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まほろ王国コミュの蟲おくり

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  蟲おくり                水幻冴月

 本を読んでいると、急に窓辺が橙色になったことに気がついた。義母がいましがた縁側に置いた蚊遣の匂いが、しみじみと初夏を告げる。欅の陰で、兄がしゃがんで池を覗いている。僕の視線を感じたのか、彼は白い顔をあげ、透明に微笑んだ。柱時計をみあげると、6時だ。
「にいさん」僕は小さな声で兄に声をかける。
「そろそろ食事の時間だ」 兄はうなづいて、たちあがった。

 父は今日もいないようだった。母が祖母の皿を用意し、僕が兄の分を用意する。
 兄が僕の隣りに腰をおろし「ありがとう」という。僕は微笑みをかえし、義母が俯く。

 郁(カヲル)。今年は蟲送りの年だ、て言っていたかしらね。 箸をとめて、祖母がいった。
 そうなの?でもそのお祭、僕は良く知らないけど。
 10年おきの水天神様の大祭なんだ。だからお前は知るまい。   僕は7歳だ。僕は兄の方をみる。「兄さんは何歳だったっけ」兄は顔を顰めて、味噌汁を箸で掻きまわしている。「それをしちゃあいけないってば。義母さんはともかく、お祖母さまに叱られるよ」
 でも祖母は兄を叱らなかった。かわりに、そのうち忙しくなるから、言っておかなければと思って、と言って、お茶を飲む。
 窓の外から群青紺が流れ込んでくる。初夏の宵。
「夕食の後、散歩しない?蛍が出てるかも」 僕がいうと兄はにやりと笑う。「私の季節だもんな」
 いやだ。蚊に刺されるわよ。 と義母。 わかってないな。僕の血は紫だから刺されないんだ。

 僕はカヲル。兄はホタルだ。

 宵闇の中で、植木が黒々と呼吸する。初夏の樹々は本当に気持ちが良さそうだ。新しい葉がぐんぐんと伸び、太陽を浴び、色を濃くしていく。暑すぎず、寒すぎず。祖母が部屋で唸っているのが聴こえる(詩吟だ。僕には不可解)。義母が古びたピアノで、哀しそうなサティを弾く。僕は音楽は午後にしかやらない。白い嘘みたいな光の中で弾くのが好きなんだ。
 池に沿って、椿や紫陽花や、その他丈の低い庭木で脛をときどきひっかきながら散歩する。先を歩く青白い兄が、少し光ってみえる。
「郁、火垂。」 兄が指差した。 僕はその指先に目を凝らす。
「夏だねぇ。じきに梅雨だ。うっとおしくなるよ。」兄の言い方は爽やかでむしろ嬉しそうだ。
「すぐ嫌な事をいうんだ。兄さんの悪い癖だよ。」
「むくれるなよ。郁、火垂を何匹みつけられるか競争しようぜ」「らじゃ」
サティの、不機嫌そうなジムペノティのリフレインが途切れるまで、僕らは飽きずに人魂のような火垂を探す。

 ピアノが止んだら、父が帰ってきた証拠だ。夕食がすんだら、父の授業が始まる。僕は学校に行っていない。僕の話が兄にしか聴こえないから。理科教師の父が理科と数学を僕に教える。歴史と国語は、本を読んで理解したことを作文にしておわり(適当だったり、解釈に疑問や問題があったら、やりなおさなければならない)。数学と英語、それと音楽は日替わりで家庭教師が通って教え、美術は適宜美術館や博物館に行って自分も作ってみたければ描いたり作ったりする(僕は焼物と抽象画が好きみたいだ。ピカソなんか最高だね。なんでもできて!兄にいわせれば飽きっぽいだけなんだけど。そのくせ彼はラファエル前派みたいな甘ったるいのが好きなんだ)。
 僕はもう7歳で、まだ7歳。
 
 雨が静かに降っている。僕の部屋から、真紅の薔薇が濡れそぼっているのが見える。僕はまだイグサの匂いがする畳に仰向けに横たわり、家庭教師が全裸に剥いた僕を撫で回すのを、兄と一緒に視ている。何もされていない兄は余裕だ。揺り椅子に逆さに座って(つまり背もたれの格子の間から僕をながめて)いた。薄い口元は笑っているように見えるが、目は暗い。家庭教師が何か言う。顔を紅潮させて射精する。
 なんでも僕が全部悪いのだそうだ。悪魔のように美しく、天使のように淫靡な様子をしているのだそうだ。
「見てばかりいないで助けてくれよ」「だってあいつは大人じゃん。かないっこない」
「いくじなし‥‥」「郁だって、何もしないだろ。人形みたいにおとなしくしてるだけじゃないか」
 家庭教師が、僕の体を拭く。平たい胸にくちづけをする。黙って見上げている僕をみて、彼は泣く。
 馬鹿みたい。
 僕はピアノのおさらいをする。家庭教師は、ピアノの下に横たわり、僕の脚を眺めて喜ぶ。兄は隣りに座ってドレミで歌う。
 ひっきりなしに降り続く雨。
 兄がふと僕の耳に囁いた。「仕方ないなぁ。じゃあ、私があいつを呪ってやろう。今年は蟲おくりだからね。特別だ」え、と兄の顔を見る。音をはずして、家庭教師が僕の脚を甘咬みする。「そこはフラットだ」兄の声は冷静だ。

 お昼ごはんにいって帰ってくると、家庭教師が鴨居で首を吊っていた。

 警察やらなにやらが来て騒がしいので、僕は兄と外出することにする。幸い雨はあがってきた。隣町の小さな美術館まで、市電に乗ってでかける。
 そこは、少し現代的な展覧会をよくする美術館で、住宅街の中にぽつんと立っている。僕たちのお気に入りの場所だ。
 雨もよいの平日ということもあって、美術館はいつもにもまして空いていた。光のインスタレーション。奇妙なオブジェ。僕はここの螺旋階段が好きだ。白い壁にうがたれた、中世の城を思わせる四角い窓。屋上からなんでもない町の風景を眺めることだってできる。高い所が好きな僕を、兄は小馬鹿にして哂う。

 でも僕は、そんな兄の、とんがった笑い方すら大好きなんだ。

 テラスに設けられた小さなカフエで、芝生から生えた銀色のオブジェを眺めながらソーダ水を飲んでいると、しゃぼん玉を吹いていた子がてくてくとやってきた。
 兄をみつめながら、僕を指差す。
「ちがう、この子はいかないんだ」 薄い色の髪を、ほっぺたのラインで切りそろえた人形のように可愛らしい女の子だ。胸のところできりかえられた、空色のワンピースを着ている。鳶色の目が怒ったように僕を見た。兄は私の手をぎゅっと握る。「あっちへ行けったら!」
 すうっと、彼女は遠ざかった。
「なんだったの?」 兄は怖い目つきのまま、白い頬を固くさせて答える。
「郁をちょうだい、て言ったから、追い払った。ねぇ、郁。私がいなくなったら、お前を一体だれが守るんだろう」「兄さんはどこにも行かないだろう、」
 兄は答えなかった。僕はソーダ水を半分残す。氷が音をたてて溶けていく。
 雨あがりの芝生が、オレンジ色の陽を浴びて嬉しそうにきらきら光った。オブジェを滑り落ちる水滴。長い白いエプロンをつけたボゥイがやってきて慇懃に閉店を告げる。

 祖母が台所のカレンダーに印をつけた。蟲おくりの日だ。
 午後から空いてる? 肩越しに僕に尋ねる。こくり、と頷くと、祖母はにこりともせずに言った。
 じゃあ、水天神さんにお参りするからそのつもりでおいで。
 何をしに行くの? 祖母は僕の口元をみて、やっと少し、でも哀しそうに微笑む。

 銀鼠に灰色がかったピンクの薔薇が咲いている着物を着、横縞の黒い帯を締めた祖母はひどくモダンだ。風呂敷包みを片手に日傘をさし、僕たちの前をまっすぐ歩く。僕と兄さんは影踏みをしながらひょこひょこその後に続く。水天神さんまでは市電で一駅なのだけど、祖母は公共の乗物が嫌いだ。歩くか、タクシーに乗って移動する。
 住宅街を抜けると、ぽっかりとそこだけ木々が茂る。水天神さんは、昔はそこそこの雑木林、いわば鎮守の森であったに違いないのだけど、だんだん住宅地に侵食されて今は息もたえだえな風情である。それでも立派な木が生えていて、長い間この土地を守ってきたのだろうなぁ、とそんなことを思う。
 祠にめずらしく提灯がさがっていた。それがお祭が近い、ということなのだろうか。
 お参りをしたあと、祖母は境内にひっそりと建つ木造の小さな家を訪ねた。宮司の家だ。玄関のたたきが意外と広い。ひんやりとした室内。《夢》と一文字書かれた衝立の前に、変わった形の器に変わった形の花が作り物のように活けられている。
 ややもして仙人のような風貌の宮司が、片手に提灯、片手に螺鈿の小箱を持って現れる。
 祖母は、紋の入った濃紺の包みを解いた。小さく畳まれた提灯が出てくる。
 もうそんなに経ちましたかの。 宮司は静かにいい、祖母が持ってきた提灯と自分が持ってきた提灯を取替え、小箱をその上に置いた。
 郁もはや、七つです。 一礼して祖母は言う。宮司がまっすぐ兄さんを見る。
 そうですな。 兄さんが、僕の手を痛いほど握った。「私、この場所は苦手」
 
 外に出ると、白昼夢のように明るかった。鬱蒼とした木々に守られ薄暗いはずなのに、嘘みたいに世界が白い。透きとおった兄さんは、今にもきえそうだ。

 仏間は、屋敷の一番奥の間にあるので真昼でも仄暗い。提灯がぼぅっと燈っているようすは、なんだかどきっとする。沈香の匂いは好きだ。時間が来て、僕は離れへ向う。

 池で鯉が跳ねた。

 今夜は蟲おくり。いつもより早くお風呂に入らされる。まだ浴衣を着るには少し肌寒いので、おろしたての着物を着る。糊が利いて肌に着慣れないのが、新鮮だ。いつもと違う時間にお風呂に入るとか、新しい着物を着るとか、そういうのに少しどきどきする。
 空気は澱んで、なまあたかいゼリーみたいだ。木陰から夜が拡がっていく。 
幽かなドビュッシーを聞きつけ、着替えの済んだ僕は応接室へ駆けていった。夕闇がひたひたと部屋を浸蝕していくのも気にせず、兄さんはピアノを弾いている。兄さんの綺麗な顔の輪郭を眺めながら、僕は肘掛け椅子の上で丸くなる。
「着物にシワが寄るぞ。ちゃんと座れ」「兄さんは着替えないの」
「私は祭りは苦手なんだ」「僕、ひとりでなんか楽しめないよ」
 兄さんが手を止めて、こちらを見る。
「赤ちゃんだなぁ。もう七つだろ。しっかりしろよ」「まだ七つだってば」
 兄さんが僕の頬を冷たい掌で挟んだ。切れ長の澄んだ瞳がまっすぐ僕をみる。
「私の姿が見えなくなっても、私は郁のそばだ。郁をずっと守っているから大丈夫。
 安心して行っておいで」
 はかったように、祖母が僕を呼ぶ。続きのフレーズを背中で聞きながら、僕は応接室を後にする。

 水天神が近づくにつれ、橙や真珠母色の電球をぶらさげた夜店が増え始めた。夜の中できらきらと光っている。祖母はむろん、そんな店には見向きもしない。まっすぐ境内を目指す。どこから湧いたのか、大勢の人の中で僕は祖母を見失わないよう必死なのだけれども、見慣れない夜店も祖母と同じくらい気になって仕方がない。遅れがちになりながら、小走りに祖母を追う。
 林檎飴、綿菓子、紅金魚、自動人形、万華鏡、手品師、占い師、卵煎餅、飴細工、幻燈。
 なかでも僕の目をひいたのは、箱千鳥だった。ほんものそっくりのぜんまい仕掛の小鳥がチリチリと鳴く。奥に立っているのは僕よりほんの少し上くらいの少年だ。真っ黒の三つ揃いに、チェックのハンチングを斜めにかぶっている。黒、というよりも緑に見える深い目をしていて、それが一瞬僕を見てにやっと笑った。
 はたと気がつくと祖母がいない。
 僕は背中が冷たくなった。こんな時頼りにできる兄は、今日は傍にいない。

 僕は慌てて人込みの中に飛び込んだ。人の波は左右に揺らぎながら境内へ流れ込んでいく。
 さすがに境内には夜店はない。灯篭の薄い灯の中で、蠢いている人々は幻燈のようだ。中央には櫓が組まれ、その中には狐の面を被った男とも女ともわからない子供が白い着物を着て座っていた。人々はその子供から小さな提灯を貰って帰るらしいのである。

 むーしおくりむしおくり あじゃりこまじゃりくうかいかい
 きーきーちぇちぇきのんちぇのんちぇ こうじゃまはきょうりくかいかい

提灯を受取った人々は、そんな呪文を唱えながら林の奥へ流れていく。
順番が来て、僕も提灯を受取った。提灯を受けた左手から脊椎にかけて一瞬電気が走る。びっくりして子供を見たが、狐面のその子供は、もうそっぽを向いていて次の人に提灯を渡している。桜貝のような耳たぶと白くて華奢なうなじ。
 そのまま林の奥へ、僕も流されていった。

 奥へ行くほど、木々は密集しはじめ、だんだん不思議な様相を帯びてきた。
 葉そのものが青白く光っているのである。ところどころ、聖誕祭で使うような淦や金、銀色や緑の雫型の珠がさがっていて、幽かな不協和音を奏でている。
 蟲送離六死嗚玖里 阿闍梨駒邪李空海戒
 鬼知恵気埜馳野馳 香胡蛇魔破鏡陸怪戒
道は細い川のほとりで行き止まりになっていた。川向こうで先刻の狐面の子供が、銀色の錫を持って立っている。時折思い出したようにその錫で大地を打って、歌に拍子をつけている。
 人々は川まで辿りつくと提灯を静かに水に浮かべる。川面はしだいにしだいに小さな丸い灯でいっぱいになる。僕も提灯を水面に置いた。
しゃん!錫が鳴る。僕が驚くほどの、鋭い音だ。
はっとして、顔をあげた。狐面の子供が面を取る。
 蛍‥‥!
兄さんだ。
 狐面が空に舞った。兄はにこりともせず、もう一度錫を鳴らす。
 蟲送離六死嗚玖里 阿闍梨駒邪李空海戒!
 一瞬で、木々にさがった雫が割れて、夜店にあったぜんまい仕掛けの小鳥とそっくりな小鳥たちが飛び立った。翼で風が起こり、川に強くさざなみが立った。
 しゃん! いまや人々はすっかり放心していて、ほとんど叫ぶように呪文を唱えている。
 鬼知恵気埜馳野馳 香胡蛇魔破鏡陸怪戒!
 さざなみの揺らぎをうけて提灯がぺかりと消え、瞬く間に蝶々になる。
 無数の、鮮やかな蝶々の大群が川面を覆っているのだった。

 いつの間にか、周りの人々は消えていて、蝶々でいっぱいの川を挟んで僕と兄は向かい合っていた。
「さようなら、郁。大好きな、私の妹。」
 蝶々がとびたつ。極彩色の嵐。燐粉がたつまきのようになり、兄は見えなくなる。
 僕は泣きながら、兄の名前を呼んだ。追いかけようとしても、何も見えず何も聴こえない。蝶々で身動きも取れない。暴れる僕のまわりで、蝶々が骸になってぽたぽたと落下する。
 
 気がつくと、私は祖母の腕の中にいた。しまいこまれた着物の、ナフタレンの匂いと、祖母の愛用している古風な香水の匂い。
「蟲送りにいってきたのかい」私はうなづく。祖母の顔がすけて、しゃれこうべが見えた。
 祖母の手には、ほおづきの形をした、小さな提灯がある。火は大切に持ち帰られ、仏間に灯された。

 その年の夏の終わり、祖母は死んだ。

 兄は消えて、僕は私になった。

 それでも、私はときどき聴く。屋敷のどこか奥まったところから届く、細くて幽かな、ドビュッシーの調べを。



☆あとがき☆ 

 虫おくりというのは、実在する祭である。本当は、6月下旬から7月の上旬にかけて行われる、水田の害虫を駆除し豊作を願うものらしい。しかしこの言葉を見た途端、私の中で、魂をあの世に送る祭のイメージが突然ふってわいた。
 ありがちといえばありがちなのですが、浮かんでしまったので、そして物語が止まらなくなってしまったので、書き上げてしまった。結構つめて、一気に書き上げた。むしのひまでにはどうしても仕上げたかったので。

 蛍を見るのはとても好き。毎年、だいたいどこかへ見にでかけます。
 小さい頃は、日が暮れてから川べりを散歩すると飛んでいたものですけど。
 最後に、私の好きな蛍の短歌を二首あげておきたいと思います。

 もの思えば 沢の蛍もわが身より あくがれいづる魂かとぞみる  和泉式部
 昼ながら 幽かに光る蛍ひとつ 孟宗の藪を出でて消えたり    北原白秋

コメント(2)

 ひとつひとつの出来事が本当にあったのかなかったのか曖昧模糊としていて。けれど、ひどく生生しい思い出。のような感じで。
 そんな冴月様の文章が好きです。
あ‥‥ありがとうございます!!
雨の時期に似合うような、静謐な物語が創りたいなぁ、と
書きはじめました。
ちなみに、お話の中に出てくる美術館はモデルがあります☆
呪文の一部にイタリア語の「あるものはある ないものはない」を少しもじったものをいれてみましたvv 
これからも精進あるのみ★・゜ ・。・゜ 。・゜ ☆・。・。★。゜ ・。・゜☆・。・゜ ★・。゜ ・。

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