1974年9月、バンドはDave Evansに代わり(Daveはシングル盤1枚だけの参加であった)、オーストラリアでいくつかのバンドで経験のあるボン・スコットをボーカリストとして迎え、翌1975年1月に、たった10日間でレコーディングした1stアルバム「ハイ・ヴォルテージ(High Voltage) 」をリリース(当初はオーストラリアのみのリリースだった)した。このアルバムからは「It's a Long Way to the Top (If You Wanna Rock 'n' Roll)」がシングルカットされ、B面には2ndアルバムのタイトルトラック「T.N.T.」が収録されている。このころからラインナップは安定し、アンガス兄弟、ボン、フィル・ラッド(ドラム)、マーク・エヴァンス(ベース)の編成が暫く続くこととなる。同年12月には2ndアルバム「T.N.T.」をリリース。
1976年、バンドはアトランティック・レコードと世界規模のレコード契約を結ぶ。これによりバンドは キッス、エアロスミス、スティクス、ブルー・オイスター・カルトらの前座としてイギリス、ヨーロッパのスタジアムクラスの会場をサーキットすることとなる。1976年9月28日には「ハイ・ヴォルテージ」と「T.N.T. 」の楽曲から再構成されたコンピレーション・アルバムをアトランティック・レコードから全世界でリリース。タイトルは1stアルバムと同じく「High Voltage」である。同アルバムは現在まで300万枚以上を売り上げている。同年には早くも次のアルバム「悪事と地獄(Dirty Deeds Done Dirt Cheap)」をリリース。このアルバムは現在流通している通常盤の他にオーストラリア盤が存在し、ジャケットと収録曲がそれぞれ異なっている。(なおこのアルバムがアメリカでリリースされたのは1981年であり、その前年に発売され、売れに売れていた「バック・イン・ブラック(Back In Black)」の余波を受けて、この作品もロングセラーを記録している)この様なバージョン違いの存在は次のアルバム「ロック魂(Let There Be Rock)」まで続いている。
1978年、クリフ・ウィリアムズ加入後初のアルバム「パワーエイジ(Powerage)」をリリース。同アルバムに伴うツアー中にグラスゴーのアポロシアターでレコーディングされたライブ盤「ギター殺人事件(If You Want Blood)」を同年にリリース。1stアルバムから続いたHarry Vandaとジョージ・ヤングによるプロデュースはこのアルバムまでとなる。
1979年、6枚目のアルバム「地獄のハイウェイ(Highway To Hell)」をリリース。プロデューサーはジョン・マット・ラング。このアルバムはアメリカで発売された最初のアルバム(最高位は17位)で、彼らの出世作。また、その後の音楽性の礎ともなっており、AC/DCのバンドサウンドが完成されたアルバムである。バンドが世界的な人気を得るのは、もはや時間の問題であった。
ボン・スコットの死後、バンドは解散する事も考えたが、ボンはバンドを続ける事を望んでいるだろうという結論に至り、活動を継続する事を決定した。ボンの後任として最初にBack Street CrawlerのTerry Slesserにバンド加入のオファーを出すも、既に確立されたバンドには加入しないという考えから断られた(その後ソロキャリアで成功を収めており、アイアン・メイデンがカバーしたRainbow's Goldは彼の作品である)。また元MoxyのBuzz Shearmanにも断られている。そして最後にマネージャーから推薦されたイギリスのグラムロックバンド『ジョーディー』のブライアン・ジョンソンの加入を決定する(ただしバンド側は当初ジョーディー時代のイメージから彼の加入には懐疑的だったようだ)。オーディションでブライアンはWhole Lotta Rosieとアイク・アンド・ティナ・ターナーのNutbush City Limitsを歌っている。
[編集] ブライアン・ジョンソン加入後(1980年〜)
ボン・スコット存命中に既に楽曲を完成させていたバンドは、ブライアン加入後、間を置かずレコーディングに入る(ボンが死亡してから数ヶ月後の事である)。プロデュースは前作と同じくジョン・マット・ラングが担当。アルバムは1980年7月25日に「バック・イン・ブラック(Back In Black)」のタイトルでリリースされる。「スコットの死を売り物にしたくない」というバンド側の意向により、喪を表す黒いジャケットと冒頭に流れる教会の鐘を思わせる鐘の音が収録されているのみでスコットの死を悼む曲は存在しないが、逆に飲酒を勧める歌があるのには多くの人が驚かされた。売り上げはこれまでに世界で4300万枚を超え、バンドにとって最大のヒット作となっている(イギリスでは最高1位、アメリカでは最高4位)。
翌年1981年には「悪魔の招待状(For Those About To Rock(We Salute You))」をリリース。
[編集] フィル・ラッドの解雇(1983年)
1983年、フィル・ラッドのアルコール依存症とドラッグによるパラノイアの症状が深刻化、バンドとの間に亀裂が生じ、既に次作のレコーディングが終了していたにもかかわらず解雇となる。後任はNWOBHM時代に活躍した『A II Z』などの活動で知られるサイモン・ライト。そして同年「征服者(Flick Of The Switch)」をリリース。このアルバムはそれまでの作品ほどは成功せず、ある批評家からは「同じアルバムを9枚作った」と揶揄され、同年のケラング!読者投票でBiggest Disappointment Of The Year (最も失望した事)の8位に選ばれた。その後、バンドは暫く低迷を続ける事となる。同年E.P.「74' ジェイルブレイク(74' Jailbreak)」をリリース。
1985年、「フライ・オン・ザ・ウォール(Fly On The Wall)」をリリース。プロデュースはヤング兄弟。
1986年、スティーブン・キング監督映画『地獄のデビルトラック』のサウンドトラック「フー・メイド・フー(Who Made Who)」をリリース。
1988年に『オーストラリアレコード産業協会(ARIA)』のARIA Hall of Fameに選ばれる。
[編集] 再ブレイク(1988年〜2000年)
1988年、フランスにて新作「ブロウ・アップ・ユア・ヴィデオ(Blow Up Your Video)」のレコーディングを開始。プロデュースは初期の作品を担当していたHarry Vandaとジョージ・ヤング。このアルバムは好評を博し、「バック・イン・ブラック」に次ぐヒットとなる(イギリスでは最高4位、アメリカでは最高12位)。
1973年にデビューして以来、楽曲やライブでのパフォーマンスなどによって欧米にも人気を広げていったが、1980年にボーカルのボン・スコットが急死し、危機にたたされる。しかし新ボーカリスト、ブライアン・ジョンソンを向かえて発表した『Back in Black』は、世界的に大ヒットし(米国でのセールスは2100万枚を超え、第5位であり、世界でのセールスはマイケル・ジャクソンのスリラーに次いで第2位とされている)次作『For Those About to Rock』では初のビルボード1位を獲得した。今日でも全米チャートの上位常連であるが、日本での人気は欧米ほど高くなく、また彼らの全盛期であった1980年前後、日本ではクイーンの様な、ルックス的にも音楽的にも華やかなバンドが人気で、AC/DCの様なバンドは人気がないというバンド側の先入観もあり、2001年の来日公演は実に19年ぶりであった。ただし、コアなファンを生み出していることも事実で、山下達郎も彼らに賛辞を惜しまないという。
* 1974年 「ハイ・ヴォルテージ」 High Voltage * 1975年 「T.N.T.」 * 1976年 「悪事と地獄」 Dirty Deeds Done Dirt Cheap * 1977年 「ロック魂」 Let There Be Rock * 1978年 「パワーエイジ」 Powerage * 1978年 「ギター殺人事件」 If You Want Blood (Live) * 1979年 「地獄のハイウェイ」 Highway to Hell * 1980年 「バック・イン・ブラック」 Back in Black * 1981年 「悪魔の招待状」 For Those About to Rock (We Salute You) * 1983年 「征服者」 Flick of the Switch * 1984年 「'74 ジェイルブレイク」 '74 Jailbreak * 1985年 「フライ・オン・ザ・ウォール」 Fly on the Wall * 1986年 「フー・メイド・フー」 Who Made Who(サウンドトラック) * 1988年 「ブロウ・アップ・ユア・ヴィデオ」 Blow Up Your Video * 1990年 「レイザーズ・エッジ」 The Razor's Edge * 1992年 「ライヴ」 Live * 1995年 「ボールブレイカー」 Ballbreaker * 1997年 「ライヴ〜ボン・スコットに捧ぐ」 Bonfire * 2000年 「スティッフ・アッパー・リップ」 Stiff Upper Lip