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まほろ王国コミュのお化け電話

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 湖のほとりに独りで住んでいた大叔母が亡くなったのは、秋桜の咲く頃だった。
 あの時、私は小学生だったけど、秋桜が咲くと彼女のことを思い出す。彼女と、彼女が大切にしていた不思議な《お化け電話》のことを。

 断っておくが、これから話す物語は怪談ではない。

 母方の祖母の、年の離れた妹にあたる夏音さんは、たびたび海外に出かけているせいか風変わりなひとで、女子高の教師を定年で辞めてからは、湖のほとりの小さな家で、奇妙な抽象画を描いて暮していた。
 でも私は大叔母をおばあちゃんのように慕っていた。それというのも両親ともに遅くに生まれた子供だったので、両方の祖父母が早くになくなってしまい、おじいちゃん・おばあちゃん、というものが、私にはほとんどいなかったのだ。少し長い休みになると、1時間ほど電車に乗って大叔母の家に行く。変なオブジェでいっぱいの大叔母の家は、本や絵本もたくさんあって、ごちゃごちゃした図書館か博物館のようだった。大叔母には宝物がたくさんあって、ときどき秘密めかしてそれを見せてくれる。飛び出す絵本だの、望遠鏡のような万華鏡だの、私の家よりもずっと豪華なドールハウスだの、鍵のついたやたら重い本だの、パイプをふかす猿の人形だの、
 なかでも。おそろしく旧式の携帯電話を、彼女はとても大切にしていた。
「ただのおんぼろなおもちゃだと思ってはいけないよ」彼女は目をきらきらさせていう。
「この携帯は死んだ人と話ができるんだ。お化け電話なのさ」

 デパートで展覧会を見ている時に急に倒れ、そのまま検査入院となった大叔母が、色々なこまごまとした日常品に加え、持ってきて欲しいと頼んだのはお化け電話だった。
「咲姫ちゃんはどこにしまってあるか知ってるだろう。ベッドサイドの嵌木細工のチェスト。上から2段目ね。鍵はこれだからね。」
 母親と一緒に湖の家に行く。夏の終わりでまだ残暑が厳しい頃ではあったが、湖からの風に青草がそよぎ、気持ちのいい夕方だった。湖がきらきらと目に痛い。大叔母のやたらと少女趣味な寝室の、いわゆるロココ調といってもいいようなチェスト(大叔母はイタリア製だと言ってたが)の2段目に、水色のドット模様のスカーフにくるまれてそれはあった。その下に日記帳らしきものがおいてある。私はスカーフごと携帯電話を持って、翌日お見舞いがてら病院へ持っていった。
 大叔母は、お花よりも果物よりも、本よりも、その電話のことを喜んで、私に林檎をひとつくれた。よく探してくれたね、といって。

 母が父に心配そうに話している。真夜中。水を飲もうとリビングダイニングに降りようとしたときのことだ。
 「夏音さん、やっぱりぼけちゃったのかしら」母が子供の頃、まだ大叔母は学生だったらしく、母はずっと大叔母のことを名前で呼ぶ。おばさん、というととても叱られたらしい。
「え、そうなのか?まさかなぁ」父がのんびりと答え、私はそれ以上階段を降りれずに、じっと耳を澄ました。
「だってね、あなた。咲姫に骨董品みたいな携帯電話もってこさせたの憶えてらっしゃる?」「ああ」「今日お見舞いにいったら、誰かと話してるみたいなの。誰だろう、と思ったら、あの携帯で誰かと話してるのよ。私びっくりしちゃって。だってとっくに壊れた電話じゃないですか。やっぱり年は年なのかしら」「若くみえるのになぁ。うーむ。」

 あれはお化け電話なの。おばちゃんは、死んだお友達と話してるんだよ。

そういいたかったけど、階段の薄暗がりとリビングの光の間には、見えない壁があって。私はどうしてもそれを越えられず、私は水を飲むことを諦めて部屋に戻った。

 次にお見舞いに行ったとき。母親が席をはずしたのを見計らって、私は大叔母にこの前電話で話していたのは誰だったのかと尋ねた。年を重ねた分、大叔母の家族や友達は沢山死んでいるにちがいない、と思ったからだ。沢山の死者たちと夜な夜な言葉を交わす光景を想像するとさすがに怖い。
「いいえ。私が話してるのは、たったひとりだけだよ」
「恋人?」 大叔母がからからと笑う。「恋人じゃないさ。私の恋人たちは、みんなまだぴんぴんしてるからねぇ。」
「じゃあ誰?」
「昔の友達。咲姫ちゃんにはそのうち話してあげようかね。あ、ママが帰ってきた」
私たちは目配せをしあって、ぴょん、と離れる。母に言わせると、私はいつも話しすぎ、お見舞い向きではないというのだ。大叔母は、気持ちが明るくなるからどんどん話しておくれ、といってくれるけど。
 検査入院は思ったよりも長引き、そのまま本物の入院になってしまった。
 丈夫で健康であることを自慢していた大叔母の体は、思ったよりもがたがただったのだ。
 そしてあっけなく死んでしまった。病名は教えてもらえなかった。
 
 透かし模様いりの乳白色の便箋に書かれた《お化け電話》の物語が私に残された。

                  (1)
 今日は、私の大切な電話をもってきてくれてありがとう。直接話してもよかったんだけど、長い長い話になるし、ママやパパはこういう話を嫌がるかもしれないからね。とかく大人ってものは、科学で説明ができない話を嫌いがちだ。だから聞かれたくなかった、ということもある。ふたりとも私を頭のおかしい老人くらいにしか思わないだろう。私くらいに年を取ると、これまで信じていたことを否定される、ということはひどくショックなものなのだよ。
 さあ。何から話そうか。
 私にも若い頃があった、ということを思い出してもらわなくちゃ。想像してごらん。ママは今の咲姫ちゃんよりずっと小さい。私はママよりもずっとずっと若くて、学生だった‥‥

 私とMが始めてであったのは学生時代のバイト先。勤めていた小さな飲食店がもう一人雇うことになって、面接にきたのがMだった。背が高くて、細くて、色の白い、綺麗なひとだった。たまたま住んでるところも近く、同じように一人暮らしだったので、すぐに仲良しになった。学生というのは、特に用事がなくってもお互いの家を訪ねあい、いろいろなことを語ったり、ご飯を食べたり、お酒を飲んだりするもので。ふたりでどこかへ行くようになるのは、もっとずっとあとの話になるのだけれども、それでもよく遊んだものである。
 すぐに迷子になる私は、簡単な道順のところに下宿があったのだけれども、Mの家は入り組んだ住宅街の奥にあって。私はいつも駅まで迎えにきてもらっていた。けれどもある日、どうしても彼女が手が放せない、てことがあって。
 もう何度も家に行ったことがある私は、ひとりで彼女の家にいくことにした。
 それがね。途中までは見知った道だったんだけど、ふと気づくと全然知らない道でね。
ちょっと引き返してみたけど、さっぱりわからない。しばらくあっちでもない、こっちでもない、と行ったり来たりしていたんだけど、ついに諦めて電話した。この携帯電話でね。
 どこにいるのか、見当もつかなかったから、とりあえず見えるものとかお店とかを説明して‥笑いながらきたMちゃんは、「ごめんごめん。やっぱりかのんには無理だったよねぇ」て柔らかく私を抱きしめてくれた。
 その時の笑顔は、今でも鮮やかに思い出すことができる。
 唄を歌いに行ったり、恋人の話をしたり。目に見えないものについても色々語り合った。
 彼女は少しサイキックなところがあったんだ。魂や精霊について熱弁をふるう彼女の言葉を聴きながら、少し怖くなったこともある。なんたって、私は、霊魂なんてこれっぽっちも信じていなかったから。変な宗教にはまらなければいいけどなぁ、なんて思ってた。
 卒業旅行に、彼女はひとりでアイルランドへいってね。ケルトの遺跡なんかをみてまわってたよ。アイルランド、てところは今でも妖精譚がリアルに残ってるところなんだ。マンションの部屋で、膝をつきあわせるように写真を一緒に見ていたことが昨日のことみたいだ。
 絵心のあるひとでね、絵の通信教育をうけたりもしていた。自転車に乗って、近くの森林公園まで写真をとりにいったりもしていた。ある夕暮れにそこで撮った写真は、たまたま私も気に入ってしまって、素敵ね、て誉めたら、そのままわたしにくれた。
 その写真は、今でも大切にしまってある。

 学校を卒業してしばらくは、同じ町に住んでいた。
 当時は、ものすごく不景気でね。わたしはまだ学生だったんだけど、彼女はバイトとも本職ともつかない仕事をてんてんとしていた。たまに会うと、職場でうまくいかない話を笑いながらしてくれる。彼女自身はとても明るくて前向きなんだけど、ひとり家路につきながらこんこんと考えると胸が苦しくなるような、そんな毎日だった。
 そのうち彼女は、もっといい仕事(もしくは夢に近づける仕事)を求めて、トーキョーへ引越していったんだ。
 一度、遊びにいったことがある。
 中心からは外れた、淋しい場所だった。でも都内は五月蝿くてごみごみしてるから、それくらい夜が暗くて静かな方がよかったのかもしれない。言葉も町の感じもまるで違うけど、一歩彼女の部屋に入ると、オーサカで訪ねた彼女の部屋が蘇った。駅から彼女の家にたどりつくまで、色々な飲み屋さんが並んでいた。便利そうね、というと、節約するために食べに入ったことはないよ、と言われる。
 トーキョーで再会したMはとても痩せて、目だけがぎょろん、と泳いでいた。一緒に町を歩き、写真を撮る。非道な仕事の話をきく。
いつも彼女はお金がなかった。とてもいいヒトなのに。でもいいヒトなだけじゃ、世間は渡っていけないんだ。そういう時代だし、そういう世界だった。
 結局Mは一人暮らしを諦めて、北国にある実家に帰ってしまった。
 
 実家に戻ってしまってから、一度だけ、近くの町まで遊びにきたことがある。
 少し顔に丸みが出てきて、一人で暮らしていたときよりは健康そうな感じだった。
当時つきあっていた男に会いに来たのだという。喧嘩をしてしまい、電話では埒が明かないので、という話だった。うちっぱなしのコンクリートが特徴的な美術館でゴッホを見、つきあっている男の話を聞いた。山の奥に住む陶芸家だという。会って仲直りをした、という話だったけど、わたしは怒った。どう考えてもわがままで子供っぽい男だったからね。でもMは、できればその男と結婚したい、と言う。まぁ、その縁でMがまたカンサイに帰ってきてくれるなら、それもいいか、とわたしは暢気に考えた。
 ほどなくMはその男と別れ、彼の友達とつきあいはじめた。

 そして彼が、Mの最後の男になった。

 
                  (2)
 ねぇ、咲姫。死ぬってどういうことなんだろうね。
 わたしは、ほんと咲姫ぐらいの時から、よく死について考えた。夭折したい、というそこはかとない願望があったりしてね、年を取るのがものすごく嫌だったんだ。
 Mはそれほど年を取ることに抵抗があったとは思えないけど、死や心霊についてはよく思いを馳せていたと思う。精神的なことにとても興味のあったひとだったから。

 携帯電話に見覚えのない番号から電話がかかってきた。見覚えのない着信は放っておくことにしてるんだけど、2〜3回目のときたまたま取ってしまってね。休日の朝だった。聞き覚えのない声のおじさんが「Mの父ですが」と名乗る。「実はね、この8月にMは死んだんです。手帳に名前があったものですから」
 突然、わたしの身の回りのものが現実味を失う。カーテンごしに揺らめく朝の光が、嘘に見えた。平日よりは少し豪華めな朝食の並んだテーブルも、小さくかけた音楽も、夢の中の出来事のようだ。世界が膜で覆われる。膜の外から淡々と沁みこんでくる言の葉に、わたしの凍りついた心とは無関係に、涙があふれる。
 電話を切る。かなり細部まで説明してもらったはずなのに、たった数分でそのほとんどが記憶から抜け落ちていた。Mが死んだ。それだけが澱のように、耳の奥にとりのこされている。
 住所から地図を調べ、時刻表を調べる。翌週、私はMの実家へ向った。

 ときどき実家へ帰ったり、突発的に出てきたりしていたことから、そう遠くはない、と思っていたが、Mの棲んでいた町はおそろしく遠かった。天気予報に反して、おそろしくよく晴れた日で、わたしは何度も電車を乗り継ぎ、海の近いその町へ向った。
 朝早い電車で出発したにも関らず、到着したのは3時ちかい。電話をかけると、Mのお母さんが迎えにきてくれた。
 初めて会う、死んだ娘の友達に、ひとなつっこい笑顔をむけてくる。柔らかい訛り。わたしは彼女の中にMの面影を探してみる。
 家につくと、父親がびっこをひきながら出迎えてくれた。そういえば、お父さんは足が悪くて、といっていたっけ。ひさしぶりに逢うMは、大きな盆提灯の虹色の光に照らされて、屈託なく笑っていた。記憶しているMとは少し違う。ひさしぶりやね、と心の中で声をかけると、またたくまに泣けてきた。

 後追い自殺だった。長い長い遺書が残されていて、天国と彼と暮らすから心配しないでくれ、と書いてあった。

 彼との思い出の場所を巡ったあと、断崖から身を投げたという。ちょうど彼の死から一週間後の朝だった。岩にひっかかった遺体がみつかったのは、それから3日もたってからである。真夏の暑い時だったので、損傷が激しく人間らしいかたちをほとんど留めていなかったという。

 取り乱すこともなく、淡々と顛末を語る父親の隣で、母親が泣き崩れる。

 晩年の彼女はとても写真が好きだったらしい。仏壇の脇に、とりためた写真が整理しておいてあった。わたしはそれを眺め、空白の数年間を埋める。わたしの知らない、彼女の世界を想像する。

 翌朝、彼女が命を絶った断崖絶壁を観にいった。山と山に挟まれた無人駅から、潮騒がこだまする長いトンネルを通ると突然視界が開けた。だだっぴろい駐車場に観光バスや乗用車がぽつん、ぽつん、と止まっている。荒々しい奇観は、その地方の名所になっているらしい。夏草高い細い道をたどり、崖っぷちに立った。写真をとりあう中年の旅行者たちからできるだけ距離をおいて、わたしは潮の匂いを嗅ぎ、海を眺めた。
 こんなに高いところから飛び降りただなんて、Mはどんなに怖かっただろう。ひきかえせないほど絶望していたMを思うと、わたしは本当に胸が詰まった。

                  (3)
 北国から帰って何ヶ月たったろう。わたしは暇つぶしにアドレス帳でも見直そうと思ってね。もうあまり連絡を取らなくなったひとや、たまたま入れていたレストランやホテルの電話番号なんかを整理していたんだ。
 当然Mちゃんのアドレスにもつきあたる。
 もうこのアドレスから電話がかかってきたりメールが来たりすることもない。わたしがこのアドレスにアクセスすることもない。そう思うと、歴然として消すべきアドレスなのだけれども、わたしは消去することができなかった。
  
死者は思い出の中に棲む。わたしは彼女からもらってたまたま残っていたメールは大切に保管していたし、もらった手紙や葉書、写真の類も大切に持ち続けていた。
 ましてや、遠方にすみ、いまやそうそう逢うこともなかった友人だ。メールや葉書がくるのも季節の変わり目くらいだった。こうして残されたメールやアドレスをながめていると、まだ彼女は生きていて、ふいに連絡がくるような、そんな気がしてくる。
 
わたしはしばし、その11桁の番号を眺めた。
 なぜ、その行為をしたのかはわからない。しんとした、真夜中だった。わたしは、その電話をかけてみた。

 意外なことに。電話はかかった。
 まだ契約を解除してなかったのか。彼女の仏壇の間が思い出された。そういえば、写真の束と並んで、携帯が充電器にかけてあったっけ。ふと時計をみる。ご両親が出たら申し訳ない悪戯をしてしまった、とかすかな後悔をおぼえながら。

「もしもし。」
息がつまる。懐かしい声音。Mだった。
「もしもーし?」
「あ、はい。Mちゃん?」
「自分からかけときながら何いってるのー」真夜中のせいか、声を殺して彼女は笑った。 「変なコねー どうかしたの?元気?」
わたしは、近況を尋ね、自分の近況も語った。あれやこれやと話しているうちにだんだん眠くなってきて、もう遅いから、と電話を切った。そのまま、深い眠りにおちる。

 翌朝。Mと話したことは夢だったのか、と考える。
 携帯を見ると、電話したあとが確かにある。わたしは狐につままれたような気分である。

 またかけてみようか、と思う気分になったことは何度もある。でもなんとなく空恐ろしくて、おいそれとはかけれなかった。また繋がってしまうことも怖いし、かといって繋がらないことを確認するのも怖い。『真夜中の出来事』を、夢にしてしまうのも嫌だった。何度その番号を眺めて過ごしただろう。
 次に電話したのは、就職が決まったときだった。もう暗記してある番号をかけてみると「この番号は、現在使われておりません」というありがちな電子的なメッセージにうちのめされる。そりゃあ、そうだ。やはりあの夜の電話は、わたしの夢だったのか。しばらくじっと思いに耽っていたが、ふと思いついた。
 わたしはわりとなんでも保管しておく方で、古い携帯電話もしばらくはしまってあったんだ。Mと最後に話してから、携帯電話を一度新調していたことを思い出したのさ。オカルト的な発想だったと思う。でも、なんでも試してみたかった。不安と失望を、誰かにうちあけたかったんだ。
充電器のプラグをつなぎ、電源を入れる。11桁の番号を押す。

世の中には不思議なことはまだまだ残っている。説明のつかないことも。

電波の向う側で、Mちゃんは確かにまだ生きていて、しかも、先に命をたったはずの彼と近々結婚するという。「おなかに赤ちゃんがいるの。お金もないし、こんな状況だから、式は身内だけですることになっちゃって。ごめんね」
「いいの。おめでとう。今何ヶ月なの?」
「4ヶ月。かのんは?元気にしてるの?」

わたしは美学生でね、ほんとはアーティストになりたかったんだ。でも好き勝手な絵を描いて食べていけるほど、境遇に恵まれてもなかったし、商業的な作品を作るのは嫌だった。たとえ市場に魂を売っても、絵筆一本で生きていくなんて並大抵ではない。結局、高校の美術教師の口を見つけて、そこで働くことになった。でも高校生を教えるなんて怖くてね。絵なんてこれっぽっちも興味のない、生意気な連中の相手をするのかと思うと、本当に不安で。でも周りは就職できただけでも喜ばなくてはならない、という。わたしは路上で絵を売って生活するのでもいい、と思ってたんだ。むろん、そんなのせいぜい画材を買うたしになるくらいなんだけど。

最後は泣き出してしまったわたしを、Mは辛抱強く慰めてくれた。わたしは泣いてしまうと、なぜか気分がすっきりして、少し頑張れるような気がした。

                  (4)
 意外と、高校の美術教師の職はわたしに合っていたようだった。たまたま赴任した高校が、のんびりとした公立だったせいもあるのだろう。2年目からは演劇部の顧問もひきうけてね、舞台美術を一緒に研究したり、書割の指導をしたり、衣装の色あわせにアドバイスしたりして楽しく暮らしていた。
 高校の演劇部ってのはね、まるでタカラヅカのようなノリでね。ほとんど女子学生ばかりだった。男役も女子がする。当時のその年頃の男子、てのは一部を除いて、やたら青臭くって子供じみていたから、男役をしている女子の方がよっぽどスマートでかっこよくて、教師という立場ながら、わたしも時々ほれぼれしたものさ。
マシュマロみたいな斎藤奈緒が現われたのは、そんな演劇部を受け持って2年目だった。小柄で色白な15歳。いかにも純朴そうな様子を、部長をしていた2年生の浜宮かおりが目をつけないわけがない。この浜宮、てのが頭もよく切れる上に美形でね。かつ女ったらし。1年の頃から上級生を手玉にとっては泣かせていた。最初から、かおり、ではなくて、かおる、と名乗っていたんだけど、その理由も「だってセンセ。この顔と感じでかおり、な〜んて乙女ちっくな名前だったら、俺に惚れてくれる乙女たちががっかりするじゃない?」て具合なんだ。
 でも断っとくが、浜宮が目をつけたのは別に恋愛対象としてではない。あくまでもヒロインとしての素質だ。浜宮にとって、一番大事なのは芝居でね。舞台が現実で、舞台の外の世界、てのはあくまでも舞台を輝かせるための道具にすぎない。だから舞台でいつも2枚目を演じるために、日常的にスマートな美青年を演じていたわけさ。制服も男子のものを着ていた。問題になったこともあったんだけど、あいにく校則に『制服を着用すること』とはあっても男女の別についての記載が抜けてたのさ。その辺をちゃんと把握して、言い訳を考えてから実行するところが、浜宮の小憎いところだ。男子にしては少し華奢かな、という印象はうけるものの、逆にそれがとても素敵でね。立居振舞もレディファーストに徹していて、経験のない女子高生にとってはほんとに王子様みたいなひとだったと思うよ。
 浜宮は入学式でばったり出会った斎藤を一目見て、この女と板の上に乗ったら、さぞ見栄えがするだろうな、と確信したんだ。秋に行われる文化祭の演目も、浜宮の中ではほとんど出来上がっていて、早速ヒロインに抜擢したんだ、自分の頭の中で。まだ斎藤は演劇部に入ってもいないのに。
 齋藤は中学時代の友達と違うクラブに入る気でいたらしい。でも浜宮の猛アタックをうけてずるずると演劇部に入ってきたんだ。浜宮はほんと、お姫様に仕える騎士みたいに齋藤に尽くした。斎藤はすっかり浜宮に惚れていてね。傍目でみているこちらが照れるくらいだった。そうして、文化祭公演にむけて、まさに手をとり足をとり教えていったんだ。
 浜宮に惚れていた上級生が自殺未遂をしたとかしないとか、色恋沙汰の噂は耐えなかった。でも浜宮は涼しい顔をして、斎藤のエスコートをし続けてたね。
やりすぎじゃない、と嗜めたこともある。そしたら彼女はにや、と笑って「先生だってすんごぃ人気あるんだぜ。気がついてない?」ていう。
確かにこの学校に赴任してから、女子生徒からときどき猛烈なラブレターをもらったりはしてた。てんで無視してたけど。「親身になってくれる男前のセンセのくせして、そのくせつれないんでしょ。そっちの方が罪つくりだと思うけど」わたしは顔をしかめる。「生徒と恋に落ちるわけにいかないでしょうが。普通の態度じゃない」「そぅかなぁ。現国の新見せんせ、奥さんって元生徒だよ」

 夏休みの間も演劇部は地道に練習をつづけ、その甲斐あってか秋の学園祭は顧問であるわたしもうっとりするような出来栄えだった。演目は『ねむりひめ』。100年の眠りからさめた姫が、実はバンパイアであり、流血の悲劇から村を守るために眠らされた存在だった、という幻想譚である。一目ぼれした姫を再び永遠の眠りに誘い込まねばならない悲痛な王子を浜宮はりりしく演じ、無邪気に血を求める可憐な姫を斎藤が演じる。王子に心をよせながら、顔色一つ変えずに適切な助言をする良き魔法使いに、一年生の有珠(ありす)。

 芝居のつねで、やっぱりというか、なんというか、学園祭がおわるころには、有珠は浜宮にすっかり惚れ抜いていた。しかも、有珠の方が斎藤よりずっと役者として上だったんだ。そして浜宮は、外見は斎藤に劣るが、ずっと女優として有望な有珠を新たな姫に選んだのさ。
 納得いかないのは斎藤だ。周りもそらみたことかと一人になった斎藤をせせら笑う。みかけ倒しの女。もとからして、浜宮の強烈な後押しがあってこその斎藤だったし、あからさまな浜宮の熱意のせいで嫉妬羨望も並ならなかったから、孤立するのは時間の問題だった。綺麗な形の眉をぎゅっとよせて、大きな瞳で浜宮をみつめている斎藤が今でもありありと思い出される。
 その年の冬。クリスマスの早朝、わたしは携帯電話で叩き起こされた。時計を見ると朝の4時だ。眠りについてから、まだ2時間しかたってない。体全体がアルコヲルに漬かっているようで、頭もずきずきする。アスピリン飲まなきゃ、「はい、もしもし」
「せんせ。」浜宮だった。「奈緒が自殺未遂おこした。どうしよう」いつもの浜宮らしくもなく、声が固くこわばっている。わたしはベッドの上でさっと居住まいをただした。
「いまどこ」斎藤は町にある、総合病院の名前をあげる。「今すぐ行くわ」

 病院に着くなり、浜宮が駆けてきて私に抱きついた。なんだかんだいっても、彼女はまだ17歳なのだ。

 たしかに、冬休み前に行われた、高校演劇祭での斎藤の演技はひどかった。浜宮が斎藤に厳しいだめだしをしたことも知っている。だめだしされる間、斎藤は泣きそうな顔で浜宮の顔を見ていたが、終わった瞬間、微かに微笑んだのが奇妙で(むしろ不気味といってもいい)印象に残っている。でもそんなことは半月も前の話だ。
 真夜中に、斎藤からグリーティングメールが届いたという。メリークリスマス、大好きな先輩。わたしは死にます。
 
「全然本気にしてなかったのに、家に帰って寝ようとしたけど、なんだか嫌な胸騒ぎが治まらない。安心して眠りたくて、学校にいったんだ‥‥」
 イルミネーションも消えてしまったうら淋しい住宅街を走り抜け、学校につく。正門は閉まってしまっているので、テニスコート裏からこっそりと入る。その抜け道は、同時に演劇部のボックスへの近道でもある。ボックス横で動悸が激しくなるのを止められなかった。ペパーミントグリンの自転車。N♡Sとステッカーが張ってある。

 斎藤に、命の別状はなかった。インターネットで購入したという、睡眠薬やら精神安定剤をしこたま飲んだのではあるが、発見が早かったのと、死ぬほどの量ではなかったのだ。
 2日ほど入院していた。お見舞いにいくと、斎藤はまっしろな顔をして、チューブをたくさん腕にさしたまま横たわっていた。
 「あ、せんせい。」嬉しそうに微笑む。「みて。あの薔薇ね、かおる先輩が持ってきてくれたの。早くよくなりな、この馬鹿、て。嬉しかったよぅ」ベッドサイドに、ピンクのぽってりとした薔薇が可愛らしく活けてあった。斎藤は微笑みながら泣いている。
「あーでも、やっぱり死んじゃいたかったかも。かおる先輩がたくさん泣いてくれるなら」

 馬鹿。わたしは窘める。そんなことは、もう言ってもしてもだめ。
「先生、キスしてよ」唐突に斎藤がいう。
「あの夜さ、かおる先輩、れいとデートしてたの。知ってた?」れい、というのは有珠の名前だ。有珠黎夏。ありすれいか。
「わたしがキスするはずだったのに」
ぽろぽろと泣き続ける斎藤のほっぺたにキスをした。しおっぱい。斎藤が点滴をしていない方の腕をのばし、わたしの頭に添える。

 長いキス。それで終わればよかったのに。

                  (5)
 宝塚のようなノリの高校演劇部における、色恋絡みの自殺未遂事件は、浜宮と斎藤、有珠が学校でも有名な3人(特に浜宮)だっただけあって、しばらく生徒たちの噂の的ではあったが、3学期は短く、始まったかと思うと中間試験だの学期末試験だのに追われることもあり(3年生には受験もある)、噂はしばらくすると下火になった。週刊誌のネタにも
一瞬なったが、ひとの噂もしちじゅうごにち、である。

 期末試験の終わる頃、斎藤奈緒が演劇部の退部届けを出しにわたしのところを訪れた。
 美術準備室。わたしがいつも絵を描いたり、お弁当を食べたり、音楽を聴いたり、ぼんやりとしたりするところ。
 事件後、体調を壊していたこともあり、新入生歓迎会の芝居には出ない、と言っていたが、そのから辞めるつもりだったのだろう。
「来年は斎藤もほとんど部室に来なくなるだろうし、気楽に芝居ができるんじゃないの?」
几帳面そうな細い字を眺めながら訊ねる。
「かおる先輩がいなくちゃ、お芝居をする意味がないわ」斎藤はにっこりと微笑んだ。
「でも先生とは続いていたいな。また遊びにきてもいい?」

 よく晴れた日で、けれども空は早くも夕方に向っていた。窓から冷たい夕方が忍びこんでくる。
 わたしは、退部届けにハンコを押す。ありがとう、と斎藤は言ってすばやく、蝶々が掠めるようなキスをする。

 わたしから、斎藤に何かした、というわけではない。お昼休みに美術室にくれば一緒にお弁当を食べ(何度か、わたしの分も作ってきてくれた。斎藤の母親は随分凝ったお弁当をつくる、と誉めたら、「彼氏の分だと思って、はりきってるだけ」と屈託なく笑われた。それでいいのか、斎藤‥)、一緒に展覧会にでかけたりもした(カラオケをする友達ならいるけど、美術館巡りをする友達なんていないもの、とのことだった)。学校では、ついに身持ちの固い松本先生が恋人を作った、とさんざん生徒たちに冷やかされたが(そして先生たちからは、たしなめられたりもした)、斎藤が浜宮を一途に思い続けているのが真実だったから、鷹揚に微笑んで、否定も肯定もせずにいた。ときどき、だれそれに告白された、という話をする。つきあわないの?と訊ねると、即効ふったってばー!と笑う。
「かおる先輩しか好きにならないの。知ってるくせに」

 斎藤は美しい女に変わりつつあった。入学した当初から比べると、少し背ものびたし、随分と痩せた。髪も伸ばして大人っぽくなった斎藤は、おいそれと話しかけられない物憂い雰囲気である。浜宮は大失敗をした、有珠みたいなぱっとしない女を選んで、というのが、大半の意見だった。
 斎藤は、美術の時間にはわざとさぼる。いい加減な絵をかいて、赤点ぎりぎりだったりする。そのくせ、美術部の生徒にもかなわないほど、多々の展覧会に足を運び、あぁだこぅだと持論をくりひろげる。準備室では、ピカソ風、だとか、前ラファエロ風、だとか、カンディンスキーの真似、だとかいって、そういう風情の絵をこともなげに描く。ときおり、丁寧で洗練された筆致で風景画をかいたり、夢でみた、といって動きのある抽象画を描いたり。何で下手なふりをするの? と納得がいかずに訊ねると、斎藤はこう答えた。
 だって、完璧な絵を描いていい成績を取っても、えこひいきされてる、て言われるのがおちでしょう。先生だけがわたしの絵を知っている。それでいいの。

 梅雨が思ったよりも長引いて、終業式の前日まで雨が続いた。雨降りは嫌いでない。町を溶かしそうな勢いで、延々と降り続く雨。
 成績表もつけおわり、わたしはほっとして、窓辺で煙草を吸っていた。とんとん、と軽いノック。たぶん奈緒だろう。雨の日には、ふたりで雨の音を聴くのが、なかば習慣になっている。奈緒はわたしの腕の中にすっぽりと納まり、わたしはその柔らかなはしばみ色の髪の毛をゆっくりと指で梳きながら、雨の音を聴く。雨の色を眺める。
「あいてるよ」わたしは特に振り向きもせずに、言った。あとで熱い紅茶を飲もう。アールグレィがいいかな。ミルク、あったかしら。
 ドアが開く。その気配でわたしは、入ってきたのが斎藤でないことに気がついた。美術部の生徒かもしれないし、たいして不信には思わなかったが。
 なんとなく振り向きかけるのと、鈍く光るソレが突進してくるのがほぼ同時だった。

 鋭い痛み。腹部が一気に熱くなり、それに比例するように視界がまっくらに堕ちる。崩折れるわたしの前で、血まみれのバタフライナイフを持った男子学生が、蒼白になって震えていた。

                  (6)
「いや、困るよ、ほんとうに。いや、困ったなぁ」
見舞いに訪れた、教頭と学年主任は開口一番、苦りきった顔でそうのたまった。

 あの時、振り向いたせいで、幸い瑕は急所を外したそうである。2週間入院すれば、あとは自宅で静養していればよい、と言われた。
 斎藤奈緒にふられた腹いせだったという。両親も顔を出すには出したが、「なんでまたうちの子がこんなトラブルを」とでもいいたそうな顔つきで、わたしを睨みつけるばかりだった。

「とかく、大事な時期なんですよ‥3年生にとっては。先生もわかるでしょう」
「わかりますよ。だからなんなんです」
「あまり騒ぎにしたくないんです」
「騒ぎ立てたり、しませんてば」ああ、瑕が痛む。早く帰ってくれ。
教頭と学年主任は、煮え切らない態度でぐずぐず言っていたが、とりあえず休職する、というと、妙に安心して帰っていった。ああ、やれやれ。

「せんせ」
斎藤だ。小ぶりの向日葵の花束を抱えたノースリーブの斎藤は、真夏の象徴、といわんばかりで眩しいくらいである。さっきのしみったれた親父達とは雲泥の差。わたしはほっとして笑顔を見せる。
「さっき、教頭たち見た。見つかったら面倒くさいから隠れたけど」
あーあ、と斎藤はのびをして、寝ているわたしを見る。「せんせ、なんか痩せた?」

ごめんね。ほんとあの馬鹿。顔おもいっきりひっぱたいてやった、みんなの前で。
「斎藤、そんなに闘うタイプだったっけ」笑うと瑕が痛むので、わたしは顔をひきつらせながら、言う。
「大事なひとのためには闘うものよ」斎藤は、まっすぐな目をしていう。
「奈緒がいま一番すきなひとは、ベッドで白い顔で寝ている人です。さあ、誰でしょう?」

瑕に触るかなぁ、触ったらいやだなぁ、
奈緒はそういいながら、柔らかくて優しいキスをくれた。おひさまの匂いがするキスを。

 夜の病院は、不思議に明るい。非常燈と常夜燈。見回りの看護婦。わたしは窓越しに月をみあげる。

 ひとつだけ困ったことは。
 わたしは、確かに斎藤奈緒のことは好きで可愛いと思っているけれども、それは恋愛感情ではないということである。

 携帯が鳴る。誰だろう、と思う。そしてそれは、思いがけない番号だった。
 M。わたしはどきどきしながら、通話ボタンを押す。

こんな真夜中にどうしたの?
布団の中に隠れ、声を潜めてわたしはいう。
ごめんごめん、とMは笑い、なんとなく夏音の声を聴かなくちゃいけない気がして、と言った。すっかりやんちゃになったこどもの話、だんなのこと、また仕事をしたいのだけれども、どうしようか、という話。
夏音はどうなの?
訊ねられて戸惑う。生前のMは、まっすぐすぎるくらいまっすぐに恋をするひとだったのだ。どちらかというと損ばかりしていたけれど。
女子高生といい感じで、というとMはすごーい!を連発していたが、恋愛じゃないよ、というと押し黙る。
いや、好きなんだけど。恋愛感情はない、ないと思うの。
でも、その女の子は夏音のことが好き。
んー、そうなっちゃったみたい。
夏音、かっこいいもんなぁ。 Mは、電話線のむこうでひとりごちていたが、でもそれは彼女に悪いよ、と低い声で言った。
可哀想な気がする。
別になにか約束をしたわけでもないんだけど。あの子も特になんにも言わなかったの、つい最近まで。
 最近って? という話になり。わたしはここ最近のごたごたについて語ってきかせた。

 その子、恋に臆病になってるんだよーーー、
Mのしかめっつらが見えた気がする。わたしは、布団の中で目をとじ、記憶の奥底で彼女の顔を探した。

 1時間ばかり話しただろうか。電話を切ったわたしは旅に出ることを決意していた。
 この瑕が治ったら、旅に出よう。どうせ休職するのである。休んでじっくり考えよう。幸い、9月になったら航空券がぐんと安くなる。のんびり、学生時代のようにディパックを背負って、いろんな国を周遊したい。
 奈緒には、手紙を書いた。必ず、行き先の国々からポストカードを送る、と約束する。

 休職、といっても体のよい退職みたいなものである。めいっぱい休職して、さっぱり止めてやろう、そう思っていた。安定した未来がみえなくても怖くない年齢でもあったのである。
                  (7)
 8月のおわりに、わたしはイタリアに飛び立った。ローマやミラノなどの大都市ははずして、小さな町ばかりをめぐった。約束した葉書は結局一枚も書かなかったけど、そのかわりスケッチブックに何枚も何枚も、色鉛筆で風景画を描きためた。
 もちろん、そのスケッチブックは斎藤に送ったよ。帰国してからだったけれども。
 
 旅をしていて、なぜか思い出すのが奈緒の顔なんだ。この景色をみせてあげたい、とかこの食事を味あわせてあげたい、とか。だから絵を描いた。奈緒にみせてあげるために。奈緒に食べさせてあげるために。奈緒から返事は来なかった。そのかわり、3年後、個展の案内の葉書が来たよ。トーキョーから。
 逢いたくなって。逢いにいった。

 初秋のころだった。関西よりもずっと肌寒いトーキョーの秋。
 思えば、Mちゃんと逢って以来、初めての上京である。たまたま、用事がなかっただけなのだけれども。E駅から繁華街を抜けて、住宅街と商店街がいりまじったような、下町をとおっていく。飲食店のテナントがいくつか入った、小奇麗な雑居ビルのひとすみにその画廊はあった。『星のおうじさま』をテーマにした展示。球体間接人形や、額に入った星座や、バオバブや、うわばみにのまれた象のオブジェ、星や薔薇のアクセサリーなどが飾られている。

 ‥本当に大切なものは、目に見えないんだ‥心の目でみなくちゃ‥

 入るなり、わたしは、奥の応接セットに座って、小声で談笑しているひとびとに視線を吸い取られた。斎藤にではない。斎藤の斜め向かいにすわり、左手で紅茶茶碗をいじくっているショートカットの人物。
 が。Mにそっくりだったのだ。
「あ、せんせい」視線に気がついて、奈緒が振り返った。きらきらとした微笑。以前よりずっと垢抜けて、いかにも芸大生といった風情である。
「きてくれただなんて!びっくり!!」
変わってないのね、と斎藤はしみじみといい、にこやかに他のひとびとにわたしを紹介する。一緒にグループ展を開いた同士らしい。
 頭をさげたMちゃんのそっくりさんは、正面からみるとまるで似ていない。わたしは手品でも見たような気持ちになった。

画廊がしまってからわたしたちは待ち合わせ、ひさしぶりに一緒に食事をした。
 昔はお茶をするだけだったのに、今は一緒にお酒だって飲める。それがわたしにはちょっとした衝撃である。
「奈緒、大人になったなぁ」しみじみというと、
「やだー、そんなに老けた? 先生は全然かわってない。不思議なくらい、」と笑う。
「さっき、唐沢さんのこと、じーっと見てたでしょ。惚れたの?」
斜交いの視線。奈緒の目がいたずらっこのように笑っている。直感的に、仮面だと思う。
 わたしは、箸で皿をつつく。「そんなんじゃない。昔の、友達に似てたから」
奈緒がけらけらと笑った。「それって、ナンパするときの常套句じゃん」
 アルコヲルの入った奈緒はよく笑った。食事のあと、ほとんど真っ暗なバーに梯子して、暗い沼に沈むようなキスをする。タクシーで奈緒のマンションに帰って、逃げ場のないセックスをする。

 告白すると、女の人と寝たのは、奈緒が始めてだった。
 
 見慣れない部屋での目覚めは、とてもわたしを不安にする。ここがどこなのか、なぜここにいるのか、何も思い出せず、わたしはクリームいろの天井を睨んでいた。猫のように丸くなって、となりで奈緒が寝息をたてている。ああ、斎藤の部屋だ、わたしはふと思い出し、一緒に二日酔いになっていることも思い出す。
 奈緒の白くてすべらかな頬。眠っている奈緒は、不思議なくらい15歳のころにそっくりで、わたしを罪悪感に駆り立てる。
突然、奈緒がぱっちりと目を開けた。蝶々が掠めるようなキス。
「しあわせーーー」奈緒は呟いてにっこりと笑った。「ねぇせんせ。前に先生がくれたクロッキー帳、今でも大事に持ってるの。いつか同じところを旅してみるわ」

                  (8)
 そのあと、何人もの女や男と付き合った。節目ごとに、Mが現われたり電話をくれたりして、そこはかとなくわたしを見守ってくれていた。あちら側で、Mもわたしと一緒にゆっくり年を重ねていった。もちろん、今度の入院のこともMは全部しっている。今度こそちゃんと逢いましょうね。そうMは言ったよ。
 わたしの人生も、もう長くないってことだ。

 わたしが死んでしまったら、ぜひこの携帯電話も一緒に埋葬しておくれ。
 到着したことを、Mに伝えなければならないから。

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