日本国語大辞典】

ここでは、【語】が「ある意味を加え、全体で体言と同等の機能を持つ単位を作る」と機能主義的な捉え方をしている。

【語】の実体は音声、線描、画面上のドットの集まりという物理的な存在に過ぎない。そうした、物が「ある意味を加え、全体で体言と同等の機能を持つ単位を作る」というのは観念論的な迷妄と言う他ない。

言語は規範を媒介とした表現であり、語が表すのは概念、意義であり、これを用いて話者の認識を表現するもので、「全体で体言と同等の機能を持つ単位を作る」のはあくまでも話者の認識の構造の反映でしかない。

この反映の結果を単なる物理的な存在である【語】自体の機能とするのは因果関係を逆転した誤謬である。

<準体助詞>と呼ばれる語が表すのは体言、つまり名詞であり、「ある意味を加え、全体で体言と同等の機能を持つ単位を作る」のは話者以外に存在しない。つまり、話者による捉え直しの表現である。

話者の認識を捉えることができない現在の言語論、日本語論の観念論的な欠陥を如実に示すものである。■

コメント(8)

・花が咲くのだ。

これが、主語が「花」と述部「咲くの」に分かれると言いましたが、「の」は「花」と主述関係がないのに、述部の中に入る理由は、

・私は本を読む。

「本」は「私」と主述関係がないのに、「本を読む」を述部にできるからだと言いました。これは根拠にはまったくなりません。「読む」と「本」は入れ子で統合する統合される関係、「読む」が全体で「本」が部分です。全体の「読む」に対して、「本」を統合している「読む」に対して「私」と主述関係があります。

最初の例の「咲く」と「の」は、入れ子図で考えれば一目瞭然ですが、統合する統合される関係ではありません。入れ子図から「花が咲く」を大きく固定的に扱い、「の」と統合する統合される関係です。

「私は本を読む」が成り立つから「花が咲くのだ」も成り立つというのは根拠にはまったくなりません。文の組み立てが違います。

改めて聞きますが、主語が「花」で述部が「咲くの」に分かれる根拠は他にありますか?ないですよね?論理的に考えて、入れ子から主語無し名詞述語文が妥当です。

三浦もあなたのようなことは一言も言っていません。あなたは主従は三浦が言っていないから間違いだと言っておきながら、自分は三浦が言っていないことが正しいと言います。自分の事は棚に上げているではないですか。三浦が言っている言っていないが当否の判断基準ではまったくありません。論理的に考えて正しいかどうかです。

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