ログインしてさらにmixiを楽しもう

コメントを投稿して情報交換!
更新通知を受け取って、最新情報をゲット!

山陽本線沿線観光コミュの一ノ谷古戦場

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加
 寿永3(1184)年2月7日、源範頼・義経が平宗盛を撃破した古戦場。
 源範頼麾下の源氏軍主力部隊と平知盛・重衡麾下の平家軍主力部隊が東方の生田口で、土肥実平・熊谷直実等麾下の源氏軍別働隊と平忠度麾下の平家軍が西方の塩屋口で激戦を展開している隙に、源義経麾下の少数精鋭の騎兵隊が鵯越(ヒヨドリゴエ)の逆落としの奇襲攻撃で一ノ谷の平宗盛本陣を突いたとされるが、鵯越は一ノ谷の東方8kmの地であるため、逆落としが事実ならば、一ノ谷の裏手鉄拐山の東南の急峻な崖から行われたとする説が有力である。
 この合戦により、平宗盛は安徳天皇を奉じて海路四国屋島に敗走し、平家方では薩摩守忠度・無官大夫敦盛等が戦死、左近衛権中将重衡は捕虜となった。
 熊谷直実に討たれた敦盛の首塚は須磨寺にあり、胴を埋葬したとされる敦盛塚が一ノ谷町5丁目にあるが、実際は鎌倉幕府執権北条貞時が建立した平家一門供養塔である。
 須磨寺門前には「平重衡とらわれの碑」もある。
 敦盛塚は須磨駅の西方1km、「平重衡とらわれの碑」は須磨駅の北方1km。

*須磨寺
 http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=20766182&comm_id=264039

コメント(2)

一の谷の戦破れ
打たれし平家の公達あはれムード

という歌、思い出しました。
平重衡のお墓が京都伏見の日野にあります。
一の谷は須磨にあったのですね。
cara様
重衡は父の命で南都攻撃をやらされたせいで非業の最期を遂げ、気の毒でしたね。ヘタレの宗盛が棟梁でなければ、平家は充分巻き返しが出来たのに残念です。

ログインすると、みんなのコメントがもっと見れるよ

mixiユーザー
ログインしてコメントしよう!

山陽本線沿線観光 更新情報

山陽本線沿線観光のメンバーはこんなコミュニティにも参加しています

星印の数は、共通して参加しているメンバーが多いほど増えます。