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XTCが大好き(音楽)コミュのThe Smith関連

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ザ・スミス(The Smiths)はイギリスのロック、ネオアコバンド。1982年、マンチェスターにて結成。インディーズ・レーベルの「ラフ・トレード」に所属し、4枚のアルバムを出した後1987年に解散した。 実質的な活動期間は5年程度と短く、当時イギリス以外 ...

ザ・スミス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ザ・スミス(The Smiths)はイギリスのロック、ネオアコバンド。1982年、マンチェスターにて結成。インディーズ・レーベルの「ラフ・トレード」に所属し、4枚のアルバムを出した後1987年に解散した。

実質的な活動期間は5年程度と短く、当時イギリス以外ではあまりヒットしなかったものの、イギリスの若者には熱烈に支持された。今日では'80年代イギリスの最も重要なロックバンドのひとつとして認知されている。更に、その視点、音楽性はオアシス、スウェードなどのブリットポップバンドや、レディオヘッドなど世界の多くのオルタナティブ・ロックバンド、またベル・アンド・セバスチャン等多くのアーティストに多大な影響を与えている。
目次
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* 1 メンバー
* 2 概要
* 3 バンドの歩み
o 3.1 成立とデビュー
o 3.2 1stアルバム「ザ・スミス」
o 3.3 2ndアルバム「ミート・イズ・マーダー」
o 3.4 3rdアルバム「クイーン・イズ・デッド」
o 3.5 4thアルバム「ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム」、そして解散
o 3.6 解散後のメンバーのキャリア
o 3.7 ザ・スミスのその後
* 4 ディスコグラフィー
o 4.1 シングル(UK)
o 4.2 オリジナルアルバム
o 4.3 ライブ盤
o 4.4 編集盤
* 5 備考
* 6 脚注
* 7 外部リンク

[編集] メンバー

* モリッシー (Morrissey)/ボーカル
* ジョニー・マー (Johnny Marr)/ギター
* アンディ・ルーク (Andy Rourke)/ベース
* マイク・ジョイス (Mike Joyce)/ドラム

[編集] 概要

ザ・スミスの特徴は、ボーカルのモリッシーによるねじれた自虐的ユーモアにあふれた歌詞と、作曲担当のジョニー・マーによるギター中心の繊細でキャッチーな曲作りであった。その歌詞は、メジャーレーベルから出ていたヒット曲やラブソングなどにあまり共感できないタイプの思春期の少年少女に強く受け入れられ熱狂的なファンを生み、後のオルタナティブ・ロックの歌詞作りに大きな影響を与えた。またその曲は同時期のネオアコまたはギターポップなどと称される一連のインディーズロックとともに、シンプルなギターを中心とした音楽の人気をじわじわとよみがえらせ、後に続くギターポップやパワーポップなどに影響を及ぼしている。

MTVの登場によって徐々に進行していたロックンロールの産業化がひどく根深いものとなった'80年代はロックの暗黒期とも揶揄されるが、そんな中にあって、ザ・スミスは真実の意味で「成功」を収めた非常に希少な存在である。その歴史の中でロックンロールが救済はおろか、取り上げもしなかった社会の中の本当の弱者(学歴社会の敗者、神経質な人間)いわゆる「社会」の中で成功を果たし得ない存在を、彼らは美しい旋律と詩で描き上げた。耽美的で、退廃的で、かつ反抗的である、という姿勢。ロックンロールのとりこぼしを掬いとる視点。これらの意味で真にザ・スミスは革新的な存在であったと言えるだろう。

[編集] バンドの歩み

[編集] 成立とデビュー

ザ・スミスは1982年始め、2人のマンチェスター在住の青年が結成した。モリッシー(本名スティーブン・パトリック・モリッシー)は親と同居する無職のライターで、アメリカのパンクバンド、ニューヨーク・ドールズのファンクラブを作り会報を発行していた。ジョニー・マー(本名はジョン・マー John Maher だが、バズコックスの同名のドラマー、ジョン・メイヤー John Maher との混同を避け改名した)は既にいくつかのバンドに参加したことのある腕のいいギタリストで作曲の才能もあり、モリッシーの文章の読者でもあった。マーがモリッシーを誘い、モリッシーの作る歌詞に曲をあてることでザ・スミスが始まった。簡単なドラマーのオーディションを行い、マイク・ジョイスが加入した。デイル・ヒバートが当初ベースを担当し、サウンド・エンジニアとして働くスタジオの施設と機材を貸してデモテープを作ったが、2回のライブのあとベーシストはマーの友人アンディ・ルークに代えられた。マーとルークはかつてパリス・ヴァレンティノスというバンドを結成していた仲である(メンバーにはケヴィン・ケネディがいたが、後に彼はマンチェスターを舞台にしたモリッシーも偏愛する長寿テレビドラマ『コロネーション・ストリート』の人気俳優となった)。

「スミス一家」というバンドの名前の由来は不明である。彼らはこの名前を、幻想的で気取ったバンドの名前、例えばオーケストラル・マヌヴァーズ・イン・ザ・ダーク(OMD)や、デペッシュ・モードなどに対する反発だと言ったことがある。[要出典]また、モリッシーのアイドルの一人であるパティ・スミスにちなんだ可能性や、地元マンチェスターをショックに陥れた連続男児殺人犯マイラ・ヒンドリーの義理の兄弟、デイヴィッド・スミスにちなんだ可能性もある。別の説には、バンド名をスミスというイングランド人のありふれた名前にしたのは皮肉なジョークである(なぜなら、バンドのメンバーは全員アイルランド移民の子孫だから)というものもある。モリッシーは1984年のインタビューで「僕が(自分達のバンドをザ・スミスと呼ぶことに)決めた理由は、スミスは最もありふれた名前だからで、今は世界中の普通の人たちが顔を見せる時だと思うんだ」[1]と述べている。

彼らは地元での評判をもとにラフ・トレードと契約し、最初のシングル『ハンド・イン・グラヴ』を1983年5月13日にリリースした。これがBBCラジオ第1のDJ、ジョン・ピールの目に留まり、後のザ・スミスの全てのシングル同様、番組でプッシュされたが売れ行きは芳しくなかった (が、解散後、「スミスで一曲選ぶなら?」という問いにこの曲を挙げるファンは多い) 。続くシングル『ディス・チャーミング・マン』『ホワット・ディファレンス・ダズ・イット・メイク?』はそこそこ売れ、音楽誌で取り上げられたりジョン・ピールやデイビッド・ジェンセンのラジオ番組に出演しての演奏につながった。ザ・スミスには熱心なファンがつき始めていた (エルビス・コステロもインタビューで注目しているバンドとして アズテック・カメラ 等と共に挙げた - 「あと、ラフトレードから出てるスミスというバンドもいい」 - Rockin' On 1983年12月号でのインタビュー。たぶんNME誌からの翻訳転載) 。モリッシーの気の滅入る、しかしジョン・ピールに大笑いさせるほどねじれたユーモアのある歌詞や、疎外され恋愛に苦しむ彼自身を反映した歌詞は、若者文化の中の不満に満ちた層、チャートを独占するシンセサイザー・バンドにはうんざりした層に支持された。

ザ・スミスのビジュアルも独特だった。モリッシーとラフ・トレードのアートディレクターであったジョー・スリーがデザインしたアルバムやシングルには、彼ら自身の姿は一切登場せず、その代わり二色刷りで映画やポップスのスターが印刷されていた。カバーに起用されたのはモリッシーの興味の対象で、例えば古い映画やカルト映画のスター(ジャン・マレー、ジョー・ダレッサンドロ、テレンス・スタンプ、ジェームズ・ディーン)や、1960年代のイギリスのポップアイドルなど、ほか古い映画や雑誌のモデル不明の写真から採用されていた。また1980年代のイギリスなどではニューロマンティックに代表されるような、エキゾチックなファッションにとりつかれたバンドや雑誌(「The Face」 や 「i-D」 など)が多かったが、ザ・スミスはただのシャツにただのジーンズという普通の服でステージに上った。モリッシーはほかにも小道具、たとえば偽物の補聴器、分厚い縁のメガネ、ズボンの後ろに挿したグラジオラスの花束などを持って登場する事もあった。

そして、実質3枚のシングルとライブのみの実績で、この年のNew Musical Express(NME)紙のリーダーズポールでブライテストホープ (最優秀新人) に選ばれ、俄然注目を浴びることになる(この年の2位は ビッグ・カントリー。因みにベストバンド部門はニュー・オーダーで、翌1984年にはスミスがトップとなる)。

[編集] 1stアルバム「ザ・スミス」

1984年2月には、バンドは長らく待たれていたデビューアルバム『ザ・スミス』を発表する。すでに支持層は厚く、このアルバムはUKチャートの2位に達する成功を収めた。アルバムの雰囲気は全体に物寂しく、『スティル・イル』や『サファー・リトル・チルドレン』といった曲タイトルがそれを物語っていた。『サファー・リトル・チルドレン』は、1960年代にマンチェスターで起こり全英を震え上がらせたマイラ・ヒンドリーによる連続少年殺人事件(ムーア連続殺人)を題材にしたものである。

その他明らかなことは、モリッシーが歌詞などの中でわざわざ多くの文学やポップカルチャーに言及していることである。インタビューでも彼のアイドル(アラン・ドロン、ジェームズ・ディーン、そして特にオスカー・ワイルド)について頻繁に認めているほか、歌詞の中でもささやかな引用を行っている(『プリティ・ガールズ・メイク・グレイヴス』というタイトルはジャック・ケルアックの小説『The Dharma Bums』の一節から採られている)。こうした引用は、もともと読書好きな傾向のあったザ・スミスのファンをさらに小説などに走らせることになった。

『リール・アラウンド・ザ・ファウンテン』や『ザ・ハンド・ザット・ロックス・ザ・クレイドル』は当時、ペドフィリアを示唆した曲ではないかという非難を浴びている。さらに『サファー・リトル・チルドレン』は、題材になった連続殺人の犠牲者の祖母がたまたまパブのジュークボックスで聴いたことから抗議がバンドに寄せられた。しかし曲自体は子供たちの面した悲劇に対し同情的なものであり、モリッシーは後に曲の中で名前に言及した犠牲者レスリー・アン・ダウニーの母アン・ウェストと友情を築いている。

アルバムのリリース直後、モリッシーの長年のアイドルであった'60年代の女性歌手サンディ・ショウが『ハンド・イン・グラヴ』をマー、ルーク、ジョイスをバックにレコーディングした。このシングルのヒットで、ザ・スミスはBBCテレビの生放送音楽番組「トップ・オブ・ザ・ポップス」で裸足で演奏した(サンディ・ショウがステージに裸足で登場するのが常だったことにちなんだもの)。

1984年は、アルバムに収録されていないシングルをいくつか発表した年でもあった。『ヘヴン・ノウズ』(ザ・スミス最初のトップ10ヒットで、このタイトル(ヘヴン・ノウズ・アイム・ミゼラブル・ナウ)はサンディ・ショウの'60年代のヒット曲『ヘヴン・ノウズ・アイム・ミッシング・ヒム・ナウ』をもじったもの)、および『ウィリアム』(モリッシーの友人でアソシエイツのリードシンガーだったビリー・マッケンジーのことを書いた歌詞だと一般には信じられている。この曲のB面が、ザ・スミスのもっとも有名な曲『ハウ・スーン・イズ・ナウ ? 』だった)である。この年の末、コンピレーションアルバム『ハットフル・オブ・ホロウ』がリリースされた。シングル曲やそのB面、また前年 1983年にピールやジェンセンがDJを務めるラジオ番組で録音した際の音源などが収められたこのアルバムは好評をもって迎えられた。特に、ラジオ・セッション・バージョンの演奏は、先立つシングルやアルバムに収録されていたものよりも優れていると多くの人々(ザ・スミスのメンバー自身も含む)が感じた。

[編集] 2ndアルバム「ミート・イズ・マーダー」

翌1985年2月11日、セカンドアルバム『ミート・イズ・マーダー』が発売された。このアルバムは前作以上に赤裸々で耳障りかつ政治的な歌詞が多く、特にタイトルトラック『ミート・イズ・マーダー』は菜食主義の主張が濃いものだった(モリッシーは他のメンバーにも、肉を食べている写真を撮られることを禁じていた)。ほかにも王室に対する反発を歌った陽気な曲『ノーホエア・ファスト』、体罰の横行する学校生活を歌った『ザ・ヘッドマスター・リーチュアル』と『バーバリズム・ビギンズ・アット・ホーム』なども強い印象を残した。音楽的には、バンドはより成長しさまざまなスタイルへの挑戦を行っていた。『ラショーム・ラフィアンズ』にはマーはロカビリー風のリフを加え、『バーバリズム・ビギンズ・アット・ホーム』ではルークはファンク・ベースでソロを弾いている。アルバム発売前に、かつてシングルB面に収録した『ハウ・スーン・イズ・ナウ?』を先行シングルとして再リリースしたが、この曲は『ミート・イズ・マーダー』のイギリス盤には収録されなかったがアメリカ盤および1992年以後のイギリス盤では収録されている。『ミート・イズ・マーダー』は結局、コンピレーションアルバムを除けばザ・スミス唯一の UKチャート1位に輝いたアルバムとなった。

アルバムの内容が前作以上に政治的だったように、モリッシーのインタビューも政治的な発言が増え、より論議を起こした。その主な攻撃対象はマーガレット・サッチャー政権、イギリス王室、バンド・エイドだった。特にバンド・エイドを独善的と述べ、アフリカの貧困をサッチャーや女王に訴えるのではなく、もっぱら無職の音楽ファンから金を巻き上げているとして非難している。バンド・エイドについてこう述べたことは有名である。「ひどい曲だ。エチオピアの人々に大きな関心を持つようになれるのはいいが、この曲のせいでイングランドの人々の耳が毎日拷問を受けていることはまた別のことだ。」[2]

続くシングル『シェークスピアズ・シスター』(「ミート・イズ・マーダー」未収録)はチャート的には成功とはいえず、その後7月に出したアルバムからカットされた唯一のシングル『ザット・ジョーク・イズント・ファニー・エニモア』も売れ行きは芳しくなかった。多くの人々は内気なギターサウンドの曲を出すことについてシングルカットの選択がおかしいと考えていたが[要出典]、チャートアクションはこれを反映して50位にようやく入った程度であった。9月に出した、若い頃のトルーマン・カポーティが跳ぶ写真をあしらった『心に茨を持つ少年』は、それまで拒んでいたプロモーション・ビデオを初めて収録した作品になったが、この曲は続くアルバムに大いに期待を持たせる出来であった。[1]

[編集] 3rdアルバム「クイーン・イズ・デッド」

1985年はザ・スミスにとって、スタジオでサードアルバムの収録をしながら、イギリスとアメリカでツアーを続ける苛酷な一年だった。翌1986年、まずシングル『ビッグマウス・ストライクス・アゲイン』がリリースされ、間をおかずに1986年6月、アルバム『クイーン・イズ・デッド』が発売された。アルバムは、辛辣で物寂しい曲(彼らにとって典型的な曲とも言える『ネヴァー・ハッド・ノー・ワン・エヴァー』など)、乾いたユーモアのある曲(従業員が上司に書いた辞職願の形式の『フランクリー、ミスター・シャンクリー』、この曲はラフ・トレードの社長ジョフ・トラヴィスに宛てたメッセージでもあるという見方もある)、この両面を合わせた曲(『ゼア・イズ・ア・ライト』や『セメタリー・ゲーツ』など)が混合されていた。UKチャートでは最高2位となり、解散後ではこのアルバムをバンドの最高傑作に推す声が多い。音楽誌「SPIN」の1989年の特集「これまで制作された最高のアルバム」では第一位に輝いたほどである。その他NME紙やメロディ・メイカー紙など、数多くのロック誌や音楽出版物の行う「グレイテスト・アルバム」企画では、『クイーン・イズ・デッド』はしばしば10位以内にランクインしている。2006年6月には、NMEは全紙面を使って『クイーン・イズ・デッド』発売20周年特集を組んだ。

しかしバンドにとって全てが順調というわけには行かなかった。ラフ・トレードとの契約をめぐる紛争でこのアルバムは発売が大幅に遅れた(『クイーン・イズ・デッド』各曲の収録は1985年11月には終わっていた)。また、メンバーはバンドの多忙なスケジュール、イギリスのメディアの口さがないゴシップ記事、アメリカでのレコード各社による契約争奪戦、その一方でのアメリカのセールスの不調などで燃えつきかけストレスを抱えていた。マーは後に NMEとのインタビューで、「当時のことは『不調』という言葉では半分も言い表せない。僕はものすごく病気だった。ツアーが完全に終わるまでにはちょっと…危険な状態だった。僕は自分を抑えられる以上の量の酒を飲んでいた」と語っている。[3] その頃、1986年初頭にはルークもヘロインによる問題でバンドを首になっていた。彼は車のフロントガラスに張られたポスト・イットで解雇通知を受け取った。文面はこうだった。「アンディ ― 君はザ・スミスを去った。さようなら幸運を祈る。モリッシー」[4] ルークの代役として、ベースに短期間クレイグ・ギャノン(Craig Gannon)が入ったが、ルークはわずか2週間で復帰を認められた。ギャノンはザ・スミスにとどまり、リズム・ギターに転向した。ギャノンを加え5人で収録したシングル『パニック』と、さらにカースティー・マッコールがバッキングボーカルに入った『アスク』は1986年夏から秋にかけてリリースされ成功を収め、5人体制になったバンドはイギリスツアーも行った。ギャノンはツアー終了後の1986年10月にバンドを去っている。

[編集] 4thアルバム「ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム」、そして解散

1987年は順調に始まった。シングル『ショップリフターズ』(モリッシーがザ・スミスで好きなシングルの一つ)は年頭にリリースされ、子供たちに万引きを奨励するかのような歌詞に反発もあったものの、UKチャート12位に達した。続いてバンド2枚目のコンピレーション・アルバム、『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』がリリースされた。モリッシーはこのタイトル(「世界は聴かないだろう」)について、音楽ファンの主流からの認知がないことへの不満を表したものだといったが[要出典]、『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』は皮肉なことにアルバムチャートで2位を記録した。さらにザ・スミス二度目で最後の、チャート10位以内に入ったシングル『シーラ・テイク・ア・バウ』が続く。イギリス国外向けのコンピレーションアルバムとして、『ザ・ワールド・ウォント・リッスン』とほとんど同じ内容にシングル『シーラ・テイク・ア・バウ』とアメリカ未発売の『ハットフル・オブ・ホロウ』からの数曲を加えた『ラウダー・ザン・ボム』も発売された。

セールス的には好調が続いたが、メンバーの考え方の違い―特にモリッシーとマーの間の緊張が高まっていた―によってバンドは分裂の危機にあった。1987年8月、ついにマーがバンドを去ることが発表された。マーの代わりのギタリストを募集するオーディションが行われ、アズテック・カメラのロディ・フレイムが加わるのではないかという憶測も当時はあったが、オーディションは成果なく終わった。9月には4枚目のアルバム『ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム』が発売された(「ストレンジウェイズ」とはマンチェスターの王立刑務所の名前でもあった)が、このアルバム発売後バンドは解散した。

メンバーの関係が悪化した原因については、マーが他のミュージシャンとの仕事を増やすのをモリッシーが嫌がるようになったことが第一にあげられる。またマーもモリッシーの音楽的な柔軟性のなさにいらだっていたこともある。マーの憎悪は、モリッシーがアルバムやシングルのジャケットに、トゥインクル(Twinkle)やシラ・ブラック(Cilla Black)など1960年代のポップシンガーのモノクロ写真を使うようこだわっていることに向けられた。バンドが最後に揃ってセッションした曲(『ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム』の前に発売したシングル、『ガールフレンド・イン・ア・コーマ』のB面の『ワーク・イズ・ア・フォー・レター・ワード』と『アイ・キープ・マイン・ヒドゥン』)について、マーはこう語った。「僕は『アイ・キープ〜』を書いたが、(シラ・ブラックのヒット曲のカヴァー)『ワーク・イズ〜』は嫌いだ。本当に我慢の限界だった。僕はシラ・ブラックの歌を演奏するためにグループを作ったんじゃない。」[5]

『ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム』はイギリスでチャート2位を獲得したが、アメリカでは小規模な成功にとどまった。しかし『ガールフレンド・イン・ア・コーマ』の悪名高いプロモーションビデオ(長さわずか30秒)はMTVアメリカでローテーションされる成果を上げた。同アルバムに収録された『ペイント・ア・ヴァルガー・ピクチャー』は、その後たくさんのコンピレーションが発売され、ザ・スミスの曲が何度も何度も再利用される将来をある意味予言した曲といえる。批評家からは生暖かい評価を受けたアルバムだったが、ザ・スミスのメンバーは4人ともこれをお気に入りのアルバムに挙げている。このアルバムからはいくつかの曲が、初期のライブ、ラジオセッション、デモトラックなどをB面に組み合わされてリリースされた。[2]翌1988年のライブ・アルバム『ランク』(ギャノンが在籍していた1986年の録音)は、バンド解散後にもかかわらずUKチャート2位を記録した。

コメント(5)

[編集] 解散後のメンバーのキャリア

モリッシーはバンド解体後、間をおかずソロでの制作を開始した。『ストレンジウェイズ〜』のプロデューサー・スティーブン・ストリートと、ドゥルッティ・コラムのギタリストで同じマンチェスター出身のヴィニ・ライリーと共にアルバム『ビバ・ヘイト』(「憎悪万歳」というタイトルはザ・スミス末期の状況に言及したもの)をリリースしたのは、ザ・スミスの解散からわずか6ヵ月後であり、アルバムチャート1位を獲得した。以後彼はソロ・シンガーとして活躍し続けている。

ジョニー・マーは1989年、ニュー・オーダーのバーナード・サムナーとともにスーパーグループ「エレクトロニック(Electronic)」を結成して音楽界に復帰し、ペット・ショップ・ボーイズのニール・テナントらを迎えてシングルを出すほか1990年代に3枚のアルバムを発表した。彼は1989年から1993年までザ・ザのメンバーとなり2枚のアルバムに参加している。その他セッション・ミュージシャンとして、楽曲提供者として、プリテンダーズ、ペット・ショップ・ボーイズ、ビリー・ブラッグ、ブラック・グレープ、ベック、オアシスらと活動している。2000年には別のバンド、ジョニー・マー&ザ・ヒーラーズ(Johnny Marr & the Healers)を結成しているほか、プロデューサーとしても活動している。アメリカのオルタナティブバンド、モデスト・マウスのレコーディングに参加しアイザック・ブロックとも曲の共作を行ったことをきっかけに、2006年夏、彼はモデスト・マウスの正式メンバーになりライブにも参加することが発表された。

アンディ・ルークとマイク・ジョイスは二人での活動を続け、モリッシーのソロ活動に参加したほか、シンニード・オコナーのバックにもついた。ルークは他にも、ニューオーダーのピーター・フック、ストーン・ローゼズ/プライマル・スクリームのマニと、ベーシスト同士3人でのスーパーグループ、フリーベース(Freebass)を結成し、ボーカルを探すなど活動準備を続けている。ルークはマンチェスターのラジオ局XFMの土曜夕方の番組の司会も行っている。

[編集] ザ・スミスのその後

1996年、ザ・スミスの4人は、裁判所で解散後初めて顔をそろえた。ドラマーのマイク・ジョイスは、作詞作曲者のモリッシーとマーに対して、ザ・スミスのレコーディングとライブからの利益のうちジョイスとルークにそれぞれ10%しか許可しなかったことを不服として調停を申し出ていた。モリッシーとマーは、他の2人はいつも権利の分配に関して了解していたと主張したが、法廷はジョイスの訴えを認め、100万ポンド以上を遡及して受け取る権利があること、以後はザ・スミスの25%の権利を受け取る決定を下した。モリッシーはこの決定に大いに不満で、後にこう述べている。「あの裁判はザ・スミスの生涯を安っぽく要約したストーリーだった。マイクはしゃべり続けていたが何も言わなかったのと同じだ。アンディは、名前も覚えてもらえない。ジョニーは、みんなを喜ばせようとしていたが誰も喜ばなかった。そして焼けるようなスポットライトの下にいたモリッシーは何度もこう言われたものだ、『よくも成功者になっていられるな』、『よくも活動できるものだな』と。僕にとってザ・スミスは美しいものだったのにジョニーが出て行って、マイクが壊したんだ。」[6]

この裁判はその後も尾を引いているため、ザ・スミスの再結成はなさそうに見える。モリッシーとマーは、近年のインタビューでは両者の関係に雪解けが見られそうな発言をしているが、両者とも再結成は頑として否定している。テレビのバンド再結成番組がザ・スミスの再結成を試みたもののモリッシーに接触できず失敗したほか、モリッシー自身にもある音楽イベント主催者から巨額を提示されて再結成ライブを行うオファーがあったが彼は「金の問題ではない」と断ったことを明かし、「素晴らしい旅は終わったんだ。僕は続けたかったが(マーは)終わらせたかったんだ。」と述べている。[7]
シングル(UK)

* ハンド・イン・グラヴ Hand In Glove -彼らのデビュー曲
* ジス・チャーミング・マン This Charming Man -初のインディース・チャート1位
* ホワット・ディファレンス・ダズ・イット・メイク ? What Difference Does It Make ? -ジャケットにテレンス・スタンプの写真を使い問題になる。詳細。
* ヘヴン・ノウズ Heaven Knows I'm Miserable Now
* ウィリアム William, It Was Really Nothing
* ハウ・スーン・イズ・ナウ ? How Soon Is Now ? -彼らの代表曲。他のロックンロール的な曲とは違い、こちらはニューウェーブ的である。
* シェイクスピアズ・シスター Shakespeare's Sister
* ザット・ジョーク・イズント・ファニー・エニモア That Joke Isn't Funny Anymore
* 心に茨を持つ少年 The Boy With The Thorn In His Side -ザ・スミスの作品で唯一邦題が付いている。
* ビッグマウス・ストライクス・アゲイン Bigmouth Strikes Again -ジャケットはジェームス・ディーン。
* パニック Panic -内容(後半部での、"Hang the DJ"-DJを吊るせ-と歌う箇所)が問題になる。もう1つの有名な曲。
* アスク Ask -バックボーカルはカースティー・マッコール。
* ショップリフターズ Shoplifters Of The World Unite -ジャケットはエルヴィス・プレスリー。モリッシーはこの曲を「スミスの曲でのお気に入り」と述べている。[要出典]
* シーラ・テイク・ア・バウ Sheila Take A Bow -モリッシーが初めて恋愛観について書いた曲。
* ガールフレンド・イン・ア・コーマ Girlfriend In A Coma -レーベルEMIへの移籍が決まった時に発表した。その後、ジョニー・マーが脱退する。
* アイ・スターテッド・サムシング I Started Something I Couldn't Finish
* サムバディ・ラヴド・ミー Last Night I Dreamt That Somebody Loved Me -活動中のラスト・シングル
* ジス・チャーミング・マン This Charming Man、ハウ・スーン・イズ・ナウ ? How Soon Is Now ? 、ゼア・イズ・ア・ライト There Is A Light That Never Goes Out -解散後の1992年、販売権のweaへの移動とベスト盤の発売に伴い、シングル・カットされた。
* アスク Ask -1995年に新しいベスト盤『Singles』の発売に伴い、シングル・カットされた。

[編集] オリジナルアルバム

* ザ・スミス The Smiths (1984年)
* ミート・イズ・マーダーMeat Is Murder (1985年)
* クイーン・イズ・デッド The Queen Is Dead (1986年)
* ストレンジウェイズ・ヒア・ウィ・カム Strangeways, Here We Come (1987年)

[編集] ライブ盤

* ランク Rank (1988年)

[編集] 編集盤

* ハットフル・オブ・ホロウ Hatful Of Hollow (1984年)
* ザ・ワールド・ウォント・リッスン The World Won't Listen (1987年)
* ラウダー・ザン・ボム Louder Than Bombs (1987年)
* ベスト Vol.1 BEST...1 (1992年)
* ベスト Vol.2 BEST...2 (1992年)
* ザ・スミス・ヒストリー Singles (1995年)
2007年11月08日 01:02

pony
備考

* 「How Soon Is Now ?」(「ミート・イズ・マーダー」収録)はt.A.T.u.にカバーされている。
* シングル曲「Ask」はSUEMITSU & THE SUEMITHにカバーされている。なお、SUEMITSU & THE SUEMITHというバンド名自体、ザ・スミスのもじり。
* 2ndアルバムのタイトル「ミート・イズ・マーダー」はジョークではなく実際モリッシーはヴェジタリアン。
* ファンの中には歌詞の影響で自殺した人もいた (1986年 "The Queen is dead" 発表に合わせたインタビューでの記者のコメント。恐らくNMEの記事を Rockin' On が翻訳転載)。同インタビューで記者のコメントに対しモリッシーは「責任なんて感じない、本当に。彼らの人生の最後にスミスがあっただけでも幸せだったと思うよ」。
* デビュー時メンバーは皆似たような髪型だったが、1984年頃からジョニー・マーの髪型はマッシュルームカット風になり、一際目立った。また、サングラスが似合っていた。
* モリッシーのジーンズのヒップポケットに挿される花は概ねグラジオラス。
* ザ・スミス活動中のモリッシーは概ねジーンズを着用していた。
* コンサートでは演奏中にステージ上に駆け上がったファン達がモリッシーと抱き合うというシーンがよく見られ慣例化さえしていた。
* モリッシーはタコ踊りと呼ばれる腰を曲げる動きが特徴だった。「ハウ・スーン・イズ・ナウ?」(1985年)のPVでその様子が見られる。ニュー・オーダーのバーナード・サムナーも同じ踊りをしている。
* ザ・スミスとニュー・オーダーは同じマンチェスター出身のバンドだが、モリッシー自身はニュー・オーダーについて「全く興味がない」「僕の心に何も響かない」といった発言をしている。[要出典]これはライバル心等からではなく本当に興味の対象外であった故の発言のようだ。(ちなみに、ジョニー・マーはニュー・オーダーの曲を聞いていた)
* モリッシーとジョニー・マーの同性愛疑惑があるが、本人は否定している。[要出典]
* 解散の直前にジョニー・マーは脱退した。
* ジョニー・マーはその後、ニュー・オーダーのバーナード・サムナーとエレクトロニックを結成したり、ザ・ザのギタリストになったり、自らJohnny Marr & the Healersを結成したりしている。
* Johnny Marr & the Healersは結成直後の2000年にFUJI ROCK FESTIVALに出演している。
* モリッシーも同年のFUJI ROCK FESTIVALに出演予定だったが、開演数日前にモリッシー側の都合で出演がキャンセルされた。
* アンディ・ルークは一時ドラッグの問題で脱退していた。
* マイク・ジョイスは解散後の1989年にジュリアン・コープのツアーメンバーとして来日、日本の地を踏んだ最初のメンバーとなった(モリッシーの初来日公演は1991年、ジョニー・マーはザ・ザのメンバーとして1990年に初来日)。
* モリッシーとジョニー・マーは目立ったが、アンディ・ルークとマイク・ジョイスはあまり目立たなく話題が無かった。しかしアンディ・ルークはニュー・オーダーのベーシストであるピーター・フック、そしてプライマル・スクリームのベーシストのマニとの三人でFreebassを結成、活動を計画しているらしい。
* いくつかのビデオクリップの監督はデレク・ジャーマンが務めている。

[編集] 脚注
[ヘルプ]

1. ^ ただし、『ジス・チャーミング・マン』と『ハウ・スーン・イズ・ナウ?』のプロモーション・ビデオは以前から存在した。また、映像作品『ザ・コンプリート・ピクチャー』には『心に茨を持つ少年』のプロモーション・ビデオは収録されず、代わりにライブ映像が収録されている。
2. ^ 『アイ・スターテッド・サムシング』のB面はザ・スミスの前座を務めていたバンド、ジェイムスの『What's The World』のカヴァーである。

[編集] 外部リンク

* ザ・スミス歌詞
* The Smiths at Wiki Guitar - ザ・スミスのギターコード集
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%83%9F%E3%82%B9
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