1 来歴 2 生い立ち 2.1 少年時代 2.2 新人時代 2.3 1999 - The Symbol 2.4 改名〜『The Artist Formerly Known As Prince』(かつてプリンスと呼ばれたアーティスト) 2.5 再度プリンスへ〜そして復活 3 使用楽器 4 ディスコグラフィ 4.1 オリジナルアルバム 4.2 ベストアルバム 5 ライヴツアー 5.1 音楽フェスティバル 5.2 来日公演 6 脚注 7 外部リンク
来歴 [編集]
1978年のファーストアルバム以降、ロック、ファンク、ソウル、ブルース、ジャズ、ニュー・ウェイヴ、ヒップホップを自在に取り込んだ唯一無二のスタイルで音楽を創造しつづけ、第一線で活躍しながら多くの信奉者を生んでおり、俗に言うミネアポリスサウンドの中心的存在である。一方、その強すぎる個性や存在感から「聴かず嫌い」され易く、批評家達の間でも賛否が大きく分かれるミュージシャンの一人でもある。この先、何十枚でもアルバムを発表できるだけの楽曲のストックがあるといわれ、またどれほど優れた曲であろうともアルバムの流れから外れた曲は表に出さないという主義から、多大な数のブートレグを生んでいる。その特異な才能への敬意と Prince という名にちなみ、日本のファンは彼を「殿下」と呼ぶ。多種多様な楽器を演奏できるのに加え、ジェームズ・ブラウンの流れを継いだ滑る様なステップやスプリット(股割り)、マイクスタンドを用いたさまざまな技などのダンスパフォーマンスの才能においても観客を沸かせることが出来たが、近年ではそれらのパフォーマンスを行うことは殆ど無くなってしまった。
1978年、プリンスはたった一人でデビューアルバム For you を作り上げ、そのメジャーキャリアをスタートさせる。ビルボードチャートは163位に終わるものの、シングルカットされた Soft And Wet はR&Bチャートをにぎわせた。
1979年、バックバンドを集めるものの、やはりアルバム作成はほぼひとりでやってのけ、セカンドアルバム Prince を発表。キャッチーな曲として Why You Wanna Treat Me So Bad、I Wanna Be Your Lover がR&Bチャートでヒットとなった。なおI Wanna Be Your Loverは全米シングルチャートでも最高位11位にランクされる大ヒットとなり、一躍その名を世間に知らしめることとなる。日本で発売されたアルバムはこれが最初のものとなる。
1980年には Dirty Mind を発表。本来発表するつもりのないデモテープであったが、マネージャーの勧めで発表することになった。また、Head と Sister の詞が性的に露骨過ぎるという理由で放送禁止曲になることで話題を集めた。しかし、そのためにセールス的には前作を下回ってしまった。
1981年には Controversy を発表。同名シングルがインターナショナルチャートにランクインする。また同時期にザ・タイムのデビューアルバムをプロデュースする。クレジットはされていないが、実際には作詞作曲演奏のすべてを行っている。この他にもヴァニティ6(アポロニア6)、シーラ・Eなどをプロデュースし、プロデューサーとしてもその非凡さを証明する。また、シーナ・イーストンやバングルスなど他の歌手への楽曲提供も少なくなく、さらにはプリンスの曲をカヴァーするアーティストも多く、ケイト・ブッシュ、チャカ・カーン、トム・ジョーンズ、シネイド・オコナーなどが代表格。日本では白鳥英美子や矢井田瞳がNothing Compares 2 U をカヴァーしている。この時期に、ローリング・ストーンズの前座としてツアーを行っており、公演によっては、物を投げつけられるなどの客からのブーイングを受けた。当時ストーンズの楽屋を訪れたデイヴィッド・ボウイが、トイレで泣いている彼を見掛けたため、以後は自身のツアーに前座をつけることをやめたというエピソードが残っている。 1999 - The Symbol [編集]
1982年に2枚組アルバム 1999 をリリースしたプリンスはついにブレイクを迎える。全米で400万枚を売り上げたこのアルバムからは Little Red Corvette(6位)、1999(12位)、Delirious(8位)がシングルカットされ、全米チャートで初のトップ10入りを遂げた。同時に MTV ではじめてプロモーションビデオが放映された黒人アーティストとして、マイケル・ジャクソンとともに名を連ねることになる。なお、本作のCDは1枚で発売されたため、収録時間の都合上、1980年代から1990年代にかけて発売されていたCDからは D.M.S.R. が削られている。
1984年、同名映画のサウンドトラックとして パープル・レイン が発表され、プリンスのコマーシャル的な価値は頂点に達する。発表初週に100万枚を売り上げたこのアルバムは、ビルボードチャートのトップに実に24週間も居座りつづけた。シングルカットされた When Doves Cry、Let's Go Crazy の2曲がシングルチャートで1位となり、プリンスは全米でのボックスオフィス、アルバムチャート、シングルチャートですべて1位を獲得するという偉業を達成する。なお、本作からは他に Purple Rain(2位)、I Would Die 4 U(8位)、Take Me With U(25位)がシングルカットされている。また、When Doves Cry は年間シングルチャートでも1位を獲得している。
全米で1300万枚、全世界で1500万枚を売り上げた パープル・レイン の収益でプリンスは独自レーベルであるペイズリー・パーク・レコードを設立する。1985年にこのレーベルから Around The World In A Day を発表。前作とはがらりと作風を変えてきたこのアルバムも全米チャートで1位を獲得する。
翌1986年には監督をも努めた映画『プリンス/アンダー・ザ・チェリー・ムーン』のサウンドトラックとして Parade を発表。映画自体は興業的に失敗するものの、アルバムは全米で3位となり、シングルカットされた Kiss は全米1位を獲得する。このときのチャート2位が バングルス の Manic Monday であったが、この曲はプリンスが Christopher というペンネームで提供した曲である。また、この年 Parade tour で初の来日公演を果たしている。バックバンドザ・レヴォリューションはこのツアーを最後に解散する。ちなみにプリンス・アンド・ザ・レヴォリューションの最終公演は横浜だった。
1987年には、2枚組アルバム Sign "☮" the Times を発表する。ツアーの撮影したものをベースに作成された同名の映像作品も発売されている。
同年、The Black Album がレコーディングされるが、発売直前になって発売が中止される。この音源はブートレグとして流出し、世界最高の売上であろうと思われる500万枚以上が販売された。同アルバムは最終的に1994年にワーナー・ブラザーズから発売されている。
1988年には The Black Album のアンサーアルバムとなる Lovesexy をわずか4か月の制作期間を経て発表するが、そのジャケットが物議をかもし、CDでの曲間ジャンプが出来ないようにアルバム全体が1曲扱いになっているという仕様(ただし発売国によっては異なる)のアルバムはセールス的には全米11位、売上50万枚と低迷した。同様に全米ツアーも低迷したが、その低迷分をヨーロッパと日本へのツアーで補うことができたという。
1989年、映画『バットマン』のサウンドトラックを担当する。サウンドトラックとされているものの、その実は映画にインスピレーションを得たオリジナルアルバムとなっている(ダニー・エルフマンによる映画オリジナルスコア楽曲集は別途発売)。初回限定で缶入りCDも発売された。アルバム、およびシングルカットされた Batdance はチャート1位を獲得する。またこの時、日本のミュージシャン小比類巻かほるへの楽曲プロデュースも話題になった。80年代末から90年代半ばまで『Glam Slam Yokohama』というディスコを横浜で経営もしていた。お忍びでシークレットギグを開催したこともある。
1991年にはバックバンドにザ・ニュー・パワー・ジェネレイションを従え Diamonds and Pearls を発表。全米チャートで3位、売上200万枚。シングルカットされた Cream が1位、Diamonds and Pearls が3位を獲得している。
1992年には独自にデザインしたシンボルマークをタイトルにしたアルバムをリリースする。発音不明のため本国では"Symbol"と呼ばれ、日本では「ラブ・シンボル」と邦題がつけられた。全米5位、100万枚のセールス。 改名〜『The Artist Formerly Known As Prince』(かつてプリンスと呼ばれたアーティスト) [編集]
その際にプリンスはその名を捨てる。1994年発売のComeにおいて「プリンスの死」を宣言し(この際のアーティスト表記は正確にはPrince 1958 - 1993である)、1992年のアルバムのタイトルであるシンボル ⚩ を自らの名とした。このシンボルは、男性(♂)と女性(♀)を融合させ、さらに音楽を象徴すると推測されているラッパを思わせる記号をくみあわせたもので、錬金術の記号にルーツを持つという。しかしプリンスはこのシンボルに対しての読み方を特に決めなかったため、彼の名前を音声で伝えることが不可能になった。結局ラジオDJなどはシンボルマークを指して、「元プリンス」(the Artist Formerly Known As Prince=かつてプリンスと呼ばれたアーティスト、かつてプリンスとして知られたアーティスト)と呼んだ。さらに略して単に「ジ・アーティスト」(The Artist)とも呼ばれ、プリンス側もまたジ・アーティストと呼ぶのが通例だった。
1999年、ワーナー・ブラザーズから、最後の契約枚数消化の為に未発表曲集The Vault〜 Old Friends 4 Saleが発表される。同じ年にアリスタと配給合意しアルバム Rave Un2 The Joy Fantastic を発表。プロデューサーとしてプリンスの名前がクレジットされる。 再度プリンスへ〜そして復活 [編集]
2001年、プリンス名義としては9年ぶりのオリジナルアルバム The Rainbow Children を発表。宗教的でスピリチャルな内容で、ターニングポイントの作品。
ワーナー・ブラザーズを離れてからは主にオフィシャルサイト NPG Music Club を中心に活動していたが、2004年2月に第46回グラミー賞のオープニング・アクトをビヨンセと共演。3月にはロックの殿堂入りを果たし、4月にコロムビアと配給合意しアルバム Musicology を発表。コンサートツアーが全米で年間最高の観客動員数と収益を記録し、第47回グラミー賞でも2部門を受賞。米音楽シーンの中心に返り咲いた。
2005年2月、人種差別問題や社会問題などについての認知度を高めたという功績が認められ NAACP Vanguard Award を受賞する。また、ハリケーン・カトリーナの被害救済にいち早くチャリティ曲 S.S.T. をネット配信した。12月、ユニバーサルと配給合意し、ニューアルバム 3121 からの先行シングル Te Amo Corazon をネット配信。