ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

絢香ayaka@関西コミュの【書起】Switch9月号(内容書き起こし)

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
Switch9月号

目次
P.9
FROM EDITORS
未来に託す思い
 2006年のデビュー直前から、絢香はことあるごとに小誌の取材を受けてくれた。登場回数もすでに6回を数えていたが、まだ表紙担巻頭での特集をする機会は一度もなかった。
 そして、今年4月の突然の記者会見だった。とても誠実な、気持ちのよい会見で、事の次第もきちんと本人の口から説明された。しかしそれでもなお、絢香というアーティストが、4年間の音楽活動を通じて、何を得て、何を失い、そして何故無期限の活動休止という選択をしたのか、その過程をより深く紐解きたいという思いが残ったのも正直なところだった。
 今回、初の巻頭特集のオファーに際して、編集部からのリクエストはただ一つだった。
 単なるアルバムのプロモーションではなく、このタイミングだからこそ、この4年間のことを最初からあらためて辿り、今回の活動休止に関しても、できるだけ予防線を張らずに、お互いオープンな状態でインタビューさせてほしい。
 この希望は即座に受け入れられた。実際に行われたインタビューでも、彼女は質問に対して、真摯に、丁寧に、そしてとても正直に語ってくれた。
 写真撮影に関しては、すでに、スタジオでのシンプルな、ポートレイト、そして自然の中でのロケーション撮影二本立てで行くことが、企画の早い段階で決まっていたが、取材が進行していく過程で、絢香本人から、レコーディングスタジオで撮影してほしいというリクエストがあった。
 理由としては、「ミュージシャンとしてのスイッチが入る場所での自分の姿を残したい」ということだった。
 その言葉からも、彼女のアーティストとしての矜持と、そしてこれからの未来に託す思いが垣間見えるように思えた。

コメント(13)

P.30
LONG INTERVIEW
彼女がみつけた大切なもの
2006年2月、「無名の女子高生シンガー」として、絢香は記念すべきデビューを果たした。
それから約3年半の月日が経ち、彼女は日本のポップミュージック・シーンにおいて
欠かすことのできない存在へと成長していった。
そして2009年4月、突然の記者会見で彼女は音楽活動の休止を発表する。
デビューから大ブレイク、自身を襲った病気、そして結婚。すべては「歌」とともにあった。

 今から4年前の2005年、ようやく秋風が肌に感じられるようになった10月の夜、原宿の小さなライブハウスのステージに立って、彼女は歌っていた。翌年早々にメジャーデビューを控え、上京して間もない彼女にとって東京での数度目となるそのライブは、お世辞にも完成度の高いものとは言えなかった。自分の歌に対する気持ちに表現が追いつかない、そんなもどかしさを感じさせるライブだったことを覚えている。それよりも、終演後にライブハウスの前でレコード会社のスタッフに紹介され、軽く初対面の挨拶を交わしたときのはっきりした口調と強い目のほうが、強く印象に残った。
「はじめまして、絢香です。今日はありがとうございました。これからもよろしくお願いします」
 こちらの目をまっすぐ見て深く頭を下げる。随分しっかりした高校生だな、と思った。

2009年6月下旬、彼女は翌月に十一枚目となるシングル「みんな空の下」のリリースを控えていた。撮影のために訪れた馴染みのレコーディングスタジオのソファに腰を下ろし、リラックスしてスタッフと談笑する彼女に近況を尋ねる。
「体調のこともあって今回のシングルではテレビやラジオに出てプロモーションする予定がないので、最近は家にいることが多いです。8月のライブに備えて身体の調子を整えながら日々の生活を送っています。」
 9月には自身初のベストアルバムが出ることも決まり、その選曲作業も徐々に進められているところだという。
「基本的にはシングル曲を集めたものになるんですけど、その曲順を考えたり、二枚組になる限定盤の二枚目の構成を考えたり…」
 アルバムは既発曲のみの構成となることが、その時点で既に決定されていた。
「新たにレコーディングする必要もないんですよね。だから、家ではアルバムに全然関係ない曲を作ったりして過ごしていますよ」
 彼女は軽く笑って続ける。
「ベストアルバムを出すことが決まって、自分がベストを出せるほど曲をリリースしていたんだ、ということをあらためて実感しました。三枚目、四枚目くらいまでは『次はサードシングルで…』とか言っていましたけど、それ以降は全然数えていなかったので、『うわぁ、もうこんなに?』って。結局…十一枚? そんなにリリースしていたんだなって。それに、いわゆる“ベストアルバム”という響きが、自分にとってはまだまだ先のような感覚でいたので」
とはいえデビューから約3年半で初のベスト盤リリースというのは、それほど早いタイミングではない。順調にリリースを続けてきたアーティストであれば(それは言葉で言うほど簡単なことではないが)、それまでの活動に一区切りつけ、新たな展開へ一歩踏み出すちょうど良い時期でもあるだろう。しかし、今の絢香にとってこのアルバムはそうした意味を持つものではない。7月にシングル「みんな空の下」、そしてこのベストアルバムをリリースした後、2009年の年内をめどに、彼女はミュージシャンとしての活動を一時休止する。
 再開時期はまったく未定のまま、二十一歳という若さで彼女は音楽シーンの表舞台から姿を消そうとしている。
「懐かしい! うわ、まだ子どもって感じがする」
2005年1月に発売された小誌バックナンバーには、デビュー直前に故郷の大阪を訪れ、かつて通った中学校の音楽室でピアノを弾く絢香の写真が掲載されている。続けて初のライブハウスツアー、ファーストアルバムのリリースと、彼女の記事は約半年に一度のペースで掲載されていった。楽しそうに笑いながら、彼女は今回のインタビューのために用意された記事の切り抜き一枚一枚に目を通していく。
「はじめの頃はまだ写真を撮られ慣れてないのが見え見えですね。顔つきも全然違う。それから…ファーストアルバムのインタビューか。今思うと、このときは本当にいっぱいいっぱいだったと思います。デビュー直後の頃はとにかく希望に満ちあふれていて、
この先どんなことが起こるんだろうとわくわくしていたんですけど、いざスタートしてみたら、ものすごいスピードの列車に乗ってしまったような感覚で…」
 2006年2月にリリースしたデビューシングル「I believe」は、無名の女子高生が歌う曲がドラマの主題歌に抜擢されるというニュースも話題となり、いきなりチャート初登場三位を記録する。そして同年9月の四作目のシングル「三日月」では初登場一位。新人アーティストのスタートとしては、もはやこれ以上ない程の成功を収めたと言っても過言ではない。しかし、まだ少女の面影を残した十八歳のシンガーソングライターにとって、その数ヶ月前はまるで自分の生きる世界が音を立て、一瞬一瞬でその姿を変えてしまうような日々だったのだろう。
 「『三日月』という曲がチャートで一位になって、思っていた以上に多くの人たちに届いたことで、『すごい!』っていう喜びと、なんて言うんだろう…デビュー前の自分とは何かが変わってしまうんじゃないかという怖さがあったんです。大阪にいた頃の自分がどんどん変わっていってしまうんじゃないかっていう。当時はまさに怒涛の毎日でした。アルバムが出たころはちょうど学園祭ツアーを回っていたんですよ。そうすると、週単位でお客さんの反応も変わってくるし、アルバムの売上げもどんどん伸びていくし、その驚きと喜びと…このままどうなっちゃうんだろうっていう怖さが常に心の中にありましたね」
 そして、そうした一年目の成功は、その後目に見えないプレッシャーとなって彼女に重くのしかかることになっていく。
「デビューのときはまだ結果も何も出ていないし、まっさらな雪の上を歩き出すようなものだったから、いい意味での開き直りもありました。たとえ結果が良くても悪くても、どっちに転んでもそのときに考えればいいやっていう気持ちでしたね」
「自信はありましたか?」
「ありました。根拠のない自信が、でも実際にデビュー曲で自分の思っていた以上の結果が出たことで、次はどうしたらいいんだろうって。そこでもう半端じゃない焦りと不安が襲ってきて」
 もともと彼女はデビュー前から多くの楽曲ストックを持っていた。「I believe」も「三日月」もプロのシンガーソングライターとしてではなく、普通の高校生活を送りながら書き貯められた曲のひとつだった。しかしいつまでもそのストックだけでは続けていくことはできない。人気が出れば、今度はドラマやCMのタイアップが決まり、そのイメージに合った曲も求められるようになる。新たな曲を作ろうとピアノに向かったとき、既に自分が以前のような純粋な気持ちだけで曲を書くことができなくなっていることに彼女は気づく。
「そのときはもうデビュー前とは明らかに違う気持ちでした。たとえば、このフレーズからどう展開すればもっと聴きやすくなるかなとか、聴き手のことをすごく意識するようになっていて、これまであまり考えたことのない感覚で曲に向かっていくこともありました。そういう意味でもデビュー前より不安と焦りは大きかったですね」
 高校三年の途中で故郷の大阪を離れ、東京での一人暮らしを始めてまだ二年も経っていない頃、過酷なスケジュールの中で、自分の時間すらほとんど持つことができず、かといって一人になれば孤独と不安感が押し寄せてくる。テレビやラジオ、ステージで見せる快活な印象とはまったく異なる、ひとりの孤独な女性の姿がそこにはあった。
「そんな思いを素直に話すことのできる人が、誰か周りにはいましたか?」
 そう尋ねると、彼女は少し何かを思い出すように考え、答えた。
「…いませんでしたね」
「誰も?」
「いなかったです。周りのスタッフは大人ばかりだし、まだ信頼もできていなかったし。自分の気持ちをそこまで話せる人はいなかったですね」
「昔からの友達や、家族には?」
「もっと話せなかったです。地元の友達や親には特に。だから本当に一年目、二年目くらいまでは常にひとりぼっちという感覚でした。もちろん大阪に帰れば友達もいるし、家族も本当に私のことを応援してくれていたし、スタッフも本当に素晴らしい人たちに恵まれていたと思います。でもそんな中で、ひとりなんです」
 それは自分の孤独や不安を人に話しても仕方ないという諦めだったのか、それとも弱い自分を人に見せたくないという強がりだったのか。
「それは…後者だったと思います。弱いところを人に見せたくない、見せられない。それが一番大きかった。だからこそ、余計に孤独になっていったのかもしれません」
 取材でたびたび会う彼女からは、いつでも前向きではっきりと訊き手に自分の意見を話す、“学校で一番の優等生の女の子”のような印象を受けた。大阪出身らしい持ち前の明るさでまわりを和ませつつ、自分のことはなんでも自分で決めていく責任感の強さも言葉の端々から感じ取れた。
「そういう風に見せたかったんでしょうね、特にあの頃の自分は。自分自身というものをしっかり持っていないと、あっという間に何もかも見失ってしまうような気がして…。だからそうやって一生懸命『ちゃんとした自分』を周りに見せていたんだと思うんです。その頃、少しでも時間があれば大阪に帰っていたのも、自分を見失わないようにするためだったと思います。デビューする前と全然変わらない町並みがそこにはあって、実家の雰囲気も、友達もずっと変わらない。その空気の中にフッと入ると、ああ、自分も全然変わってないって思えたんです。」
 ヒット曲を期待する周囲からの無言のプレッシャー、過密なスケジュール、相談できる相手もいない孤独感、そんな状況の中でも彼女は聴き手に勇気や夢を与える楽曲を作り続け、ステージに立ってきた。
 その間彼女を支えたのは、何よりも「歌」への強い想いだった。
「それでもステージに立つことは本当に楽しかったから、もしかしたらそこで発散していたのかもしれません。プラス、再確認していたんだと思います。孤独や不安は常につきまとうけど、でもやっぱり私はこの場所に立つことが好きで、歌を歌うことが好きでこの仕事を選んだのだから、自分はすごく幸せなんだ、という風に。何度も繰り返し自分にそう言い聞かせて、大きな波の中を浮き沈みしながら常に過ごしていましたね」
「歌うことに対して、これまでネガティブになったことはない?」
 そう訊ねると、彼女は何の躊躇もせずに答えた。
「それはありません、一度も」
 デビュー三年目となる2008年は、自らが主催者となったイベント「POWER OF MUISC」を日本武道館で開催し、セカンドアルバム『Sing to the Sky』をリリース、そしてそれに続く全国ツアーも行われ、これまででもっとも音楽活動の充実した一年となった。年末には前年に続きNHK紅白歌合戦に出場に、わずか三年のキャリアながら日本のポップミュージック界におけるトップ・アーティストの一人としての存在感を彼女は早くも見にまとい始めていた。ミュージシャン・絢香はいまや確かな軌道に乗り、さらに前へと進み始めていたように思えた。しかし、実際に彼女が選んだ道はそれとまったく異なるものだった。
 年が明けて2009年、今年最初のシングルとなる「夢を味方に/恋焦がれて見た夢」のリリースを控えた四月三日――、急遽行われた記者会見で、絢香は俳優・水嶋ヒロとの結婚を発表した。そして同時に、2009年をもって音楽活動を休止することも明らかにされた。活動休止の理由は、夫である水嶋のサポートの専念と、彼女が以前から患っていたバセドー病と呼ばれる甲状腺の病気の治療のため。それは、あまりに突然の発表だった。
「あの日は、いきなり新聞の朝刊に二人の記事が出てしまって…。二日前に事務所に結婚を報告したばかりで、まだどこにも公表していないことだったので、驚きました」
 まだ記憶に新しいその日のことを思い出し、彼女は苦笑する。その日一日、どれだけの騒動が彼女の周りで巻き起こったか、まだ過去の出来事のように笑って話せるようなものではないことも容易に想像できる。記者会見の冒頭で、結婚発表という晴れやかな内容にも関わらず、二人は揃って「申し訳ありませんでした」と頭を下げた。そして、二人は馴れ初めや互いの第一印象など、容赦なく記者から浴びせられる質問にひとつひとつ、誠実に答えていった。これまで公にされなかった自分の病気についても、時折涙を浮かべながら、自らの言葉で説明した。
「あの会見のときの自分が、もしかしたら一番ありのままの自分だったように思うんです」と彼女は振り返る。
「いろんな理由があったうえでの、あの突然の記者会見だったんですけど、どんなテレビやラジオ、雑誌のインタビューよりもそのままの自分が出ていたなって。それは初めての自分の弱さ…今までずっと外に出すことを拒んでいた弱さが、そのまま出たからだと思うんです」
 そう言いながらも、静かに話す彼女の表情からは少しの後悔も感じられなかった。むしろ、それまで凝り固まっていた心が何かのきっかけで簡単に解けたような清々しさすら感じさせた。
「何かきっかけがあったんですか?」
「自分自身、周りに対して柔らかくなれたのは、結婚というひとつの大きなことがあった…それが一番の理由だと思いますね」。そして付け加える。
「もうひとりじゃなくなったので。もちろん周りにはスタッフもいるし、以前のようなひとりぼっちの感覚はだいぶ薄れてきましたが、いつどんなときでも心の中にいてくれる…そんな存在が現れたことで、気持ちの上でもひとりじゃなくなったというのは本当に大きいですね」
小さい頃から歌と歌うのが大好きだった。歌手になりたい、そんな彼女の無垢な思いはいつしか現実的な目標へと変わり、ひたすら努力を続けてきた。そして夢は叶い、彼女は一人のプロのシンガーソングライターとして歌を歌い、ステージに立つようになった。デビュー前に思い描いていた自分のイメージには、この四年間で確実にたどり着くことができたと思っている、そう彼女は話す。
 しかし、それだけの成功は相応の代償が支払われなければならなかった。
「それまでは本当に音楽活動を何よりも優先して走り続けてきたんです。もちろんそれは自分が望んでいたことだったんですけど、でも、ふとしたときに人として、一人の女性として生きていくうえで大事なことってなんだろうと考えることもありました。そんな、当たり前のことだけれど忘れていたことを、はっきりと気づかせてくれたのが彼だったんです。それに病気のこと、自分の身体をちゃんと向き合うことの意味にも。だからこそ、音楽活動を休むという決断ができたし、そういった今まで敢えて見ないフリをしてきたものに正面から向き合ったとき、何かがフッと溶けたというか…そういう感覚がありましたね」
 彼にはすべて見透かされているようだった、そう彼女は続けた。
「今まで話してきたようなこと…病気に対して見て見ぬ振りをしてひたすら走ってきたことや、弱さを見せるのが嫌でひとりで強がっていたことも、全部ズバッと彼に言われてしまいました。でもそれは本当にそのとおりだったから。そして、これからもずっと長く歌い続けたいからこそ、しなければいけない決断があるということにも気づきました。今は逆に、四年目で気づくことができてよかったなと思っています」
「もし気づけなかったら?」
このまま音楽活動を続けていると思いますね。ひとりだったら、この決断は間違いなくできませんでした」
 彼女がバセドー病という甲状腺の病気を患っていると知ったのは、デビュー翌年の2007年1月、毎年行われる健康診断でのことだったという。
「そのときに『ちょっと首が腫れているけど、こういう症状はない?』って病院の先生に訊かれて、『はい、あります』と。それでちゃんと検査を受けたら、バセドー病だと診断されました。デビューしてまだ一年経ってなかったんですけど、いろいろ思い返して昔の映像を観たりすると、デビューした年から症状は出ていました。それがどういう病気なのか、言われたときにはまだよくわかっていなかったけど、それでもかなりのショックを受けました。でも歌手としてデビューするという小さい頃からの夢が叶ってまだ間もない頃だったので、これは公表しないでおこうと決めたんです」
 バセドー病とは甲状腺の機能異常によりさまざまな症状を身体に引き起こすもので、一般的には新陳代謝が活発になり、身体が常にジョギングしているような状態(脈拍の増加、
体温上昇、発汗過多、疲労感等)なってしまうことが知られている。通常の生活を送るだけでも上記のような症状に苛まれるのだから、ミュージシャンにとってそれがレコーディングやライブに与える影響は計り知れない。だが、たとえそうだとしても今の彼女にとって音楽活動を休止することがどれだけ辛い決断だったか、その決断の重さは傍から伺い知ることのできないものである。彼女自身そうした思いを外に見せることはまずないが、件の記者会見で唯一彼女が涙を浮かべ言葉に詰まったのは、治療に専念するために一度自分の身体と向き合わなければならないこと、つまり自らの音楽活動の休止について話したときだった。そして、言葉にならないいくつもの思いがそこにはあった。
「バセドー病というのは人によって症状がそれぞれ異なるんですけど、私の場合はストレスや不規則な生活が甲状腺ホルモンのバランスを崩してしまい、それで体調を崩すということを繰り返していたんです。だから、いくら病院に通っているとはいえゆっくり身体を休める時間が今の私には何より必要なことだという結論になって…もちろん私の歌を待ってくれているファンもいるし、ライブを楽しみにしてくれているみんなを思うと、やっぱり歌を続けたいと思う気持ちはありました。でも十年二十年とこれからも歌を歌い続けるためには、本当にファンのみんなには申し訳ない気持ちでいっぱいなんですけど、今は自分のための時間が必要だし、プラス、その時間を使って今よりもっとみんなに愛してもらえるような音楽を生み出すための心と身体をもう一回ちゃんと作るべきだなって、そういう結論にたどり着いたんです」
休止期間については、いまのところまだ何も決まっていないという。
「決めちゃうと結局まだ休めないから…、本当に、ホントにせっかちなんです、私」
 いつもの笑顔になって、彼女は続けた。
「とにかく今はその時間と向き合うことを考えるだけで、その先はまた進んでいくうちに見えてくるだろうし…。まだ二十一歳、五年経っても二十六歳なんだから、焦ることはないって自分に言い聞かせています。ただこの四年があったからこそ今の自分があるし、応援してくれるたくさんのファンにも出会えたし、これだけの曲を生むことができた。だからこの四年という時間をあらためて大切にしつつ、しばらくは期間を決めずにパワーを充電するための時間に充てようって。休んでいても何をしていても、音楽自体は常に私の側にある、そんな生活だと思いますね」
 これからはもっとピュアな気持ちで音楽と向き合える気がする、そう彼女はこれからの暮らしを想像する。
「早く曲作らなきゃとか、締め切りまでに書かなきゃというのがまったくない状況で、ハッと曲を作りたくなったりメロディが降ってきたりして…そうやって曲を作る感覚をまた味わえると思うと、すごく楽しみです。だから、音楽との関わりかたはこれまでとだいぶ変わってくると思う。より音楽が生活の中に入ってくる気がします」
 年内いっぱいは活動を続けるとはいえ、今後は大規模なツアーもなく、新曲のレコーディングもないという現状において、歌に対する気持ちに変化はあるのだろうか。
「すごく音楽との距離が近いというか、休みに入るともっとそれは強く感じると思うんですけど、デビュー前のような感覚に近い気がしています。デビューしてからの四年間というのは、リリースのタイミングが大体決まっていて、アルバムにあと何曲くらい必要なのか頭で計算しながら…もちろん純粋に作りたくて曲を作ることもたくさんありますけど、どうしてもそういう感覚でずっと制作してきたので、期限もなくて、ちゃんとした形にする必要もない中でピアノに向かうと、またすごく新鮮な気持ちになれるんですよね。締め切りがないからって、メロディが止まることはないんですよ」
「じゃあ、ピアノには向かっているんですね」
「うん。向かわなきゃいけないって意識じゃなくて、向かいたくて向かっています。それこそフル稼働で走ってきたこの四年間はなかなかそういう時間も持てなかったから、あらためてこういう時間がもっともっと私には必要だって、身体も言っていますね」
 彼女の言うように、これからも変わらず彼女の身体から歌は生まれ続け、歌とともに生活を送っていくのだろうと思う。歌のない人生なんて、彼女には考えられないのだから。そしてきっと、そうやって生まれた新しい歌を、側にいる大切な人に彼女は届けるのだろう。彼女の歌を聴いてくれる人が、そこにはいつもいるのだから。
「そうですね、そういう意味でも自分一人だったらこの決断はできなかったと思うんです。やっぱり歌を歌いたいので。でもその衝動だけでこれまでは動いちゃって、なかなか身体が良くならなかったから」
 いろいろなことを彼は私に気づかせてくれると、インタビューの間に何度も彼女は言った。
『このままの状態で走り続ける数年間と、一旦止まって周りを見渡して充電した先の数年間と、どっちのほうが心を豊かにして聴いてくれる人にパワーを届けられる音楽を作れると思う?』
 強情な彼女に、そう水嶋は問いかけたという。
「そう訊かれるとやっぱり…。それに、薬を服用しながらギリギリの状態で続けていくという怖さもあるけど、無理して続けて、もう歌を歌いたくなくなっちゃうのが一番怖いと思ったんです」
この日は午後から写真家のスタジオで撮影が行われ、その後レコーディングスタジオへと場所を移してインタビューが始められた。集中力を要するスタジオでの撮影は数時間に及び、合間にスタッフと今後のスケジュールを確認し、夕食を取る間もなく長いインタビューへと入っていく。それでも少しも疲れた素振りを見せず、「全然平気ですよ」と笑う。気づけば取材が始まって一時間以上が経過していた。
「戸戸最近はどんな風に過ごしていますか?」
「病院には今も定期的に通っていますが、あとは今までなかなか時間が取れなくてできなかったこと
たとえば家で映画を観たり、CDを買ってゆっくり聴いたりしていますね」
この取材の数日前に行われたもうひとつの撮影の合間、スタッフと食事を取りながら、彼女は毎日料理をしていることを楽しそうに話していた。今はそんな生活を存分に楽しんでいるのだろう。
「やっぱりすごく忙しい人なので、一方がちゃんと支えられないと成り立たないだろうなって思うんです。今はそれを私がなんとかサポートできているので、そういう意味でもこの休みの時間は大事だと思っています。どちらかがしんどいときはもうひとりが支えてあげる、という。それが逆になるときもあるだろうし」
 これまで敢えてミュージシャンとしての自分の生き方とは切り離して考えてきた、何気ない普通の生活。かつて彼女自身が「おかえり」という曲で描いた、幸せな家族の風景のなかに、今の彼女はいる。
「『いつかは自分も』と思っていたこと、いつか自分もお母さんのように結婚して、子供ができて…そんな風になるんだろうなとずっと思っていましたけど、まさかこんなに早く起こるとは思っていませんでした。子供はまだ先ですけどね」
 おかしそうにそう言って彼女は続ける。
「でもこういう普通の生活も、女性にとってのひとつの夢だと思うんです。だから、今はすごく大切な時間を過ごすことができていると思う」
「自分でも早かったなと思いますか?」
「年齢だけを考えれば、思います。でも、若いからといって躊躇する気持ちはありませんでしたね」
会見の最後、二人に対して記者からそれぞれのファンに向けたメッセージを求められた際、絢香は次のように答えた。
――ここまで私が来れたのは、本当にファンの皆さん、そして側で支えてくれたスタッフ、両親のおかげなので、その人たちに『あのときああしなければよかったのに』と言われないよう、治療も、音楽も妻としての役割もしっかりがんばっていきたいと思いますので、どうか見守っていただけたらなと思っていますーー
 歌うことそれ自体がずっと絢香を支えてきたことは間違いないが、それと同じくらい彼女にとってファンの存在も大きなものだった。歌に魅了されるだけでなく、ライブのMCで見せる“大阪のオバハン”風な彼女の喋りに親近感を抱くファンは多い。
「結婚して『おめでとう!』っていうファンレターをたくさんいただきました。今でもたくさん送ってもらっていたんですけど、最近は時間があるのでゆっくり読むことができていて、九割は女性の方からなんです。主婦のファンの方は、アドバイスをくれたりするんですよ」
「どんなアドバイス?」
「なんかね、ファンレターと一緒に料理のレシピが入っていたり」
 まるで昔馴染みの友達から送られたようなそんなファンレターが、彼女の人柄を何よりも表している。
「『あれ? 友達?』って錯覚してしまうような手紙が本当に多いんですよ。たとえば『なんで今まで病気のこと言ってくれなかったの?』とか。『いやいやそんな個人的なこと言えないって!』って。でも全体的にはそういうノリなんですよ。だから読んでてちょっとクスッと笑っちゃったりする。すごく素敵なファンに恵まれていると思います」
 少し誇らしげに、そして笑い話のように話すが、そうした手紙の一通一通にこれまで彼女は何度も助けられてきたのだろう。
「そうなんです。そういうファンレターを一通一通読んでいると、ああ、この人たちならいつ私が戻っても『久しぶり!』って笑って迎えてくれるだろうなって思えるんです。だからこそ自分自身あまり焦らずに身体とちゃんと向かい合わなきゃいけないし、それがこの先も長く元気で歌うために必要な時間なんだと思っています」
絢香にとって活動休止前の最後のシングルとなる「みんな空の下」。セカンドアルバム、『Sing to the Sky』と呼応するかのようなタイトルが示すように、これまで「空」をモチーフとした楽曲を数多く生んできた絢香の、いわば集大成とも言えるようなトーンを帯びたスケールの大きなバラードである。まるで活動休止を見据えたような曲にも思えるが、実際は二年近く前、彼女自身が「ひとりぼっち」でもがいていた頃に書かれたものだという。
「もともとは自分の友達というはっきりした対象があって、その子に向けて書いた曲だったんです。彼女が必死でがんばっている姿に心を打たれて、そこから生まれた曲だったから、リリースする予定もなかったんです。その友達にはCD−Rで渡したものの、それきりになっていて、たまたま今回CMの話をいただいたときに、この曲がそのCMテーマにもピッタリだなと思ったので、それで最終的にこうやってリリースまで決まったんです。真正面から何かと向き合って、すごくがんばっている人って、強さとともに何とも言えない大きな優しさみたいなものを持っているように感じるんですね。必死でがんばっているときにその人がふと見せる笑顔というのが、強くもあり優しくもある輝いた笑顔で。そこでハッと生まれた曲だったんです」

あなたの笑顔は誰よりも輝き
曇り空まで晴れにしてしまう
何度も高い壁 乗り越えたから
何も怖くない
ひとりじゃないよ
みんな空の下

「不思議なんですけど、書いたときは友達というはっきりした対象に向けて書いたのに、すごく今の自分にピッタリだなと思うんです、自分らしくまっすぐ何かに向き合って生きていくことってなかなかできないけれど、でもやっぱり自分はそうでありたいなっていう思い、今、特にそういう思いが強いからこそ、このタイミングでリリースできるというのはすごい偶然というか運命というか、何かあらかじめ決められていたようにも感じていて」
 最後の「ひとりじゃないよ みんな空の下」というフレーズは、彼女自身に言い聞かせているようでもあり、活動休止を前にした自らの心情を聴き手に向けて伝えているようでもある。
「ちょっと会えない期間があるけれど、でもみんな同じ時間に同じ空の下にいるんだから、という風にも思えるんですね。あまりにドンピシャだったから、会見の後で急いで作ったやろって思われてもおかしくない」
 そう言って彼女は笑った。
 気づけばインタビューに残された時間はもうほとんどなかった。事前に用意してきた最後の質問を彼女に投げる。
「五年後の自分の姿は、イメージできますか?」
「二十六歳? そうですね…できますよ」
 それはどんなイメージなのか訊ねると、彼女は少し考えるようにして、笑顔で答える。
「言いません」
 そんな質問にひっかからないと言わんばかりに、彼女は続けた。
「だって、それを言っちゃうとまた自分で自分を追い込んで同じことになってしまうし、心から休めなくなってしまうから。でもイメージは常に持っています。二十六歳の自分も二十七歳の自分も、二十八歳の自分も」
 そのとき、歌は彼女の側にあるのだろうか。
「そうですね…でも私は本当に歌が大好きで、歌いたい、歌いたいってずっと思い続けてきたような人間だから、それは間違いないと思います」
 そんな彼女の言葉を聞いて、あらためて思う。歌を歌っていない絢香の姿なんて、まるで思い浮かべることができないと。
「そうですよね、私にもできません。だからこそ、敢えて今決めなくても大丈夫だろうなって自分でも思っているんです」
「休止に向けて寂しさを感じることはある?」
「もちろんありますよ。当分みんなに会えないと思うとすごく寂しいですけど、でもそれに負けちゃうと休めないので、ぐっとこらえて。よりよい音楽を生み出せるような心と身体をもう一度作るんだって気持ちでいられるように、そこはあえて考えないようにしています。何も決めていないからこそ、『じゃ、またね』みたいな感じで自然にいられたらいいなと思います」
取材を終えた帰り際、「最後の」インタビュー例を言うと、彼女は普段と何も変わらない調子で答えた。
「また会えますよ」
 これまで幾度も彼女に話を聞き、その歌を聴き、ステージに立つ姿を観てきた。そして今、一つの区切りをなる長いインタビューを終えて思う。二十一年という彼女のこれまでの人生は常に歌とともにあった。歌こそが、彼女の人生そのものだった。それはこれからも決して変わらないだろう。彼女が生きている限り、彼女の歌は生まれ続ける。
 彼女の新たな歌を、私たちはしばらくの間聴くことはできない。けれどこの同じ空の下、きっとどこかで彼女は歌っている。そして、その歌はどこまでも、誰とでも繋がっているのだ。
P.52
HER WORDS FROM SWITCH 2005-2008
重ねられた言葉
2006年2月のデビュー直前から、絢香はことあるごとに小誌の取材を受けてきた。
そこで語られた彼女自身の言葉によって、この4年間の軌跡を辿る。

1、
「やっぱりここは原点だから。ここじゃなかったら、今までのひとつひとつの繋がりもなかった。学校だったり先生だったり、友達だったり、一つでも欠けていたら今の私はなかったと思う。だから、私にとってはいつでも帰って来ることのできる大切な場所なんです」
「昨日、初めて「I believe」をラジオでかけてもらったんです。そうしたら、『見えへんところで誰かがこの曲を聴いているんや』と思って、また新しい実感が湧きました。今はひとつひとつをクリアしてスタートに近づいている段階だけど、一度スタートしてしまったら、もうそういう実感は得られにくくなっちゃうと思うんです。だからこそ、いつまでも忘れずに今の自分をずっと持っていたいなと思うんです」
2005年11月、翌年2月にデビューを控え、絢香は自らの歌の原点を確かめるべく故郷の大阪を訪れた。デビューに先駆けて行われたラジオのプロモーションでは、記念すべきファーストシングルがオンエアされたが、本誌の取材では決して舞い上がることなく落ち着いた口調でその心境を語ってくれた。(『SWITCH』Vol.24 No.2 2006年2月号)

2、「特別な感情が、ツアーの始まる前から大阪に対してはありました。地元っていうのはもちろんだけど、デビューするずっと前から私を応援してくれていたみんながライブに来てくれるっていうことも知っていたので。すごくいろんな感情が渦巻いていました。緊張もあったし、楽しみなところもあったし、成長した自分を観てもらえる喜びもあったし…」
「I believe」と「melody~SOUNDS REAL~」という二枚のシングルをリリースし、初のライブハウスツアーに出た絢香。2006年5月26日に行われた、凱旋公演となる大阪クラブクアトロでのライブを振り返っての発言。ステージ上では感極まって思わず涙が…。(『SWITCH』Vol.24 No.7 2006年7月号)

3、
「デビューする前は友達や家族が周りにいて、彼らが言ってくれる言葉というのが一番近くに感じられるものだったけれど、デビューしたことで自分の知らない人、会ったことも話したこともない人たちがCDを買ってくれて、自分の曲からいろいろ感じてくれるようになったんですよね。でも最初は全然信じられなかった。それこそCDの売上げ枚数を聞いても、そんな数の人たちにいっぺんに会ったことなんてないじゃないですか。それは不思議な感覚でしたね。実際にワンマンライブで、絢香を観に来てくれる人がこんなにも大勢全国にいるんだって、そこでやっと『ちゃんと歌が届いているんやな』って実感が湧きました」
2006年10月、ファーストアルバム、『First Message』リリース前に行われたインタビュー。シングル「三日月」の予想以上の大ヒットに戸惑いを覚えつつも、ライブで接した観客の生の声や姿からは確かな手応えが感じられていた。本作『First Message』もチャート初登場1位を記録。(『SWITCH』Vol.24 No.11 2006年11月号)
4、
「たとえ何か失ったとしても、その失ったことをもしプラスにすることができたら、それは幸せなことだなと思うんです。ものすごく悲しいことがあっても、その中に何かプラスになることが見つけられれば、それはその先の自分にも繋がるだろうし。それに失くさないとわからないもの、気づかないものもあるから、それをただネガティブに捉えるんじゃなくて、「」ああ、あれは必然だったんだな」って思うことができたら、またひとつ強い自分が生まれるような気がするんです。後ろを振り返る、というとなんかネガティブな感じがしちゃうけれど、本当はすごく大事なことじゃないかなって」
2007年7月にリリースされたシングル「Jewelry day」は、絢香にとって初の映画主題歌(『ラストラブ』配給・松竹)となった。恋人とかつて過ごした大切な時間を振り返る切ないバラードは、映画の世界観とも見事にリンクしたもの。こうした「悲しみの中から一筋の光を見い出す」というストーリーは、他の絢香の楽曲にもみることができる。(『SWITCH』Vol.25 No.7 2007年7月号)

5、「さまざまな環境問題と向き合う時間が、この2年間でいきなり多くなったんです。それまで『環境問題ってなんか固いな、難しそう』と思って、まったく知らなかったのに、いったん知り始めたら、実はすごく自分の身近にある、自分達にも責任のあることだとわかって。はじめて知ることもたくさんあったんですけど、やっぱり結局思うのって、日々自分が大切にしているものや人をどれだけ守れるかということだったりして。そういう感情が生まれて、やっとそういう大きなものに思いを向けられるんだなと思ったからこそ、大きなことを歌うのもときには大事だけど、普段忘れてしまうぐらい当たり前の幸せを、切り取って書きたいなぁって」
2008年2月29日、日本武道館。絢香の呼びかけで、彼女と親交のあるアーティスト多数をゲストに迎えたイベント「POWER OF MUSIC」は、国際協力NGOセンター(JANIC)の協力を得て、“子供の笑顔を守りたい”というテーマのもと開催された。このイベント以外にも、テーマ性の強いイベントに積極的に参加してきた彼女が、シングル「手をつなごう」について語った言葉より。(『SWITCH』Vol.26 No.7 2008年7月号)

6、
「つねにどこからでも空に見られているというか、空って、自分も含めて、いま起こっているすべてを、悪いことをしている人も良いことをしている人も、何もかも上から見ている気がするんです。それを全部黙って受け入れてくれる、何よりも大きな存在だと思っていて。心強い味方みたいな感じなんですよね。だからすごく好きだし、何かを求めているときに、やっぱり空を見上げてしまうんです。私は上を向いて歌うというのも癖になっていて、ライブ会場で空が見えなくても、天井を突き破って空に届くぐらいの気持ちで歌いたいといつも思います。それは『歌を空に届けたい』という思いと同時に、『空を通じて繋がっている人に歌を届けてほしい』という思いもあって。私の歌を聴いてくれる全員に会うことはできないけれど、その人達ともどこか空を通じて繋がっていたいという思いがあって」
セカンドアルバム『Sing to the Sky』は2008年6月にリリース。このアルバムタイトルに限らず、たびたび彼女の歌に重要なモチーフとして繰り返し登場する「空」という言葉のイメージを、リリース時のインタビューで語ってくれた。この「空」に対する思いは、最新の、そして活動休止前としては最後のシングルとなる「みんな空の下」にまで繋がっていく。(『SWITCH』Vol.25 No.7 2008年7月号)
P.55
来るべき日のために
日本武道館。4年の間に何度も立ってきた
慣れ親しんだステージで、絢香は涙を見せなかった。

TOKYO FMをはじめとするJFN(全国FM放送協議会加盟三十八局)とコスモ石油株式会社が、毎年パートナーシップを結んで開催している「コスモ アースコンシャス アクト アースデー・コンサート」。二十回目の節目となる2009年度のアースデー・コンサートのコンセプトは、「Mother Earth for Children〜これからの二十年をみつめて。」だった。
 絢香は、昨年に引き続きメインアクトとしてこのイベントに出演した。四月二十二日、日本武道館。結婚と活動休止を発表した記者会見からまだそれほど日が経っていなかったこともあり、会場の雰囲気もそこはかとない緊張感に包まれていたが、本人の登場前にステージ脇のスクリーンで流された映像により、いつのまにかその緊張は解けていった。
 その映像は、絢香とアルピニスト野口健による植樹活動のドキュメンタリーだった。浦安市明海小学校六年生の生徒達と一緒に植樹を行った様子を撮影したもので、子供達とともに和気あいあいと土にまみれる絢香の姿がそこにはあった。
 この映像が終わると、いよいよ本人がステージに登場。一曲目に「おかえり」、そして二曲目「愛を歌おう」からライブがスタートした。
 一息ついてのMCでは、「お騒がせしましたという感じですが、これからもひとつひとつ頑張っていきたいと思いますので、変わらず応援よろしくお願いします」と先日の記者会見について一言触れ、集まったファンからは暖かい声援が送られた。
 その後も「I believe」「三日月」といった初期の代表曲やアリシア・キーズ「If I ain’t got you」のカバーなどを交え、快調に会場の空気を温めていった。ライブ中盤では、ヒマラヤ・マナスルより、ベースキャンプでこれから山頂を目指す野口健が、衛星中継でスクリーンに登場。遠い距離を隔てて、現地の厳しい自然環境や、環境問題に関する意識などについて語り合った。
また、アンコールでは、スペシャル・ゲストとして小田和正がサプライズで登場した。この共演は絢香の熱いラブコールで実現したものだった。絢香の呼び込みで小田和正が登場すると、突然の豪華ゲストに会場からは大歓声があがった。二人は、絢香のリクエストだったという「生まれ来る子供たちのために」と「たしかなこと」をコラボレートした。
 そしてこの日最後の一曲は、この時点ではCD未発表、ライブ初披露となった「みんな空の下」。昨年二月、絢香の呼びかけによりやはり同じステージで開催されたイベント、「POWER OF MUSIC」のフィナーレで、号泣していた彼女の姿がふと思い出された。
 しかし、この日の絢香は最後まで涙を見せることはなく、むしろ一曲一曲を確かめるように、大切に、慈しむように歌い、この四年間に何度も立ってきたなじみ深いステージに、しばしの別れを告げているようにも見えた。
P.57
泣いて 笑って 悔しくて 悩んで……
いろんな景色を見ながら
ここまで やっと歩いてきたけど
そんな道のりがあったから 今の私がいる

目をキラキラ輝かせて“音楽ってすごい”
そんな衝撃を受けたのが、10歳の時。

私に初めて、音の光を与えたのは、
マイケル・ジャクソン。

1987年の来日公演の映像が家にあって、
何度も何度も見た。
体全てが音楽でできている人なんだと思った。

マイケルが発信するメッセージ、繊細で優しい人間性、
世界一のエンターテイナーに子供ながらに衝撃だった。

今の私に全てが直結してるわけじゃないけど、
間違いなく、私の音楽人生スタートの瞬間だった。

音が耳から入って心に届いて、
身体が動いたり、涙が出たりする。

本物の音楽はそういう反応がでちゃうもの
なんだろうな。

あの頃の私と変わらず、
今もマイケルの音楽に触れると、じっとしてられないです。

10歳の時に感じた、
“歌が大好き、音楽が大好き”って気持ちは、
ずっと持ち続けなきゃいけないし、
ずっと持ち続けたい。

その気持ちさえ、
心の中にあれば
いつだって音楽は私の傍にある。

                    絢香

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

絢香ayaka@関西 更新情報

絢香ayaka@関西のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。

人気コミュニティランキング