ハリウッド50年代/Hollywood 50s-Fritz Lang in America Vol.2 : 50年代フリッツ・ラングのアメリカ時代 ◆フリッツ・ラングはいわゆる「ハリウッド・フィフティーズ」の監督というわけではない。なぜなら彼はすでに20年代のドイツ映画黄金時代の巨匠であり、その後ハリウッドに渡ってからも30年代には、ヘンリー・フォンダ、シルヴァア・シドニー、スペンサー・トレーシー、ジョージ・ラフトら大スターと仕事をし、それぞれ成功しているからである。しかしながら、ラングを見る眼はいつ迄たっても20年代のドイツの巨匠というものであり、アメリカ時代の作品は「死滅の谷」「ジークフリート」「メトロポリス」「ドクトル・マブゼ」「M」などの一連のドイツ時代の傑作と比較され続けた卑しめられてきたのである。こうしてラングは戦後40年代はフィルムノワールの監督として、そして特に50年代以後はひっと作もなく徐々にB級スリラーの監督かのように扱われることになった。それは長らくヒッチコックのハリウッドでの位置と近いものがあった。いや、ヒッチコックが「サスペンスの巨匠」と呼ばれ、あえて自身もそのジャンルの専門監督かのように振舞ったことで保った栄誉もラングには許されなかったのである。「ハリウッド・フィフティーズ」が重要なのはある制約の中でB級映画に限りなく近い予算でありながらも、若い監督たちの独自の個性を見い出すことが出来たからであったが、過去の巨匠ラングにおいてはそのような位置ではありえなかった。実際ラング自身ではなく「ハリウッド・フィフティーズ」の一人、ジョセフ・ロージーはラングの「M」をリメイクしている。 ◆フリッツ・ラングは1890年にウィーン(当時オーストリア=ハンガリー帝國)で建築家の息子として生まれた。ウィーンのグラフィック・アート学院からミュンヘンの国立美術工芸大学に進み、絵はがきや新聞漫画などで生計を立てる。1912年から14年にはパリで毎日のように映画を見て過ごし第一次世界大戦時には軍隊に、負傷し病院で最初の脚本を書き上げる。ヨーエ・マイに脚本を売り1916年から脚本家そして1919年にデクラ社で監督デビュー2部作の『蜘蛛』のヒットを経て『死滅の谷』で高く評価され『ドクトル・マブゼ』2部作も大ヒット。一気にドイツ表現主義を代表する監督となった。超大作『ニューベルンゲン』『メトロポリス』を経て1931年の『M』で初のトーキー。しかし1933年にヒトラーが台頭するとフランス経由でアメリカに亡命。1935年にアメリカの市民権を得て、『激怒』が最初のハリウッド映画となった各社で『暗黒街の弾痕』『真人間』と撮るが西部劇『地獄への逆襲』『西部魂』以降、戦後にかけては「フィルムノワール」の監督となった。ドイツ表現主義時代の巨匠としての風格はハリウッドの中ではなかなか評価されず、結局50年代作品の評価は60年代にヌーヴェルヴァーグの連中によって再評価されるまで「落ちぶれた」監督とされてしまった。今回上映の作品もながらくB級映画扱いされていたものだ。ラングのアメリカ時代についてはピーター・ボグダノヴィッチによるラングのインタビュー本、翻訳「映画監督に著作権はない」(ルミエール叢書 訳:井上正昭)に詳しい。