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XTCが大好き(音楽)コミュの坂本 九関連

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九を記念して、小惑星ナンバー6980の固有名はKyusakamotoと命名されている(「上を向いて歩こう」を作詞した永六輔、作曲した中村八大、歌手の坂本九の名前の「六・八・九」が含まれる番号を選んで命名された。この3人は「689トリオ」と呼ばれることも ...

(さかもと きゅう、本名:大島九(おおしま ひさし)、1941年12月10日 - 1985年8月12日)は、日本の俳優・歌手(所属先:マナセプロダクション)で日航ジャンボ機墜落事故の犠牲者の一人であったことも知られる。

神奈川県川崎市川崎区出身。日本大学高等学校出身。愛称は九ちゃん(きゅうちゃん)。血液型はA。

妻は柏木由紀子。柏木との間に女児二人があり、長女は大島花子、次女は舞坂ゆき子(本名:大島舞子)。

以下の表記は「九」で統一する。
目次
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* 1 人物
* 2 代表曲
* 3 出演映画
* 4 舞台
* 5 その他
* 6 CM
* 7 演じた俳優
* 8 関連項目
* 9 外部リンク

[編集] 人物

* 名前は、兄弟が多く、9番目に生まれて、そろそろ名前のネタが尽きてきた事から、「九」と命名されたという説がある。又、「九」の読みが「久」に通じるからとも言われている。
* 第二次世界大戦の時期に幼少期を送る。戦時中は、母の実家のある茨城県笠間市に疎開した。また川崎在住時代、一時松あきら一家が坂本実家の近所に転居・在住してきた時期があり、九は松とよく遊んであげたりしていたとのこと。
* 高校生の時に両親が離婚。といっても家は近所で家族の交流は変わらなかった。九など下の兄弟は母親に引き取られ、姓は坂本から大島に。この前後からエルヴィス・プレスリーに憧れるようになり、誰も右に出る物がいなかったと言われるプレスリーの物まねで仲間内の人気者となった。
* 1958年5月、ザ・ドリフターズのメンバーとなる。ギターで活躍していた。
* 1958年11月、ザ・ドリフターズを脱退。グループを移籍しダニー飯田とパラダイスキングの一員としてビクターと契約。1959年6月に「題名のない歌だけど」でデビューしたが、ヒットせず。
* 1960年7月に東芝音楽出版(東芝レコード。現・EMIミュージック・ジャパン)に移籍。同年8月に移籍後第1弾シングルとして発売した「悲しき60歳」が10万枚を売り上げ、初ヒットとなった。
* 海外でも大ヒットした「上を向いて歩こう」など数々の名曲を残し、昭和を代表するソロシンガーと呼ばれた。デビュー当時はダニー飯田とパラダイス・キングの一員であったが、後に独立。
o なおアメリカでもっとも権威のあるヒットチャート誌ビルボードの「ホット100」で1位を獲得したのはあとにも先にも日本人では九だけである(2007年現在)。さらに、彼のこの曲が1位を獲得した際、投売りの日本製品が売れ始め、醤油が売れ始めたきっかけになったとされる説も残されている。
o 「上を向いて歩こう」は歌いだしが印象的な歌だが、レコーディングの時に初めてその部分を聞いた永六輔が、「何だその歌い方は!」と九に向かって激怒したと伝えられる。この独特の歌い方は母がやっていた小唄と、プレスリーの影響であるとも言われている。
* 無名時代、平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎などが出演した「日劇ウェスタンカーニバル」に事務所の意向を無視して無理やり出演。バックでギターを弾いていたが、全く知られることはなかった。
* 『上を向いて歩こう』の海外でのヒットで世界的に名前が知られたことで、国際的な活動も多かった。
1964年の第18回オリンピック東京大会のウェルカムパーティーにゲスト出演し、『サヨナラ東京』『君が好き』を歌った。
* 歌手としての活動のほかに、テレビの司会や、映画、舞台などでも活躍した。福祉関係のボランティア活動にも積極的に参加していたことも有名であった。
* 1985年にレコードレーベルをBMGファンハウスに移籍、5月22日に移籍後第1弾シングル「懐しきlove-song/心の瞳」を発売して再び歌手活動を本格化させようとしていた矢先の8月12日、日本航空123便墜落事故に遭い、僅か43歳の若さで急逝。九の不慮の死は、日本音楽界・歌手界にとって大きな損失と言われた。
o 九は本来、事故の多い日航を避け国内移動には必ず全日空を使っていた(所属プロダクションや由紀子夫人も「手配は必ず全日空で」と指定していたほどだった)が、この日の搭乗目的は大阪府での選挙応援であったため、チケットやホテルの手配などはすべて招待する側の立候補者の側近が担当。全日空便が満席(※事故当日のダイヤでは、日航機と同時刻・同区間で全日空機も飛んでいた)でチケットを確保できず、仕方なく確保したのが日航123便であったため、家族も乗客名簿が発表されるまで日航機に乗っているはずがないと信じていたが、事故の数日後「全日空が満席で日航しか取れませんでした」という立候補者の側近からの謝りの電話があった(由紀子夫人談)。尚、この事故で運命を共にした小宮マネージャーは、早めに羽田空港へ行き、全日空便への振替を何度も交渉したが、お盆という時節柄叶わず、やむを得ずこの事故機に乗ったという。
o 事故翌日の8月13日に放送された「なるほど!ザ・ワールド」200回記念では、九本人も出演(事前収録)。この時点では安否分からずの状態であったため、敢えて放送される。墜落から95時間後の16日、家族らの目で遺体が確認された(遺骸が発見されたのは14日頃)。当時、結婚式を挙げた笠間稲荷神社のペンダントを常に身につけていたため、遺体の胸にペンダントが突き刺さっていたことで身元が判明する。発見された遺体は損傷が激しかったが、絶命した瞬間は両手で両足首を掴み、腕と腕の間に頭をうずめる緊急事態発生時に乗客がとる姿勢であった痕跡をかろうじて残していたこともあり即死状態であったと、遺体を確認した由紀子夫人や所属事務所社長が後に語っている。
o 九、そして小宮の両名は、B747の2階席に搭乗していた。
o 歯だけが発見されたという話は誤りで、それは機長の遺体のことである。
* 1985年8月17日放送のTBS・キッチンパトロールは、遺体が確認された翌日であったため、終始、収録日と九の死去を伝えるテロップが表示されながら元気な姿が放送された。
* 葬儀は親族やごく一部の関係者のみの密葬と言う形で行われたが、札幌テレビ放送で福祉番組ふれあい広場・サンデー九を担当していたこともあり、一緒に亡くなった小宮マネージャーとともに、北海道内で障害者とその家族だけを対象にした「偲ぶ会」という一般葬儀も行われた。
* 九を記念して、小惑星ナンバー6980の固有名はKyusakamotoと命名されている(「上を向いて歩こう」を作詞した永六輔、作曲した中村八大、歌手の坂本九の名前の「六・八・九」が含まれる番号を選んで命名された。この3人は「689トリオ」と呼ばれることもある)。
* 「明日があるさ」は2000年頃よりコーヒー飲料のコマーシャルに用いられ、再び注目された。
* 没後20年にあたる2005年8月(放送日は8月21日)に、テレビ東京系列で「上を向いて歩こう 坂本九物語」が放送された。坂本九役を山口達也、柏木由紀子役をともさかりえがそれぞれ演じた。なおこのドラマでは、次女の舞坂ゆき子が父の姉(舞坂にとっては父方の伯母)である遠藤八千代役で出演している。しかしながら、このドラマでは日本航空の社名(「日本航空」「日航」「日航機」など)を一切セリフ(劇中劇のセリフも含む)に出さなかった。また、事故機に乗った理由もこのドラマでは小宮マネージャーの妻役が「夫(小宮)は早い便に変えようとしたために一足早く羽田へ行ったのね」と言っていたが、この発言もフィクションである。上述のように、小宮が一足早く羽田へ行った本当の理由は、九が事故の多い日航機から全日空機に搭乗便を替えてほしかったからであり、制作・放映したテレビ東京は民放局(在京キー局)であるため、スポンサー問題との兼ね合いもあって小宮マネージャーの行動をフィクションにし、日航、及び全日空の社名を一切出さなかったものと思われる(当然ながら、もし「九が日航嫌いで全日空機に替えてほしかったから」と事実をそのまま放映すれば、日本航空グループとのスポンサー契約が打ち切りになるのは必至となる)。この点では、日本航空の社名を頻繁にセリフ等で使用したドラマ「クライマーズ・ハイ」と番組の作りが対照的であるといえる(「クライマーズ・ハイ」の場合は、制作・放映したNHKがスポンサーとのしがらみを持たず、視聴者からの受信料で経営しているがためにできたことともいえる)。
* 2007年3月4日より、九ゆかりの地茨城県笠間市の中心駅である友部駅で「明日があるさ」・「上を向いて歩こう」・「幸せなら手をたたこう」のアレンジが発車メロディとして使用されている。
* 九が最後に歌った「心の瞳」は、結局的に遺作となってしまったが、横山潤子などによって編曲され現在は混声3部合唱として主に中学生に歌われている。
* 戒名は天真院九心玄聲居士。墓には「見上げてごらん夜の星を」の歌詞の一部が刻まれている。

[編集] 代表曲

* 題名のない歌だけど(デビュー曲)
* 悲しき60歳(東芝レコード移籍後の第1弾シングルで初のヒット曲。トルコのヒット曲「ムスターファ」のカバー)
* ビキニスタイルのお嬢さん(ブライアン・ハイランドのカバー)
* ステキなタイミング(「ビキニスタイルの〜」のB面だがA面をはるかに凌ぐ大ヒット。ジミー・ジョーンズの「グッド・タイミング」のカバー)
* 上を向いて歩こう(世界中で発売された九の代名詞的ヒット曲)
* 九ちゃん音頭
* ボクの星
* ひとりぼっちの二人
* 見上げてごらん夜の星を
* 明日があるさ
* 幸せなら手をたたこう(原曲はスペイン民謡)
* サヨナラ東京
* ともだち
* 涙くんさよなら(ジャニーズ・和田弘とマヒナスターズ・ジョニー・ティロットソンとの競作)
* レット・キス(ジェンカ)(フィンランドのラウノ・レティネン(Rauno Lehtinen)作曲)
* 世界の国からこんにちは(競作。三波春夫と九のバージョンが共にヒット。九のバージョンは、作曲者の中村八大が編曲も手がけ、1968年の紅白歌合戦では九が歌った)
* 夢のナポリターナ(原曲はイタリアで歌唱されていた歌。ザ・ピーナッツとの競作。ただし歌詞違いであるため完全な競作とはなっていない。またザ・ピーナッツ版は原曲通り「ルナ・ナポリターナ」である)
* 遠い昔の母の胸に(前作「蝶々」が理不尽な放送禁止(それ以前に他の人が歌った卑猥な替え歌が広まっていたという理由であった)を受けたために急遽九がかねてから作っていた曲に歌詞をつけて発売された。九が歌いたいと願っていた「母の歌」でもある)。
* マイ・マイ・マイ
* マイ・ホーム・タウン(ザ・ピーナッツとの競作。原曲はポール・アンカ歌唱)
* 夕焼けの空(NHK人形劇『新八犬伝』のエンディング曲)
* そして想い出(九の「手話の素敵なフレーズを集めて歌を作りたい」という願いが叶った一曲で、手話通訳者の丸山浩路が監修した)
* 何かいいことありそうな(北海道限定で発売されたシングル。STV『ふれあい広場・サンデー九』主題歌)
* 親父(亡き父に捧げた曲で、九自ら作詞、作曲を担当)
* ぶっちぎりNO文句/おとなの童話〜今だからいうけれど〜(覆面歌手XQS(エクスキューズ)名義で発売)
* 懐しきlove-song/心の瞳(ファンハウス移籍後第1弾シングルとして発売されたが、3ヶ月後の日本航空123便墜落事故で結果的に遺作となった)

「心の瞳」は現在は合唱曲として主に中学生に親しまれている。

[編集] 出演映画

* 1960年 山のかなたに 第1部リンゴの頬(東宝)
* 1960年 山のかなたに 第2部魚の接吻(東宝)  
* 1961年 悲しき60才(大映東京)
* 1961年 アワモリ君売出す(東宝)
* 1961年 喜劇 駅前団地 (東京映画)
* 1961年 アワモリ君乾杯!(東宝)  
* 1961年 喜劇 駅前弁当 (東京映画)
* 1961年 アワモリ君西へ行く (宝塚映画)
* 1962年 上を向いて歩こう(日活)
* 1962年 九ちゃん音頭(松竹大船)
* 1962年 若い季節(東宝)  
* 1962年 ひとりぼっちの二人だが(日活)
* 1962年 バラキンと九ちゃん 申し訳ない野郎たち(松竹大船)
* 1963年 九ちゃんの大当りさかさま仁義(東映東京)
* 1963年 クレージー作戦 先手必勝(東宝)
* 1963年 九ちゃんの刀を抜いて(東映京都)
* 1963年 ジェリーの森の石松(東映京都)
* 1963年 見上げてごらん夜の星を(松竹大船)
* 1964年 男嫌い(東宝)
* 1964年 喜劇 陽気な未亡人(東京映画)
* 1964年 万事お金(東宝)  
* 1964年 幸せなら手をたたこう(大映東京)
* 1965年 ガリバーの宇宙旅行 (東映動画)  
* 1965年 調子のいい奴 いたずらの天才(マナセ・プロ)
* 1965年 ハイウェイの王様(マナセ・プロ)
* 1966年 坊っちゃん(松竹大船)
* 1967年 九ちゃんのでっかい夢(松竹大船)  
* 1967年 君は恋人(日活)  
* 1975年 吶喊 (喜八プロ=ATG)
* 1975年 新八犬伝 第一部 芳流閣の決斗 (芸苑社)
* 1976年 泣きながら笑う日

[編集] 舞台

* 努力しないで出世する方法(別名:ハウ・トゥー・サクシード。主役フィンチ、1964年、新宿コマ劇場)

[編集] その他

* 夢であいましょう(NHK)
* 水戸黄門 (ブラザー劇場)(TBS、1964年〜1965年)
* 九ちゃん!(後に『イチ・ニのキュー!』)(NTV、1966年〜1969年まで司会)
* フジ三太郎(TBS、1968年)
* 天下御免(NHK、1971年〜1972年まで出演)
* ふれあい広場・サンデー九(STV = 札幌テレビ、1976年〜1985年まで司会。尚、この番組の関係で1984年まで日本テレビ系列夏恒例の24時間テレビの北海道地区メインパーソナリティーとして出演した)
* クイズクロス5(tss = テレビ新広島、司会)
* 連続人形劇・新八犬伝〔ナレーター〕(NHK)
* キッチンパトロール(TBS、1975年〜1985年まで司会)
* スター千一夜(CX、1979年〜1981年まで司会)
* 名もなく貧しく美しく(NTV、1980年)
* スター誕生!(NTV、1981年〜1982年まで3代目司会)
* なるほど!ザ・ワールド(CX、1981年〜1985年まで夫人の柏木由紀子と共にセミレギュラーパネリストの一人として出演)
* クイズEXPO'70(ytv'1969年10月~1970年3月、司会)
* 買ってくるぞと勇ましく(ytv' 1973年、司会)

[編集] CM

* ニチイ(現・サティ・1982年頃)

[編集] 演じた俳優

* 山口達也(TOKIO) - 2005年8月、テレビ東京「上を向いて歩こう〜坂本九物語〜」で青年期から日航機事故で亡くなるまでの坂本を演じた。


[編集] 関連項目

* 坂本休

[編集] 外部リンク

* 坂本九 Official Web Site
* マナセプロダクション
* 柏木由紀子ホームページ
* 大島花子ホームページ
* 舞坂ゆき子ホームページ
* 坂本九さんが亡くなった日航機墜落事故の記録
* 九ちゃんの会 by ONE STEP TO 9

現在このサイトは消滅しているが、インターネットアーカイブにキャッシュが残っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E6%9C%AC%E4%B9%9D

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坂本九
(さかもときゅう) [サカモトキュウ]
かつて忌野清志郎が「日本でもっとも有名なロック・ナンバーです」と紹介した「上を向いて歩こう」。無闇なポジティヴ・ソングでは決してなく、“上を向いて歩く”のは“涙”がこぼれないように、と歌った熱く切ない20世紀最高の名曲である。その優しく朗らかな歌声/一度聴いたら忘れないメロディ/言葉の威力を最大限に駆使した詞世界――すべての日本国民が熱くシンクロしたであろう。また周知の通り、このナンバーは「スキヤキ・ソング」の名で61年に全米リリースされ、ビルボード・チャートにて見事No.1を獲得。驚くべきことに、全世界で 1000万枚以上ものセールスを記録した。言うまでもなく、日本人として空前の快挙であり、ドメスティックな歌モノが世界的ヒットとなることは絶後であろう。
日本が世界に誇る坂本九。58年、アメリカン・ポップス楽団、ダニー飯田とパラダイスキングにヴォーカリストとして加入。「悲しき60才」や「ステキなタイミング」などヒットを放った。その後、ソロ歌手に転向。中村八大や永六輔、青島幸男ら当時の気鋭作家陣のバックアップのもと、先述の「上を向いて歩こう」を始め、不滅の名曲「夢で遭いましょう」、リヴァイバル・ヒットでお馴染みの「明日があるさ」などなど、日本人の心/脳裏の染み込むナンバーを次々に生み出していった。――85年、日航機墜落事故に遭遇、永眠。
坂本九のオフィシャルサイト:http://www.manasepro.co.jp/kyu/index.html

*       坂本九の歌詞一覧 (7件)
* 坂本九のCD/DVDタイトル一覧

U Tube;http://youtube.com/results?search_query=%E5%9D%82%E6%9C%AC%E4%B9%9D&search=Search

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